サクラガイセンとメジロシートンが最後の直線に入って、遅れて私、ハーディービジョンも二人の後を追い掛けた。
このままの速度を維持できれば、易々と二人を追い抜く事も難しくはない。
2000メートルの壁は越えた。
それはビゼンニシキには越えられなかった壁だ。
私は、自分自身の事をスプリンターとも、マイラーだとも思った事はない!
さあ最後の直線だ。
更に加速をする為に姿勢を落として――――
――ガクン、と予想以上に身体が落ちた。
脚が泥に囚われたかのような錯覚、視界の端にはハロン棒が残り300メートルを示していた。
2200メートル。それが私にとっての距離の壁だと云うのか……!
まるで脚が動かない。落ちる速度に横からスズマッハが更に末脚を伸ばして先を目指した。
また……またなのか……!
せめて背後から迫るバ群に飲み込まれてなるものか、と食い縛ってゴールを目指す。
追う立場から逃げる立場へと変わった瞬間でもあった。
私、サクラガイセンは兎に角、ミスターシービーの末脚から逃げ切ろうと早めに仕掛けた。
その甲斐あってか、坂に辿り着くまでは追い付かれずに済んだ。
私のすぐ前をスズパレードが走っている。
追い付いて、追い越せ! 坂に脚を踏み入れた。
その瞬間、ガクンと姿勢が崩れる。
それは隣を走るメジロシートンも同じだった。
高低差2メートル以上の坂が、まるでそそり立つ壁のように私達の立ち塞がった。
それでも、行かなければ……!
太腿を振り上げる。
しかし思うように脚が動いてくれない。
ミスターシービーに追い立てられるように行った全力疾走が、今になって祟ったか。
強制されたロングスパートに脚が消耗し、坂で縺れて、思うように走れない。
その間に、黒い影が内側を物凄い勢いで駆け登るのを見た。
それは更に前を走るウマ娘を捉えようとしていた。
ペースが、速い……!
私、モンテファストは脚の痛みを堪えながら坂を駆け登っている。
2500メートルの長丁場。唯一、万全の状態で走れた春の天皇賞。しかし、その激走の影響か次走の宝塚記念で13着、オープン戦にも勝てず、秋の天皇賞で14着。脚の痛みを押して出走した有マ記念。これが最後の機会だと自らに言い聞かせて懸命に駆け上がる。
辛い、きつい。しんどい。
でも、そんな事は今に始まった話ではない。
私の人生、始まりは谷間のドン底で、その後は常に壁を登っているようなものだった。
崖っぷちで、ずっと片手で宙ぶらりんになってる状況で頑張って来た。
努力が報われるとは限らない、と言うけども!
それでも、この程度の坂で私を止められると思うなよっ!
スズカコバンの1バ身後ろを一歩、また一歩と確実に駆け登る。
決意も、努力も、人生を、
否定するように私の隣をスズマッハが抜き去って行った。
ハーディービジョンが振り落とされて、私、スズマッハもまた限界が近付いていることを感じ取る。
豪脚を持つミスターシービーに合わせて仕掛けたロングスパート。急な勾配の坂道を駆け上がり、太腿と脹脛の筋肉がピクピクと痙攣し始めていた。吐き出す呼吸は荒くて腕を上げるのもしんどくて、息を吸うのも苦しかった。
それでも日本の歴代ウマ娘最高の末脚を持つミスターシービーに付いて行く為に、それだけを考えて坂を駆け登った。
モンテファストも抜かして、続くスズカコバンを追い抜かそうと今日、何度目かの力を振り絞る。
彼女のように、地面を揺らし、
彼女のように、大地を弾ませて、
彼女のように、全てを置き去りに、
そう想い描いても、現実は違っていて、
前を走るスズカコバンとの距離が縮まらなかった。
内側で易々と坂を駆け登るミスターシービーの姿を横目に見て、才能の違いをまざまざと見せつけられる想いだった。
メジロ家一同、私はメジロマックイーン。
観客席で手の汗を握りながらシートン御姉様を待った。
坂の向こう側、
最初に登って来たのはニシノライデン、半バ身遅れてカツラギエース。
更に半バ身差でシンボリルドルフが上がって来た。
