中山記念の後、レース場からトウショウペガサスは姿を消した。
4月後半に行われたファン感謝祭では、署名が集まっても準備が間に合わず、行われる事がなかった大食い大会。
その無念を晴らす為に彼女が取った行動は、全国行脚の食い倒れ旅であった。
彼女は、今まで得たレースの賞金を、この旅に注ぎ込んだ。
移動手段は己の脚。雨にも負けず、風にも負けず、山の坂路にも夏の暑さにも負けず、丈夫な脚を以て、食欲のみを満たす。ウマッターを始めとしたSNSを活用して、動画の撮影許可が降りた場所では実際に食べるところを配信する事もあった。彼女が訪れた場所では、売上が1割増しになったりとちょっとした社会現象にもなったりする。
ウマチューブに設立された彼女のチャンネルには、数万人の登録があり、個人勢としては破格の数字を誇っている。なんならURAで公式に記録されている彼女のファン数よりも多いとか、多くないとか言われていたりもする。
しかし彼女は奢らない、目的の為に邁進する彼女は何処までも真摯であった。
全ては大食い大会の為、夢を成熟させる為に彼女は美食を極める。
5月から始めた食い倒れの旅は、9月を以て完遂する。
食を満たす為に全国各地、1日に走った距離は平均して200キロメートル。単純計算で3万キロメートルもの距離を踏破してのけたのだ。常に走り続けて、食い続けた為に鍛えに鍛えられた脚は春の時とは比べものにならない。
彼女は進化した、食を追求して大きく飛躍した。
己の欲を満たす為だけに行動した彼女の肉体は、ウマ娘として完璧なものに仕上がっていたのだ。
しかし、夏の進化を遂げたのは彼女だけではない。
他のウマ娘もまた、徹底的に己を鍛え上げる。春に味わった屈辱をバネに、春から夏にかけて追い上げてくるウマ娘を迎え討つ為に、他のウマ娘もまた大きな飛躍を遂げる。
では、秋戦線における他の有力ウマ娘にも、少しずつ触れていこう。
サクラユタカオーは、チームハマルの面々と夏合宿に赴いていた。
ジリジリと照り付ける太陽を恨みがましく思いながら、山道を延々と走り続ける。目指すは菊花賞、好敵手のミホシンザンとシリウスシンボリに比べて、私はスタミナが足りていなかった。スピードでは負けない自信がある。粘り強い足腰を作る為に、同行するサクラバクシンオーをタイヤの上に乗せて、引き摺り続ける。
だらだらと汗が流れる。どうして、こんなにも苦しい思いをしなければならないのだろうか。
正直な話、私は、そこまでクラシック3冠に執念を燃やしている訳ではない。負けた事が悔しくないのは、きっと私は勝つことを目的としていない為だ。
ジャパンカップ、そして有マ記念。
カツラギエースの根性、そして、ミスターシービーとシンボリルドルフの3冠ウマ娘のレースを間近に見た。偉大な先人達に、少なからず憧れの気持ちを抱くのは至極当然のこと。私は御三方と同じレースを走ってみたかった。
ジャパンカップは難しいかも知れない。されども有馬記念なら出走する事も難しくない。
問題になるのは距離、私の適性は2000メートル前後。無様なレースを見せる訳にはいかないから、私は少しでも長い距離を走れるように延々と走り続けている。
これは私にとって、人生一度きりの本気になる。
私、シリウスシンボリは週に3度、チームベテルギウスを離れるに日々を送っている。
現在、私のトレーナーはシンボリルドルフのリハビリで手一杯になっており、チームベテルギウスには私の他にシンボリルドルフの二人しか居なかった。という事で幼馴染のシンボリルドルフの紹介で大井トレセン学園のトレーナーの厄介になっている。
とはいえ、その者はまだ研修中のトレーナーなんだけど……
「丁度、ロッキーのトレーニング相手を探していたところだしね」
とシンボリルドルフの提案を二つ返事で受けたのが、このビゼンニシキだ。
なにかと縁のあるウマ娘。彼女はチームベテルギウスが確保している中央トレセン学園の設備を使わせてもらうことを条件に私の指導を請け負った。その事は構わない。しかし彼女が中央トレセン学園に訪れる度に、彼女を中心にオープン未満のウマ娘が集まってくるのは煩わしかった。
肝心のトレーニングだが、彼女が連れてきたロッキータイガーに格の違いを見せつけられる日々を送っている。彼女が私よりも1つ上のシニアクラスとはいえ、ダービーウマ娘の私が手も足も出ない。GⅠウマ娘と比べても引けを取らない実力を彼女は持っている。世界は広いが、日本も広い。このようなウマ娘が地方に埋れているとは思いもしなかった。
そうしてロッキタイガーを相手に自尊心を叩き折られる日々を送る中で、ビゼンニシキが私に四つ折りにしたプリント用紙を手渡してきた。
「近場で野良レースが行われるらしいよ。整備されていない馬場は海外挑戦するのに丁度良い練習になる。他にオープンクラスのウマ娘も誘っておいたから楽しめると思うよ」
そんな事を言われて送り出された野良レース会場。
重賞レースで何度も見かけた顔、スズマッハとスズパレード、あとニシノライデンが待ち受けていた。
