地下バ道を通ってコースに出ると、既にターフの上は濃密な緊張感に満たされていた。
当たり前か。G1だ。この舞台で緊張しないでいられるのは、世間一般で言うところのよっぽどのバカか、もしくはそれだけ胆力のある大舞台向きの性格をしているかだろう。
そして、そのどちらであっても間違いなく大物だ。
緊張しないでいられる、またはその緊張感を心地よく感じていられるようなウマ娘――例えばテイオーなど――は、疑う余地もなく天賦の才の持ち主だし、対してバカだ何だと言われてるひとでもG1の舞台に上がってきた時点で本物の実力を備えた天才と言えよう。あるいは、他の能力を削ぎ落としてでも競走に一極集中していると表現することもできる。
総じて、彼女らが緊張感を苦にすることは無い。だから、頭一つ抜けて強い。どちらも尊敬に値する才覚の持ち主だ。
では、緊張を感じて重荷になってしまっているひとが劣っているかというと、そういうわけではない。
緊張すると自覚しているからこそ、緊張による能力低下をものともしないように鍛え上げるわけだし、自分自身の状態を素直に認め、正しく向き合えば能力の向上が期待できる「適度な緊張感」として空気を捉えることができるはずだ。あるいは、「領域」――ゾーンと呼ばれる超集中状態に最も入り込みやすいのは、こうしたウマ娘かもしれない。
――では、ぼく自身は?
(ま、どのタイプでもないか)
どうにもぼくは脚質といい走者としてのタイプといい、類型から外れやすいようだ。
まあ元来がウマ娘というよりシマウマ娘だから仕方ない。
(……まだ時間はあるな)
時計的にも、ウマ娘の集まり方にもまだ余裕はある。
ぼくは早いうちにコースの方に来ていたアイネス先輩に後ろから声をかけた。
「せ~んぱいっ」
「うっ……ストライプちゃん。これは嫌な予感がするの……」
「めいっぱい可愛い声作ったのにこの態度よ」
「余計怪しいよ」
「ひど」
「普段そんなことしないのに急に猫なで声で近づいてくるなんてそんなの……」
ま、実際してないわな、こんな真似。
状況が状況なので、ぼく自身も普段やらないことをしてしまうほど浮ついているらしい。
これはこれで不気味に思ってくれるならいいか。
「敵情視察ってところ?」
「ま、そんなとこです。一番人気で朝日杯の覇者ですよ。それはもう十分に注意して走らせてもらいます」
「う~ん……これは嫌でも去年のこと思い出しちゃうの……」
思い出させようとしているとも言う。
シードリングカップでの一件は、アイネス先輩にとってやや苦い記憶のはずだ。ぜひとも意識していてほしい。
「あ、そうだ。社長って呼んだ方がいいの?」
「ぶっ」
そんなぼくの思惑を感じ取った――わけではないだろうけど、予想外のところから変なカウンターが飛んできた。
社長って何!? と他のウマ娘がギョッとしているのが見える。
「普通に呼んでくださいよ……」
「お返し。これでおあいこなの」
イタズラっぽくそう言われてしまうと、なかなかこっちも言い返しきれない。
事情を知らないひとから社長とは何かとその場で聞かれたけど、こちらも社長ということです、というくらいしか答えきれず苦笑するハメになった。
と、そこであるウマ娘がコースに入ってきたことで、一際強い歓声が客席から飛んできた。アイネス先輩に次ぐ本命。弥生賞を制したライアン先輩だ。
「ファイトですわライアーン!」
「頑張ってくださいませ~」
……出どころは、案の定というかメジロ家応援団である。
マックイーンの近くにはスピカのトレーナーさんも来ているようだ。引率――いや、偵察かな。
マックイーンはダービーに間に合いそうにないけど、それでも菊花賞に出ることを視野に入れている以上、対抗となるウマ娘の情報は欲しいはず。特にライアン先輩や、長距離が得意なことを明言しているぼくに関しては重要なレースは直に見て対策を立てておきたいところなのだろう。
で、マックイーンたちのいる場所は関係者席なので、そこに更にベテルギウスのメンバーが加わった。
引退現役問わず錚々たる面々が揃ったせいで辺りがざわついているが、このくらいの騒ぎはレースだとよくあることだ。何せ場合によってはリギルが偵察に来るなんてこともある。会長なんていることが知られたら結構な騒ぎになってたし。
ともかく、ライアン先輩は声援に応じ……はしたものの、すぐ気恥ずかしそうにしながらゲート前にやってきた。
「こ、こういうの少し照れるね!」
「慣れましょうよ」
「早いとこ慣れるの」
言わずもがな、ライアン先輩は押しも押されぬ超有力ウマ娘かつあのメジロ家のご令嬢。注目度も高く、人気も集まって当然なわけだ。
この先G1どころかG2でも多分普通にファンは応援に押し寄せるだろうし、今のうちから慣れていてもらわないとそれはそれで困るというか、なんというか……。
「改めて、今日はよろしくね! アイネスも、ストライプも!」
「よろしくなの!」
「はい、こちらこそ」
一方で、ぼくに向けて挨拶するライアン先輩は、他のウマ娘とやや違って自信に満ちている。ぼくの風評を聞いているなら、多少なりとも警戒するはず。
それは筋肉のおかげ、と言う以上の何かがあるように感じ取れて……これは何かあるかな。マックイーンから何か聞いた?
