7月の初旬、スズパレードがラジオNIKKEI賞に勝利した数日後の話になる。
その時の私は最終調整を終えた資料をコピーする為に夜間のコンビニまで足を運んでいた。
事のついでに買ったパピコを袋から取り出した時、私の直ぐ横をウマ娘が通り過ぎた。
視界の端に捉えた鹿毛色の長髪、夜間でも分かる見なれた色彩に「おい、不良娘」と、つい声を掛けてしまった。
ゆっくりと後ろを振り返るウマ娘は、やはり私の知っている人物で間違いない。
まるで三日月のような白い前髪が特徴的な彼女の名前はシンボリルドルフ、今をときめく無敗の2冠ウマ娘である。
「こんな夜遅くまでトレーニングとは勤勉な奴だな」
知らない仲ではない、今は好敵手ですらもない。
気さくに声をかけてやれば、シンボリルドルフは怯えた顔で私を見た。
どうしたのだろうか。
やはり彼女ほどのウマ娘でも3冠へのプレッシャーは感じるものなのか。
「……ビ、ゼン、ニ……シキ……」
「流石の2冠ウマ娘様も校則には弱いのか?」
仕方ない奴だな、と内心で思いながらパピコの袋を見せつける。
「奢りだよ、少し話に付き合ってよ」
「いや、私は……」
「私のアイスが食べられないっていうのかな?」
こういう手合いには強引に攻める方が良いと相場で決まっている。
御節介なら、それに越した事はない。
半ば強引に連れ歩き、近場の公園にあるベンチに腰を下ろした。
「スズマッハって意外と手先が器用でリンゴの皮剥きがすっげぇ上手いんだよ。手術後に入院してる時に何度か剥いてもらったんだけどさ。彼奴、最初の時に何食わぬ顔でアーンとか言っちゃう訳よ。私、怪我をしてると言っても手は動く訳じゃん? あんまりにも堂々とやっちゃうもんだから写メを撮ったら顔を真っ赤にして怒っちゃってさ〜。写メを消せって、ずーっと迫られる訳よ。あ、その時の写メ見る? その場では大人しく消しといたけど、ちゃんとネット上に移しといてさ〜」
他愛のない話をしていた。
シンボリルドルフはパピコを口に咥えたまま物思いに耽るように顔を俯かせる。
たぶん私の話は聞いていない。けど、場を濁すつもりで話は続けた。
「この前にスズパレードがラジオNIKKEI賞に勝った時の話なんだけどさ〜」
「ビゼンニシキは……」
「あいつ妙に自己評価が低いとこがあって、そりゃ、私と比べたら……ん?」
シンボリルドルフは私を一瞥し、逡巡の色を見せた後で再び地面に視線を落とす。
「……模擬レースの話は聞いている」
「ああ、ルドルフの所のトレーナーって今、担当してるのは2人だけだよね? 良かったら来てくれるように……」
「随分と精力的に動いているんだな」
……会話が成り立たない。
これは私が思っている以上に追い詰められているのかも知れない。
まあ、それならそれで適当に話を合わせて聞き出すか。
「私の始めたことだしね、やるからには真面目に取り組むよ」
「ビゼンニシキは……」
彼女は再び口を開いた後、下唇を噛み締める。
急かさず、続く言葉に耳を傾けながら待ち続けた。
数十秒か、数分か、妙に長く感じられる沈黙の後に彼女は口にする。
「……走ることに未練はないのか?」
なんだそりゃ? いや、本人は真面目なんだろうけど。
とりあえず言葉の裏を読み取ろうと試みる。
これはどういう意図で発せられた問いかけなのか。
……もしかして気遣われている?
