第4コーナーの大欅を超えた時、シンボリルドルフは前から3番手の位置に付けていた。
前を走る二人とは、横並びになってしまった為、内側に切り込む事はできなかったが、綺麗なコーナリングで外に大きく膨らむ事もない。シンボリルドルフは走る能力も高いのは勿論、コーナリングの細かな技術やレースの運び方が特に上手かった。最後の直線に差し掛かった時、彼女の前を走っていたのはリキサンパワーとニシノライデン、シンボリルドルフの内に切り込もうとして失敗したのはステートジャガー。最内からも一頭、シンボリルドルフの外からはウインザーノット、続けてニホンピロウイナーが迫り来る。
その中でシンボリルドルフの走りには、余裕があった。
リキサンパワーとニシノライデンを抜き去った後、内を締め付ける事でステートジャガーをしっかりとブロックする。外からウインザーノット、その更に外からニホンピロウイナー。二人の末脚の伸びを見切り、1バ身差に抑え込む為に一段階ギアを上げる。
予定調和の展開、レースはシンボリルドルフの掌で転がされていた。
ギャロップダイナは何処で何をしていたのか。
大欅を抜けた時、ギャロップダイナは団子状態となった内側を抜ける事ができず、大きく外側へと振られていた。最後の直線に差し掛かった時、順位は十位以下。未来を知る二人を除いて、誰一人、彼女に注目している者は居なかった。
シンボリルドルフの完璧なレース運びを披露する中で、ギャロップダイナは何を想って、何を考えていたのか。
たぶん、何も考えていなかった。
◆
ニホンピロウイナーは、自他共に認める天才である。
同期にはミスターシービー、カツラギエース、スズカコバンという有力なウマ娘が居て、後輩にはシンボリルドルフにビゼンニシキ、ニシノライデン、ハーディービジョン。更に下にはサクラユタカオー、シリウスシンボリ、ミホシンザンと揃っている中でニホンピロウイナーだけが天才と呼ばれる。
いや、他にも天才と呼称されるウマ娘は居ることは居る。
しかし彼女だけは別格だ。
彼女、ニホンピロウイナーと走ったほぼ全てのウマ娘が彼女の事を天才を呼び称える。
そんな彼女の特筆すべき能力の一つは、嗅覚にある。
勝利の隙を逃さない。
見つけた勝ち筋、その栄光への線路上に自分を乗せる能力に優れていた。
故に彼女は見ていた。
自身が勝つ為に必要な手順、勝利する為の道が見えていた。
ニホンピロウイナーは隣を走っていたウインザーノットと、ほぼ同時に仕掛ける。
勝つ為に、勝利を手に入れる為に、自らの嗅覚を信じて突き進んだ。想定外だったのはウインザーノットの驚異の粘り、シンボリルドルフと先頭で競り合った結果、二人は何時も以上の能力を発揮して、ニホンピロウイナーの想定を超えてしまった。
それでも、これが1600メートルなら抜いていた。しかし、今日は2000メートル。彼女には2000メートルを走り切る力が備わっていたが、秋の天皇賞は彼女が全力を発揮できる舞台ではなかった。
何時もよりも伸びない脚にニホンピロウイナーは歯噛みする。
シンボリルドルフは、末脚を出し切っている。
今日は本調子ではない事は分かっていた。勝負勘も鈍っている。彼女は残り100メートル時点で底を見せてしまった。
それでも、やはりシンボリルドルフは皇帝だ。
競れば、必ず追い上げてくる。
だから、飛び込むべきはウインザーノットを挟んだ外側、彼女を壁に、競り合う暇も与えずに最後に半バ身だけ抜け出す。
それで勝てる。はずだった。
ウインザーノットが粘って競り合おうとしなければ、今頃、私はシンボリルドルフの半バ身先に居るはずだった。
競り合ったウインザーノットが僅かに垂れて、シンボリルドルフの表情から緊張感が薄れる。
それは、ほんの僅かな隙だった。
勝利の可能性が、そこに合った。
あそこに居たのが自分であれば、あんな不甲斐ない真似はしない。
ニホンピロウイナーには見えていた。
背後から迫り来る威圧感。それはあっという間にニホンピロウイナーの脇を通り過ぎて、先頭を走るシンボリルドルフに仕掛けに掛かった。
残り50メートル、タイミングは完璧だった。
彼女は、ニホンピロウイナーが見た栄光の勝ち筋に、その身を乗せてしまったのだ。
◆
秋の天皇賞、その前夜。
私、ギャロップダイナは明日のことに緊張で眠れずに居ると、隣のベッドで寝ていたルームメイトのシャダイソフィアがもぞりと身動ぎする。
振り返れば、横になったままジトッとした目で見つめてくる彼女の姿があった。
「……GⅠレース、良いじゃない。私なんて今年、まだ一度も出てないのよ」
何処か棘のある物言いに「出るだけですよ」と云えば、大きく溜息を零された。