ま、いいか。
――さて、何はともあれそろそろ時間だ。
係員に促されて順番にゲートに入っていく。ぼくは最初にゲートに入ることにした。
鉄の無機質で冷たい空気の中、他のウマ娘がゲートに入ってくる時の金属音でどんどん競争心が掻き立てられていく。
際限なく大きく膨れ上がってきそうな本能を理性の鎖で抑え込む。
前傾姿勢になって芝を踏みしめる。
まだだ。まだ、まだ――。
――――今!
『皐月賞、今スタートしました。まずサバンナストライプがロケットスタート! アイネスフウジンがこれに続きます』
「「「!」」」
今回のぼくの作戦は逃げ。それもただの逃げじゃない。加速力任せにスタートからハナを奪い、尻尾も大回転させるほどの大逃げだ。
中山レース場2000mのコースは、その構造上ゴール前のみならずスタート直後にも坂が待ち受ける。それもただの坂ではなく、3ハロン近くも続く長い坂だ。
皐月賞……中山レース場2000mのコースは、一般的に先行ウマ娘が有利と言われている。よってスタート直後は先行争いが激化する傾向にはあるのだが、同時にここは「先行争いを制しながら余力を残す」という微細な調整が必要になる難所だ。
まっとうに考えればここで大きな消耗は避けるべきで、一旦控えておくのが定石だろう。
(けど、関係ないッ!)
だが、だからこそ全力で行く。
定石というものは「ほとんど」「大半の」ひとにとって有効な戦術を指すが、時と場合によってはそうではない。ぼくのように「普通」からある程度以上離れている場合はより顕著だ。
極端なことを言えば、坂路で速度が落ちないだけのパワーと、その上でその後速度を落とさず走りきれる膨大なスタミナがあれば定石を外れても問題ないわけだ。
「大逃げだとぉ!?」
「トレーナーさんあなたストライプの走り見る度に驚いてません?」
「仕方ないだろ!」
「あの子は勝つためなら卑劣な手以外は何でも使ってきます。この程度は想定して然るべきですわ。ですが――」
――ストライプへの対処法は教えています。
客席の方から聞こえてきたその言葉で、先程のライアン先輩の態度にも納得がいった。
これまでのレースでぼくの弱点はだいたい見えているはずだし、最初の模擬レースでもぼくは一度テイオーに負けている。
恐らく、マックイーンはライアン先輩にこう教えているはずだ。
(ペースを乱されず自分の走りを貫けば勝てる)
「ペースを乱されることなく、ライアン自身の走りを貫けば勝てる可能性は高くなります」
そのことはよく知っている。模擬レースでテイオーに負けた理由も、言わばそれだ。
中距離を走る時、ぼくは結局のところ相手をなんとかして乱さなければ勝ち目を作れない。
――やろうと思えばできないわけではないけれど、それは今やっても仕方ない。
『スマートファルコン6番手、続いてハネダマーズ、サンダーセレクト』
ファル子先輩は6番手――ファル子先輩の苦手な芝で、既にあの位置だとまずいのではないだろうか。
ライアン先輩は……もっと後ろにいるようだ。現状はほぼ最後方だろうか? 全体の様子を見渡せる位置なのはいいが、一気に追い込んでくるとは思い辛い。差すために中盤で上がってくるはずだ。
『坂を登りきって2コーナーへ。先頭から4バ身ほど離れて2番手アイネスフウジン。続いてグリンコンゴウ。トピックウエスト――』
アイネス先輩も、どうやら2番手につきつつ様子見の姿勢は崩せないようだ。シードリングカップで罠にハメたことが効いているらしい。
思い切り尻尾を回す。大逃げの状態が維持できるなら、この状況は望むところだ。
「――ドーベル、この状況……」
「そうね。マックイーン、ラップタイムってどうなってる?」
「ラップタイム、ですか? トレーナーさん、いかがですか?」
「ああ――――」
そろそろ800m。客席から俯瞰的に見ているからか、アルダン先輩やドーベル先輩をはじめとした既にシニア級でしのぎを削っていたメジロ家のひと達は気付いているようだ。
トレーナーさんに聞いたということは、マックイーンも把握するかな。うちのチームメンバーは皆状況もぼくの作戦も理解しているので、何か言いたげなような、それでいて嘘だろとでも言いたげな表情で固まってる。
『1000mを通過してここまで1分3秒! 遅いペースでレースが推移しています!』
「なあっ!?」
「えぇっ!?」
「やっぱり! ライアーン! 急いでぇぇ!!」
「アイツマジでやりやがった……!」
「にゃはは……まさか、2000mで幻惑逃げ、なんてねー?」
ぼくの第二の弱点、それは、全力で走る時にあまりにも「特徴」が出過ぎるところだ。
ひとつは種族的特徴。本能が刺激されすぎて、せいぜい行動のオンオフの切り替え程度のことしかできなくなる。これはマルチタスクの訓練を積んで必死に克服しようとしているが、本当の意味でどうにかなるまではまだ時間がかかりそうだ。
