カツラギエースが大逃げに打って出たのは、馬鹿正直に戦っても勝算が薄い事を自覚していた為だ。
得意の好位差しではシンボリルドルフとの末脚勝負で負ける。かといって差し戦法を取れば、最後方のミスターシービーに追い付かれる。どっちの戦術を取っても勝てる見込みがないのであれば、例え、地獄を見る事になっても逃げてやる。地獄の果てまで逃げてやる、何処まで行っても逃げてやる。
その意気込みで構築されたハイペースな展開に、ほぼ全てのウマ娘の末脚が潰された。
ベッドタイムは脚を残していたが、ただでさえ超高速のレース展開に加えて、カツラギエースに追いつく為にロングスパートを仕掛けた。そして、カツラギエースの意地と根性の伸び脚で更なる加速を強いられる事になり、完全に叩き潰される結果となった。
垂れたベッドタイムの代わりにシンボリルドルフがカツラギエースへと挑むが、カツラギエースの末脚が更に伸びた訳ではない。先行策を取ったシンボリルドルフもまた――意識しての事ではないが――カツラギエースの術中に嵌っていたのだ。カツラギエースの脚は衰えず、シンボリルドルフの足が僅かに鈍った。
カツラギエースが二の脚を使ったのは、ミスターシービーが猛追を仕掛けてきた時だ。
常に最前線で戦い続けたカツラギエースの本能が、末脚の使い時を見誤らせなかった。
ハイペースの展開は最後方からスパートを仕掛けたミスターシービーにも影響を与えている。追い付いただけでも常識破り、そこから更にカツラギエースとの競り合いは、お互いにとって奇跡に近い。ガス欠の身体に気合と根性を注入して、無理やり動かしている状態だった。
譲らない、譲れない。その意地のぶつけ合いが二人の脚を緩めること許さなかった。
根性の勝負、想いの嵩は測れない。それ故に勝った者が強い、という単純明快な結論が求められる。
こいつにだけは負けたくない、こいつにだけは勝ってやる。
どちらの想いが強いのか、掲示板の頂点が語ってくれる事だろう。
先頭を走るに二人が互いを高め合っている中、シンボリルドルフは2人を追走する。
彼女には競り合う相手が居ない。
脱落した今、根性の勝負に割って入る事は出来ない。
否。
否、否、否。
断じて、否だ。
シンボリルドルフには理想の走りが視えていた。
体力を使い切り、靄がかかり始めた脳で、霞む視界で彼女は見ていた。
好敵手の、その走りを。
未だ前を走るビゼンニシキの姿を幻視し、その背中を追い掛けた。
追い抜く事はない。
彼女なら、どうするだろうか、と考えていた。
徐々に動きは重なり、一致する。
呼吸は重なり、頭から指先に至るまで、二人の体は完全に折り重なった。
錦の輝きが、皇帝の身体に宿る。
ならば、もう、負ける道理はなかった。
先頭を走るカツラギエース、追ってミスターシービー。
その差は半バ身まで詰まっていた。しかし1バ身差から詰まって、カツラギエースまだ粘り続ける。
そんな二人から1バ身の差でシンボリルドルフが懸命に追い掛ける。
その更に後ろにはベッドタイムが2バ身差、まだ堪えているが巻き返すのは難しそうだ。
優勝圏内はシンボリルドルフまで、勝負の行方は日本の三人に委ねられた。
迫るミスターシービー、徐々に差を詰めるが標識は残り100メートル。この調子で差を詰めても間に合うかどうかは微妙な所だ。
カツラギエースは頑張った。カツラギエースが粘る。カツラギエースを追ってシービー!
その二人の後ろからシンボリルドルフが再加速を始める。
最後の競り合いに観客席が沸いた。
手に汗を握り、叫ばずには居られなかった。
対して、テレビ中継を見守るウマ娘ファン。もしくはウマ娘は静まり返った。
息を飲んで、勝負の行方を見守り続ける。
目を離せなかった。その三人の争いに誰もが釘付けにされた。
それは、ウマ娘ファンの親に無理やりチャンネルを奪われた泣く子すらも見守る大激戦だ。
日本が世界に届く瞬間に、誰もが同じことを胸に抱いた。
頑張れ、と。頑張れ、と!