此処までは既定路線、問題はこの後だ。
御姉様は来るか、来てくれるのか。
ミスターシービーか、スズカコバンか、サクラガイセンか、まさかのスズマッハか。
祈るような想いで待ち望んだ、先に姿を現したのは――――
『ニシノライデン、カツラギエース、シンボリルドルフと続いて来たのは、なんとなんとなんと……ッ!!』
――1バ身差で最初に姿を現したのは鹿毛の髪、それは頭の隅にも入っていないウマ娘だった。
『スズパレードだッ!! スズパレードがミスターシービーとスズカコバンを引き連れて凱旋だッ!』
御姉様は、来ない。
『しかし苦しいか! やはり脚の伸びはミスターシービー! だがスズパレードも頑張る!』
スズマッハが続いて、その後で漸く、ボロボロになった御姉様がサクラガイセンと共に坂を登って来た。
私達はシートン御姉様が積み上げて来た努力を知っている。
しかし勝負とは、かくも無情なものなのか。
ひとつでも順位を上げようと懸命に走る御姉様の姿に、涙が溢れそうだった。
有マ記念が始まるまで、
クラシッククラスで模擬レースを行った後の話だ。
ビゼンニシキは、有マ記念に出走するウマ娘は勿論、協力をしてくれたウマ娘にも助言を施す中で、私、スズパレードにだけは何も言ってくれなかった。
もしかして、私って無視されてる?
そう思うと不安になって、つい私の方からビゼンニシキに問い掛ける。
すると彼女はあっけらかんとした態度で答えてくれた。
「君に教えることなんて、もうないんだよ」
まるで突き放すかのような言葉に、目の前が真っ暗に閉ざされたかのような想いになった。
ぶるぶると震え出す手を握り締めて、もう一度、ビゼンニシキを見つめれば、彼女は困ったように肩を竦めてみせる。
「私と君が、どれだけ一緒に走って来たと思っているのさ。その中で私の言葉を今一度、思い返してみると良い」
君に足りないのは気付きだよ、と彼女は優しい声で教えてくれる。
それから私は部屋に戻るとトレセン学園に来た時から書き留めている何冊もの日記帳を取り出した。A4の大学ノート、毎日、半ページ以上は書き込んでおり、その半分以上がビゼンニシキに関する事だった。印象に残る言葉、今まで教えてくれた助言の数々、そして走りに関する様々な考察が簡単に書き込まれてる。
今日に至るまで、ざっと三年分。それを一気に読み返した。
自分で大切だと思うものには、新しいノートに書き留めて、それを次のトレーニングに持って行った。
ビゼンニシキの助言には、トレーニングで注意する点、意識するべき箇所も事細かに込められている。ほんのちょっとした世間話に金言とも呼べるものがたくさん詰まっていた。
私は、今まで、何をしていたのだろうか。
不甲斐なさに涙が溢れてくる。
たっぷりとビゼンニシキのおもいやりの詰まったノートを片手にトラックコースに出た。
その一字一句を噛み締めて、咀嚼し、そしてビゼンニシキと一緒にして来たトレーニングを思い返し、彼女が何に気を付けて、何をしていたのかを思い出す。私がしていなくて、彼女だけが心掛けていた事は何だったのか。
必死になる必要はない。
ただ、瞼を閉じれば、事足りる。
それだけで彼女と過ごした日々を鮮明に思い返す事が出来た。
彼女が浮かべた表情、肌に触れた感触。その匂いに至るまでを詳細に感じ取ることができた。
胸が満たされる。
彼女の言葉の一つ一つが、仕草の一つ一つが、私の血肉になる実感を得る。
好きで心が満たされる。好きの分だけ強くなる。
私がビゼンニシキで象られる。
これが恋愛的な意味なのか、それとも友情的な意味なのか。憧れか、好敵手か。
どういう意味を持つのか分からない。
それでもビゼンニシキの事が好きだと再認識して、自覚する分だけ強くなる。
これが、愛。嗚呼、愛で私は強くなる。
挫けたって良い、膝を折ったって良いッ!
どれだけ自分自身が嫌いになっても、
何度、心が折れたとしても、
不甲斐なさに悶え苦しんだとしても、
愛が私を何度でも立ち上がらせてくれるッ!!
