6月第1週、東京レース場。芝1600メートル。
春のマイル頂上決戦、安田記念。
昨年は短距離マイル戦で無双の活躍を見せたハッピープログレスが獲った本レース。
その軌跡をなぞるように、好敵手達を根絶やしにする活躍を見せるニホンピロウイナーが今年の主役だ。レース前の投票では、当たり前のように1番人気、ウマ娘ファンの誰もがニホンピロウイナーの勝利を信じて疑わなかった。そして、今年の短距離マイル戦では、常に2着に位置するハーディービジョンもまた2番人気として揺るがない地位を得ている。
そして私、スズマッハは9番人気と一際、低い。
勝利を期待されていない面子の中でも、低めの地位にあった。
大きく息を零す。
昨年の有マ記念では7着という戦績。それから半年近い準備期間を経て、安田記念に乗り込むことになる。
短距離マイル戦線に脚を運んだのは、トレーナーからの提案だった。
曰く、私はシンボリルドルフに固執し過ぎている。との事だ。
そんな訳で安田記念に乗り込んだ訳である。
いつもよりも短い距離、戦法も仕掛け処もまだ迷いがある。
なによりもニホンピロウイナーが相手では、殿一気の戦い方では勝てそうもない。
勝つ為に必要なものは何か。
手を翳せば、私が進むべき場所を教えてくれるような、そんな予感があった。
道標に従うように、一歩、前に進んでみる。
近頃、肌に感じる風が弱くなった。
鈴の髪飾りをリンと鳴らす、今日も私の道標になってくれるのか。
「スズマッハは強いよ」
観客席の最前列にて、ビゼンニシキが得意顔で告げる。
彼女の背中には、ちんまいウマ娘が半身を隠して私を睨み付けていた。
彼女の服の裾を握り締めては、視線だけで威嚇する。
「末脚だけならシンボリルドルフにも負けない、けど。この距離で彼女が得意とする殿一気の戦法だと難しいだろうね」
そんな幼子を無視して彼女は語り続ける。正直、話の内容が頭に入って来ない。
「本命はピロ先輩、対抗ハーディービジョン。これは確定事項だよ」
「じゃあ、お前の順位予想はどうなんだ?」
そうだね、とビゼンニシキは少し考え込んだ後で答える。
「1着ニホンピロウイナー。2着ハーディービジョン。その場合のスズマッハは着外だけど――」
笑みを浮かべて、こう続ける。
「――2着スズマッハ、3着ハーディービジョンは充分に有り得るね」
ふぅん、と私の方から話題を振っておいて話半分に聞き流す。
今日、この東京レース場に来たのは、私、ロッキータイガーの目標であるジャパンカップの舞台である為だ。
観るだけでも意識が変わるはずだよ、と彼女の方から気軽に誘われた。
フェブラリーSで2着、京王杯スプリングCでは4着。
トレーナーが決めた短距離マイル路線、私には中距離を走るだけのスタミナはないって言われた。
私の適正距離は1600メートル前後なんだろうなって事は分かっている。
去年までの私、ギャロップダイナはオープン戦未満を走る賑やかしに過ぎなかった。
それなりに勝って、それなりに良い勝負をして、
去年までに21戦も走ってみたけども、私をファンだって言ってくれる人はほとんど居ない。
でもまあ、そんなことは分かっている。
大勢のファンに愛される人ってのは、なんというか生き様が輝いている。
歩き方ひとつ、仕草ひとつ、何処を取っても格好良いんだ。
その時、私は去年の最後のレースで初めて掲示板を外した時だった。
夏までは勝ち負けの良い勝負を続けていたのに、11月に入ってからは2着にすらも入れておらず、意気消沈していた頃合いだった。なんとなしに中山レース場に赴いた12月第4週、有マ記念を走るミスターシービーの激走を見た。最後の直線、殿一気で全てのウマ娘を撫で切った彼女の姿を見て、やっぱり世の中には才能があるんだってことを思い知らされた。
シンボリルドルフが抜かされた後、ああ、やっぱり。と思ったけど、彼女は、いや、彼女達は諦めなかった。
ミスターシービーの豪脚に差し切られて、尚も諦めずに走る4人のウマ娘の姿に心が打たれた。気付けば、観客席の最前列で恥ずかしげもなく叫んでいて、シンボリルドルフが抜け出して、やっぱり彼女には才能もあったけど、それだけじゃなかった。どんな苦境に立たされても、諦めずに優勝を目指す姿に心が打たれたんだ。
それまで私は、彼女のことを名前で知るだけだった。
いや、レースを見ていた事もあったけど、印象に残るほどじゃなかった。
有マ記念の後、友達に頼んでシンボリルドルフが出たレースを全て観た。
最初はエリート然とした面構え、皐月賞ではビゼンニシキとの衝突事故があった。それがわざとじゃないってことは彼女の表情を見れば明白だ。東京優駿では好敵手との不幸な事故があり、菊花賞では鬼気迫る表情で1位もぎ取った。
ジャパンカップでは、シニア相手に3着で終わってしまった。
彼女は、その輝かしい戦績とは裏腹にずっと苦しそうにしていた。何が起きていたのか、彼女のレースを見ているだけでは分からない。でも彼女の有マ記念での輝きは、決して才能だけによるものではなかったのだと知った。
きっと多くの挫折があって、多くの苦痛を乗り越えてきたんだと思う。
これは私の勝手な勘違いかも知れない、勝手な思い込みかも知れない。
でも、それでも良いと思う。
有マ記念のウイニングライブ、そのセンターで歌う彼女の姿に惚れてしまった。
だから私は、やる前から諦める事だけはしないと決めた。
勝てる勝てないじゃない、やると決めたからやる。
シンボリルドルフのバックダンサーに、私はなる!
