古ぼけた本棚に埃被った書籍に人差し指を掛ける。
此処はトレセン学園にある図書館。その奥で目当ての書籍を見つけた私は、近場の椅子に腰を下ろす。
秋も更けて、寒気に身動ぐ11月。シンボリルドルフが中心となって繰り広げられる秋シニア3冠は、後で存分に語るとして、今はクラシック3冠レースの終着点、菊花賞に目を向ける。前世では、前年度からの活躍馬がシンボリルドルフに限定される中、幻の3冠馬ミホシンザンを始めとして、突出したスピードを誇るサクラユタカオーと海外を渡り歩いたシリウスシンボリと役者が揃っている。
怪我や騒動で同じレースに出走する機会の少ない3頭であったが、この世界においては怪我も騒動もなく、海外遠征もせずに3名が覇を競い合っていた。
その影響もあってか、前世ではミホシンザンが取った皐月賞はサクラユタカオーが勝利した。
しかし皐月賞で骨折するはずだったミホシンザンは怪我なく東京優駿に出走しており、前世では怪我明けとなるセントライト記念では5着だった成績が2着と繰り上がっている。シンザンが達成したクラシック3冠制覇の夢は果てたが、京都新聞杯を終えた現時点まで連対率100%の戦績を残す。
前世のミホシンザンは長距離を苦にしない競走馬だった、菊花賞は彼女が取ると半ば確信している。
そんな予想を立てながら書籍に目を通す。
周りからの視線は気に留めない。この頃はまだ芦毛のウマ娘は走らない、と呼ばれていた時期だ。芦毛よりも真っ白な白毛のウマ娘は尚のこと人目に付いた。まあ、それを抜きにしても入学前のウマ娘というだけで目立っちゃうんだけど。
さておき、手に取った書籍は海外レースについて、まとめられたものだ。
凱旋門賞やKGⅥ&QES、ブリーダーズカップといった項目を見つけては、それに目を通しては海の遥か向こう側に想いを馳せる。私が生きていた時代はまだ海外に手を届かせることは出来なかった。日本という自分の土俵に呼び込む事で漸く、対等に戦えるといった程度のものだ。
私には海外遠征の夢があった、今はまだ見果てぬ夢。この肉体は、御世辞にも才能に恵まれているとは言い難い。
「……海外のレースに興味があるのですか?」
不意に後ろから話し掛けられた。
見上げるとトレーナー向けの教本を両手いっぱいに担いだ少女、頭に馬の耳が生えていないので人間だ。年齢的にはトレーナー希望の学生と云ったところか。トレセン学園で時間を潰す際、こうやって話し掛けられる事は特別に珍しい事ではない。
うん、と私は短く答えて、書籍に視線を落とす。
競走馬として生きていた時期は、こうやってレースに込められた意味を知ると感慨深くなる。昔の天皇賞は1度でも勝利すると2度と出走できない事を、この身体になって初めて知った。私が前世で遠征したのはアメリカ合衆国、二度も出走して、掲示板内にも入る事ができなかった苦い思い出がある。
今回、海外遠征する機会があれば、是非ともリベンジする心持ちだ。
「貴女はトレセン学園の生徒ではないようにお見受けしますが……」
まだ話し掛けてくる少女に書籍から顔を上げて、ジトッとした視線を送る。しかし彼女には視線の意図が伝わっていないのか、にっこりと微笑みかけてきた。
「私は桐生院葵と申します。来年にはトレーナーになる予定です!」
「…………ハッピーミーク」
「年齢は?」
……押しが強い。とりあえず自分の年齢を口にすると彼女は目をキラキラと輝かせた。
「来年、また会いましょう!」
「……えっ?」
「一目惚れです!」
そう言いながら差し出された手を、私は、流石に受け取る事はできなかった。
白毛の髪は、良くも悪くも人目に付いた。
11月上旬、京都レース場。菊花賞。
クラシック3冠レースの終着点。芝3000メートルからなる本レースは、最も強いウマ娘が勝つと古くより言い伝えられている。
距離は勿論、高低差4メートル以上もある淀の坂を二度に渡り、登って降る長丁場。最初の第4コーナーを通過した後、ウマ娘達を待ち受ける1度目の大歓声は多数のウマ娘を驚かせる。本来、最後の直線でなければ聞かない歓声に掛かっては最後、残る距離を走破するだけの体力は残ることはない。
最も強いウマ娘が勝つ、と言われるだけの事はある。
菊花賞とは、スタミナは勿論、忍耐力も試されるコース設計となっていた。
去年はシンボリルドルフ、一昨年はミスターシービー。古くはキタノカチドキ、そしてシンザンと多くの名駿を輩出してきた菊の舞台は、今後のシニア路線を占う上で重要な役割を担っている。
TTGにちなんで、SMSと呼ばれる今年の世代3強。
先ずは突出したスピードが持ち味の快速娘、サクラユタカオーは3番人気。
速度が乗った時の脚の速さは、他に追従を許さない。最も早いウマ娘が勝つと云われた皐月賞に勝利したウマ娘、トップスピードだけならあのシンボリルドルフすらも凌駕する。東京優駿では3着、京都新聞杯では4着と距離に不安は残る。
果たして、その瞬発力は菊の舞台に炸裂するのか。
続いてミホシンザンは2番人気。戦績は7戦4勝、内2着が3回と連対率10割を誇る。
皐月賞では2着、東京優駿では2着。今回、菊花賞ではどうなるか。スピード、スタミナ、パワー、根性、賢さ。ウマ娘にとって必要とされる能力を高次元で兼ね備えた世代で唯一のウマ娘だ。
本命の対抗ウマ娘。クラシック3冠の最後のひとつ、どうしても欲しい。
お待たせ1番人気はこのウマ娘、麒麟児シリウスシンボリ。
