「あの莫迦、はしゃぎ過ぎだ」
東京レース場、その観客席の一角で舌打ちを零す。
鼻先を切って走るビゼンニシキは完全に逃げの態勢に入った。
スプリングSの時とは違う、本物の逃げだ。
「……脚は完治しているのか?」
隣からドスを利かせた低い声色で威圧される。
ニホンピロウイナー、現時点でNHKマイルカップとマイルチャンピオンSを勝ち星に含んだ16戦9勝という前年度のマイラー界の絶対王者。2000メートル以上の距離であれば3冠ウマ娘のミスターシービーが勝つが、1600メートル以下の距離であればニホンピロウイナーが勝つと云われる二大王者の片割れである。今年は高松宮記念、安田記念、スプリンターズSという短距離マイラー路線のGⅠレースを完全制覇することを期待されていたが、2月末に行われたレースによる骨折で秋までの療養を余儀なくされている。その分、マイルチャンピオンS2連覇への想いは強い。
今は骨折も治り、レース復帰の為のリハビリを始めた頃合いか。松葉杖を突いているが、脚に体重をかける分には問題ないようだ。
もっと自分を労わってレース場まで来なければ良いものを。
「まあ普通に走るだけなら問題はねえよ」
「レースは普通じゃないだろ」
「……本人が望んでいるんだ、仕方ねえよ」
あいつは自分の事を天才ぶっている割に努力や根性といった古臭いものを信仰しているからな。
友情、努力、勝利というのであれば、友情という部分をもっと重要視して貰いたい。
「だったら……それを止めるのがお前の役目じゃないのか?」
震えた声、怒りに満ちた目で睨まれる。俺だって好きで許している訳じゃねえよ。
「それをしていたらあいつは今も一人で頑張ってたよ」
「だとしてもだ! お前はサルノキングを忘れたのか! バンブーアトラスを忘れたのか!?」
「忘れてねえよ、忘れてねえから俺は今もなお無事是名バとして活躍している。他のウマ娘もそうだ。シービーは菊花賞後のレースは控えたし、コバンも前走のアクシデントから菊花賞を回避してるだろ?」
先頭を走り続けるビゼンニシキの姿から目を離さずに続ける。
「こんな言い方をしたかないが故障してるのはバンバン出走してたお前だけだよ」
「……だからこそだ、故障をしたらどんなことになるのか!」
「だからこそ、だろ? あいつがお前ではなくて、俺を選んだ理由もな」
レース展開が安定してきた頃合いを見計らって、ニホンピロウイナーを見た。
下唇を噛みながら俺の事を睨みつけてくる。
その姿は、なんというか、あのレース場の勇ましい姿から想像できない程に情けなくて滑稽だ。
「ピロ、あいつが最も懐いているのはお前だ。だからこそ分かるんだよ」
ビゼンニシキの事を誰よりも気に掛けて、心配してきたのは彼女だ。
それを横取りしてしまったのは申し訳なく思ってはいるが、今の彼女ではビゼンニシキの力にはなれない。
何故なら、あいつが求めているのは今を戦う力だ。
クラシック3冠はあいつの夢であり、走る理由でもあった。
あいつは王道が好きだ、正攻法に拘りを持っている。
クラシック路線やグランプリに強い執着を見せているのもその為だ。
そんなあいつがクラシック3冠レースを終えた後、短距離マイルへの路線変更を考えている。
そこには間違いなくニホンピロウイナーの影響がある。
マイラーの王者である彼女の走りを見てきたことで中長距離への拘りは薄れていた。
だからこそだ、だからこそクラシック3冠レースでは妥協できない。
幼い頃から見てきた夢を諦めずにはいられないのだ。
「あいつ、TTGで最も好きなウマ娘って誰か知っているか?」
「……トウショウボーイじゃないのか?」
