フクキタル先輩が菊花賞に出走する前日の土曜日。
東京レース場では富士ステークスが開催されるこの日、トレセン学園のカフェテリアは異様な熱気に包まれていた。
普段なら日本のレースに合わせられている大型スクリーンのチャンネルが、海外……オーストラリアのそれに合わせられている。
豪州最高峰の中距離G1レース、コックスプレート。今日はその開催日だった。
「そろそろ始まりますわね……」
「うわぁ、ボク関係ないのにキンチョーしてきたよ。海外挑戦ってこんなに注目されるんだね」
「ねえ何でぼく
……が、そんな中でありながら、ぼくはチームの方じゃなくって一年生のいつものメンバーのいるテーブルの方にいた。
今回、情報収集やデータのまとめなどは、チームの部室で中継を見ているサブトレさんや現地にいるトレーナーさんがしてくれるので、ぼくらは観戦に集中していていいそうな。だから、チームの先輩たちも特に気にせず送り出してくれはしたのだけど……何で連れてこられたのかという理由が見えてこない。
ネイチャに視線を向けると、肩をすくめながら苦笑いされた。
「通訳?」
「いらないと思うよ……」
確かにオーストラリアは英語圏だから、微妙なニュアンスの違いを抜きにすればぼくでも通訳はできる。
が。
「日本の局でやるんだから日本の実況もつくだろうし……」
「だよねー」
「そうなの!?」
「え!? そうなの!?」
「テイオー、あなた……」
テイオーとターボ、あとマヤノもこっそり驚いているのが見える。
マジか。興奮でそれどころじゃなかったりしたんだろうか。まあ、皆とこういうの見るの好きだしいいけど。
「私たちはピーピードーナッツさんのことはほとんど存じ上げませんわ。よろしければ解説をお願いできれば、と思いまして」
「そういうことなら是非」
流石にマックイーンはもう分かってたみたいだ。
……オリンピックとか、あと野球の海外中継とかも見てそうだし、その辺の中継事情も把握してるんだろうな、多分。
本人に言いはしないけど。
「あ、始まったよ★」
マーベラスに促されて画面を見ると、もう皆ゲートに入ったところだった。他の走者は……層が厚いと言うより、体格がすごい。余計にドーナッツ先輩の体が小さく見える。
ゲートは9番。あれは……うーん。
「位置が良くないね」
「そうなの?」
「走り方が独特だし、外めなのはちょっと厳しいかな……」
『さあ、今スタートしました』
例の人の声に合わせてゲートが開く。
さて……ドーナッツ先輩は、と。
(ううーん……これは、やっぱり良い位置とは言い辛い。マズいぞ)
ドーナッツ先輩の脚質というのは、ひとことで言えば差しなんだけど、もっと掘り下げて言葉にすると「前めにつける差し」だ。
あの次々と相手走者の背後を取っては次々に乗り換えていく海賊走法は、最終直線で余力を残したまま競り合いに持ち込めるという利点こそあるのだけど、体格の不利もあって「最終直線で後ろから一気にごぼう抜き」という派手な勝ち方を演じづらい。あれはある意味「そうするしか無い」類の苦肉の策。……を、戦法として昇華し高め上げたものだ。
最終直線に入った段階で、先頭の走者から数バ身でも離されていたらほぼ負け。序盤から中盤、走者が一列になった縦長の展開の中で、いかに前めにつけておくかが大事になる。
……だけど、現時点で既に10番手。
「厳しいって、どういうこと?」
