夏の猛暑を乗り越えた9月の半ば、
私、ビゼンニシキはトレーニング用のトラックコースで未勝利ウマ娘による模擬レースを眺めている。
観戦用ではなくて、トレーニングとしての模擬レースだ。
私の指導を受けようとするウマ娘は意外と多い。
数にすると50人近くものウマ娘が指導を受けており、7月を終えた時点で5人のウマ娘が未勝利を脱した。
彼女達には元から未勝利を勝てるだけの実力が備わっていただけの話だと私は考えるが、彼女達はそうとは思っていないようで私が見るウマ娘の数は次から次に増えていった。
本当は未勝利クラスのウマ娘をメインにするつもりだったのに未勝利戦を勝った後も私の指導を受け続けたいと云うウマ娘が居て、それなら私もという話の流れで今も指導は続けている。そうなってくるとプレオープンクラス*1のウマ娘までもが私の指導を受けたいと足を運ぶようになり、ちょっと収拾が付かなくなってきた。今は未勝利クラスのウマ娘を優先的に指導し、余った時間でプレオープンクラスのウマ娘を指導する形を取っている。
これで文句をいう奴は来なくても良いし、さっさと他のトレーナー探しの旅に出て行って貰いたい。
模擬レースは概ね成功と言っても良い結果に終わった。
訪れたトレーナーは6人と多く、引き取られたウマ娘は3人だ。オープンクラスのウマ娘のトレーニング相手という意味合いも強かったが、それでも3人は快く受け入れて、今はオープンクラスのウマ娘を相手に併走をしながらオープンクラスを目指している。
中には私を勧誘しようとした不届き者――チームスピカのトレーナーとか――も居たが、丁重に断っておいた。
走るウマ娘として引退した後のセカンドライフは順風満帆、というよりも順調過ぎて忙しいくらいだ。
今日も今日とてホームセンターで購入したキャンプ用の折り畳み椅子に腰を下ろして、自前のノートパソコンに数字を打ち込む作業に明け暮れる。
こうやってデータを比較していると、どういうウマ娘が勝ちやすいのか分かって楽しくなってくる。
無論、データはデータ、参考程度に留めておくのが肝要だ。
数字弄りは趣味に留めておくのが良い。
「随分と順調そうじゃねぇか」
エンターキーをターンと気持ちよく叩いた直後に話しかけられた。
ちょっと恥ずかしい。後ろを振り返ると見慣れた顔、カツラギエースがノートパソコンを覗き込んでいる。
首を横に振った後、彼女は缶珈琲を私に手渡した。
「心配で来てみたが、いらぬお節介だったようだな」
「週に一度、来る度に同じことを言ってるの気付いてます?」
「もうちょっと可愛げのある後輩なら見舞いに来る気概も出るんだがな〜」
「私の心配よりも自分の心配した方が良いですよ」
高松宮記念を見ましたよ。と告げれば、彼女は罰が悪そうに顔を背ける。
「仮にもGⅠウマ娘が8頭立てのレースで5着とか恥ずかしくないんですか?」
「本番じゃないから良いんだよ。秋の天皇賞を見てやがれよ」
「その言葉をしっかりと覚えておきますね」
にっこりと笑えば、可愛くねえ後輩だ。と改めて不貞腐れた。
頂いた缶珈琲を啜る。ほっこりと温かい、心に染み入るようだ。
「そろそろ秋が始まりますね」
照り付ける太陽の光はまだ暖かく、しかし風は少し涼しくなってきた。
随分と過ごしやすくなってきたような気がする。
脚のギブスは取れている、軽く走ることもまだ難しそうだ。
脚に負担を掛けないようにセグウェイで移動する毎日を送っている。
「マッハとスズパレードはセントライト記念への出走を決めたよ」
「あれ、確かセントライト記念ってルドルフも出ますよね?」
「スズパレードの方は2200メートルで通用しなければ、3000メートルという長丁場でルドルフには勝てないって言ってたらしいな。マッハの奴は……どうなんだろうな、あいつ。ルドルフが出走するって知ってから決めてたぞ」
「……マッハとルドルフって因縁ありましたっけ?」
「知ってる限りではダービーで2着を取ってるくらいだな。まあ私の知らないところでなんかあるんだろ」
カツラギエースは、興味なさげに答えた後で私を見る。
「正直な話、お前の同期でシンボリルドルフに勝てる奴って居るのか?」
その問いに私は溜息ひとつ、零してから答える。
