弥生賞、皐月賞トライアルレース。
同レースに出走した上位3着までが皐月賞への優先出走権を得る事が出来る為か、本番の皐月賞に向けた叩き台として丁度良い時期にある為か、ジュニアクラスで頭角を現した実力ウマ娘が集結するこのレース。春から秋にかけて行われるクラシックレースの命運を占う――謂わば、登竜門とも呼べるレースがこの弥生賞であった。
6枠10番ビゼンニシキ。パドックを終えた私はレースまでの出番を待つ、やるべきことはやってきた。やはり私もウマ娘なのか、高鳴る想いを止めきれない。体が高揚している。焦りはない、今更になって焦っているようでは勝負の前に負けを認めているようなものだ。大きく息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
私の二つ後、自信満々に胸を張り、鹿毛の長髪を靡かせて歩くのは7枠12番シンボリルドルフ。ニホンピロウイナー、カツラギエースと注目するウマ娘であり、世間では唯一、私の対抗に成り得る存在だと評判のウマ娘であった。すれ違い様、彼女は私に一瞥も暮れずに観衆の待つパドックへと向かっていった。
緊張している様子はない、私に気付かなかった訳でもないだろう。無視された事は少し気に食わないが、どうせ今日のレースで私の名を知ることになる。
気に留める事はない、と彼女の後に続くウマ娘に意識を向ける。
8枠13番スズパレード、事前投票では4番人気のウマ娘。
前走の共同通信杯とは比べものにならない大舞台に、どうにも彼女は緊張してしまっているようで、右手を右足を同時に前に出して歩く仕草に思わず吹き出した。彼女とて、実力のないウマ娘ではない。クラシック3冠の大舞台には相応しくないが、レースを選んで出走すれば、重賞を勝ち負けに持っていけるだけの実力が現時点でも備わっていた。
今はまだ私の敵ではないけども、とバンと彼女の尻を叩いて激励する。
甲高くて可愛らしい声を上げる彼女に、私は高笑いを上げながらパドック場にまで続く、長い通路を後にした。
先ずは一勝、ビゼンニシキの伝説は今、此処から始まるのだ。
「……んもう、お尻を叩く事ないじゃない。思わず駆け出すところだったんだからね〜?」
高笑いをあげるビゼンニシキの背中を見つめて、薄らと笑みを浮かべる。
ちょっとヒリヒリするお尻を撫でながら、うん、と頷き、力強く地面を踏み締めてパドック場へと歩みを進める。
気合は入った。今日、レースで一緒に走る相手に塩を貰っているようでは駄目だと思うけど、それでも気に掛けて貰えていることがちょっぴり嬉しかった。まだまだ私はビゼンニシキの敵ではない。それでも私はビゼンニシキと競うことを選んだのだ。それが過酷な道のりだっていうことは分かっている。
私には実力が足りない、知識もない。目指している場所も違っている。
それでも貴女と一緒に芝を駆けたいと思ったから、そう願ってしまったから、私は今日から貴女の好敵手として頑張るのだ。
「これから始まる大レース♪ 色とりど〜りの勝負服♪」
心を落ち着ける為にも、幼い頃から耳にしていた歌の替え歌を口遊んだ。
全力を出そう、今の私には絶対に優勝するなんて大それたことを言う勇気はない。でも力を出し切れずに負けるのは、きっと後悔すると思うから、今持てる私の全てを以てレースに挑むんだ。
出来ることが少ない分、考えはシンプルにまとまっていた。
今年のクラシック戦を占う大舞台に私、ニホンピロウイナーは観客席の最前列を確保した。
去年、クラシック3冠ウマ娘が誕生した事もあり、他にも多くの個性的なスターウマ娘を輩出した事から競バ界は多いに賑わっている。しかし今年は多くの有力ウマ娘が怪我で退場してしまった事からウマ娘人気も少しは低迷するかと思ったけど、杞憂だったようだ。
次世代の競バ界を牽引するスターウマ娘の誕生に期待を寄せた、私達の頃の弥生賞よりも多くの観衆が押し寄せている。
「ラギ、ピロ、コバン。この試合を三人はどう見る?」
右隣には昨年の3冠ウマ娘のミスターシービーが腕を組んで若ウマ達を見守る。
「順当に行けば、ルドルフの一強だろうよ」