「ドーナッツ先輩は、ああやって……ほら。スリップストリームって分かるよね?」
「他のランナーの後ろにつけて風の影響を受け辛くし、体力の消耗を防ぐ走法ですわね」
「うん。それをレース中、最終直線入るくらいまでかな? ずっと続けて、競り合いで確実に勝つために体力を温存するっていうのが先輩の戦法なんだけど」
「それって、順位落ちてたらダメじゃ……あ、そっか」
「そうなんだよね」
こうなると、競り合いの形に持っていこうとすればどうしても「体力を温存する」という目的は果たせなくなる。
見方を変えると、これは他のランナーと同じ土俵に上がっただけと言えなくも無いのだけど、元々の恵まれていないフィジカルのことを考えると「同じ土俵」に立った時点で展開としては最悪の部類だ。
『1コーナー回って直線、各ウマ娘まだ仕掛ける様子はありません』
「本当なら、直線に入る前にコーナーである程度上位のウマ娘の背後に回れる隙もあるんだけど」
「うわっ、伸び切ってる」
「見ての通りレース場の具合が悪いんだよね……」
コックスプレートの舞台となるムーニーバレーレース場は、一言で表すと長方形、としか言いようのない形状をしている。
この2040mコース、スタート直後と最終直線が異様なほどに短く、「中山の直線は短いぞ」で有名な中山レース場よりも更に短い。中山レース場310mに対し、ムーニーバレーはなんと173m。これでは序盤の位置取りも何もない。先行や逃げが大幅に有利になる。
そこから第1コーナーを抜けた後はしばらく皆脚を溜めるため、一列になって縦長の展開になる。後方集団は固まるけど、こうなると、前に行こうとするひとがそうそう横に来ないので、飛び移り辛くなってしまう。
ドーナッツ先輩の八艘飛びは、魔法のように相手の背後を奪うように見えるが、どこまで行ってもあれは技術だ。加えて、失礼ながら不利な展開を一変させられるような豪脚の類でもない。
たとえばこれがリムジン先輩だったら上がり3
『2コーナーに入ります。先頭はケーリュケイオン、続いてレッドスペイド。注目のピーピードーナッツは依然10番手で動きません』
見ると、細かく動こうとしてるのは分かるんだけど、動こうとしてるだけで動ききれないし動けてない。今の段階で前に出ようとするひとが少ないからだろう。
『さてここから3コーナーおっとピーピードーナッツ、グングン上がっていく! 3番手!』
「あっ、行った!」
「これは……行けるでしょうか?」
「トラちゃん、これってダメな方だよね?」
「うん……多分、かかってる」
ぼくがよく他人を引っ掛ける方だから分かりやすいけど、ちょっとムキになって、かかってる。
ドーナッツ先輩の走りは、その外見や態度からは分かり辛いけどかなり精緻で、基本的に計算に基づいたレース運びをする。
そのため、ベストの位置は……人数にもよるけど、今なら先行集団の後方、おおむね5、6番手。このままじゃ逃げのペースに潰されかねないし、後ろからやってくる差しや先行型のウマ娘の影にも気付けない可能性が高い。
『さぁ長い直線を抜けて4コーナーが見えてきた、ここで右からサメ! ノードスクアーロが抜け出してきた! 更にアブルッツォが並んでスパート! 先頭に躍り出た!』
「ああっ」
「ヤバい!」
そして案の定――カフェテリアのあちこちから悲鳴が上がる。まずい。今ので後ろにつけなかった!