『これで全てが決まる最後の競り合い! カツラギエース先頭、カツラギエースが粘るか!? ミスターシービーが差すか!? はたまたシンボリルドルフが追い抜くか!? 勝負の行方は、未だ分からず! しかし、しかし! これだけは、はっきりと言えます!』
実況の女性の声が会場内、もしくはお茶の間、あるいはトレセン学園の食堂に響き渡る。
『このレースに立ち会えた私達は果報者です! さあ、この世紀の一戦を目に焼き付けろッ!!』
残り50メートルで、シンボリルドルフが二人に追いついた。
体勢変わって、ミスターシービーとシンボリルドルフが四半バ身の差で抜け出す。
カツラギエースが、僅かに、垂れた。
カツラギエースの実力は他二人に比べて、劣る。
それは分かり切っていた事だ。フィジカルモンスターのミスターシービー、走りに天性の才能を持つシンボリルドルフ。二人と比べて、カツラギエースが持っているものは余りにも見劣りするものだ。カツラギエースも才能のあるウマ娘だ、それは分かる。しかし歴史を代表する二人のウマ娘と比べると、見劣りすると言わざる得ない。
そうだ、これは当然の結末だ。順当な勝負になれば、カツラギエースが勝つ事はあり得ない。
つまるところ、これは歴史が正された。というだけの話である。
「…………れ……」
予兆はあった。
それはビゼンニシキに始まり、シンボリルドルフへと継承される。
特異点と呼べる事象は、幾つも確認されてきた。
そして、今、歴史は変わろうとしている。
「……がん…………ばれ…………」
しかし、幾ら理性で分かっていても受け入れる事が出来なかった。
心が拒絶する、魂が否定する。此処でのカツラギエースの敗北を受け入れる事なんて出来ない。
私は知っている。これまでの歴史を、紡いできた歴史を。そして日本の未来は明るいと、日本の夜明けがやって来たと、告げてくれたのがカツラギエースだ。
私達が紡いで来たものを――いや、違う。そんな不純な想いで、この涙は流れない。
つまるところ、私はカツラギエースのファンなのだ。
「……頑張れ、カツラギエース。頑張れ! 頑張れェッ!!」
最後の直線、残り50メートル。半バ身の差が付いた現状からの差し返しは絶望的だ。
それでも私は応援せざる得なかった。応援するしかなかった。
私、ハッピーミークは東京レース場の観客席から、今生で最も大きな声を張り上げた。
一瞬、意識が、飛んでいた。
もう限界は、疾うの昔に、超えていた。
心臓が張り裂けそうな程に鼓動を打ち、喉はカラカラで血管を破いて吐血してしまいそうだった。
もう脚の感覚なんて、ほとんどない。何処を走っているのか定かではない。
距離はどれくらい残っているのか。
今、先頭を走っているのか。それとも、もう抜かされてしまったのか。
分からない、もう、何も見えない。
自分が走れているのかどうかも分かっていなかった。
視界はもう、ほとんど真っ白に靄がかっていた。
それでも、前に進めと肉体が訴える。
腕を振り続けろと心が告げる、脚を動かせと魂が叫んだ。
まだ脚は動いている。心臓は鼓動を続けている。
燻る魂は、燃えたがっている。
ならば、まだ、脚を止める時ではない。
全身全霊、全力全開、満身創痍の肉体を奮い立たせてインスピレーションは光速を超える。
魂は地球の重力から解き放たれて、何万光年先の宇宙にぶっ込みを仕掛ける。
もう此処で死んでも良い。
違う、何時だって死ぬ覚悟で走って来た。
出掛ける時、皿に残していたクッキーは平らげた。昨日まで残していた餅は全て焼いて胃に治めた。朝、パインサラダが食いたくなったから、その脚でコンビニまで運んでパインの缶詰を買って来た。冷蔵庫の中身は空っぽだ。エアコンや家の鍵は二度、三度と確認してから出て来ているのでバッチリだ。
何時でも死んで良いと思って生きて来た訳ではない。
それでも、何時死んでも心残りがないように生きて来たつもりだ。
もし仮に明日、地球破壊規模の核弾頭がトレセン学園に降って来たとする。
そのことを知った人類は今日を如何にして過ごすことになるか。
私なら、きっと、トレセン学園の屋上に立って、この身を張って、気合と根性で核弾頭を受け止めて、宇宙の遥か先にいるスポーツマン・シップ号に投げ返してやるのだ! たった一度きりじゃない、三度だ! 三度もだ!
明日を目指して生きる事はあっても、明日を惜しんで生き永らえるつもりは毛頭ない!