ニホンピロウイナーの解答に俺は首を横に振る。
「グリーングラスだよ」
「シンザン好きのあいつがか、意外だな。本人から聞いたのか?」
「あいつの得意にしている物真似がグリーングラスが勝利したレースの実況なんだよ」
「それは一度、聞いてみたいな」
あいつは、と彼女から視線を外してレースを眺める。
「……強いウマ娘になりたかったんだよな」
そろそろ第3コーナーに差し掛かるといったところ、未だに先頭はビゼンニシキ。後続との距離は2バ身程度、最後方に陣取っていたハーディービジョンが先頭との距離を詰めに掛かる。
「ダービーが終わったら、お前のところに返すよ」
「それはどういう意味だ?」
「やっぱり、あいつの居場所はお前のところだよ」
俺は自分のことで精一杯だからな、と涼しい顔で笑ってみせた。
そろそろか。レースの中盤、最後方でじっくりと脚を溜めさせてもらった。
大外周りの距離的不利を嫌って、バ群の内側からバ群に突っ込んだ。蹴り上げられる芝生を回避しながら右へ左へとステップを刻むようにウマ娘同士の隙間に身体を滑り込ませる。此処で詰まっていては内側に切り込んだ意味がない。
東京レース場の向直線には、高低差1.5メートルの登り坂がある。
バ群がガクンと速度を落とす瞬間を見計らって、更に速度を上げる。他のウマ娘達の息遣いが分かる、呼吸が読み取れる。今日の私は絶好調だ。坂を登りきった後、第3コーナーの半ばまで続く高低差2メートルの下り坂。その後、第3コーナー半ばから第4コーナーに掛けては若干の登り坂になっている為、あえて速度を落とす理由がない。高速で曲がるウマ娘達が大きく外に膨らむのを予見して、内に内にと切り込んで行った。何人かコーナリングが上手いウマ娘は居るが、そういうのは無視だ。数人程度なら外を通っても問題ない。
レース中盤まで18番目だった順位は1桁台に乗り、前にはもう数人が残っているだけだ。
好位置に付いていた3番人気のオンワードカメルンを置き去りにして、バ群の先頭を率いていたアサカジャンボも抜き去った。
視界が開けた、真っ直ぐの芝の先を走るのはビゼンニシキだ!
『さあ直線だ! 先頭を走るはビゼンニシキ! バ群の内からハーディービジョン!』
大歓声が上がる、直線勝負。
2バ身先を走るビゼンニシキの背中を見つけた瞬間、私は一瞬の溜めを作った。
踏み込んだ右脚に全体重を乗せる。一歩分、後続が私に追い付き、アサカジャンボが視界の端に映った。
それだけだ。次の一歩で後続を完全に突き放す。
続く一歩で影すらも踏ませない。
『これはもの凄い末脚だ! 追いつくか、逃げ切るか!? 幻の名ウマ娘が実像を以て襲い掛かる!』
バ群は消耗なしで綺麗に抜け出せた。
今日の自分に満点を上げたい。この距離でこの差なら確実に抜き去ることができる。
東京レース場、最後の直線に入った直後に高低差2メートルの坂がある。
逃げに徹したビゼンニシキには辛いはずだ。
この坂で蹴りを付ける!
『ハーディービジョンが更に加速する! 後続との距離は1バ身、2バ身! しかし、しかし――――ッ!』
……落ちない、ビゼンニシキが落ちて来ない!
『――ビゼンニシキとの差が1バ身から縮まらない!』
もう限界のはずだろう!?
勝てる距離、勝てる差だったはずだ。
手応えはある。過去、最高の仕上がりだったと言っても良い。
少なくとも、今の私は朝日杯フューチュリティSの比ではない。
私は過去の自分を超えたのだ!
『ハーディービジョンが追う、ビゼンニシキ粘る! ビジョンが追う、ニシキが粘る!』
坂を登りきった残り300メートル、まだこれからだ!