「正座」
「えっ?」
「良いから正座しなさい」
むくりと上半身を起こした彼女に言われるまま、私は自分のベッドの上で脚を畳んで座り直す。
シャダイソフィアは、眠たいのか。まるで私の事を睨みつけるように目を細めていた。
「……私は、勝ちたいと思っても出られないのよ。ダイナは出てるから勝つ可能性はあるの」
分かってる? と説教するような物言いに「そうだね」と端的に返した。
シャダイソフィアは不満げな顔をしたまま、やっぱり眠たかったのか、そのまま自分のベッドの上でゴロンと横になってしまった。
勝てると思っている訳じゃない。今だって勝てると信じている訳じゃない。
でも可能性の話としては、そうだな。と思った。
出走している以上、誰にだってチャンスはあるのかも知れない。
出走も出来ない他のウマ娘よりも確実に、私は勝利に近い位置にいる。
だからという訳ではないが、
ちょっとだけ、頑張ってみようという気にはなった。
◆
私なんて見るからに格下だし、芝は下手糞だ。
トレーナーからも「お願いだから最下位だけはやめてよ」と云われる始末で「最終コーナーまで抑えて、抑えて、直線で2人か3人抜けば良い」と作戦を授けられた。
いざ、ゲートが開くと出遅れたはずのルドルフ様はもう向かい正面の坂にいて「ああ、やっぱり強いなあ。あれが3冠ウマ娘なんだよな」とか思ったりして、それで、こっちは第3コーナーに入って、第4コーナーに差し掛かってもバ群に埋もれたまま。ルドルフ様は背中はもう遥か彼方です。
結果的にトレーナーの思惑通りの展開になった訳で、それでも少しでもルドルフ様の近くで踊りたいの一心で駆け出した。
「どけっ、私はルドルフ様の追っかけだぞ!」ってな具合に。
そりゃもう一生懸命だ。だって一生に一度、あるかないかの大チャンス!
溜めた脚を解放して、最後の直線に差し掛かると同時に仕掛けた。脚は、思っていた以上によく伸びる。何時は届かない距離、しかし今日は不思議と届かせられる気がした。おっ、これで8着だ。あれ7着? 6着だ、やった、5着で掲示板内! ルドルフ様のすぐ後ろで踊れるぞ! 此処まで追い上げて、まだ行ける気がした。4着だ! このままルドルフ様の隣まで行っちゃえ! 欲のままに脚を動かせば、一人、また一人を抜き去った。
行けるところまで行っちゃえーっ! と勢いのままに次の一人だって追い抜かせた!
『ルドルフ出た! ルドルフだ! 外の方からギャロップダイナ! 外からギャロップ!!』
やった! 私、大健闘!
まさかまさか、此処まで来られるなんて! ゴール板の横を駆け抜けて、もう前には誰も居なかった!
……あれ? えっと、んん?
後ろを振り返れば、ルドルフ様が茫然と私の事を見つめていた。
ウインザーノットが顔を顰めており、ニホンピロウイナーが私の事を睨み付けてくる。ステートジャガーは俯いたまま、顔を上げようともしなかった。観客は騒然としており、異様な雰囲気に包まれていた。
……結果、どうなったんです? 誰か、今、何が起きているのか教えてください。
『あっと驚くギャロップダイナ! チームカノープス! 最後の最後で差し切った!!』
……夢、ですかね?
夢ですね、夢ですよね! これはきっと夢オチで、そろそろセットした目覚まし時計の音で目覚めるんです!
そうです、そうに違いありません! 頰を抓っても、めっちゃ痛い!
嘘でしょ? ねえ、夢で合ってますよね?
◆
「……え?」
外から伸びてきた驚異的な末脚、掲示板にはレコードタイムを示すRの文字が刻まれていた。
茫然と掲示板を見上げる鹿毛色のウマ娘。彼女は10番手以下のポジションからシンボリルドルフを始めとした有力ウマ娘を抜き去り、最後の最後まで脚色を衰えさせる事なく完遂し切った。追い込み戦術でレコードタイム、まぐれではない。むしろレース展開には恵まれていなかった。
最終コーナーで内側が開かなかったものだから仕方なしに大外に振って、力でねじ伏せていったのだ。
それでも目の前の光景を信じられない。
思いの外、あっさりと負けてしまったせいか……いや、レース展開そのものは、白熱としたものだった。しかし、それでも、呆気ない。という感想が出てしまう。何処かでシンボリルドルフの勝ちを盲信していた。どんな苦しい展開であっても跳ね除けられると思っていた。しかしシンボリルドルフもウマ娘、神ではないと云うことか。
ダイタクヘリオスは年相応にはしゃいでおり、キセキノテイオーは静かに目を伏せている。
「……駄目だ、うん。感情の整理が追い付かない……時間が、欲しい……」
その後に行われたウイニングライブ、出だしの一声は裏返っていた。