皐月賞では3着と辛酸を舐めるも、東京優駿にて見事に勝利を飾ったダービーウマ娘。重馬場をものともしないパワーを持ち味に世界を視野に入れるスーパーウマ娘。彼女の走りには夢がある、彼女の言動は人々に希望を見せる。
世界を目指すのに国内で躓いてはいられない。
他にも4番人気スダホーク、6番人気サクラサニーオーが控える。
私には、薄らとだが世界各地へと飛び出した記憶のようなものがある。
イギリスやドイツ、フランス、イタリヤ。といったウマ娘レースが盛んに行われる国を飛び回り、KGⅥ&QESを始めとして、バーデン大賞や凱旋門賞と云ったレースに出走していた。勝ちきれないレースが続いた。出走する度に他ウマ娘との格の違いに身も心も削られていった。日本は海外を相手に、ありとあらゆる面で負けている。
日本という極東の島国で覇を競い合う事は、なんと浅ましくて愚かな事なのか。
幼い頃の私には、そう思えて、仕方なかった。
勿論、こんな話は誰にもした事はない。
前世の記憶が残っている。なんて話をしたところで頭がおかしい奴の扱いを受ける事は分かっていたし、私自身そんな話を信じている訳ではない。しかし、その夢が私の海外志向を助長し、今ある私の人格形成に強く影響を与えたのは事実だ。
私、シリウスシンボリには夢がある。
海外のGⅠレースに優勝して、極東の島国にも強いウマ娘が居るんだぞ、と知らしめてやりたかった。
世界のウマ娘を相手取る為に必要な事は、日本で最も海外の情報を仕入れるウマ娘。常に最先端の知識と技術を取り入れ、実践してきた急先鋒ビゼンニシキに教えを請う事である。
私は、彼女に海外遠征を視野に入れていることを打ち明けた。
ビゼンニシキは、笑わずに話を聞いてくれた。
菊花賞の為のトレーニングと並列して、海外の荒れた馬場にも適応出来るように多くのトレーニングを取り入れた。
その全てを熟すのは、過酷ではあったが、強くなる実感があるのは楽しかった。
「私はね、日本のトップクラスのウマ娘は決して海外のウマ娘に劣っているとは思っていないよ」
ある日の事だ、トレーニングの合間に彼女はそんな事を口走った。
「国対抗でランダムに10名を選出してレースをさせた時、日本は欧州や米国を相手に惨敗すると思う。でも極少数のトップクラスのウマ娘であれば、決して通用しない訳ではないと信じている。本命は難しいかも知れないけど、今だって対抗くらいにはなれる。勝ち負け程度には持ち込める。日本が海外に対して不利なのは、海を超えなければならない物理的な距離だ。遠征のノウハウもなければ、伝手もない。地元でギリギリまで調整する、なんてことは海外遠征では出来ないからね」
孤立無援の状況で勝てるウマ娘が居るとすれば、それはきっと英雄と呼ぶ他にない。と彼女は話を括った。
正直、今、海外遠征をするのは貧乏籤を引かされるのも同然だ。
蓄積されたノウハウは次世代へと引き継がれ、先陣切って道を切り拓いた者は後続の踏み台にされる。
しかし、英雄、という言葉の響きは気に入った。
「……勝っても負けても、私は海外に飛ぶからな」
そう決意を証明すると「残る日本でのレースは、せめて勝ち負けには持っていきなよ」とビゼンニシキは困ったものを見るように笑った。
たぶん、私は恵まれている。
私にはサクラユタカオー、ミホシンザンという好敵手が居た。そしてクラシック3冠レース、その全てで覇を競い合う事が出来る。
それはシンボリルドルフとミスターシービーの果たせなかった夢である。更には、その前の世代ではアズマハンター、バンブーアトラス、ホリスキーと実力ウマ娘が揃っていながらも怪我に泣かされた事があり、3人共に万全な状態で出走できたレースが1つとしてなかった。
トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスのような夢のレースをもう一度、世界が私達に微笑んでいる。
先ずは菊花賞、続いてジャパンカップ。有馬記念。
私に残された3レース、今ある私の全てを此処に出し尽くす事を誓う。
後腐れなく飛び立つ為に、勝利を決意した。
トップスピードだけなら海外の名高いウマ娘が相手でも引けと取らない。
そういう評判を受けるのは私、サクラユタカオーだ。実際、速度が乗った時の脚の速さは他に追従を許さない。
最高速に辿り着いた時、音すらも置き去りにできるかと錯覚する程だ。
心豊かにコースを跳ねる。たんたたん、とリズムを刻んで芝を蹴り、今日の自分の状態を確認する。
調子は悪くない。しかし菊花賞の距離は私には不利だ。だからといって泣き言を零すつもりはない。皐月賞では、ミホシンザンとシリウスシンボリは愚痴の一つも零さなかったではないか。
出せる全てを、このレースに捧げたい。
シリウスシンボリ、ミホシンザン。二人と同じ時代に生まれた事に感謝する。おかげで私は強くなれた、想定よりもずっと速く走れるようになった。
これが私達3人で行う最後の世代戦、勝ちたいな。勝ってやりたいな。
最後を勝利で締め括りたい。
だから私は柄にもなく、本気で自分を鍛えてきた。
このレースを私達の特別にしよう。
そんな想いを抱いて、ゲート前まで赴いた。
ファンファーレが鳴り響く。
菊花賞は、もう間もなくだ。
シンボリルドルフ(パーソロンの系譜)
シンザン(ミホシンザンの父)
キタノカチドキ(テスコボーイ産駒)