その日、一人だけ纏っていた雰囲気が違っていた。
GⅡスプリングS。弥生賞に出走しなかった中でクラシックレースを目指す者達が集まった第2の皐月賞トライアルレース。
シンボリルドルフとビゼンニシキを避けた者達が多い為か、弥生賞と比べると些か面子が劣る。……皐月賞の優先出走権である3着以内を確実に得る為だ。それに多くのウマ娘に取って、一勝には今後の人生を変える重みがある。メイクデビューから2年が過ぎても未勝利戦から脱出することが出来なければ、何の保証も与えられないままトレセン学園を卒業することが大半で、未勝利戦を突破できても次はプレオープン戦、オープン戦が待ち構えている。此処を勝ち越すことができれば、シニアクラスに上がった後も最低限の食い扶持は保障される。
重賞に出走するだけでも学園から多くの支援を受けることが出来るので、オープン戦に勝つことはウマ娘がウマ娘として生き続ける為の死活問題だ。重賞に勝つことができれば、その扱いは雲泥の差だ。ウマ娘としての人生を全うした後は学園の職員として雇われることもできるし、学園の関連施設に従業員として紹介を受けることもある。
GⅠに勝てば、将来の心配はなくなる。
勝てば勝つだけ豊かな暮らしが保証されるし、広告塔として少し世間に顔を出すだけでお金を稼ぐことができた。
ウマ娘専用の婚活サイトが今、未勝利やプレオープン戦止まりのウマ娘達の間で流行っている辺り、レースひとつに人生が掛かっている。
だからシンボリルドルフやビゼンニシキが一位と二位を独占すると分かっている弥生賞を避けたというのに――――
「――どうして、そこに居るのよ。ビゼンニシキ……!」
勝つ見込みのあるレースを選んでやってきたってのに。
7枠11番の2番人気。私、ゴールドウェイがゲート内で歯軋りを鳴らす。
妙に気合が乗っちゃってるし?
というかレース間隔、おかしくない?
皐月賞に出る気あるんだよね?
本当に迷惑ったらありゃしない!
末脚になら自信があります。そんな私はスズマッハ。
弥生賞で4着のスズパレードとは従姉妹の関係になるけども、ほとんど話したことはありません!
得意なのは差し位置からの直線勝負、道中で溜めに溜めた脚をドカンと一発。
マッハな脚で抜き去ります、置き去りにします!
とはいえ末脚の伸びではシンボリルドルフに敵わないのも事実。
末脚の切れではビゼンニシキに敵わないのもまた事実。
私が所属するチームのトレーナーには、弥生賞では勝算がないからスプリングSに出走するように促された。
私ではシンボリルドルフとビゼンニシキの2人を相手に戦えない為だ。私も2人と比べて実力が劣っているのは自覚しているし、負けるよりも勝つ方が好きだ。なにより私は2人に対して思い入れを持っている訳でもない。
私は莫迦だ、難しい事なんて分からない。
レース展開を読むことなんてできないし、今、トレーナーから託されている作戦だって「脚を溜めて最後の直線で全力疾走」という雑なものだった。普段から体調管理や訓練内容はトレーナーに任せているし、レースのスケジュールも同じように全幅の信頼を以て彼女に託していた。
ビゼンニシキがレースに出走する事が決まった時、トレーナーに頭を下げられた。予想が外れた、と。
大丈夫、失敗は誰にでもある。私が失敗した時、貴女は許してくれたじゃんか。
それに信頼するという事は、その結果の全てが良いものになると盲信する事じゃない。
トレーナーさんでも失敗することはあるんだね、と笑い返してやった。
貴女で失敗するなら、私が一人で決めたら大失敗だ。
きっと今ある状況が私にとって最善の道だったに違いない。
これ以上はない。仮にあったとしても、貴女と共に歩める今の道を私は選び取る。
それに……人気不利だからといって、私が1位を取っちゃいけない理屈にはならないはずだ。
ビゼンニシキとは一度、勝負してみたかった。
どうせ皐月賞で競い合うことになる。と考えて気にしていなかったけど、やっぱり一度くらいは直接対決してみたいと思っていた。
見ててねトレーナー! 5枠7番の3番人気はスズマッハ、今日も元気に走ります!
中山レース場、GⅡスプリングS。皐月賞トライアルレース。
皐月賞、東京優駿と春のクラシック路線を目指すウマ娘達にとって、これが最後の乗車券。
胸に秘めた想いは多種多様、栄光を掴むのはただ1人。本戦への切符を手に入れるのは3人限り。
輝かしき栄光への道を駆け抜けるのは、どのウマ娘か。
今後のウマ娘としての明暗を分ける1戦が今――――
――開かれました!
