トレセン学園に施設された芝トラック、そのひとつで模擬レースが開催されていた。
第4コーナー、先頭を走るスズカコバン。その直ぐ後ろでマルゼンスキーが余裕のある脚で猛追する。二頭を追いかけるように馬群を率いるのはミホシンザン。その遙か後方にポツンと一人のウマ娘、ハーディービジョンが懸命に走っていた。
ジュニアクラスのB組だった頃、ハーディービジョンはクラシック3冠の最有力候補だったウマ娘だ。
彼女の後方から馬群を一気に撫で切る走りは、見る者を魅了した。それが朝日杯フューチュリティSを走った後、元から不安を抱えていた脚を痛めてしまって長らく戦線を離脱する事になる。
あの時に魅せた驚異的な末脚は、今や見る影もない。
苦渋を舐めさせられた弥生賞、
彼女の末脚を持ってすれば、あの憎きウマ娘を相手に勝つ事も出来たかも知れない。
その仮定に意味がない事を分かっていながらも想像し、やはり私には前方待機の好位差しの戦法が合っていると結論付ける。そもそもの話、私ではハーディービジョンの末脚に勝てないから今の戦法に落ち着いたのだ。
溜息を零す。チームに所属しない私に足りていないものは経験だ。大人数によって並び立てるレースの経験が私には圧倒的に不足している。共同通信杯は前哨戦、弥生賞はトライアルレース。本番の皐月賞の前に、もう1回、レースを挟んでおきたい。チームに所属しない私がレース経験を得られるのは実戦の場において、他にない。
ジュニアB組の時点で、ニホンピロウイナー先輩の誘いに乗ってチームに所属しておくべきだったか。
いや、今、そのことを言ったところで意味がない。それに先輩のチームには、スズパレードが所属している。今や彼女も弥生賞では着内に入った好敵手だ。クラシックシーズン真っ只中の時期に好敵手のいるチームへの加入を頼み込めるほど、私も厚顔無恥ではない。先輩に頼むのは、早くても東京優駿を終えた後の話だ。
今は私一人でも出来ることをする。
目指すは三週間後。レース間隔は厳しくなるが、仕方ない。
あのウマ娘シンボリルドルフを相手に勝つ為には、多少の無茶は許容して然るべきだ。
楽して勝てない。故に出来る限りを尽くし、万全を以て、叩き潰してやる。
「あの莫迦め!」
プレハブ小屋に戻るとニホンピロウイナー先輩がガシガシと頭を掻きながら悪態を吐き捨てていた。
此処はチームシリウスに割り当てられたプレハブ小屋。チームシリウスというのは先輩が自分の為に発足したウマ娘チームであり、所属するウマ娘からトレーナーまで彼女ひとりで掻き集めた経緯がある。
チームメンバーには私、スズパレードの他にタマモクロス等が所属している。
トレーナーは男の人でウマ娘の体調管理を一身に引き受けている。基本的にウマ娘が持つ個々人の方針に口出ししないけど、相談すると親身になって話を聞いてくれる優しい人だ。個人で動いているビゼンニシキと併走することも許してくれる。
彼はウマ娘のトレーニング知識も豊富なので、私は彼の作ったトレーニングメニューを基に動いている事が多かった。
そんな彼が荒れる先輩を前に困ったように眉を顰めている。
「えっと、どうしたのです?」
私が問いかけると先輩は「あの莫迦は……!」と言いかけて「いや、なんでもない」と私の顔を確認してから口を閉ざした。
横目に机の上に広げられたプリント用紙、出走予定表を横目に見やる。GⅡスプリングS、皐月賞トライアルレース。私の視線に気付いた先輩が慌ててプリント用紙をまとめて片付ける。しかし、もう見てしまった。そこには既に東京優駿への優先出走権を得ているはずのウマ娘、ビゼンニシキの名が刻まれていた。
私はスンと心を落ち着かせて、トレーナーと先輩に進言する。
「私も出たいです」
「駄目だ」
即答する先輩に「どうしてです?」と私は首を傾げる。
「レースの出走間隔が短過ぎる」
そう答えたのはトレーナーの方だった。
「皐月賞の後を考えないのであれば、それもまたありえない選択ではないのかも知れない。でも君の目標は皐月賞を優勝する事だけではないはずだよ?」
彼の諭すような物言いに、自分が気落ちしていくのを感じる。
無茶を言っていることはわかっている。さっきのは欲望がそのまま口から出ただけだ。
皐月賞の後、すぐに東京優駿が控えている。
私の憧れはビゼンニシキ、彼女と一緒にレースを走り続けたい。あわよくば競い合いたかった。
その目的の為には、今、無理をして怪我をすることはできない。
冷静に考えれば、簡単に分かる話。それでも一緒にレースがしたかった。