「中距離でルドルフに勝てる見込みのある同期は1人も居ませんよ。正直、別格です。短距離マイルでハーディービジョン、2800メートル以上の長距離で可能性があるくらいです。というか今のトゥインクル・シリーズでルドルフの対抗になれるウマ娘って片手で数え切れる程じゃないですか?」
ミスターシービー、カツラギエース、ニホンピロウイナー、辛うじてスズカコバンとハーディービジョン。うん、他に思い当たるウマ娘が居ないです。
「まったく難儀なもんだよな。どうして俺の時代に3冠を取れるウマ娘が2人も登場するんだか」
「ラギ先輩のクラシック路線は駄目駄目だったのでノーカンですよ。むしろシービー先輩が戦線を離脱している時期に大阪杯と宝塚記念を勝ってるんですから運が良い方です」
「お、言ったな?」
「秋の天皇賞にはシービー先輩も間に合うみたいなので是非とも見返してください」
「おうよ、見返してやっから見てやがれ」
ドンと自らの胸を叩いてみせる先輩を横目に「楽しみにしてますよ」と笑みを零す。
同時期に2人もの3冠に届き得るウマ娘が存在する私達の時代は、ウマ娘史上でも特別なんだと思った。しかしTTGやハイセイコー、シンザンを思い浮かべて考えを改める。特別じゃない時代なんて何処にもない、その時代を全力で駆け抜けたウマ娘が居る限り、きっと積み上げれた歴史の何処を抜き取っても特別な時代に巡り合うことができる。
古き良きを尊重し、新しい今を享受する。あの時代でしか成し得なかった想いがある、背景がある。それを否定する事なく、胸に抱いて常に未来を見つめ続ける。素晴らしいのは過去ではない、素晴らしいのは未来ではない。過去の名ウマ娘に憧れて、過去の名レースに胸を高鳴らせて、まだ見ぬ未来へと全力で駆け抜ける姿こそが素晴らしいのだ。そういう姿に私達は心を打たれる。過去から現在、現在から未来へ。誰かの想いを託されて、誰かへ想いを託す。
だからこそ、私達は何時だって今この瞬間こそが最高であるべきなのだ。
ネタバレですが、ラギ先輩は秋の天皇賞で5着になります。
9月第4週、中山レース場。
菊花賞トライアルレース、GⅢセントライト記念。
芝2200メートル。
パドック会場にて、シンボリルドルフは観衆の前で大きな欠伸をしていた。
肌艶は悪くて、心なしか髪もボサボサだ。普段の凛とした面構えは何処吹く風よ、その見窄らしい姿に会場中が困惑する。
明らかな調整不足、覇気も闘志も見せぬ無敗の2冠ウマ娘の姿に非難はトレーナーへと飛んだ。
しかしトレーナーもまた不動の構え。
目元に隈を作った異様な姿、視線だけで周囲を威圧した後、向けられたマイクに向けて1言だけ告げる。
「レースには絶対はありませんが、ルドルフには絶対があります」
それは自信の表れか、もしくは虚勢に過ぎないか。
ただ、その場にいた全員が同じ事を思った。
彼女は本心から言っている。
今までとは、まるで違ったシンボリルドルフの陣営に唾を飲み込んだ。
レース会場、トラックを走る姿に覇気はなく、目は虚ろだ。
準備運動も程々に、歩くのも覚束ない様子であった。
紛れもなく、ルドルフは調整に失敗している。
今までシンボリルドルフの圧倒的な才能を前に平伏してきたウマ娘達に希望が差した瞬間だった。
各ウマ娘が準備運動を終えてゲート前に集まる。
鼻息荒く、クラシック最後の栄光を掴む為に気合いを入れる。
――パリ、と音が鳴った気がした。
ゲート入りの瞬間、空気がひりついた。
静電気を纏うように肌の表面が刺激される錯覚、ウマ娘の全員が薄らと背筋に寒いものを感じ取る。
それは観客席でレースを見守るウマ娘をも怯えさせた。
呼吸が細い、空気が寒い。手が震える。カチカチと奥歯が鳴る。
5枠5番。自らのゲートを目前にシンボリルドルフの纏う気配が変わっていた。
カサついた肌にボサボサの髪、しかし瞳だけは鋭い輝きを放っている。
パリ、と空気が弾ける音がする。
ゆっくりと吐き出される息は白色に染まり、抜き身の殺意はただ一点、ゴールに向けられていた。
その余波を受けて、周囲のウマ娘が震えている。
洗練された殺意に走る前から戦意を消失する者すらも居た。
観客席にいるウマ娘の一人が呟いた。
