お二方、新たに評価を入れてくださって、ありがとうございます。
まだお気に入りの総数も少なくなるどころか増えて、感謝感激です。
トレセン学園の食堂にて、
目一杯の食事を乗せたトレーを目の前にした私は、もりもりと食事を頬張った。
走れば走るだけ速くなる。昨日よりも今日、今日よりも明日、ストップウォッチの数字が縮まる度に脚が速くなったと歓喜して、ルドルフ様の背中に少しでも近付けた事に身を震わせる。そうなると走るのが楽しくって仕方なく、授業の合間、休み時間になる度にグラウンドに出ては駆け回った。授業は寝ている事が多くて、時折、走り回った後にそのまま寝てしまっている事もある。
お腹が空いた頃に目が覚めて、栄養補給をしたらまた駆け回った。
そうこうしている内に食事量も増えていった。
半年前は一人前しか入らなかった胃袋も、今となっては五人前くらい食べないと物足りない。
兎に角、走って、走って、走り回って、疲れたら寝て、食べて、また走る。たったそれだけの日々が楽しくって仕方なかった。イヤホンを付けて、ルドルフ様が走ったレースの実況を聴きながら走れば、ちょっと調子に乗ってみたり、ルドルフ様の姿を脳裏に思い描いて、その背中を必死に追いかける。その走り方や息遣い、全てを鮮明に思い浮かべながら兎にも角にも走りまくった。
毎日が充実している。ルドルフ様のレースがないのは残念だけど、ダンスの振り付けとかはルドルフ様がセンターに居るのを思い浮かべて必死に練習した。だって、ルドルフ様が居る舞台で、失敗なんて絶対にしてはいけないのだ! ほんのちょっとのミスも戒めて、彼女の舞台を穢さないように懸命に練習する。
そして、走る。同じ芝に立てる事を思い浮かべるだけで高揚し、疲れなんて忘れて走り続けた。
疲れたら寝る。寝たら私室のベッドで寝ている事もあったけど、気にせず、シャワーを浴びてから早朝練習に勤しんだ。
朝は好きだ。まだ空が白む頃合い、少し乾いた風を浴びるのが好きだった。昼間、空高く昇る太陽の光を浴びながら走るのも好きだ。夕暮れ時、少し涼しくなってきた空気は走り火照った体に心地良い。夜の静かな雰囲気も好ましかった。
脚が地面に接する時間は最低限、弾むように芝を駆け抜ける。
筋肉よりも腱を使って走る方が速く走れることを知ってから、私の脚が疲れることは少なくなった。縄跳びを使って、全力回転させてみたり、バーベルを両肩に担いで、踵を上げる地味なトレーニングに費やす事もある。鍛えに鍛え上げた脹脛と足首は、去年と比べると見違えるように太くなった。
プロテインを飲んだ。トレーニングに勤しんだ後は、飲むように心掛けている。好きなのは人参味であり、一日一杯のプロテインは自分自身に対する御褒美だ。
充実をした時間は、進むのが早いのに一日、一日が濃密で振り返った時、とても長く感じられた。気付けば、なんてことはない。まだ、これだけの日数しか過ぎてない、という驚きの方が先に来た。
残り一ヶ月、追い込みをかけるつもりで更に走り込んだ。
兎にも角にも走って、走って、走って、毎日が楽しくって、走り疲れたら眠って、お腹が空いたら御飯を食べて、そしてまた走り回る。春の桜舞う景色が好きだ、夏の濃い緑の色が好きだ。秋の燃える紅葉も、冬の少し寂しげな景色も大好きだ。気晴らしに河川敷を走ってみたり、プールで泳いでみたり、そしてまた走って、楽しくってルンルンとまた走る。
朝から走り、授業中は眠って、休み時間に走り、眠り、走れば、烏が鳴いたから帰りましょ、とアンドレアモンが言ったので、あと一回とトラックコースを走り出す。
「あーもー! 帰るわよ、帰りなさい! 何時まで走っているのよ!」
「やぁーだぁー! まだ走るぅーっ! やだぁーっ!!」