「あるよ、あるに決まってるじゃん」
パピコを啜る。冷たい甘味に口内が潤うのを感じる。
「でも後悔はない、反省もしていない。あれが私の最善だったと今でも思っている」
慎重に言葉を選びながら想いを口にする。
走り切ったとは思っていない。私が目指した未来はクラシックレースの先にある。
志半ばで私の道は潰えてしまった。
未練はあって当然だ、問うまでもない。
まだ走れるなら走っている。でも走れないのが分かってしまっている。
本気で走れない脚になってしまった。
「私の想いに私の脚が付いて行かなかった、それだけの話なんだよ」
リスクのある道を選び取り、それで失敗したのなら、その責任は全て選択した私だけのものだ。
他の誰のせいでもない。私だけが背負うことのできる問題だ。
そんな当たり前のことは口にするまでもない。
「……どうして、そこまで割り切れるんだ?」
「別に割り切ったつもりはないよ。今でも私は君と走りたい、もっと大きな舞台で走りたいと思ってる」
想いの強さは時に奇跡を起こす。
しかし私こそが想いの強さで奇跡を起こし続けて来たような存在だ。
流石に、これ以上の奇跡は起こせまい。
奇跡の代償が今になって訪れたと云うべきか。
とにかく奇跡が期待できない事は感覚で分かっている。
「……お前は、私を恨んではいないのか?」
なるほど、これが彼女が抱える問題の根幹か。
さて、どう答えたものかと思案する。
慎重に、ゆっくりと言葉を掬い取りながら答える。
「レースっていうのは1人で走るものじゃないんだよ」
私は夜空を見上げた。夜空に輝く星々に手を伸ばしながら語り続ける。
「ウマ娘がトゥインクル・シリーズで走るのは平均で4年、長くても5年が限度だ。早いと3年で姿を消すウマ娘も多い。そんな短い期間で世代交代が行われる界隈で、私達は今を全力で走り続けているんだ」
未練はある、本当はもっと走りたかった。
まだ私は何も為しえていなかったのだから、未練はあって当然だ。
それでも次を見据えられる事には理由がある。
「私は短い期間しか走れなかったし、きっと私の名前は直ぐに膨大な歴史の中に埋もれる事になる」
掴み損ねた星々は、なんと心惜しい事か。
今でも、ふとした瞬間に足を引っ張られそうになる。
まだ過去を振り切れている訳ではなかった。
「それでもだよ」
後顧の憂いなく未来を見据えられる事には理由がある。
「私が走った事には意味があると信じている。たったの数年という短い期間で頻繁に世代交代が行われる界隈だからこそ、受け継がれるものがあると信じている。過去から現在、現在から未来へ。私の走りは同世代は勿論、次なる世代に影響を与えて更なる高みへと押し上げるものであったと信じている。終わった今だからこそ言える。私達は皆、過去と未来を繋ぐ橋渡しなんだよ」
そう思う事で私は過去を切り捨て、未来を見る事に成功した。
ふと視線を落とすと嘗ての好敵手がポカンとした顔で私の事を見つめていたから、その胸に拳を突き立てる。
にんまりと笑みを浮かべて、精一杯の激励をしてやる。
「走れ、ルドルフ。何処までも、そして何時の日か走り切った先で見えた景色を教えて欲しい」
シンボリルドルフは強い。
そう信じているから夢を託すことができるのだ。
今日は良い夜だ。月が綺麗に思えるよ。
ビゼンニシキと別れた後、私は草陰で吐いてしまった。
私は頑張らなくてはならない。ビゼンニシキの名に恥じぬように、更なる努力が必要だ。
裏切れない夢を託された。
もっと強く、もっと完璧に、絶対は此処にある。
彼女の分まで走って、走って、走り続けて、更なる高みへと駆け上がる。
裏切りたくない約束があった。
何時の日か、ではない。今からだ、今この場から私は絶対になる。
最早、私の為だけではない。
託された数多の夢を背負って、打ち砕いた数多の想いを受け継いで、私は走り続けなくてはならない。
それが私という莫大なる才能を持って生まれた者としての責務だとも思った。
その日から世界が変わって見えた。
一寸先も分からぬ暗闇の中を踏み締めて、更なる先を目指して踏み越える。
立ち止まる訳には行かない。
如何なる困難があったとしても、私は踏み留まる訳には行かなかった。
強くなる。
もっと、もっとだ。
高みを目指して走り続ける。
大切なものだけを胸に抱いて、ひたすらに強さを追い求めた。
余計なものが削ぎ落とされる。
どれだけの月日が過ぎたのか分からない。不眠症は変わらず続いている。
気付いた時には、もう次のレースは間近まで迫っていた。
負けられない戦いが続いていく。
ビゼンニシキ(よし、 楽しく話せたな)