『異例の観客数にてここ、大井レース場からお送りします砂の祭典ジャパンダートダービー。今スタートしました!』
ゲートが開いたその直後、真っ先に飛び出したのはファル子先輩だった。
彼女の逃げシス*1活動を知っていれば分かることだけど、そもそも彼女は生粋の逃げウマ娘だ。しかしながら、ここまでのレースではそのような素振りはほとんど見せず、どちらかと言うと差して勝つレースが目立つ。
そのため、同じコースで走るウマ娘たちの反応は半々。この大舞台で解禁するだろうと読んでいたひともいるし、完全に転向したものと思っていたためか驚いているひともいる。
冷静に考えれば、ここまでのレースの結果が振るっていないのは抑える走り方が合っていないということで、いずれ必ず逃げに戻すだろうということも容易に推測できることではあった。
皐月賞で逃げをしなかったのは……単純に芝が合わなかったせいだろう。適性というものがそれだけ大事という一例だ。
そして、枷が外れた今、ファル子先輩の走りは本来の輝きを取り戻していた。砂上の隼の名に恥じない飛ぶような力強い走りだ。
『ハナを取ったのは4番スマートファルコン! 12番サバンナストライプがこれに続きます!』
「ストライプさんは、ファルコンさんをマークする作戦のようですね」
「ストライプからの徹底マークって……うげぇ」
露骨に嫌な顔をしているスカイ先輩の顔が横目に見えた。
同じチームなのにそこまで言うことなくない? とちょっと思ったけど、基本戦術がとにかく相手に全力を出させないこと――正確には本気の出しどころを誤らせることなぼくに後ろにつかれるのはそれだけ神経をすり減らすのだろう。トレーニング中でも実際あまり良い顔はされない。
まあ、だからこそやる意味があるのだけど。
「前に出ない、斜め後ろあたり……それにしても位置取りが早すぎる。ファル子が逃げると決め打ちしてきたのか……!?」
軽く歯噛みしながらファル子先輩のトレーナーさんらしき人がそんなことをつぶやくが、決め打ちというのもちょっと違う。
ファル子先輩の脚質や能力、性格から考えて、抑えた走り方が通用するのは恐らくG3までだ。Jpn1の大舞台ともなると逃げを打つことが勝利の前提条件の一つ。逃げないということは現状「ありえない」。だからマークにつくことは半ば決まっていた。これが
逃げなかったら、その時はぼくが先頭に回って皆に地獄のペース走に付き合ってもらう。これが
いずれにしてもペースは爆上げするので地獄は見てもらう。
「でも、ストライプちゃんなら絶対何かしてくるって分かってるから……!」
「信頼が身に染みますねー」
これを信頼と言っていいのかどうかはともかく。
『さあ長い直線が終わり1コーナー、先頭は依然スマートファルコン、2番手にサバンナストライプ。3番手はハッピーミークです』
さて、位置取りはファル子先輩の斜め後ろあたりだが、ある程度のロスを許容してでもこの位置に陣取ったのは、キックバック*3を避けるという以外にもいくつかの理由がある。
ひとつは、単純にこの方が煽りやすいこと。少し視線をずらすだけでこちらの足先が見えるくらいがベストだ。これはぼくの悪名が広がれば広がっているほど、こちらを意識せざるを得なくなるので有効にはたらく。
もうひとつは、ミーク――のみならず、後ろにいる全走者の牽制だ。位置的にぼくとファル子先輩の前に出てハナを奪うためには、外側から回り込むしか方法がない。そうなるとぼくが妥協している以上の大きなロスが生じるため、ほぼ確実に後半まで脚が残らないだろう。
では長距離を走れるミークならどうかと言うと……実はミークが前に出るのも難しい。
長距離を走れるというウマ娘にはいくつかのタイプがある。ぼくやマックイーンのように、元から膨大なスタミナを持っているタイプ。パーマー先輩のように根性で走り切るタイプ。スカーレットやオグリ先輩のように恵まれたフィジカルで不利を覆せるタイプ。そして、ペース配分が抜群に優れていることで、最後までスタミナを残せるタイプだ。ミークはこれにあたる。
どこまでもマイペースで走れるのが彼女の強みだけど、裏を返せば、マイペースで走れなければ菊花賞のような超長距離にまでは対応できないとも言えるわけだ。
「スマートファルコンさんを抑えながらミークを牽制する……言葉にすれば簡単なことですけどあの精度でできるなんて……!」
「ふふ、いかがですかうちの次世代エースは。桐生院家の秘伝トレーナー白書にもああいったタイプのウマ娘は例がないでしょう?」
「ええ、残念ながら……」
おや、桐生院トレーナーにサブトレさんが接触しに行った。珍しいことだ……と思ったけど、あのふたり年齢はそう遠くなさそうだし、裏で仲が良かったりしても不思議は無いんだろうか。
いやそれより、エースって……冷静に考えるとそれはそうなのか? 今ベテルギウスにクラシック級のウマ娘はぼくしかいないわけだし。その上で皐月賞も勝ってるとなると、そうなるのか。
改めてこう考えると少し照れくさいな。チームのエースか……。
「あの子は他人の嫌がることを考えさせたら天才的です。そう容易に対応などできませんよ」
「言い方を考えんか!」
「あいたぁ!」
字面だけ見ると最低の人格やんけ。
サブトレさんだって別に貶す意図があって言ってるんじゃない。単にちょっと……だいぶ……結構…………デリカシーが欠けてるだけだ。
真面目で理想が高いからつい率直なことを言ってしまうのもあるだろう。慇懃無礼というか、指導者としては(トレーナーさんと比べると)割と未熟でサブトレーナーの地位に甘んじているのも頷ける話だ。
……ともかく、気を取り直そう。
(だったら徹底的にイヤなことやってやる!)