「いつも誰が部屋まで連れて帰っていると思うのよ! 寮長に呼び出されて、汗臭いあんたを部屋まで運んで……! 何時からあんたは走りキチになったのよ!?」
この日は満足するまで走れなかったので、明日またたくさん走ろうと思った。
◆
10月中旬。私、ビゼンニシキはルンルンとスキップするギャロップダイナを遠目に見つけた後、目の前のトラックコースを走るウマ娘達に注力する。
ロッキータイガーの併走相手にはスズパレード、イナリワンの併走相手にはタマモクロスを当てる。スズパレードがまだ本調子ではない事もあってロッキタイガーには余裕が見えるが、イナリワンとタマモクロスは実力が拮抗しているようで切磋琢磨している。白熱しやすい二人を宥めて、休ませて、適度に煽って、競わせて――今のスズパレードでは、ロッキータイガーの相手をするには力不足が否めないので、誰か他に相手が居ないものかと検討する。
……ジャパンカップには出走しない面子だと、ニシノライデン辺りか。丁度、秋の天皇賞に向けて仕上げている頃合い、お互いにとって良い練習相手になるはずだ。
「あのタマモクロス……と、言ったか? イナリと同等以上とは恐れ入るな」
ビデオカメラで撮影した映像を確認していると黒鹿毛のウマ娘、ロッキータイガーが後ろから話しかけてくる。
「そっちのイナリワンと同じように本格化するまで掛かりそうだけどね」
「それでも下手なウマ娘よりも速いことには違いないだろう?」
「……レースを選べば重賞も獲れるだろうけど、今のままだとGⅠは難しいかな」
充分じゃないか? と肩を竦めるロッキータイガーに首を横に振る。
「今すぐは難しい。でも、イナリとタマを育てておいて重賞勝利で満足するようじゃ、そのトレーナーは才能ないよ」
「それ程か?」
「……少なくともタマは、ルドルフやユタカオー並の才能があるんじゃないかな。イナリはミホシンザンに近い気がするね」
あの体躯であのパワーは流石の地方育ちって感じだね、と付け加える。
「そうか」
と呟くロッキータイガーに「君も大概だけどね」と返す。
地方にはキングハイセイコーやカウンテスアップといったウマ娘も居るが、二人共にダートの走り方で芝に適しているとは思えない。別にダートを卑下するつもりはないけど、私とは土俵が違い過ぎて評価のしようがなかった。ただロッキータイガーは芝でも通用する。もし彼女が最初から中央に居て、優れたトレーナーの下でトレーニングを積めていれば、シンボリルドルフの東京優駿も危うかったんじゃないか。と、そう思える程度にはロッキータイガーの能力は優れていた。
それでもルドルフが負ける姿は想像できないけど。
たぶん彼女は実力以上に、何かを
「……秋の天皇賞なら勝てたよ、ロッキー」
少し前、シンボリルドルフの様子を見に行った時、彼女の調子はいまいちだった。
ロッキタイガーが目指すレースはジャパンカップの方なので、そっちに合わせて調整しているが、もし仮に秋の天皇賞を目指していたとしたら間違いなく私が仕上げたロッキーが勝っている。
誰よりもシンボリルドルフのことを知っている私だからこそ、確信を持って云える。
「好不調ならまだしも怪我明けの奴と比べても意味ないだろ」
呆れまじりに零すロッキータイガーに「そうだね」と返す。
次の秋の天皇賞で怖いのは一人だけ、チャンスさえ与えれば花開く可能性を持つウマ娘が居る。
桜を冠するウマ娘が素直に菊花賞に出て命拾いしたねえ、とも同時に思った。
◆
何処かの神社、石段を駆け上がるのは二人のウマ娘。
青い色をしたツインテイルの幼子と栗色の長い髪をした幼子が競い合うように全力で走った後、休憩も取らずにラダートレーニングへと移行する。二人は共に体力は使い果たしていたが、互いが互いを意識して勝った負けたを言い争っていた。