その為に今は、実績が欲しい。
シンボリルドルフと同じレースを走れるだけの実績が欲しい。
安田記念なんてGⅠレース、私には分不相応だけど……
とりあえず、目標は掲示板内だ!
ゲート内、スタートまで間もなくだ。
遠くに聴こえるファンファーレの音を耳に、ゆっくりと集中力を高める。
全身から力を抜き、しかし胸に抱いた闘志を蒼く滾らせる。
やるだけの事はやった――本当か?
今、出来るだけの事を終えて、レースに出走している。
大丈夫、大丈夫なはずだ。これ以上はないって程度には、鍛え続けてきたつもりだ。
ファンファーレの音が途切れて、静かに体勢を低くする。
私、ハーディービジョンは、もう負けられない。
その時、音が音になる前の音を察知した。
勝手に身体が動いていた。身体が動いてからゲートが解き放たれる。
飛び出した時には、誰よりも前を走っていた。
スタート直後、レース序盤。
この時点で視界に誰も映らない
少し困惑した。でも、と、そのまま先行策を取る決意をする。
なんとなしに心地良い気分になって、そのままレース序盤を先頭を駆け抜ける。
とは云ってもウマなりの速度だ。
最初のコーナーに入る前に追いつかれたけど、それでも脚の消耗は何時もよりも少ない。
会心の走り、前から3番目の位置で第3コーナーに突入する。
ゾクッ、と背中に気配を感じる。
――そこに居たのか、まあ今までの傾向から近くにいる事は分かっていた。
ニホンピロウイナーが動き出した。
短距離マイルの絶対王者、マイルの皇帝。
ニホンピロウイナーが第3コーナーから第4コーナーにかけて、先行する5人に距離を詰めて駆け上がる。
好位から抜け出す彼女の走りは、シンボリルドルフが得意とする戦法によく似てる。
強いから勝つ、勝つべくして勝つ。
徹底的な横綱相撲は他者に付け入る隙を一分も与えない。
横に広がった5人の壁、その僅かな綻びを見出し、3人目と4人目の隙間に割って入る。
その驚異的な嗅覚は才能故か、その切り込みの鋭さは天性のものか。
自他共に認める天才は、最後の直線勝負に乗り出した。
彼女には絶対の自負がある。
この短距離マイルの舞台において、真っ向勝負に持ち込めたなら負ける事は有り得ない。
多少の不利は、許容範囲。
その程度で負ける可能性を微塵も考えていなかった。
現時点において、歴代最強を謳う生粋のマイラーは開けた視界に勝利を確信する。
観客席のウマ娘ファンもまた、彼女の勝利を疑わない。第3コーナーに入った時、彼女の位置取りで既に予感があり、最後の直線、彼女の進路上に阻むものがない事でニホンピロウイナーの勝利を確信したのだ。
実際、ニホンピロウイナーも笑みを浮かべた。
ゴール板を見て、舌舐めずりすらしてのける。
その時だ――リン、と涼しげな音がレース場に鳴り響いた。
瞬間、ニホンピロウイナーはギアを切り替える。
ハーディービジョンが追い縋るも出遅れてしまった。
スズマッハがバ群を割って、飛び出した。しかしニホンピロウイナーは更なる先を駆け抜ける。
彼女の最も恐ろしい点は、勝負所を見誤らないとい事だ。
マイルの絶対王者、ニホンピロウイナー。
勝負に紛れを起こさせず、悠々とゴール板を横切った。