痛む脳裏に浮かんだのは二人のウマ娘。
見てるかスズマッハ! 見てるかスズパレード!
これが私だ、カツラギエースだ!
頑固一徹! 気合と根性だけは、万夫不当の益荒雄よ!
怒髪天を衝け、俺は今、怒っているぞ! 俺自身に怒っている!
一度、突っ張ると決めたなら! 最後まで貫き通すが筋である!
漢一匹、カツラギエース!
最後の最後まで、気合の入った生き様を見せるんでェーッ!!
夜露死苦ゥッ!!
『スタンドは総立ち! 誰もが見たかった新旧3冠ウマ娘の一騎討ち! この勝負に誰も文句なし、待ったをかける者はなし!』
勝負の行方は二人に委ねられる。と、その時の誰もが信じた。
東京優駿から二年連続の3冠ウマ娘の夢を見て、セントライト記念ではシンボリルドルフが見せた圧巻の勝利に誰もが夢見た光景だ。その激突の立ち会い人になれることを誰もが望んでいた。
この勝負に、水を差すことは許されない。
日本中の全てが思った瞬間、ただ一人だけ、それを真っ向から否定する者が居た。
勝負に水を刺されたのは、私達の方だと心で叫んだ。
来い、と。早く来い、と。さっさと来い、と。
決着は私達で付ける、とミスターシービーが魂で最後の末脚を振り絞った。
カツラギエースが、伸びた。
しかし残る距離は50メートルを切っている。
『ここでカツラギエースが伸びる!? いや、届かない! やはり勝負の行方は二人に……ッ!』
カツラギエースの身体が極端に沈んだ。
そして最後の一歩で、真横に跳んだ。
実況が絶句し、会場全体が騒然となった。
ウマ娘のレース規定では、四肢はゴールの判定に含まない。
それはウマ娘、トゥインクル・シリーズの黎明期にゴール寸前でヘッドスライディングをするウマ娘で溢れ返ってしまった為だ。時速70キロメートルを超えるウマ娘達による全力前のめり行為は、余りにも危険な行為であった為に禁止にされた歴史がある。
それ故にウマ娘は胴体と頭部のみがゴールした時の判定に使われる事になった。
嘗てはよく見られた光景、今はもうほとんど見られなくなった光景。
カツラギエースが横っ飛びで先頭を走る二人の間に割って入る。
『――――――――体勢はッ!?』
実況は己の矜持に欠けて、失った言葉を取り戻す。
『……た、体勢は、ミスターシービーの有利! しかし、しかし、これはッ!? シンボリルドルフもあり得るぞ、カツラギエースがすっ飛んで来たッ!? 分かりません、まったく分かりません! 4着はベッドタイム、5着にはマジェスティーズプリンス! 優勝は誰の手に委ねられたのか!? 写真判定に委ねられますッ!! いや、しかし……これは…………』
カツラギエースは滑り込んだまま身動きを取らない。
シンボリルドルフはゴール板を超えた直後に前のめりに倒れ伏し、ミスターシービーは一歩、二歩とふらついた後に仰向けに寝転がった。誰一人として言葉のひとつも発さず、ただひたすらに体力回復に専念する。
その満身創痍の姿は、最後の直線の激戦が如何に壮絶なものであったかを物語っている。
掲示板には判定中である事を示す「写」の文字が上位3名の枠を埋めている。
誰も言葉を発せずに居た、怪我の心配する者も居る。
勝負の余韻に戸惑うものも少なくなかった。
その中で、一人が拍手を送る。
パチ……パチ……、と。
波紋を広げるように、パチッと他の者が手を叩いた。
パチ、パチ、と拍手が広がって、瞬く間に会場を拍手の音が包み込んだ。
先ずは激戦を繰り広げた三名を讃える。
勝負の行方は、それから確認しても遅くはない。
ジャパンカップ開催以来、日本ウマ娘としては初の制覇になる勝利の行方は審査員に委ねられる事になった。
審査員達は用意された部屋の一室に集まり、一様に眉間に皺を寄せた重苦しい空気を充満させていた。
囲んだ机の中心に置かれたのは、判定用のゴール写真をピンボケする限界まで引き伸ばしたものが置いてあり、それを前にして全員が腕を組みながら睨み付けているのである。
誰も彼もが生粋のウマ娘ファンであり、それ故に、この大任を任された事を誇り想うと同時に悩み苦しんでいるのである。
此処にはミスターシービーのファンが居る、シンボリルドルフのファンも居る。