更なる猛追を仕掛けるべく、自分の脚に喝を入れて、更なる速度を追い求めた。
落ちて来ないのなら、こちらから仕留めに行ってやる!!
これが私だ、ハーディービジョンだ!
シンボリルドルフを倒せる者はビゼンニシキじゃない!
ハーディービジョンが此処に居る!
――行け!
最後の直線、思わぬレース展開とデッドヒートに観客席から大歓声が上がる。
――行け!
スズパレードが推しの団扇を片手に吠えた。スズマッハが手を掛けた柵を強く握り締める。
――行け!
ニホンピロウイナーが興奮して転びそうになってるのをカツラギエースが必死に支える。
――行け!
関係者席では、東条ハナが祈るようにレースの行く末を見守った。
――行け!
そしてトレセン学園では、世代最強のマイル王者決定戦に同世代の全ウマ娘が注目をしている。
シンボリルドルフも例外ではない。
好敵手の激走を、最後の競り合いをじっと見つめている。
――まだ行けるはずだろう?
想いは、力になる。
それは時に奇跡すらも起こし得る。
意識が、ぼんやりとしていた。
慣れない逃げ戦法に二日前まで続けていた過酷なトレーニング、東京優駿に目標を定めて肉体を徹底的に追い詰めた。
左脚には痛みがあった。走っている間も継続的に襲い来る痛みは感じていた。
でも、やっぱり思考がぽやぽやする。
頭の中は透き通るように鮮明で、視界は見え過ぎるほどによく見えた。
自分の胸の鼓動が聞こえる、息遣いを感じる。
坂を登り切った後の観客席、団扇を片手に必死で振り回すスズパレードの姿があった。
その団扇に貼ってあるのって私の写真?
思わず、失笑する。
うん、そうだな。あいつが見ているのなら、格好良いところを魅せてやらないとな。
それに――と、私の遥か先を走るウマ娘の背中を幻視する。
あいつは絶対に倒す、と左脚で地面を強く踏み締めて一瞬の溜めを作る。
身体は極端な前傾姿勢。皐月賞で掴んだ二の脚を今、解禁する。
嗚呼、疲れているはずなのに――なんだか気持ち良くなってきた!
『坂を登り切って、ビゼンニシキが此処で伸びた! 錦の輝きは未だ衰え知らず!』
待て、待て待て! 待てって、おい!
ビゼンニシキが一瞬だけ速度を落とした。
好機だと思って距離を詰めた瞬間、奴の速度がグンと加速した。
まだ脚を残していたっていうのか。
追い付けないのか、私は追い付けないのか!?
また、私だけを置いて行くっていうのかッ!!
後続のウマ娘が「むりーっ!」という声を上げるのを耳にして、歯を喰い縛った。
無理じゃない! クラシック3冠レースの皐月賞で2人がデッドヒートを繰り広げる映像を観て、どれだけ悔しい想いをしたのか!
想い出せ、観ているしかなかった自分の不甲斐なさを、情けなさを!
再び戻って来れたのは誰のおかげだ!
トレーナー、マルゼンスキー、スズカコバン、ミホシンザン、リギルの皆……!
こんな有様では支えてくれた皆にも顔向けが出来ない!
『もういっぱいか!? ハーディービジョンはいっぱいか!?』
まだだ、まだッ!
ゴール板を越えるまではまだ、勝負を分からない!
離された距離は致命的、しかし、私は諦める訳にはいかないんだッ!!
なりふり構わずに脚を動かせ、手を振り回せ!
ただ勝ちたいって想いを心の炎に焼べる!
奮起せよ、前を向け!
「根性を見せるんだよおおおおおおおおおおッ!!」
その時、限界の壁を突き抜けた感覚があった。
最終局面、小難しい事は全て投げ捨てる。
『ハーディービジョンも伸びた! GⅠウマ娘の意地を見せる!』
追い付けるかどうかではなく、追い付くのだと心に決めて最後の力を振り絞った。