それを横目に追い付かれないように、ボクもボク自身のトレーニングを黙々と積み重ねる。
前の世界でやったような全身のバネを使った走り方は難しい。
あの走りを再現しようとすれば、古傷が痛んだ。だから今は新しい走り方を検討中、出来るだけ脚の負担を軽くする為に筋肉で蹴り出すのではなくて、もっと跳ねるようなストロークの広い軽やかな走りを目指した。それはボクの憧れた会長の走り方とは別物だけど、そういうのは前の世界でやり尽くした。
今は出来るだけ長く走れるように、怪我をせず、脚を削らない走りを心掛ける。
さて、世間では、もうすぐ秋シニア三冠レースの頃合いだ。
秋の天皇賞、ジャパンカップ、有マ記念。前と同じなら会長は、その一戦目を落とす。でも、この世界なら、去年のジャパンカップ、有マ記念でミスターシービーが意地を見せたように、なにか変わるかも知れない。
今年もまた、どうにかレースを見に行く算段を付けなければならない。
なんとなしに息を大きく吸い込んだ。
高い位置にある神社の境内で吸い込む空気は、心地よかった。膨らんだ空気から吐き出す声は、そのままソプラノの音階となった。昔のことを思い出して、軽くステップを刻んでみる。あの大勢の観衆の前で歌った記憶は今も忘れない、鼻歌混じりに奏でながら振り付けを付けてみる。ワン・ツー・サン・シッ……かつてテイオーステップと呼ばれて、親しまれた脚のキレはまだ幸いにも健在だ。
惜しむらくは、今のボクは体幹が崩れている。左脚の二度の骨折、右脚の一度の骨折、その骨の形は健常とは言い難い。片脚立ちすら難しかった。どうしても重心が傾くので、その都度、調整する必要に迫られる。
ひと通り、踊り切ったところで後ろを振り返った。するとポカンとした顔を浮かべる二人の姿。ツインターボとミホノブルボンが私のことを見つめていたから、少し気恥ずかしくなって誤魔化すように笑って頬を掻いた。
「テイオー、凄い! ねえ、さっきやってたのってなに!?」
「説明を要求します」
二人からせがまれたボクはレーストレーニングに加えて、ウイニングライブの特訓も熟すことになった。
まだ必要ないと思うんだけどね、これ。
◆
各々が準備を進める中、時間は刻一刻と過ぎて行って、その日は訪れる。
10月末、東京レース場。秋の天皇賞。出走する有力なウマ娘は以下に綴る。
1枠1番4番人気、ステートジャガー。主な優勝歴、大阪杯。
2枠4番5番人気、ゴールドウェイ。主な優勝歴、毎日王冠(GⅡ)きさらぎ賞(GⅢ)
3枠6番2番人気、ウインザーノット。主な優勝歴、函館記念(GⅢ)二連覇。
4枠8番3番人気、ニホンピロウイナー。主な優勝歴、短距離マイル路線GⅠレース完全制覇。
6枠11番6番人気、ニシノライデン。主な優勝歴、鳴尾記念(GⅡ)京都新聞杯(GⅡ)
8枠17番1番人気、シンボリルドルフ。主な優勝歴、クラシック三冠。有マ記念。天皇賞(春)
スズパレードも出走しているが有力という訳ではない。
そして彼女よりも更に下の位置に、そのウマ娘は居た。
3枠5番13番人気、ギャロップダイナ。主な優勝歴、道新杯(OP)
彼女の目的は、シンボリルドルフの少しでも近くでウイニングライブを迎える事にある。
言ってしまえば、彼女の走る理由はそれだけだ。レースに出走するだけで人生勝ち組、物見遊山と勘違いされても仕方ない浮かれっぷりだ。出走するだけで半ば目的が達成されているようなものであり、その時の彼女には闘争本能の欠片もなかった。
しかし、たったそれだけの理由が、彼女にとっては宇宙の真理よりも大切な事だった。