心の内では、贔屓に勝って貰いたい。
しかし、ウマ娘ファンを自負する者であるからこそ、不正は許されない。許すことはできない。
レースは神聖であらねばならないのだ。
「皆も分かっていると思う」
審査員の中で一際目立つウマ娘が語る。
彼女の名はクモハタ。ドリームトロフィー・リーグを引退し、後進の育成に人生を注ぎ続けて来た重鎮である。
今は審査員の一人として、レースに立ち会うことも多かった。
「此処まで来たらもう、どのウマ娘が強いとか、速いとか、そういう次元の話ではないと私は考える。そうだ、道理じゃないんだ。理屈でもない、能力の優劣を決めるものでもない」
彼女は強い決意を以て、続ける。
「これはただ、持っていたかどうかの話なんだ」
その言葉に審査員の一人が涙を零した。
嗚咽を上げる者も居り、粛然と祈りを捧げる者も居る。
彼ら審査員もまた先の勝負に熱を当てられていた。
勝負を判定する事そのものが無粋である、と心の何処かで感じている。
永遠に、この余韻に浸り続けたい。
しかし、それでも彼らは判定せざる得ない立場だ。
レースは終わらせなければならない。
勝負である以上は、優劣を決めなくてはならない。
「私達は胸を張れば良い。結果を出す、それが私達に与えられた使命なんだ」
クモハタは目元を服の袖で拭い取る。
最も引き延ばされた写真を備え付けのファックスから印刷される。
それを手に取った彼女は、一度、目を伏せて、顔を上げた。
「……結果は、出た」
その言葉に、審査員達は落胆とも、安堵とも、取れるような表情を浮かべる。
「届けよう、当人達に。そして全国のウマ娘ファンに」
クモハタは強い意志を目に宿らせる。
そして、笑顔を浮かべて、優しく告げる。
「この結果が彼女達を、そして全てのウマ娘を強くする事に繋がると私は信じている」
この場にいる全員が力強く頷いてみせた。
15分近くもかけて行われた審議の末、
掲示板の頂点を飾ったのはカツラギエースだった。
2着はハナ差でミスターシービー、3着も同じくハナ差でシンボリルドルフ。
タイムはゼロコンマゼロゼロの誤差なく、同タイムでの着差であった。発表では1着と2着では4センチメートルの差、2着と3着とでは3センチメートルの差であったとの事だ。
その結果を見届けて、私、ミスターシービーは一度、大きく溜息を零した。
様々な感情が渦巻く中で、それでも浮かべたのは笑みだった。
悔しくないと云えば、嘘になる。
それでも出し切った。これ以上はない、と信じられる程度には出し尽くした。
ゴール板の近くには未だにカツラギエースが呑気に寝ている。最初は怪我を心配されたが「むにゃむにゃ、もう食べられないよ」という古典的な寝言を呟いてからは放置されていた。
そんな彼女の顔を見て、含み笑いを零す。本当に大した奴である。
「ラギ、貴女が勝ったわよ」
彼女の側まで歩み寄り、その体を揺らす。
「……はッ! 勝負はッ!? ゴールはッ!?」
口から涎を垂らしたまま、飛び上がった。
こいつは本当に何も分かっていないようだ。
私は苦笑し、顎で掲示板を見るように誘導する。
カツラギエースは顔を上げて、その結果を見て固まった。
なにか信じられないものを見るように呆然とした顔を浮かべていた。
こいつでも大人しくなる事はあるのね。と、そんな事を思って含み笑いをする。
ふるふると身を震わせるカツラギエースに私は、一言告げる。
「おめでとう、貴女の勝利よ」
カツラギエースは私を見た後、観客席に顔を向けた。
――エースッ! エースッ! エースッ!
会場全体を揺らすエースコールにカツラギエースはくしゃりと嬉しそうに笑った。
そっか、と。勝ったのか、と。何度も確認するように零した。
目尻に溜まった涙を袖で拭って、カツラギエースは立ち上がり、観客席に向かって叫んだ。
「やってやったぜシャロォォッ! コノヤローバカヤロー!! 見たかてめぇら! 俺はやったったぞォーッ!!」
感極まって叫ぶカツラギエースは本当に嬉しそうだった。
そんな彼女に背を向けて、空を見上げる。
負けたのか、と。彼女の前では意地でも涙は見せなかった。