咄嗟に元の先頭走者のケーリュケイオンの後ろについて四番手を堅持してるけど、コーナリングしてる最中に「乗り換え」るのは至難の業だ。
『ついに最終直線! ザ・バレー*1のあまりにも短い直線が待ち受けている!』
「短いってどのくらい?」
「1ハロンありませんわよ」
「そんなに!?」
ドーナッツ先輩はなんとか前の走者を躱すことに成功したけど、先頭でデッドヒートを繰り広げるふたりが、先輩の前に出てしまっている。
こうなるとまた更に外に出るしかなくなるんだけど、そうすると横にずれるために今度は加速が足りなくて競り負ける……。
頭を抱え……そうになったその時、不意に少し遠くの席にいたタマ先輩の声が、やけにクリアに耳に届いた。
「――ここで
――直後、ぼくたちは目を疑うようなものを見た。
目の前のランナーを無減速で抜き去る、
10年以上前に日本の三冠ウマ娘が見せた、奇跡のような走法。彼女は今、あそこでそれを再現し、差し切ってみせたのだ。
やりやがった、とばかりに画面の向こうでトレーナーさんが膝を打って立ち上がるのが見える。
想定を遥かに超えた勝ち方に、カフェテリアが一瞬静まり返る。そして直後、大歓声が辺りを包み込んだ。
『勝った! ピーピードーナッツ! 宝塚に続きオーストラリアをも征服ッ! ――ああああ!?』
「「「わああああああっ!!?」」」
――と、そうした直後。
ドーナッツ先輩がギャグみたいなコケ方をして、オーストラリアも日本も騒然となったのだった。
・・・≠・・・
「……脚にも命にも別状は無いようです」
「レース中でもレース外でもハラハラさせんじゃねェ!!」
それから、いち早くサブトレさんがトレーナーさんに連絡をしたところ、特段体に異常は無いという話だった。
流石はJWC出場馬の因子を継ぐウマ娘。こういう時ギャグで済むのは強い。
「練習でも成功したことのないものをぶっつけ本番でやったことで、成功はしたものの脚に余計な負荷がかかってしまったようですね」
「ま、ドーナッツ君でなければ大怪我だっただろうねぇ。並外れた記憶力と学習能力があって、体重が軽く、その上『
「ゾーンだぞーん」
今どこかで副会長の調子が下がったような気がする。
「ゾ~ン! って古いドラマでやってたよね~」
えっ、あれ「古い」の範疇なの!?*2
「誤解を招かないために私は『超集中状態』と訳しているけれどね。時間の流れが遅く感じたり、思考力が研ぎ澄まされたりというのが主な特徴かな?」
脳内物質の作用によるものだから再現はできるよ、と掲げられたタキオン先輩の蛍光色のお薬は、その場でサブトレさんが飲み干した。
首から上が紫色になった。
「ああっ、モルモット君はしょっちゅう飲んでるじゃないかっ」
「ゾーンというものは無理に入ろうとして入れるものではありません。そして必ずしも、入ったからと言って勝てるものでもありません。皆さんも注意してください。最後にものを言うのは基礎能力です」
「「「はい」」」
顔色を文字通り紫にしてまで告げられたその言葉は、なんというか問答無用の説得力があった。
……さて、今日はその後、ドーナッツ先輩の勝利に触発されたように合同トレーニングにも熱が入ったのだけど、その中でふと思ったことをサブトレさんに聞いてみた。
「あの。ドーナッツ先輩のしてた走法って、ギンシャリボーイの……」
スシウォーク、というのはあくまであっちの世界で通用する言葉だ。こっちの世界で特殊な名前がついているとは聞いていない。
というわけで仮称としてこのように聞くと、サブトレさんはすぐにピンと来たように指を立てた。
なおトレーニング中に顔色は元に戻っている。今度は髪が紫色になった。
「無減速のステップですか?」
「はい」
あれは見た目の地味さに反して超高等技術だけど、使えるようになればそれだけで選択肢が増える……と、思う。あわよくばなんとか学べないかな……。
そういう意図を見透かされたのか、サブトレさんは困ったような笑みを浮かべて頬を掻いた。
「あれはドーナッツだから使えると判断して、お父……チーフトレーナーと協議の上、最近教え始めたものです。闇雲に覚えようとしても脚を壊すだけですので、今のあなたには……」
「まあそうですよね。あ、それなら大丈夫です」
「判断が早い……」
正直そこについては最初からダメ元だ。
加えてあのドーナッツ先輩でさえ少し誤ったら転倒してしまうなんて、今のぼくがどうこうできるような代物でもない。
何かこう、コツでも掴めば使いやすくなったりするのかな、と淡い期待は持ってたんだけどね、本当にただ才能と適性があってはじめてできる、かもしれない、というレベルの技術なら普通に練習を積んで基礎的な能力を伸ばしていった方が良い。
ぼくの能力を思えば、「それができなきゃ勝てない」状況になるようならその時点でレース展開として論外なわけだ。個人的には、小細工上等の精神でいるけど。
「というわけでトレーニングに戻りますね」
「はい……ええ。何でしょう、この釈然としない気持ちは……」
気持ちは分からなくもないけど、元はと言えばサブトレさんが言ったことじゃないですかね。
シングレ要素もエッセンス程度に。