私、ビゼンニシキはゲートが開く直前、その予兆を感じ取った。
飛び出した時にはバ群の鼻先を切って先頭に立っており、そのままバ群を従える形で第1コーナーに入る。
今度はスタートが上手く決まり過ぎた。意図せず、逃げの展開になってしまったことに舌打ちし、先頭に立ってしまったなら立ってしまったなりの立ち回りを再構築する。大丈夫、脚には余裕がある。逃げようと思って逃げた訳じゃないのだ。
このまま他のウマ娘に先頭を譲っても良いが、楽に譲るのは少し違う気がする。
レースの中盤、2番手、3番手のウマ娘が横に並んで来ようとするのを張り合わない程度に先頭を保ちながら第3コーナーに差し掛かる。内と外の差、ズルズルと後退する2人を横目に見ながら、まるで弥生賞の時の私とは逆だなと思った。コースの内側を通るスムーズな立ち回りを披露しての最後の直線、先頭に立ったのは私で脚に力を込める。
1バ身、2バ身と距離を開けた時、安全圏まで逃げ切ったと悟り、一瞬、気を緩める。
――チリン、と涼しい音がレース場に鳴り響いた。
その瞬間、大外から吹き荒れる冷たい殺意に身震いした。
耳に付けた鈴飾りはトレーナーが私に送ってくれたものだった。
大外一気の私はスズマッハ! ただ前だけを見据えて全身全霊のマッハで駆け抜ける!
後方から馬群を撫で切る展開に気分が高揚する。脚に力を込める、周り全てのウマ娘が遅く感じられた。
先頭との距離は何バ身?
目測は残り10バ身、9バ身!
私は不器用で莫迦だから、こんな真似しかできやしない!
――8バ身、7バ身!
莫迦だからトレーナーを信じて、トレーナーに言われた事を素直に熟すだけだ!
――6バ身、5バ身、4バ身!
まだまだ脚には伸びる余地がある!
力を入れたら入れた分だけ肌に感じる風の勢いが強く感じられた!
逃すもんか! 地面を踏み締める、腕を全力で振り上げる。
――3バ身半、3バ身、2バ身半!
信じたトレーナーが私を信じてくれるから、それに応えたいと願っているだけなんだ!
――2バ身、に、2バ身! ……1バ身半!
手を伸ばせ、脚に力を込めろ!
此処まで来たらもう勝ちたい、勝ちたいに決まってる!
私を信じてくれたトレーナーやトレーニングに付き合ってくれた仲間達、そして私に期待してくれた皆の為にも!
あと少し、あと一歩で!
ウイニングライブで最高にキラッキラの私を皆に見せてあげられるんだ!
大外から一気に迫り来るウマ娘の影、リンと鈴を鳴らして迫り来る。
ハーディービジョンを彷彿とさせるその末脚に一瞬、怖気を感じ取ったが、しかし彼女の脚が届かないことは分かっていた。
弥生賞の時と同じだ。シンボリルドルフが私で、あの時の私がスズマッハ。レースの立ち回りを間違えると此処まで有利不利が付くものかと関心を抱き、やはり差しからの大外一気の作戦には限界がある。
それが通用するのは格下が相手の時だけだ。普通に考えて、大外一気は立ち回りの失敗によるものだ。
それを作戦と言い張れるのは規格外のウマ娘であるミスターシービーくらいである。
大きく外に振られたスズマッハが先頭を走る私に届くはずもなく、ましては私の直ぐ後ろに付けていた2番手すらも抜かせずにゴール板を通り過ぎる。
ゴールを終えた後、
3着バのスズマッハが体力を使い果たしてしまったのか「負けたぁ〜……」と呻きながら仰向けに倒れてしまった。
レース後に寝るのは彼女の従姉妹であるスズパレードと一緒らしい。
2番人気のウマ娘、ゴールドウェイは最後方に付けて大敗。
じとっとした目を私に向けてくるが、無視する。いや、だって、こんなの気にしてたら切りがない。
相手にして欲しければ、せめて勝ち負けくらいには持って来て欲しい。
レースの総評としては、概ね楽勝と云った内容。
最後に思っていた以上に詰め寄られたのは誤算だったが、大外一気の差し勝負は私には合わないと改めて実感させて貰った。
得られるものが多いレースだった。
皐月賞に向けて、より万全な態勢で望めるという実感を胸に抱き、ズズッと左脚で地面を擦った。
首を傾げる。トントンと左脚の爪先で地面を叩いても違和感はなかったから、気にせずウイニングライブの準備をしに控え室へと向かった。
弥生賞の雪辱を晴らす為、今日の勝利を糧に皐月賞への準備を進めなくてはならない。