5月第2週目、東京レース場。NHKマイルC。
同期による短距離マイル王座決定戦。事前の人気投票ではビゼンニシキが1着になると予想されている。
対抗となり得るは怪我からの復帰明けであるハーディービジョン。鍛え上げた肉体は昨年末、朝日杯フューチュリティSで見た時の比に非ず。パドック場で披露した見違える程の脚力に期待して、彼女を4番人気にまで押し上げる結果になる。シンボリルドルフとビゼンニシキが頭角を現す以前、誰がクラシック3冠の第一人者だったのか。その事をレース場にまで訪れたファンは思い出していた。
彼女の実績である5戦3勝は、数字だけ見ると決して強くないものだ。
だが京王杯ジュニアSを見た者は知っている、朝日杯フューチュリティSを見た者は知っている。
彼女の走りが本物であることをウマ娘ファンは知っている。
この世代において、後方一気の猛追は彼女の代名詞であった。
怪我で戦線を離脱している間、スズマッハに奪われてしまった御株ではあるが、彼女の走りに3冠制覇の夢を見た者は少なくない。
それだけの魅力が彼女にはあったのだ。
ハーディービジョンが
シンボリルドルフ、ビゼンニシキに続く3強の一角が関東にて、レース場に帰ってきた。
後方一気の追い込みウマ娘が勝利を奪いに帰ってきた。
幻の名ウマ娘。その復帰に観客達が盛り上がる中で、ビゼンニシキも負けていない。
重賞2つを含む7戦5勝の実績は他ウマ娘を圧倒しており、負けた2戦もシンボリルドルフとの競り合いの末だった。
同世代の中では頭ひとつ抜きん出た存在であることに間違いない。
私、スズパレードは観客席の最前列で皆がゲートに収まる様を眺める。
皐月賞が終わった後、暫くビゼンニシキとは疎遠だった。でもチームレグルスの練習に加わってからぼちぼちと顔を合わせるようにもなった。食堂にいる時、昼食の人参ハンバーグを摘みながら3人で机を囲む日が過ぎる。
3人というのは、私とビゼンニシキ、そして何処となく懐かしい顔のスズマッハだ。
前に顔を合わせたのは幼い頃、顔の輪郭も朧げになっている。
どうして彼女がビゼンニシキの隣に居るのか分からない。
じとっとした目で威嚇した時も、スズマッハは涼しげな顔で惚けただけだった。
というよりも視線の意味すら解せなかったようだ。
「誰が勝つかな〜?」
問題なのは、そのスズマッハが私の隣に居ることだ。
「シキが勝つに決まってる」
「心情的には、シキだけどさ〜。追い込みウマ娘的には、ビジョンに勝って欲しい気もあるんだよね〜」
「なにそれ?」
仲間意識はないのか?
友達の無神経な知り合いを咎めるように睨みつける。
スズマッハは困ったように肩を竦めてみせた。
「応援はしてるってば、なんだかんだで最後の調整には付き合ったし〜」
「それで調子は?」
「あんまりかな?」
ムッと頰を膨らませたタイミングで「あ、でも」と茶化すような声を上げる。
「シキがルドルフ以外を相手に負けるところが想像できないんだよね」
当然、と私は不機嫌さを隠さずに頷き返した。
正直なことを云えば、ルドルフに負けた事だって私は信じていないのだ。
弥生賞はともかく皐月賞は絶対にビゼンニシキが勝っていた。
『世代最速を自負するウマ娘が府中に集う! NHKマイルカップ!』
東京レース場、スマホに付けたイヤホンを耳に実況の声が聞こえてくる。
『先ずは8枠17番オンワードカメルン。前走の皐月賞3着が評価されたか3番人気』
確か9戦2勝のウマ娘、重賞の勝ち星はないが朝日杯フューチュリティSでは3着の成績を持っている。
『1枠2番はアサカジャンボ。前走13着の雪辱を晴らせるか、2番人気』
皐月賞では第4コーナーで一杯になり、中距離路線を疑問視されてからのマイル転向。地力の強さが評価されているのか前走の惨敗を喫した後でも根強い人気を持っている。
『1番人気は勿論このウマ娘、ビゼンニシキ。弥生賞、スプリングステークス、皐月賞を経てのNHKマイルカップへの出走です』
ふふん、そりゃそうだ。私のビゼンニシキは一番なのだ。
「なんであなたが得意顔なの?」
そんな無粋な言葉に「私の友達が誇らしいんです~!」とこれまたどや顔を決めてやった。
『未だに3着を下回ったことがありません。負けた相手も世代最強ウマ娘シンボリルドルフただ一人、今回のレースでは他のウマ娘よりも大きく見えます』
続く解説の言葉にスンと心が冷めるのを自覚する。
弥生賞はさておき、皐月賞はビゼンニシキが獲っていた。
それをあのウマ娘が横から体当たりをしたせいで──
「急に静かになるの止めてくんない? 怖いんだけど……」
──おっといけない、今はレースを目に焼き付けなければならない。
彼女の勝利をこの眼に焼き付けるのだ、親友として!