――皇帝が居る、あそこには皇帝が居る。
シンボリルドルフを除き全員の顔から血の気が引いていく中で、
ただ1人、3枠3番のスズマッハが涼しい顔で話しかける。
「無作為に周囲を威圧して……無敗の2冠ウマ娘ともあろう方がみっともないですね〜」
ねえ、知ってるかな。と蠱惑的に笑って耳打ちする。
「シキ、泣いてたよ。もっと走りたかったって、一度だけ病室で泣いてたことがあるんだ」
――絶対に許さない。
その言葉を最後にスズマッハはシンボリルドルフの側を離れた。
シンボリルドルフはゲートを前に茫然と立ち尽くす。
係員の手により、されるがままゲートに収まる。
レース開始のファンファーレが鳴り響いた。
シンボリルドルフは、大きく息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。
「唯一抜きん出て、並ぶ者なし。私の隣を走って良いのは……」
ゲートが開け放たれた。
シンボリルドルフが、逃げた。
余りにも速い飛び出しに誰1人として止めることはできず、追い掛けようとする者も居なかった。
後続とは大きく距離を開いて、4バ身、5バ身、6バ身、自棄になっとしか思えないシンボリルドルフの逃げに観客席は阿鼻叫喚、実況と解説ですらも困惑して、まともに状況を説明できない有様であった。秋シニア3冠で最も警戒すべきクラシッククラスのウマ娘という事で様子を見に来ていたシニアクラスの有力ウマ娘達ですらも言葉を失っている。
これだけの逃げレース、如何にシンボリルドルフと云えども最後まで保つはずがない。奇を衒った作戦ならば警戒に値するまでもない。しかし、本当にシンボリルドルフはその程度の存在なのか。あのシンボリルドルフならば保たせることができるのではないか?
想起されるはシンボリルドルフのトレーナーの言葉。
――レースには絶対はありませんが、ルドルフには絶対があります。
最終コーナーを終えた最後の直線、シンボリルドルフのトレーナーは観客席でポツリと不機嫌に呟いた。
「ルドルフに逃げなんて、ある訳ないじゃないですか」
加速する、引き離した後続を更に引き離して加速する。
「……知らない、こんなのは知らない。確かに圧倒的だった。でも、此処まで圧倒的じゃ……」
偶々、ハイセイコーと一緒に中山レース場に来ていたハッピーミークが狼狽する。
前世の競馬を知る彼女が未知の体験に身震いする。
引率していたハイセイコーですらもレース上に漂う異様な恐怖に冷や汗を流す。
中山レース場では、異常事態が発生していた。
後続との差は10バ身以上、まだ加速する。更に加速する。
トレセン学園の食堂の前でビゼンニシキが歯噛みする。
やってくれたな、と。NHKマイルCで魅せた私以上の伸びを見せつけてくる。
2200メートルという距離を終始、彼女は先頭のまま駆け抜ける。
「もう世界まで行っちゃえよ、バーカ」
そんな元好敵手の投げやりな言葉に後押しされるように最後の追い込みを仕掛ける。
その瞳は何を見ているのか、何処を目指しているのか。まだだ、まだまだ、奴ならまだ先を走るとシンボリルドルフは加速し続けた。
先頭をシンボリルドルフがポツンと1人。文字通り、後続は誰も追い付けない。
シンボリルドルフは差し切ってゴール板を駆け抜けた。
最初からシンボリルドルフは逃げたつもりはない。少し先行してみただけだ。
NHKマイルCで見た好敵手の逃げて差す姿を知っていたから、何時もの位置では差し切れないと先行した。
その結果がこれだ。
シンボリルドルフの圧倒的なウマなりの速度に誰1人として付いて行くことが出来なかった。
これは、それだけの話である。
「……こんなの、勝てる訳がない、じゃん…………」
乾いた笑い声が零れる。最後のコーナーを曲がった所で何段にも加速するシンボリルドルフの遥か後方を走っていたスズパレードの心がポッキリと折れる。
他のウマ娘も似たような面持ちの中で、ただ1人。歯を食い縛って最後まで駆け抜けるウマ娘が居た。
「まだ……まだ菊花賞まで時間はあるんだ! 絶対に、絶対に……3冠は渡さないから!」
大きく遅れてスズマッハがスパートを掛ける。
その距離は余りにも遠過ぎた。
因子継承。