と答えるのは左隣のカツラギエース。観客席とレース場を仕切る柵に肘を当て、頬杖を突いている。
「ビゼンニシキだってルドルフに負けていないよ。それにワンチャン、パレードにだって勝ち目はある」
二人に囲まれた私はカツラギエースの勝負は決まっているという物言いが不服に感じて異論を唱えた。
「私はルドルフちゃん推しで」
そして私の後ろからは、おっとりとした声で割り込んできた。
ふんわりとした鹿毛の長髪と大きな胸が特徴的な彼女の名はマルゼンスキー、その彼女の右手には首根っこを掴まれたスズカコバンの姿があった。少し目を離した隙に何が起きたのだろうか。そんな私の疑念に気付いたのか「逃げ出そうとしたので」とマルゼンスキーは端的に答えてくれた。
「うぅ〜、勘忍や〜。煮るなり焼くなりは勘弁して欲しいんや〜」
「先輩から逃げるのは、流石に無茶だろ」
首根っこを掴まれたまま、ぐったりとするスズカコバンにカツラギエースが肩を竦めてみせた。
「人聞きが悪いわ、ちょっと併せてあげてるだけじゃない」
マルゼンスキーが不服そうに唇の先を尖らせる。
どういう訳か先輩はスズカコバンがお気に入りであり、事ある度にトレーニングに誘っては潰している。特にレースで負けた後は顕著であり、東京優駿で大敗を喫した後なんかはベッドの上で死んだように眠るスズカコバンが発見されて、ひと騒動が起きた。
その甲斐あってか、次走の神戸新聞杯ではカツラギエースから勝利をもぎ取った。
更に次の出走では、京都新聞杯でリベンジされてたけど。
「この人とは運命を感じるなんて思ったのが間違いやったんや〜」
ちなみに私は短距離マイル路線なので、中距離がメインのミスターシービー、カツラギエース、スズカコバンと一緒に走ることは少ない。
「それでコバンの予想はどうなんだ?」
ミスターシービーに促されて、スズカコバンは少し考え込んだ後で「ビゼンニシキで」と答えた。
「好みはスズパレードなんやけど、彼女はまだ体が出来てへんのやろ? 仕上がりという点ではビゼンニシキがひとつ頭を飛び抜けとる。何も起きんかったらビゼンニシキ、少しでも隙を見せたらルドルフが勝つやろうな。素質という点だけで見るならルドルフが飛び抜けとるよ」
スズカコバンの予想外に真面目な考察を耳にして、私達は思わず黙り込んでしまった。
なんやねん、と胡乱げな目を向ける彼女に、コホン、とミスターシービーが咳を入れる。
「私の予想はルドルフだ。彼女の素質は多少の仕上がりをものともしないよ」
マルゼンスキーとカツラギエースが同調するように頷き返した。
「ビゼンニシキの脚はピロ相手にも引けを取らんと思うで。あいつの得意距離は、たぶんマイルやろうし……」
雑談も程々に、スズカコバンの言葉を遮るようにレース開始のファンファーレが会場内に響き渡る。
私達は何かを言うまでもなく、会話を中断してレース場に意識を向けた。
各ウマ娘、ゲートに収まって――弥生賞、そして、これから始まる長いクラシックのシリーズが幕を開ける。
「あ、出遅れたやん」
「やらかした……!」
ゲートの開くタイミングが掴めず、出遅れてしまった。
大一番で、この失態。共同通信杯よりも200メートルも長い今日のレース、ただでさえ外枠で不安要素があるっていうのに――いや、そんなことよりも今は追いつかないと! もう周りは1バ身先を走っており、皆に追走する形で慌てて駆け出した。第1コーナーに差し掛かる。先行切って、内側に切り込む算段を付けていたが、今となっては後の祭りだ。このまま、大外から入っていくしかない。
スズパレードは上手く飛び出したな、今は2番手の位置に付けている。幸いなのは2番人気のシンボリルドルフもまた外側に振られているところか――今日の面子で私と勝ち負けになるウマ娘が居るとすれば、彼女しか居ない。
なら、実力勝負に持って行ってやれば間違いはないはずだ。
シンボリルドルフの直ぐ後ろにピッタリとマークを付けてやる。
第4コーナーからの直線勝負、戦術は関係ない。どちらの脚の方が切れるかっていう真っ向勝負。
大丈夫、切れ味なら誰にも負けない自信が私にはあるッ!
