東京優駿当日、その日は何故か朝早くに目が覚めた。
すっきりとした頭、窓のカーテンを開くとまだ太陽が顔を出す直前だった。
目覚まし時計でセットした時間よりも二時間も早い。
二度寝することも出来たが、なんとなしに二度寝する気にはなれなかった。
何時も通りに身支度を済ませた後、美浦寮を出る。
夏も間近、にも関わらず涼しい風が肌を撫でた。
早く起きたのに眠くはない。私は大一番に興奮しているのだろうか?
その割には心は落ち着いている。
朝に感じる綺麗な空気のように思考は澄んでいた。
いまいち気分が盛り上がらない自分に疑問を抱くも、まあいっか。と歩みを進める。
折角、朝早くに起きたのだ。東京レース場に向かう前にトレセン学園の中を歩き回ってみるのも良いかも知れない。
プール場やトレーニングコース、それから食堂。
まだ早い時間帯、熱心なウマ娘をちらほらと見かける程度だ。
私もあんな風に走っていた時期があった。
ジュニアクラスA組の時、まだレースの予定とか考えなくても良かった頃は、体力が続く限り体を鍛え上げる事を考えていた。
たった数年前の出来事が遠い昔のことのように感じられる。
トレーニングコースに入ってみる。
そして、そこから見る光景を眼に焼き付けた。
なんとなしに、そうしなければいけない気がしたのだ。
「あー! 誰か入っとるやん! ウチが一番っちゅう話じゃなかったんかい!」
振り返る、葦毛の小さな体躯のウマ娘が怒りを露に駆け寄ってきた。
「せっかく、人が整備されたばかりのトレーニングコースにいの一番で足跡を付けたろうって思うとったのになにしてくれてるねん!」
同期では見たことがない顔だ。
彼女は柵を飛び越えてトレーニングコースに入るや否や私の顔を見て、なにかを思い出すように考え込んでみせた。
そして、ポンと両手を叩いた。
「そーそー、アンタってビゼンニシキや~ん! ダービーでルドルフ対抗の最大手がこんなところでなにをしてはるんかな~?」
妙な猫撫で声で照れくさそうに身体をくねくねと動かした後、ピタッと急に動きを止めた。
そして、くわっと目を見開いた後で少女は声高らかに叫んだ。
「GⅠウマ娘がなんで此処におるん!?」
「散歩のついでだよ」
「あー、今日はええ天気やし、風も気持ちええしなあ。ちょっと散歩をしたくなる気持ちも……いや、今日はダービーやろ!? ホントになにしてはるん!?」
なんだこいつ、面白い奴だな。
まるでツインテイルのように伸ばした赤と青の髪飾りを揺らしながら「あかんやろ! さっさと行かな!」と自分の事のように焦り散らしている。
時間的にはまだ余裕があるから大丈夫、その辺りは抜かりない。
それはさておきトントンと何時も癖で地面を左脚で地面を叩いてみせる。
不思議と痛みはなかった。
今日は気分が良い、調子も良さそうだ。
気負いがないことだけが不安要素だが、今から昂った気分で居てもレース本番で疲れてしまいそうだ。
それよりも今は走りたかった。
思えば、NHKマイルCを終えてから、まともに走った覚えがない。
ぶっつけ本番は流石に怖いかな。
いや、それは言い訳だ。
今はただ走りたい。今、この場で走っておきたかった。
「君、速いの?」
「なんや急やな。……ウチが速いかって? そらもう速いに決まっとるわ、これでも同期じゃあ誰にも……」
「なら走ってみる?」
ドンと胸を叩いた葦毛のウマ娘を横目に、トラックの反対側を指で差した。
「トラックコース半周。丁度、800メートルくらい?」
キョトンとした顔を見せた後、少女は獰猛な笑みを浮かべてみせる。
「ええんか? ウチ、本気で走るで?」
「まだデビューも済ませていない小娘を相手に私が負けるとでも?」
「……ええで、胸を貸してもらうわ」
小娘は軽く柔軟体操を始めたので、私もその場でトントンと小さく跳ねて身体を解した。
「合図は?」
「任せる」
「はっ! 吠え面かかせたる!」
彼女はポケットから何かを取り出すと、走る構えを取りながら右手を前に出した。
その親指にはコインが乗せられている。
私もまた彼女と同じように走る構えを取れば「行くでぇ」という声の後でコインが空高くに打ち上げられた。
太陽の光を受けて、キラキラと輝くコインが地面に落ちる。
――瞬間、二人で同時に駆け出した。
この日、私は今までの人生で最も速く駆け抜けられたように思える。
脚は軽く、まるで風のようだった。
800メートルの超短距離レース、それでも葦毛の少女とは1バ身、2バ身と差を大きくする。
当然だ、まだ身体も出来ていないウマ娘に負けるはずがない。
でも、2年前の私よりも速かったかな?
そんなことを思いながら圧倒的な大差をつけてゴールする。
数秒遅れで、少女がよろよろと息を切らして追いついた。
「う……嘘やん……ウチは先輩にも勝ったことあるんやで……? こんなに……差が、付くもんなんか……? ……たったの……800メートルやねんぞ?」
「いや、速いよ。思っていたより随分と速かった」
「……でも負けたやん。GⅠに挑むウマ娘っちゅうのは皆、アンタみたいに速いんか?」
「今日の私のように速いのは限られてる」
けど、と言葉を付け加える。
「今の私よりも速いウマ娘は存在する」
葦毛の少女は「そうか」と顔を俯き、黙り込んでしまった。
ふるふると肩を揺らす。ちょっと大人げないことをしてしまっただろうか?
少し心配になったが、直ぐに杞憂だと分かった。
「……そうか、そうか、ええこと聞いたわ。今のままでは全然足りんっちゅうことやな……ウチは頂点を取るで、その為にはもっと努力せないかん。待っとれよ、直ぐにアンタらを負かしに行ったるからな!」
獰猛な笑みを浮かべながら睨みつけられる。まるで今にも私の事を食い殺さんという雰囲気だ。
「早くて2年後かあ。私、それまで待てるかな?」
「待っとれちゅうてんのや!」
「いや、ドリームトロフィー・リーグに行っちゃってるかもじゃん?」
「……ならそこで待っとき! ウチも追いかけたるわ!」
絶対に倒す! と葦毛の少女に指で差しながら言われてしまった。
やっぱり面白い奴だ、不思議と笑い声が零れる。
大レースの前だというのに緊張感がまるでなかった。
「……君、名前は?」
なんとなしに問い掛けてみると、彼女は不思議そうに私の事を見つめた後、嬉しそうな笑顔で答えてくれた。
「タマモクロスや! いずれウマ娘界の頂点に立つ存在や、よろしくな!」
「覚えておくよ。君、面白いからね。切れがいいよ、ノリツッコミの」
「せやろ、せやろ~。ウチって脚の切れには自信があってなあ……って違うんかい!」
うん、良いものを見せてもらった。
本場って感じがするね。
それに彼女と走って、良い具合に身体も整った気がする。
「おっと、そろそろ良い時間だね」
そう言って、別れを告げようとすれば、タマモクロスは私に向けて拳を突き出してきた。
「ダービー、勝ちや! ウチに勝ったんや! ルドルフなんていてこましたれ!」
……嫌いじゃないよ、そういうの。
私はタマモクロスに向けて、拳を突き出し返してやる。
「錦の名は伊達じゃないってところを見せたげる」
「おう、期待しとるわ! いけ好かん姉ちゃん!」
良い朝を迎えられた。
良い走りもできた。
そして、良い出会いがあった。
もう負ける気なんてしないね。