静かに深呼吸を重ねる。
胸を膨らませる程に大きく吸い込んだ後で、全身を使いながらゆっくりと息を吐き出すと同時に力を抜いた。
嗚呼、嬉しいな。幸せだな。
これから大事なレースが始まるっていうのに昂る気分に抑えが利かない。
これから始まるレースの事を思うと楽しみで楽しみで……本当に楽しみで仕方なかった。
戻って来れた、この
もう戻って来れないと思った事もあった。
胸の奥が疼くのだ。お前はもう走れない、と囁きかけてくるのだ。
その声を振り払うように筋トレに勤しんできた。
絶対に戻ってやる、と何度も自分に言い聞かせて、それでも泣きたくなることもあった。
トレーナーには迷惑を掛けた、心配を掛けた。
チームリギルの皆も同様だ。
マルゼンスキー先輩、スズカコバン先輩、辛い時は何度も声を掛けてくれた。
貴方達が励ましてくれたから私は今、此処に立っている。
再び走れるようになった時、私の心を埋め尽くしたのは膨大な感謝の気持ちだった。
胸元で強く手を握りしめる。
勝ちます、と己に言い聞かせる。
勝ちます、とトレーナーに誓いを立てる。
この膨大な感謝の気持ちはもう言葉だけでは足りなくなっていた。
ありがとうございます。と何度、口にしたのか分からない。
ありがとうございます。と何度、想ったことか分からない。
勝ちたい、と今日ほど願ったことは初めてだ。
トレーナーだけではない、チームメンバーだけでもない。
私を待ってくれた皆の為にも私は勝ちたかった。
勝ちたい。勝って私、ハーディービジョンがちゃんと戻ってきたことを皆に伝えたいんだ。
左脚の爪先でトントンと地面を叩く。
踏み込めば痛みはある。しかし走るには支障のない程度の痛みだった。
私、ビゼンニシキは走るのが好きだ。ゲート前、高まりつつある緊張感が好ましい。
気分が高揚する、胸の鼓動が速くなる。
トクン、トクン、と私の心が昂ってくる。
私はきっと走る為に生まれてきた。だから今日も走るし、明日も走る。
走ることが私という存在の証明になるのなら、私は誰よりも速く走ってみよう。
最後の直線、他のウマ娘を抜き去るのは快感で、誰一人居ない先頭を駆けるのは爽快だった。
誰よりも早くに辿り着いたゴールには達成感がある。
私は此処にいる、私は今を生きている。
走ろう、何処までも。
走ろう、あの芝の果てまで。
走ろう、ゴールの先にある何処かへ。
各ウマ娘が収まったゲート内で高揚する気分とは裏腹に世界の全てが透き通って見えた。
過去に何度かゾーンに入った経験はある。
あの静かな世界を私は覚えている。全てを掌握できる全能感を覚えている。
しかし、今日は何故だか、とてもふわふわしていた。
地に足が付かないような、でも不思議と不安はない。
ぽやっとしている内にゲートが開かれた。
身体は自然を動いていた。
目の前には空と芝だけが広がった。視界には他のウマ娘が誰も映って来ない。
気持ちが良い、気分が良かった。
このレースに至るまで、様々な作戦を考えてきた。
でも、なんとなしに行けるところまで行ってみようという気になった。
何処までも行ける気がしたから、何処まで行けるか試してみたくなったのだ。
『ビゼンニシキが鼻を切った! 後続との距離がどんどん開いていくぞ!?』
トレセン学園の食堂に置かれた大型テレビを見つめながら食事を摂る。
彼女が逃げたのは確かスプリングS以来の事、その時は逃げるというよりも先頭に出てしまったといった印象の方が強かった。
しかし今、彼女が見せるのは大逃げで後続との距離を突き放しにかかっている。
これは何かの作戦か? 何かが起こる前触れか?
どちらにせよ、目が離せないことには違いない。
「ルドルフさん! 御同伴させて貰ってもよろしいですか!?」
料理を口に詰め込みながら好敵手が走るレースを観戦する。
「あれ、ルドルフさん? ルード―ルーフ―さーん!」
彼女がマイル路線に舵を切ったのは残念だが、
それでも来年の宝塚記念や天皇賞秋で再戦できる事を願って、今は好敵手の情報を溜め込むことに専念する。
油断していると次もまた寝首を掻かれることになりそうだ。