問題は先頭を切るニッポースワロー、その後ろに着いたスズパレードだ。
このまま気分良く走らせていると勝利を獲られるかも知れない。かといって現状、私が打てる手はない。他のウマ娘も絡みに行く様子もなかった。こうなればもう自分の脚を信じるだけだ。距離的な不安はある。第3コーナーを回って、また大外に振られる。大丈夫、大丈夫だ。まだ脚は残っている。徐々に速度を上げるシンボリルドルフに合わせて、私も先頭との距離を詰める。
第4コーナー、大外一気。シンボリルドルフの横を抜くつもりで
距離を離される。外と内の差か、でも! と内に切り込んで、加速させる。
半バ身差、並んだ。
並び掛けた。
残り200メートルの標識が通り過ぎる。
最高速に到達して、後はゴールまで全力で駆け抜けるだけだ。
そのはずだった。
「クッ……ソ…………!」
届かない、切れ味なら私の方が上だった!
確かに並んだ、あの瞬間は私の方が速かった!
癖が出た。真っすぐに走らず、内に切ってしまった。
でも確かに私の方が速かった!
脚に力を込める。最高速に達した私の脚がこれ以上、伸びることはない。
一歩、地面を踏み締める度に脚が伸びる。
芝を蹴り上げる度に速度が増した。
切れ味は私の方が上だ。でも、奴の脚は長く伸びる。
「クソ……クソッ!!」
実力勝負を挑んで負けるとか情けなさ過ぎるだろ!
伸びろよ、もっと伸びろよ! 想いに反して、半バ身差まで迫った距離が更に開いて行った。
このレース、最初から最後まで私の思い通りに行かなかった。
いや、実力を見誤っていた。早めに抜け出して、鼻先を抑えるべきだった!
あと50メートル、もう脚が残っていない……1800メートルの時点で脚は使い果たしていた。
ゴール板を通り過ぎる、結果は2着。
顎を上げて、息を整える私と比べてシンボリルドルフの奴は少し汗を流しているだけで涼しい顔をしていた。
私では勝てない、少なくとも今のままでは2000メートルを超える距離では敵わない。勝負をするなら2000メートルまでの距離だ。
奴を相手にするのに、東京優駿の2400メートルでは厳しい。
「クソ、クソッ! クソ……ッ!」
今日は充分に勝ち目があった勝負だ。
最初から最後まで思うようにレースが出来なかった私の責任だ。
次は絶対に間違えない、皐月賞では絶対に勝ってやる。
奴のなによりも気に入らないのは、私に向けて一瞥もしない。
その澄ました面構えだ。
「負けちゃった……」
控え室からレース場までを繋いだ長い通路。そこで一人、呆然と立ち尽くす。
友達のビゼンニシキを追いかけて出走した弥生賞は、共同通信杯と同じ4着の結果に終わってしまった。反省点は多い。途中までは上手く走れたと思うけども第四コーナーで外側に大きく膨れたせいもあって、先行したニッポースワローにも届かない。最後の直線でシンボリルドルフに抜かれて、追随するようにビゼンニシキも私の横に並ぶことなく駆け抜けて行った。
強いな、素直にそう思う。
順位の差が、そのまま私と彼女を隔てる距離の差で、並び立ちたかった隣には私とは別の誰か居座っていた。
ゴール板を超えた先、全力を出し切った私は毎度のように
なんて羨ましいんだ、と。彼女の激情を一心に向けられるシンボリルドルフが羨ましくて仕方なかった。
私では二人に敵わない。私のような凡夫では二人の間に割って入ることなんで不可能だ、そのことが分かっていても私は諦めることができなかった。
『シンボリルドルフさん、本日のレースは如何でしたでしょうか?』
ウィナーズサークルでは、インタビューが始まったようだ。
会場全体まで伝わる音声は、此処まで届いた。
何を言うのだろうか、私の友達は強かった。とでも言ってくれるのだろうか。
私はともかく、私の友達は強かったでしょう?
『楽な勝ち方でしたね』
しかし彼女の口から出た言葉は、私の予想を大きく外れるものだった。
『今後の課題は精神面の強化、デビュー当時から組み立ていたローテーションをきっちりと守って行きたい』
コイツハ イッタイ ナニヲイッテイルンダ?