もうひとつは……尻尾だ。スパートに入るとどうしても回転してしまう。加えてそうしなければ速度がガタ落ちする。
でも、ぼくは尻尾を回さないと全力で走れないと言ったことはあるけど、「尻尾を回したら必ず全力で走る」とはひとことも言ってない。
6戦かけて印象を付けてきた甲斐があった。もっとも、単純に尻尾を回すということだけでは引っかかってはくれない。だから同時に「何をしでかすか分からない」「とにかく一緒に走り辛い」、そして「ペースを乱してくる」ということも印象付けしておいた。
こうすれば皆思うだろう――
だから、ハナから前提を崩すことにした。
ぼくが全力で行っていたのは、坂道を登りきるまでだ。それ以降はずっと尻尾だけを回してスピードは徐々に緩めていた。
他のウマ娘はぼくの動向を気にして……というのもあるが、大逃げは膨大なスタミナが要求される戦法。いくらなんでも、序盤の坂路を全力で駆け抜けた上でその後もペースを維持し続けるなんて芸当、できるわけがないと誰もが思っているはずだ。
実際できない。なので、ここで一息入れる……ついでに尻尾を回したままにする。坂路を登り切る頃にはそれなりの差がついているため、後ろを行くウマ娘にはぼくが全力で大逃げをかまそうとし続けているように見えるだろう。
後々の展開のため、そして何より「自分の走り」を貫き通すため、差を詰めて余計なスタミナを使うわけにはいかない。それこそぼくの思う壺だ――と、
――結果、1000mを通過した時点で差を維持したままに、ペースが落ちて一息入れる余裕が生じている。
「こんな馬鹿げたこと、本気で考えたの!?」
「よりにもよって……! G1でなんて……!」
当然、普通はこんなことしない。皐月賞、中山レース場2000mの構造あっての奇策だ。
皆の体内時計が正確に1000m1分のラップを刻んでいたらこの作戦も無意味だし、先にサブトレさんに言ったように3ハロン辺りでスピードを落とした段階で看破される可能性も否定できなかった。けど、皆が一流の選手でぼくのことを警戒してくれているからこそ、少しばかり話が変わる。こちらの動向を常にうかがいながら1000m1分ピタリのタイムを刻むというのは至難の業だから。
ここからが――本当のスパート。
『サバンナストライプ速度を上げた! 速度を上げた!? アイネスフウジンが追いかける! 後続もグングン上がってくる! グングン上がってくるぞ!』
アイネス先輩は生粋の逃げウマ娘。一瞬の切れ味で勝負するわけではない以上、直線の短い中山レース場ではとにかく前に出なければ話にならない。これはいい。
ただ、焦って上がってきた他のウマ娘の行動は悪手だ。
一般的に、スローペースでレースが推移した場合、逃げ、先行ウマ娘に有利と言われる。中団以降と差をつけたまま、スパートをかける余力が残るためだ。
反対にハイペースで推移した場合は、先行集団がバテて速度を落とすため、後方で控えていた差し、追い込みのウマ娘に有利と言われる。
ではこの状況がどうかと言うと……どちらとも言えないというのが現状だ。ここまでで皆脚を残すことはできているだろう。だが、ここからはゴールまでフルスロットル。全身全霊でただ駆け抜ける超ハイペースの消耗戦だ。
最高速が劣ってる、それはどうしようもない。仕方ない。
だから、1000mの間全力を維持し続ける。
『まもなく3コーナー回って縦長の展開。このまま流れるか! 後ろの子たちは間に合うのか!』
「間に合えぇぇっ!」
「っ……届いてぇっ!」
――けど、ああ、やっぱり速い。
この場にいる皆は一流のウマ娘だ。作戦が上手くハマっても、もう足音が背後から聞こえてきそうなくらい迫ってきている。だけど……!
「抜かせるかぁっ!!」
ぼくの取り柄はスタミナとパワー。
一瞬の切れ味で最後方から上がってこようとも、根性と執念で並びかけてこようとも。
『さあ最終直線に入った! アイネスフウジン並びかける! サバンナストライプが粘るか!』
「――――、!?」
「っ!!」
――そして一瞬、アイネス先輩たちの脚ががくりと落ちかける。
中山の最終直線の関門、心臓破りの坂だ。
中山の直線が短いと呼ばれるのは単に第4コーナーを抜けてからの直線の長さだけを言っているわけじゃない。坂を抜けてからの直線が極端に短いというのも一因にある。
だから、大半のウマ娘のスタミナが尽きるここで、差が決定的なものとして表出することになる。
けど――ぼくのスタミナはまだ残ってる!
『ここで粘る! グンと伸びてきて今! ゴール!!』
最後の最後にもうひと伸びを見せて、ぼくは誰より早くゴール板を駆け抜けた。
確信を持って、片腕を振り上げる。
『
――直後に聞こえてきた実況の言葉で、思わず冷静に「あ、そう来たかぁ」と思考してしまった。