それがぼくのレースにおける強みだと言うなら突き詰めていくべきだ。
……悪人っぽい才能だけど、才能の用途自体は限定的だし商売に活かして人の役に立てることもできる。ヨシ!
長めのストライドを活かして足先をチラつかせ、わざと足音を大きく立てて威圧または威嚇。どのようにアクションを返してくるかによってこちらの返し方も異なるけど、想定されるのはおおよそ3通り。速くなるか、遅くなるか、鋼の意志でグッとこらえるかだ。
個人的には――有り体に言ってしまえばどうなっても構わない。
速くなればそれだけスタミナを削れるから目的は達しているし、遅くなるならぼくが前に出て主導権を握る。我慢してくるなら……その時は精神の削り合いの始まりだ。全力で嫌がらせを継続する!
字面が最悪!!
「っ!」
どうあれ、ファル子先輩の選んだ手段は……そのままスピードを上げることだった。
絶対に先頭を譲らないという気概を感じる。先頭――つまりはウイニングライブのセンターを求める意志がそれだけ強いということだろう。
あるいは、スズカ先輩のように本能レベルで先頭を譲りたくないという感情の発露なのか……もしそうだとしたら大変なことになるけど今は置いておこう。
いずれにしても今ここで速度を上げたことには変わりない。目測……
……恐らく、ファル子先輩はこれを維持できる自信がある。
『まもなく1000m。レースはハイペースで推移しています。先頭は変わらずスマートファルコン、続いてサバンナストライプ。4バ身ほど離れてハッピーミーク』
ぼくは変わらず、ファル子先輩を追走し続ける。
位置は依然斜め後ろ。いつでも抜ける、そしてどれだけでも煽れる絶好の位置取りだ。
スピードを上げても食らいつく。ここから更にスピードを上げて突き放そうとするという場面は、もうラストスパートでしかありえない。一度速度を上げたのに離せなかったことで、体力の消耗を避ける必要が出てきたからだ。ここでは我慢してくるはずだ。
(意識しちゃダメだと考えるほど、結果的に動きには強く影響が出る)
こういう時、本当に意識しないでいられるのは、スズカ先輩のように走っている間は何も考えずに最適解を選んでいられるひと……あとは場合によっては、ターボのようにがむしゃらに走って周りを見る余裕がないケースに限られる。ファル子先輩は
彼女は割と考えながら走るひとで、それ故に精神の削り合いが成立する。
人間もウマ娘も疲労は体だけに溜まるものじゃない。心にも当然ストレスや疲労が蓄積していく。
なにも鬱になるまで追い詰めるというんじゃない。ほんの少し焦らすだけで十分だ。瞬時の判断が求められるレースの中でなら、ちょっぴり判断力を奪うだけで平時の数十倍もの効果を発揮する。
現に今、ファル子先輩はわずかに脚を速めている。近くにいないと分からないほどにほんのちょっとだけだけど――その「ほんのちょっと」が、毒のようにじわじわとレース全体を蝕んでいく。
残り800m。
ぼくが仕掛け始めるとしたらここからだ。
『サバンナストライプ、スマートファルコンをかわして先頭に立った! 後続は上がってこないのか!』
「上がってンだろ見えてねェのか実況!」
「にゃはは、相対速度で判断しちゃってるとこれは騙されちゃうかもですねー」
一見すると差が詰まっていないように感じられるが、そもそもここで全力スパートをかけた以上あくまで現状は詰まっていないように「見える」だけだ。
パワー・スタミナの勝負になりやすい大井レース場2000mのコースは、ロングスパートをこなせるウマ娘に有利と言われるがそれは一般論だ。スパンと切れ味良く上がってくるウマ娘が勝つことも当然ありうるし、800m地点ではまだ脚を溜めておくひとも少なくない。
一方、先行から逃げのウマ娘はと言うと――。
『上がってくるか! ハッピーミークここで来た! スマートファルコンも食らいつく!!』
(――やっぱ来るよね!)