ビゼンニシキは出遅れて、不利なレースを強いられて、それでも追い縋った。
それが実力と言われたらそれまでだけど、それでも一度、並び掛けた事実を忘れたとは言わせない。
……悔しい。悔しい、悔しい……ッ!
私が負けた事よりも、私の友達の事を無碍に扱われたことに腹を立てた。
これが負け犬の遠吠えだってことは分かっている。結果が全てだってことは分かっている。
1着と2着の間には、絶望的な隔たりがあることは理解している。
ギリッと奥歯を噛み締める、此処からでは何を言っても彼女の耳には届かない。
「……頑張ろう、もっと……もっと!」
私では何処まで行けるのか分からない、二人の背中を何処まで追い掛けて行けるのか分からない。
それでも諦めきれない想いが、私にはあった。
「……経験不足が祟ったかな」
私、ニホンピロウイナーは今日のレースを観て、小さく溜息を零す。
ビゼンニシキはトレーナーを持たず、チームに属さない完全に個人でレースに参加するウマ娘だ。本来なら模擬レースなり、併せウマなりで経験を積むのだが、彼女は実践を多く積むことでしか対応して来なかった。少しでもレース運びや駆け引きを学ばせる為に併せて来たが、それも所詮は一対一に過ぎない。距離的な不利に加えて、レース開始時の出遅れ、その後の運び方に至るまで拙い点が露呈してしまった。
素質はあった、勝つ見込みも十分にあった。
それでも負けたという事は、ビゼンニシキがシンボリルドルフよりも弱いということの証明に他ならない。
速いだけでは勝てない。強いというのは、レース上で起こり得る全てを含めて云うのだ。
「随分と大口を叩きやがったな」
カツラギエースが挑発的に笑ってみせると「それを言うだけの素質と実力はあるからな」とミスターシービーは壇上に立つシンボリルドルフを澄まし顔で見つめる。
「あと、あいつもだ。あいつもまた近い将来に私達の場所まで来るぞ」
そう言ってカツラギエースが指で差したのはビゼンニシキだった。
「距離的にはピロが当たることになるか?」
「あれだけ走れるのなら2000メートルのレースにも出てくると思うよ、ラギ」
「かぁーっ! シービーとルドルフに加えて、あいつの相手もしないといけないのかよ。あーやだやだ、嫌になっちゃうねえ」
「ルドルフの脚、もうちょっと距離が長い方が伸びそうやなあ。シービーだけでも手に焼くってのに嫌になってくんで、ほんま」
「私はラギよりも適応できるというだけで得意距離は2000メートルまでだよ」
若手の台頭というのは、嬉しく思うと同時に焦燥感を孕む。
今はまだ私の方が実力は上かも知れないが来年、いや、早ければ秋にも私達を脅かす存在になる。
その事を思えば、自然と口角が上がる。
やっぱり速いウマ娘の登場は、喜びを以て迎え入れるべきだ。
「ルドルフの対抗はビゼンニシキか。もし皐月賞でルドルフが勝てば、3冠ウマ娘に大きく近付きそうだな」
カツラギエースが横目にミスターシービーを見ると、彼女は堂々と胸を張って答える。
「その時は秋に迎え討つとしよう」
私も若手を迎え討つ為に、鍛え直さないといけない。
でも、その前にビゼンニシキには教えたいことがまだまだ残っている。好敵手の前に彼女は私の可愛い後輩だ、何を言っても一人でやるという強情なウマ娘で目を離すことなんて出来やしない。
今から秋が楽しみで仕方なかった。
「ルドルフちゃんが秋に出てきた時の為にコバンちゃんも今から鍛え直しとかないといけないわね」
「え? あー、いや、うちは勝てるレースに出走していけばええかなって……」
「そんなことを言って、1番人気で負けたレースがいくつあったかしら?」
「か、堪忍や〜……」
マルゼンスキーはスズカコバンの首根っこを掴んで、何か思い至ったのか、パッと掴んだ手を開いた。
「ん? え、あれ?」
「私、用事を思い出したわ。先に上がらせて貰うわね」
マルゼンスキーは私達を一瞥した後、背を向けようとして――地面に崩れ落ちているスズカコバンに人差し指を突きつける。
「今日は許してあげるけど、しっかり気を引き締めないと私の練習に付き合わせるからね」
「も、もちろんや!」
「いつも返事だけは良いんだから……」
溜息を一つ、零して。今度こそ、マルゼンスキーは観客席から立ち去る。
彼女が抜けた流れで、残された私達も解散した。
ウイニングライブを終えた後、シャワーで汗を流して、すっきりとした私は控え室まで荷物を取りに戻る。
部屋の取手に手を掛けた時、中から誰かの気配がある事に気付いた。ゆっくりと扉を開けると中には、中には私の一つ下のウマ娘、「あ、パイセンちっす! お疲れ様でした! レース、凄かったです!」と同じチームのシリウスシンボリが元気一番で労ってくれた。丁度、御茶を淹れていたところだったようで、手には御盆を持っており、二人分の御茶が用意されている。「御茶、飲みますか!? まだ手を付けていませんし!」と彼女は返事を聞く前に意気揚々と机に御茶を配る。ひとつは空の席、もうひとつは、ふんわりとした鹿毛の長髪が特徴的な先輩のウマ娘、マルゼンスキーが椅子に座って私のことを待ち構えていた。
わざわざ健闘を讃えに来てくれたのだろうか。……そこまで気が回る先輩だったか?
