東京優駿から早1週間、くらい。だと思う。
プレハブ小屋の壁に貼られたURA製作のカレンダーは
そして無敗の2冠を達成した私、シンボリルドルフは部屋に備え付けたソファーの上でだらけていた。
目元にはタオルを置いて視界を塞ぎ、背中からトレーナーに抱き締められる形で横たわる。後頭部に柔らかい双丘の感触がある、鼻先に優しい匂いを感じ取る。意識を落とす、暗闇の中に。ゆっくりと深呼吸し、意識して、何も考えないようにした。
最近、寝付きが悪い。眠りが浅い。夜中、部屋の電気を消せなくなった。
こんな事ではいけない、と分かっていながらも眠ることができない。黙っていると嫌な考えが次々に思い浮かんで来て、自己嫌悪で発作的に叫びたくなる。側頭部を少し強めに叩く事で強制的に思考を中断させる。気付いた時には包丁を握り締めていた時はもう駄目だと思った。
この有様ではトレーニングにも身が入るはずもなくて、それでも菊花賞に勝たなきゃならないので自虐的に身体を動かし続けた。
眩む視界、揺れる身体。裏で何度も吐瀉物を吐いた。
私のせいだ。
最後の直線、坂を登り切ったビゼンニシキはゴールを通り過ぎていた私達の姿を確認してから力尽きた。
競争中止が明確になった瞬間にスズパレードは膝から力が抜けるように倒れ伏した彼女の傍へと駆け出す。スズマッハは前のめりに倒れながら嗚咽を溢してた。私は呆然と立ち尽くす事しかできなかった。
坂に差し掛かった時、ビゼンニシキは不自然に速度を落とした。
あの時は何かに躓いたのか、未知の距離に戸惑ったのか、その程度の認識しかなくて、もしかすると、あの時から故障して、全力で戦いたいと云う、自分の満足感を満たす為に、私は彼女に奮起の言葉を、告げて、それが原因で、彼女は取り返しの付かない故障を負ったのかも知れない。私が言葉を掛けたから彼女は二度と走れなくなったのかも知れない。
そう思うと身体が震えて仕方なかった。
本当はもう引き籠もっていたかった。
理性がそれを許さない。仮に私がビゼンニシキを故障に追い込んだとして、それが贖罪になるとは思えない。
不甲斐ない私を見て、彼女がどう思うか。
きっと失望するに違いない、きっと憤りを感じるに違いない。
彼女の為なんて絶対に言ってはならない。
それでも最善の道は、私が傲慢になって勝ち続ける事だと思った。
道半ばで潰えた彼女の名を、より高みへと連れて行けるのは彼女に勝った私にしか出来ないことだ。
彼女がそれを望まないことはわかってる。
それでも背負わなくてはいけないことだと思った。
これはもう私のエゴだ。
私は己を鍛え続けなくてはならない。
精神的に弱っていたなんて言い訳にもならない。
ただただ情けない姿を吐露しているだけだ。
私は強くあらねばならない。
私の敗北はビゼンニシキの名を落とす。
だから誰にも負けてはならない。
ふとトレーナーの手が私の頭に触れる。
髪を梳かすように優しく撫でられる。鼻先に擽る甘い香り、自然と意識が闇の奥深くへと落とされる。
最近、夜に寝られなくなった。というよりも独りだと眠れない。
私が眠れるのは此処、プレハブ小屋でトレーナーを感じられる時だけになっていた。
昼間のトレーニングは全て、免除となった。
代わりに眠れない夜にトレーニングに励んでいる。
太陽が沈む頃に学園の外に出て、川のすぐ横にある道を延々と走り続けている。
頭の中が空っぽになるまで走り続けて、地平線の向こう側から太陽が顔を出したら寮に戻る。
シャワーで汗を流した後、少しだけ眠ることができる。
眠ると悪夢で魘されるだけだから、出来るだけ寝ないように心掛けた。
周りのウマ娘に心配される事が増えた。
大丈夫、と微笑み返す。大丈夫、以外の言葉が思い浮かばないので、大丈夫、と言い続けた。
勉学は身に入らず、プレハブ小屋で待つトレーナーに会っては寝かして貰っている。
外が茜色に染まるまで眠り続けて、そしてトレーナーと別れる。
別れてから、また夜のトレーニングに励んだ。
今日の曜日が分からない、今日が何日なのか分からない。
時折、朝なのか、昼なのか、夕方なのか、分からなくなる時がある。
それでも私は走り続ける。それだけが今の私に出来る事だ。
ずっと気怠さを感じている、頭に靄がかかっているかのようだ。
私には走り続ける事しかできない。
走り続ける事だけはできた。
今は安らぎの中で身体を休める。
子守唄が心地良かった。