これは私がまだランドセルを背負う年頃の話だ。
中山レース場、四月中旬。皐月賞。
奥側の直線を走っていた時、ビゼンニシキは6番手辺りに付けていた。
2枠3番というスタート位置も相まって、バ群の内側に埋もれていた事までは覚えている。
しかし桜並木が咲き誇る第3コーナーに入った辺りで彼女は姿を消し、第4コーナーで大外を捲ったシンボリルドルフの直ぐ後ろで姿を現した。
まるで瞬間移動でもしたかのような見事な手際に一瞬、心が奪われた。
わあっと沸き立つ観客達の歓声で正気を取り戻し、観客席の先頭、その柵から身を乗り出して勝負の行く末を見守る。もう隣を走る1番人気のウマ娘の姿なんて目に入らなかった。
真っ白な勝負服を着込んだ栗色の髪を揺らすウマ娘。
がっちりと後ろに付けた後、鮮やかなスパートを決める姿を幻視した時から私、グラスワンダーは彼女の虜だった。
この後すぐ親の都合で渡米した後も、幻視した彼女の姿が瞼に焼き付いて離れなかった。
第4コーナーを抜けて、最後の直線だ!
斜め前に居るシンボリルドルフ、ずっと傍目に確認していたが今、この瞬間に視線を切った。
もう追い掛けない! 後はゴールまで駆け抜けるだけだ!
左脚を全力で踏み込んだ――瞬間、身体が微かに右へと寄れる。
こんな時に癖が出たか!
衝突しないように修正する、真っ直ぐに走らなければシンボリルドルフの脚から逃れ切れない。
だから真っ直ぐにゴールを目掛けて駆け抜ける。
その時、視界が真横にブレた。
右肩に感じる衝撃、踏ん張った左脚に激痛が走る。
よろめく身体、それでも前だけを目指して駆け抜けた。
まだ抜けてない、まだ抜け出せていない!
半バ身先を行くシンボリルドルフを抜く為に右へ左へと揺れる身体を痛む脚で必死に制御する。
よし、と姿勢を正せた時に再び右肩に衝撃があった。
何故? と困惑する。お前はそんなことをする奴じゃないだろう?
前を見れば、私と同じように困惑するシンボリルドルフの顔があった。
ので、私は左脚に力を込める。もっと前へ、更に前へ、芝を踏み締めて、少しでも前へと走り出す。
まだまだ、まだまだだ! ちょっと肩を当てられた程度で負ける私じゃない!
手を抜くなよ、脚を緩めるな。
お前はそんなことをする奴じゃないのならしっかりと完走してみせろ。
その上で私がお前を抜き去ってやるッ!
ビゼンニシキが直ぐ横に付けていたことで混乱した。
だから一旦、考えることを止めた。思考を放棄して、ただ負けるまいと彼女よりも前を走ることだけを考えた。
レース中、身体をぶつけに来る相手は多くいる。その多くはレースの序盤から中盤にかけて、できるだけ良い位置を取る為に身体を擦り付けたり、前に出る為に空いた隙間へ強引に身体を捻じ込むことだってざらにある。多少、過激になるのは仕方ないことだ。レースなんて月に1度、年に6回もあれば多い方だ。何ヶ月もの準備期間を経て、レースに臨むという前提がある以上、1着というたったひとつの勝利を目指して誰も彼もが必死になる。
私から身体をぶつけに行くことはない。それでも相手から身体をぶつけられそうになった時、反射的に押し返すことは多々あった。
だから、これは、その一環だった。
横に並ぼうとするビゼンニシキの身体が横にブレた。
身体を当てに来た。と思った、その時にはもう肩を当て返していた。
「――――?」
その余りの手応えのなさに、私の体まで横に流れてしまう程だった。
騙された? してやられたのか?
更に左右に揺れるビゼンニシキの身体が、もう一度、彼女の身体が大きく私の方へとよれたから反射的に肩を当て返す。
ほとんど抵抗なく横に逸れる彼女の姿に違和感が強くなる。
大きく体勢を崩した彼女の、私を見る顔が困惑の色に染まっていた。
『シンボリ強い! シンボリ強い!』
歓声が上がる最後の叩き合い。
抜け出した、抜け出してしまった。
不本意な結果だが、脚を緩める訳にはいかない。
気付いた時には、全てが手遅れだった。
それに――――
「…………まだ……まだ、だ……!」
――錦の輝きが、衰えない。
「……受けて……立つ、ぞ…………ッ!」
口の端を噛み締めて、最後のもうひと押しを仕掛ける。
シンザンが持つ鉈の切れ味。それは私の理想、その頸を切り落とす。
それが私に出来る精一杯の誠意だッ!
芝を踏み締める度に激痛が走る。
ガッチガチに固めたテーピングが今生きた。
踏み締める、身体はブレない。踏み締める、まだ加速する。
互いに体勢を崩した今、ヨーイドンなら私が勝つ!
剃刀を舐めるなよ。
一瞬の切れ味は今、この瞬間に!
その頸動脈を綺麗に切って、息の根を止めてやる!
伸びて来た、この土壇場でビゼンニシキが伸びて来た!
残り100メートルを超えた最後の最後でビゼンニシキが、地の這うように体勢を低くして更に加速する。
剃刀は2枚あった!
私、シンボリルドルフを殺し得る刃は2つあった!
ただ私を殺し切る為に振るわれた二度目の刃に、敗北の二文字が脳裏に過ぎる。
だが、と歯を食い縛る。それでも、と前を見据えた。
脚に力を込める、芝を踏み締める。
蹄鉄が地面を噛み締めて、前へ、前へと身体を押し出した。
パチリと闘志が紫電となって迸る。
追い縋る追跡者を振り払う為、芝を蹴り上げて突き放しに掛かる!
――残り半バ身、行ける!
――その鼻先を絶対に捉えてやる!
――まだ届かないか、化物めっ!
――しつこいぞ! いい加減にその座を渡せ!
――勝つのは、この私!
観衆の誰もが決まったと思った瞬間、二度、伸びて来たビゼンニシキの末脚に誰もが息を飲んだ。
二人して縺れるように切ったゴール板は、人の目には判定不可能。体勢有利はシンボリルドルフか、しかし低い姿勢で身体を目一杯に伸ばしたビゼンニシキが差し切ったようにも見える。
当然のように写真判定、途中、勝負は荒れたが、第4コーナーからゴールを切るまで実に、実に滾るレースであった。
気付けば、柵を握る手に力が篭っている。
口の端は歪な形に歪んでおり、二人が駆け抜けたゴール板を暫し茫然と眺めていた。
素晴らしい。レースとは、あそこまで心躍るものだったのか。
強者達が激戦の跡、二人が放った熱に当てられた。ぶるり、と身を震わせて、艶のある吐息を零す。
あれだけのレースは、そうそう起こり得るものではない。
嗚呼、でも、見ているだけでこれだけの熱量を感じるのだ。
自然と溢れる嘆息に、私は想い更ける。
これだけの熱量を放った渦中の二人、あの二人は一体、どれだけの熱を感じたことか。
私、アグネスタキオンはこの日を境に幻想に取り憑かれることになる。
最早、無粋とも呼べる1着と2着の掲示板。
たっぷりと数十分も掛けた審議の上、10の数字。つまり、シンボリルドルフの番号が最上段に点灯した。
此処から遠ざかる救急車の音、私はたっぷりとレースの余韻に更ける。