幼い頃、ビゼンニシキは神童と呼ばれていた。
それは「年齢の割には」という接頭語が付く意味での言葉だ、御山の大将と言い換えても良い。
親族は彼女の事をGⅠウマ娘になると持て囃し、彼女もまた教えられた事を人並み以上になんでも出来てしまった為、自分の事を天才だと信じて疑わなくなった。
此処まではよくある話だ。
歳を重ねる度に現実を知る。自分が群衆に埋もれる一人に過ぎない事を知り、大人になった。と偉ぶって幼い頃に見た夢から目を逸らすようになる。
そんなありきたりな物語が世の中には溢れている。
しかしビゼンニシキは今もなお、自分が特別だと信じ切っていた。
自分は才能に恵まれている。
だから他のウマ娘よりも努力を重ねる義務があると思い込んで、常に努力を積み重ねて来た。
なにかで勝った時も、彼女は自分の努力を驕らない。
皆よりも自分の方が才能があっただけだと言い張った。
誰よりも努力を積み重ねてきた。
それを当然だと云って、彼女は自分の才能だけを驕り続ける。
走れば走るだけ、鍛えれば鍛えるだけ、やればやるだけ、自分が成長出来るのは全て才能のおかげだと彼女は言い続ける。
彼女の生まれ持った素質は決して低い訳ではない、むしろ素質があると云っても良い程だ。
それでも天才と呼べる程のものではない。
ただ彼女には幼い頃から長年、積み重ねてきた努力がある。
自分を天才だと信じて続けてきた鍛錬の数々が、今ある彼女の肉体の下地になっている。
彼女は生まれ持った天才ではない。
しかし、彼女には、天才にも引けを取らない肉体が築かれていた。
彼女にはGⅠを獲れるだけの素質がある。
その素質は、彼女が幼い頃から積み重ねてきた努力の賜物によるものだ。
彼女は誰に言われるまでもなく、自分の意志で今の自分を作り上げた。
故に彼女は結果的に天才となった。
幼い頃、天才という言葉は私の為にあった。
前を走るウマ娘を後ろから抜き去るのが快感だった。
私には生まれ持った末脚がある、何処までも伸びる脚があった。
後方一気の差し勝負、バ群をごぼう抜きにする快感は他では例えられない。
私の脚には翼が付いている、誰も私から逃れ切れない。
それが私、ハーディービジョンだ。
流石に才能だけではやって行けなくて、デビュー直後は苦しめられた。
今はトレーニングを重ねて、鍛えに鍛え抜いた。
何度も吐瀉物を撒き散らした、泡を吹く程に巨大タイヤを引いて来た。
生半可な鍛え方はして来なかったはずだ。
加速力だって、最高速だって、数年前とは段違いに速くなった。
私は天才なのだ、誰もが認める天才である。
『ビゼンニシキが伸びる! まだ伸びる! ハーディービジョンを引き離し、更に伸びる!』
怪我の影響は残っている。
私は同世代のウマ娘と比べて、数ヶ月の遅れがある。
しかし、それでも私の末脚はまだ健在だ!
『これは強い! 2バ身、3バ身! ハーディービジョンの背後には誰も来ない! 異次元の脚に誰も追い付けない!』
ふざけるな、ふざけるなッ!
最後の末脚を使った後、距離は少し縮まっていたじゃないかッ!
半バ身までは詰めることが出来た!
なのに、どうして! 嗚呼、クソッ! クソォッ!
あいつ、私を見ていなかった!
並びかけた時、私の事なんて何ひとつ気にしてなかった!
待て、待てよ! 待てよコラァッ!!
私を見ろォッ!!