「皐月賞でも一緒にレースができる。ワンチャン、一着を取ることだってあるかもよ」
先輩の慰めの言葉を耳に、私は握り締めて歯噛みする。
ビゼンニシキは何処までも前に向かって駆け続けている。私の事なんて見向きもせずに目標に向かってまっしぐらだ。
何時か、何時の日か、私だけを見て欲しいなって、そう思った。
「少し走って来ます」
頭を冷やす意味でも告げた言葉に、トレーナーは優しく目を細めて頷き返してくれた。
チーム名は確か、ハマル。少し前まで活躍していたウマ娘がトレーナーを務めるチームだ。
ミスターシービーが3冠を制覇した時、心が打ち震えた。
NHKマイルCでニホンピロウイナーが勝利した時、思わず叫び声を上げてしまった。弥生賞ではシンボリルドルフがビゼンニシキを相手に強い勝ち方を示し、彼女が私の一つ上の世代を引っ張っていくと信じて疑わなかった。
皆、私にはないものを持っている。
キラッキラの輝きを放つ彼女達の活躍は、まるで自分の事のように嬉しかった。ウイニングライブのステージで華麗に踊る彼女達の姿に憧憬と羨望の眼差しを向けながらも、私は彼女達とは同じ舞台に立てないことを何処かで予感していた。
私の血筋では、栗毛のウマ娘は活躍しないらしい。
産まれたその時から私の命運は決まっていたようで親からは期待されず、周りからは落胆の吐息と共に産まれた。元気に育ってくれれば、それで良い。と言われて育って来たが、成長する過程で栗色の髪を何度恨めしく思ったことか。
チームハマルのプレハブ小屋で、今日も今日とて溜息を零す。
「おい、ユタカオー! 何を項垂れてやがる! 今年にメイクデビューするんだろうが!」
机に突っ伏して、ぐでーってしているとトレーナーに怒鳴りつけられた。
「シンゲキさん、こんにちは」
「シンゲキっていうな! 今は別の名前を名乗ってるのだから、そっちで呼べ!」
「えーっ? この前までずっとそう呼んでたのに。急に言われても無理ですって、シンゲキさん。あっ」
「あ・ぶ・み!」
「はい、あぶみさん」
トレーナーの日高あぶみ、元サクラシンゲキのウマ娘は毎日のように私を
「恵まれた身体を持っていながらけしからん奴だ!」
「そう言うならスターの面倒を見てあげた方が良いと思うのだけどなあ」
あっちの方が絶対に私よりも素質も実力もあるんだし。
そんなことを呟けば「スターよりも先ずデビューが迫っているお前からだ!」と怒鳴り散らされた。
へえへえ、と私は頷いて今日も今日とて課されたメニューを熟す日々を送る。
芝を走っていると隣のトラックにスズパレードが入って行くのが見えた。
私のひとつ上の先輩でシンボリルドルフやビゼンニシキと比べると些か格が落ちるウマ娘。
そういえばビゼンニシキが皐月賞の前にまたレースに出るんだっけ?
後で番組表を調べて録画の予約をしとかないと。
3月第3日曜日、中山レース場。私、ビゼンニシキはパドック場で観客達の歓声を一身に受けている。
弥生賞の敗北から3週間、まともに眠れた日はなかった。
このレース、ジュニアクラスB組の時期に名を馳せたウマ娘が揃っているが正直な話、私の敵ではないと思っている。今日は勝つのが当たり前のレースであり、極めたいのは勝ち方だと自らに強く戒める。レースというのは一発勝負、それが分かっていながら出遅れという不甲斐ない真似をし、その後もレース展開に翻弄されてしまうのだ。集中力が足りていないにも程がある。
勝ちたいという意志が足りていない。何がなんでも勝ってやる、という気概が私にはなかった。
今日のレースは私が格上だ。だからこそ今日のレースで負けた時には引退する。それぐらいの覚悟がなければ駄目だ。どれだけ不利な状況に追い込まれたとしても、それを跳ね除けるくらいの気持ちがなければいけない。でなければ、次のレースでも私はあっさりとレースを落とすことに成り兼ねない。
重要なのは勝ち方だ、勝ち方に拘らせて貰う。間違いが起きない勝ち方を目指す。
集中する、神経を研ぎ澄ませる。前を見据える。意識は常に前に、しかし周囲の情報を拾う事を忘れてはならない。不測の事態は起こり得るものとして認識しろ、如何なる状況に追い込まれたとしても実力を出し切るのが強いウマ娘の条件だ。王者の戦いとは、そういうものだ。
2枠2番で他バと圧倒的大差を付けた1番人気。観客達の期待を背中に背負って、駆け出す構えを取る。
これがビゼンニシキだと、強く輝きを放てるように――――
今、ゲートが開かれた。