あのウマ娘の顔の広さは、本当に広過ぎると思う。
「私はもう走る事に拘りがないみたい」
従妹のスズマッハが、そう溢したのは6月半ばの事だった。
安田記念で2着の健闘を終えた後、彼女は6月初旬に開催するエプソムCに出走し、そして今までの苦戦が嘘のように重賞勝利を収めた。お祝いのひとつでも、と顔を合わせれば、スズマッハは妙にスッキリした顔で「嬉しかった。うん、嬉しかったよ」と告げて、先の言葉へと紡がれた。
走る事を止めるのか、と問えば、そういう訳ではなくて、賞金目当てには出走を続けるそうだ。
しかし、もう走る事に情熱はないようで、卒業後の進路について真剣に考え始めている。
私は、どうなのだろうか。ビゼンニシキが去った
有マ記念で一区切りが付いた。我武者羅に走るだけの時期は終わったような気がする。
燃やし尽くした情念、この胸には何が残っているのだろうか。
私は何処を目指して走れば良いのか。私が求めるものはまだ、此処に残っているのか。
まだ、私は、やり尽くしていないような気がする。
ビゼンニシキと一緒に走りたいだけの時期は終わった。
彼女の背中を追いかけるだけの私はもう居ない。
かといってシンボリルドルフを終生の好敵手にするつもりもない。
此処には、まだ、私が見た事もないような光景が、景色が、情熱が、埋まっている。
そんな気がするから、あと少しだけ走ろうと思うのだ。
私、ミホシンザンは波打ち際を延々と直走る。
クーラーボックスに入れた大量の飲料水、流れた汗の分だけ消費されていった。
首に巻いたタオルは、三十分もしない内にぐっしょりと濡れて、絞れば吸い込んだ汗が滝のように流れ落ちる。
吐く程に走り抜いた後は、食事を胃に詰め込んで、また波打ち際を走り続けた。
体力を、兎にも角にも体力を付けなくてはならない。
菊花賞は3000メートルの長丁場、休んでいる暇なんて欠片程も存在しちゃいなかった。
1分が惜しい、1秒が惜しい。柔らかい砂を蹴り上げて、絡み付く海水に脚を取られながらも後一歩を縮める為に走り続ける。辛く、苦しい時にこそ、もう一歩の伸びる末脚を鍛える為に泡を吹きながら走り続ける。相方のハーディービジョンもまた浜辺でダッシュを繰り返している。東条ハナに言われたトレーニングを熟しつつ、倍以上のトレーニングに身を費やした。
何度も吐いた。口を濯いで、水分を摂る。胃が食事を受け付けなくなっても、しっかりと栄養を摂って体重を維持した。
大丈夫だ。
意識が揺れる中で、薄らと笑みを浮かべる。
幻覚が視える。私の先を走るサクラユタカオーとシリウスシンボリの背中を視た。
追いかける、その遥か先を鉄下駄を履いたウマ娘が悠々と歩いている。
そんな生活を1ヶ月もした後、肉体が順応し始めた。
山を超えたとでも云うべきか。
身体が軽くなった。
トレーニング量に変化はない。
全てのメニューを熟すだけで真っ暗になっていた空は、何時しか夕暮れ止まりとなった。
成長の実感はない。
走って、走って、走り続けるだけだ。
数週間にかけて行われた夏合宿の後半、
ハーディービジョンの練習が水泳中心になった事が少しだけ気掛かりだった。
「助けて、シキえも〜ん!」
これは6月初旬、中央トレセン学園に情けない声が響き渡る。
チームベテルギウスのトレーナーは恥も外聞も投げ捨て、新米未満の研修トレーナーにスマホで助けを求めていた。
彼女がトレーナー免許を取ったのは一昨年、担当ウマ娘を持ったのは去年の事だ。ならば当然、彼女は担当ウマ娘が故障したのも初めての経験である。これがオープン未満のウマ娘であれば、私生活駄バ娘製造機と名高い面倒見の良さを思う存分に発揮して、寄り添い骨抜きにするところであったが、此度、故障したのは天下の3冠ウマ娘、シンボリルドルフである。
シンボリルドルフが絶対安静を言い渡されている期間、慌てふためいては思い悩み、四苦八苦に七転八倒した後に新米未満の研修トレーナーを頼る事を決断した。
頼れる研修トレーナーは、怪我に関しては追及せず、こう返す。
『完治するまでは無理させちゃ駄目、何かするにしても主治医と相談して決める事。焦りだけは禁物だよ』
この金言をベテルギウスのトレーナーは忠実に守る事を誓った。
とある日の事だ。シンボリルドルフは隠れてトレーニングをしているところを発見された。
退屈だったから、と言い訳する彼女をベテルギウスのトレーナーは許さなかった。先ずは脚の調子を確認した後、御姫様抱っこでプレハブ小屋に連れ込んだ。そして誰かに入れ知恵されたのか。幼馴染みのシリウスシンボリの目の前で、あーん、と御飯を食べさせられるシンボリルドルフの目は死んでいたと云う。
それ以後、シンボリルドルフが隠れてトレーニングをする事はなくなった。
それから数週間後の話だ。
シリウスシンボリがビゼンニシキのトレーニングに混ぜて貰った時、彼女のスマホの待ち受け画面がシンボリルドルフがトレーナーに御飯を食べさせられている時の写真になっていた。
意味深く微笑む彼女を見たシリウスシンボリは全てを悟り、世の中には敵に回してはいけない相手がいる事を知った。