遠のく背中に追い縋るべく、ただ奴の視界に映りたくて更なる加速を自らに課した。
限界を超えた走り、その更に先を求めて芝生に右脚を踏み込んだ。
瞬間、ピキッという嫌な痛みが足首から走る。
故障した!? 構うものか、と意地だけで先を進もうとした。
視界にはもう奴しか映っていなかった。
――これ以上、無理をしないで。お願いよ。
誰かの、声が、聞こえた、気がした。
『ハーディービジョンは此処まで! ハーディービジョンは此処までだ! ジュニア最速王者はビゼンニシキで決まりだ!』
速度を緩める。思わず、脚を止めてしまった自分に茫然となる。
流しながら走っていると後方からやって来たバ群の波に飲み込まれた。
なんで追うのを止めてしまったのだろうか。
『ビゼンニシキ1着! もう脇役とは言わせない! 掲示板の頂点を錦で飾りました!』
顔を上げるとビゼンニシキがゴール板の先を駆け抜けていったところだった。
『文句なしの圧勝ですッ!!』
痛い、左脚の痛みがキツくなった。
立っているだけでも辛い程の激痛だ、テーピングが緩んでしまったのかも知れない。
今日は、なんだか、とても疲れたな。
呼吸が全然、整わない。
呼吸音が五月蝿い、胸の鼓動が煩わしい。
それでも心配をさせない為に観衆に向けて、手を振った。
ウィナーズサークルの受け答えは少し待って貰おうか。
早く休みたい。
とりあえず脚を冷やさなくちゃな。
さっさと退散させて貰おう。
レース場と控え室を繋ぐ専用通路、そこで誰もいない事を確認して壁にもたれかかる。
不味いな、左脚が動かない。
あと一戦、まだ一戦だけ残っている。
痛い、痛いな。
顔に出しては駄目だ。
止められる。
疲労は隠さなくても良い。
慣れない逃げに、最後の追い切りだ。
隠すと却って不自然になる。
痛い、疲れた。痛い。眠い。
眠りたい、眠る前に脚を冷やさなきゃ。
壁が冷たい、ちょっと気持ち良い。
呼吸が整わない。
これは、本当に、不味いかも。
でも、まあ少し休めば、良くなるかも知れない。
今はやるべき事をやってから少し眠ろう。
頭が、もやがかって、思考が、まとまらない。
勝った。うん、勝った。
もう、それは良い。
とにかく、今は、休みたい。
「……バカじゃねーの?」
異変には直ぐに気付いた、左脚を痛めてしまったのは直ぐに分かった。
ビゼンニシキは余裕そうな笑みを浮かべながら観衆に手を振っていたけど、その顔は嫌な脂汗で滲んでいる。
隣にいるスズパレードは感極まって泣き喚いているので使い物にならない。カツラギエースはニホンピロウイナーを見つけて観客席の後ろの方に行ってしまったので気付くのは難しいそうだ。ビゼンニシキは退場する時に左脚でしっかりと地面を踏み締めて歩いていたので尚更だ。その腐った根性だけは流石と褒め称えてやる。
スズパレードには適当に別れを告げた後、関係者用の通路を通り、レース場と控え室を繋ぐ通路で迎えに行った。
案の定、彼女はボロボロの見るに耐えない状態で壁にもたれかかっていた。
「……バカじゃねーの?」
思わず、呟いてしまった私は悪くない。
彼女ならもっと上手く勝つことも出来たはずだ。勝てないにしても怪我を悪化させることはなかった。
本番は東京優駿だって自分で言っていたじゃないか。
「……スズ…………マッハ……?」
「今すぐに病院に連れ込まれたくなければ、しっかりと立て。勝者が情けない面を見せないでよ」
「手……厳しい……な…………」
ビゼンニシキは大きく深呼吸をした後で、ズズッと左脚を引き摺りながらも壁を手に歩き出した。
「……ごめん、マッハ…………肩を貸してくれない? ……あと控え室で氷も…………」
「図々しい奴だな」
はあっ、と溜息を零しながらも彼女の脇下を担いでやる。
全身が汗で濡れており、ちょっと気持ち悪かった。
ゆっくりと歩いてやる。
あまり顔には出さないが、僅かに眉を顰めるので痛みは感じているようだ。
「…………そんな身体で東京優駿に出るつもりなの?」
もう止めれば良いじゃん、そんな有様になってまで走る意味ないじゃん。
「出る」
しかしビゼンニシキは、これだけは強い口調で答えた。
「勝てる訳ないじゃん」
「勝てるよ」
「どうしてそんな事を言えるかな」
「天才だから」
そう言った彼女は殴りたくなる程のどや顔だった。
今にも死にそうな顔色をしてやがる癖に。
ああそうか、馬鹿は死ななきゃ直らないのだ。
何を言っても無駄だと判断したカツラギエースの気持ちが今になってよく分かる。
「……バーカ」
精一杯の悪態を込めて呟いた言葉に、彼女は苦笑する。