本気のスパートが始まったそのタイミングで、ファル子先輩とミークも勢いよく上がってくる。
逃げ、先行のウマ娘は末脚で勝負するわけではない。多少鈍くとも先頭を譲らず、ペースを維持し続けることで押し切る必要がある。
こちらの最高速がナマクラであることは周知の事実。対してファル子先輩やミークは末脚を発揮できるポテンシャルは元々持っている。
だから、ぼくは競り合いには弱い。並ぶことができれば、あるいは……そう思うのが当然だ。実際今それをされると超辛い。
ソラを使う*4のを誘発するために一時的に一着を明け渡す――却下。既にファル子先輩とミークがデッドヒートを演じている今、気を抜くことはまずありえない。
となればあとできることは……!
(最短距離、最速で!)
最内に寄せて距離のロスを無くし、ややストライドを狭めてコーナーに対処。同時に後ろから迫ってくるファル子先輩とミークに外側から抜く分のロスを背負わせる。
策だ何だと言いながら最後はこの力押し。不格好極まりないが、スマートさなんて元から求めてはいない。あとはもうこのまま押し切――――。
「たあああああああっ!!」
「っっ!!」
「!!」
嘘だろ……!? 想定以上の速度でファル子先輩が上がってきた! それにミークも! ミークは元々脚質として差しにも適性を示しているから不思議は無いけど、これは……。
データから推測できる成長曲線からするとまだ彼女の能力は「逃げ差し」できるほどに成熟しきってない! そのはずだ!
いや、だとすると――だとしても――…………。
――考えを改めよう。
現に今起きていることだけを見て分析する。推測よりもよほど確実だ。0.1秒で結論を導き出せ。
クラシック級という舞台、未だ未完成の能力。ウマ娘を探せば、レースの最中にも成長をし続ける怪物が存在するというのは実例がある。それに
「ッあぁぁ!!」
「……!」
「くっ……!?」
腹を決める。のこりほぼ500m……
『ここで更に加速!! 突き放すか、いや後続も追いすがる!!』
「二段階加速か! だが……」
「ミークの方が早くゴールに辿り着けます!」
「いや、ファル子の方が速い!」
分かってるよ、そんなこと。
このままじゃ勝てない。それは並びかけられてるぼくが一番理解してる。坂もほとんど無い長い直線、パワー勝負にはなり得ない。
けど……。
「っ!?」
「……!?」
――忍ばせていた
前半に散々ファル子先輩を追い回した結果だ。ミークに関してもこれは同じ。数バ身分も距離を離していたのに、一気に末脚を使ってしまえば途中で筋肉疲労が顕在化して当然だ。一気に速度が落ちるということは無いまでも、速度の上がり具合は徐々に鈍くなる。
「加速が鈍った!?」
「前半に後ろから速度を上げさせられたことが今になって効いてきたようですね」
「あ、でも……このままじゃ」
フラワーの指摘通り、加速が鈍ったとしても最高速は変わらない。このまま行けばそのうち追い抜かれることは間違いない。
だから、やるべきことは一つ。
――
「くっ、ぅああああああぁぁッ!!」
「三段階加速だと!?」
常識破りの三段階加速。それでも押し切れるかは賭けだ。速度を上げたと言っても、所詮時速1kmの違い。加速能力のおかげで今この一瞬だけは前に突出できている。
更に体勢有利の状態を作り出すため前傾姿勢に……!
『三人並んだぁ! 行くか! 誰が前に出る! ――三人並んだままわずかに差をつけてゴールインッ!! スマートファルコンか! サバンナストライプか! ハッピーミークかっ!! 電光掲示板にはレコードの赤い文字!!』
――2分4秒0。掲示板に表示されたその文字を見ながら、ぼくらはしかし誰も腕を振り上げるようなことができなかった。
同時に表示されているのは「写真」。1着から3着までの全て、本来着差が表示されるべき場所にその二文字が灯っていた。
『えー……これは大変難しいレースです。3人並んでのゴール、現在写真判定を行っております』
当然、ウイニングランなど行うべきではない。
激烈に痛みを訴える脚をクールダウンさせるべくゆっくり歩きながら、着差の発表を待つ。
正直、微妙だ。全力も全力で走ったから理性トんでたし、差がどのくらいあるか、よく分からない。
1分、2分。ひどく長く感じる時間が過ぎていき、やがて判定の文字が消えた。
掲示板の一番上に載った数字は――――12。
『結果が出ました。1着サバンナストライプ、2着スマートファルコン、3着ハッピーミーク!! 狩人が隼を撃ち落とし、砂の栄冠を手に入れたぁっ!!』
――着差は、上からハナとハナ。わずか数十センチの間隔の中に3人が収まっていたということだ。
ぼくは喜びの声を上げるよりも先に、疲労感と緊張感で凝り固まった体が弛緩するのを感じ取った。
○タイムについて
本来2008年JDDのタイムはレコードではありませんが、ストライプの戦法の都合上「スマートファルコンを思い切り逃げさせる」というシチュエーションになったため、史実のタイムよりも0.2秒早く設定しております。