「先ずは弥生賞1着、おめでとう」
パチパチと手を叩く先輩のことを胡乱げに見つめる。
とりあえず後輩が用意してくれた茶を飲むか、冷ますのは勿体ない。
席に着いて、とりあえず一言、
「ありがとうございます」
と言って湯呑みを手に取る。
彼女は、素っ気ない態度を取ったからといって、その事で機嫌を悪くするような性格をしていない。
ただ全てを理解しているような目で微笑み掛けてくるだけだ。
「随分とらしくない事を口にしたわね」
咎める訳ではない。優しさの込められた物言いに、私は首を傾げて、あの勝利インタビューの事かと思い出した。
「実際、楽な勝ち方をさせて貰いました」
「敵に塩を送るような真似をして……」
「彼女と同じ事をしないように戒めるつもりです。たった一発限りの勝負、出遅れたことは言い訳になりませんので」
出遅れただけでレース運びは大幅に不利になる。
先ずはクラシック三冠、秋シニア三冠。出来る事なら春シニア三冠。それを今年と来年だけで達成し、翌々年には海外のレースに出ることも視野に入れたい。目標の達成には三冠ウマ娘のミスターシービーを始めとした先輩方を相手取る必要があり、来年には――クッキーを咥えながら、茶請けの皿を持ってくるシリウスシンボリに加えて、将来を有望視されるミホシンザンといった若手達も相手にしなくてはならない。
この目的を達成する為には、万が一の可能性も残してはならない。それは必ず大舞台で顔を出す。派手さは必要ない、必要なのは確実性だ。勝つべくして勝つ、完全無欠な強さことが私に必要なのだ。
そうでなくては、何時か小さな失敗をした時に後続の者達に食われかねない。
「私の道を阻む者が居るとすれば――いえ、私がもしクラシック3冠を落とすような事があるとすれば、それは皐月賞でしょう」
あのウマ娘とは仕上がりでは負けている。
弥生賞からでは時間が足りない。明らかにマイル適性のあのウマ娘が皐月賞にだけ焦点を絞り、あれ以上に仕上げてくる事があったなら次は確実に勝てるという保証がない。
しかし焦るな、私の目標は数年後にある。今、無理をして怪我をしては元も子もない。
「シリウス、明日からはまた併せウマを頼む」
「かしこまりっ! 明日からなんて言わず、今から走っちゃいませんか!? ルドルフパイセン!」
「流石に今日は足を休めておくよ」
一歩、一歩、確実に歩んで行けば良い。そう自らに言い聞かせて、今直ぐにでも走りたくなるような滾る想いを抑え込んだ。
「……余計なお世話だったかしら?」
マルゼンスキーは頬に手を当てながら、茶請けのクッキーを頬張った。
「あ、美味しい」
「ですよね! これ大好きなんですよ、私!」
「今度、買ってみようかしら?」
和気藹々とし始めた二人を見て、私は人知れず溜息を零す。
そしてシリウスシンボリが用意してくれたクッキーを手に取り齧ってみる。
あ、美味しい。