有マ記念、私の心はありがとうの気持ちでいっぱいです!
ビゼンニシキと出会えた幸運に、ビゼンニシキと過ごせた幸福に、ビゼンニシキの教えを得られた僥倖に。
ありがとう、その一言が言いたくて最後のスパートを掛ける。
「そうだ、それだよ! パレード!」
観客席の最後方でダイタクヘリオスを肩車しながら滾る想いのままに、右手を前に突き出してグッと拳を握りしめた。
「急にどうしたんだ!? あれだけオトボケで鈍間でウスラトンカチで鈍感系主人公とタメを張れる君が急にどうしたっていうんだ!? ハハ……アハハハ! アァーハッハッハッハッハッ!! そうだよ、君に必要なものは気付きだったんだ! 私は君に必要な情報は提供した、やり方だって教えていた! 後は実践するだけ、だが、こういうのは他人に言われてやっても意味がないッ!! 他人にモノを教える経験をしたことがある者なら誰でも分かることだ! こういうものは、横から口出しすると却って邪魔になって、十中八九で相手は迷走し始めるッ!! 自分で始めて、自分で考えて、自分で実践しなくちゃ意味がないんだってなあッ!! 後数年先を見込んでいたよ、パレードッ!!」
漸く、漸く実が結んだ。と右手で額を抑えながら笑った後で、スン、と気持ちを落ち着かせる。
「君がそのステージに立てるのは、早くても来年だ」
彼女のことは誰よりもよく知っている。
だからこそ、分かってしまうのだ。
彼女には、最初から勝ち目なんてなかった。
「まだ身体が若いんだ」
所謂、晩成と呼ばれる成長傾向。
気付きを得る。その切っ掛けになれば、と思っていたんだ。
ここまで来れただけも信じ難い、この舞台に手を掛けるところまで届いただけでも奇跡だ。
まだ成長過程にある身体では――
『スズパレードは此処まで! スズカコバンとミスターシービーが駆け上がる!』
――超一級品の素質を持つ彼女達には敵わない。
ない、それはない。
私を抜き去ったウマ娘がスズパレードと知り、怒りが、沸点の臨界点の遥か彼方まで突き抜けて行った!
ミチ、と筋肉が軋む音がした。ミチ、ミチと筋肉を引き絞る音がする。
ミスターシービーなら良かった。モンテファストでも、まだ許せた。自分よりも格上なら仕方ないって言い切れる。
しかし、しかしだ。
明らかな格下を相手に、遅れを取ることだけは許されないッ!!
ズン、と地面を踏み締める。
姿勢を低くして、指の先から脚の爪先まで神経を研ぎ澄ました。
――瞬間、思考がやけにクリアになった。
まるでたった一人だけが世界から遠のいたかのような錯覚、音がやけに遠くに聞こえる。
自身の息遣いが、鼓動が、全てが洗練されて、手に取るように分かった。
自分だけが此処に居る。深い湖の中に飛び込んだかのような感覚、自分だけの領域が此処にある。
知ったことか、と今得た感覚の全てを怒りで燃やし尽くした。
めらり、と双眸に殺意を込める。
今から殺す、と瞬間湯沸かし器のように全細胞を沸騰させる。
滾れ、滾れ、滾れ……!
どいつも、こいつも、どいつも、こいつも……!!
いつもいつもいつもいつもいつもいつも……!!
走って走って走って走って走って走って追いかけ回されて……!!
絶対、抜き殺す!
此処で負けたら――ッ!!
瞬間、マルゼンスキーのにやけ面が脳裏に過って、遂に私の怒りは怒髪天を衝く!
「やってやろうやないかァッ!!」
戦術も、技術も、全て、かなぐり捨てて、
剥き出しの感情のみを以て、
私、スズカコバンは破れかぶれの突貫を開始した。
残り100メートル。
最後の局面、役者は決まった。
規格外ミスターシービーか。
皇帝シンボリルドルフか。
番長カツラギエースか。
シルバーコレクタースズカコバンか。
爛漫娘ニシノライデンか。
勝負の行方は、以上の五名に絞られた。
泣いても笑っても、これが最後の攻防になる。