――シンザンを越えろ。
それは全日本ウマ娘トレーニングセンター学園における現在のスクール・モットーだ。
シンザンとは今から10年以上も前に伝説的な活躍を果たしたウマ娘の事だ。クラシック3冠を初めとしたGⅠレースを5勝もしており、負けたレースも全て2着。生涯を通して、ただ一度も連対を外したことがない化け物のような実績を持っていた。
この輝かしい記録は今もなお破られることなく続いており、ある者からは神馬と呼ばれ、今日に至るまでウマ娘達の目標で在り続ける偉大なる先人であった。
――シンザンを超えろ。
その言葉には神格化されつつある大先輩の壁を打ち破って欲しい、という意味も込められている。
孤高のウマ娘は、たった一人の好敵手にも恵まれず、今なおも孤高で在り続ける。絶対という言葉は、正しくシンザンの為にある言葉だった。シンザンがトゥインクル・シリーズを卒業し、スクール・モットーが書き換えられてから10年近くが経つが、未だに彼女の記録を打ち破るウマ娘は現れていない。
シンザンは、私達にとってひとつの到達点だった。
大観衆に迎えられる中、全ウマ娘が
大半のウマ娘は自分の調子を確かめるだけに終始するが、少し頭の回るウマ娘は芝の状態を確かめている。そして抜け目のないウマ娘は自分の脚の具合を確かめながら横目に周囲の状態を確認している。私に向けられる視線は多い、しかし最も注目を浴びているのはシンボリルドルフだ。状態は良さそうだ、周りのウマ娘が彼女の放つ覇気に気圧されている。
スズマッハは気合が入っているが、あれはちょっと焦れ込んでる。ゴールドウェイもあまり調子は良くなさそうだ。
良い感じでバ場を回っているのはオンワードカメルン、朝日杯の3着バ。前走のスプリングSで見た記憶はあるが、それだけだ。もしかすると着内に入ってくるかも知れない。ニシノライデン、ニッポースワローも悪くはなさそうか。
他の有象無象はさておいて、気になるのはスズパレードだった。
周りが見えていないのか。なんとなしに近付いてみても私に気付く様子はなくて、真っ青な顔で何かを呟いている。
「パレード? ねえ、パレードってば」
「えっ! あっ、シキ。どうしたの?」
「どうしたのって……そんな調子で大丈夫な訳?」
声を掛けるまで目の焦点も合っていなかった。
本当に大丈夫かな、こいつ。ちょっと過呼吸気味だし。
……もう少しだけ声を掛けることにした。
「皐月賞という大舞台で大コケしたウマ娘と友達だと思われるのは困るんだけどな~?」
「あうっ、それは……ん? 友達? えっ、友達って今?」
「精々私に恥をかかせないように頑張り給え」
パンッと背中を叩いて彼女の傍から離れる。
「他の心配だなんて、随分と余裕があるんだな」
横から言葉も交わしたこともないウマ娘に絡まれた。
「ゲートが隣だからね。知った顔が陰気臭いと集中し難いんだよ」
「……優しいことだ」
棘のある物言いをして、走り去るのはゴールドウェイ。力はあるウマ娘だと思うが今は余裕がなさそうだ。
「あれは今回、意識から外して問題なさそうだね。追い込みだし」
準備運動も程々にして、順々にゲートに収まる。
スズマッハが少しゲートに入るのを嫌っていたが、特に問題はなく準備は整った。
横目に見る4枠のスズパレードは良い感じに気合が入っている。
まあ私の敵ではない、レース場で友達って言葉は怒るものだと思うけどね?
目を閉じて、大きく息を吸い込んで意識を集中させる。
内枠を取れたのは大きい。距離に不安が残る私がシンボリルドルフを相手に内枠を取れたのは、私に流れが来ている証拠だ。だからといって油断は禁物、焦れ込みは以ての外。シンボリルドルフは強い、それはもう認めている。実力だけで勝つことのできない相手だ。シンボリルドルフ相手に勝つ為には、たったひとつの失敗も許されない。
過去のレース2回で、どれだけ出遅れが勝ち負けに影響を与えるかを知った。
だから、最高のスタートを――ゆっくりと息を吐きながら目を開ける。
作戦や戦法なんてものは、もう充分に考え尽くした。
後はもう走るだけだ。シンボリルドルフよりも早くゴールに辿り着く、それだけの為に全力を振り絞る。
最後に一度、トントンと左脚の爪先で地面を叩き、躊躇はしない。と自らに言い聞かせる。
シンボリルドルフは、それができる相手ではない。
脚に力を籠める。呼吸が整うと同時にゲートが開け放たれた。
開けた視界、例年よりも砂の多い芝を目掛けて駆け出した。
スタートは悪くない。そんな私の横を飛び出したのはスズパレード、その更に奥からは3番人気のアサカジャンボが鼻を取りに行った。私の前方に付けたスズパレードが徐々に速度を落とし、それに合わせて私もバ群の中央付近に位置を取る。シンボリルドルフもスタートが良かったようでするすると上位に入ってきた。
随分と早く仕掛けてくるじゃないか、もうちょっとゆっくりとしても良いんだぞ?
第2コーナーを抜けた辺りでスズパレードが位置を大きく後方に下げる。あまりにも良すぎたスタートに驚いたのか、ちょっとドタバタしている印象。代わりにスズマッハが4番手と大きく位置を上げている。シンボリルドルフは3番手。丁度、バ群から離れる位置を気持ちよさそうに走っている。これは早めに距離を詰めないと手が付けられなりそうだ。
まあ最初から最後の直線に入った時点で、シンボリルドルフの斜め後ろに付けるつもりではいた。
シンボリルドルフの研究は続けてきた。
彼女の強みは末脚の伸びだ。スズマッハのように伸びる脚を持っていながら切れ味も悪くない。
そんな彼女を相手に後方待機の競バでは勝ち目はない。
弥生賞のように1バ身から2バ身の差をキープされたまま負ける事になる。
かといって彼女の前に付けるのも悪手、私の長所である末脚の切れが鈍る為だ。
私は私の長所を間違えない。
シンボリルドルフの脚が鉈の切れ味だとするならば、私の脚は剃刀だ。
第3コーナーの手前、少しずつ距離を詰める。
私が奴を殺すには、一瞬の切れ味で勝負するしかない。
シィィッ、と息を吐き出して、奴が隙を見せるのを待った。
第3コーナーに入った時、私、シンボリルドルフは半ば勝利を確信していた。
スタートは完璧、レース運びも間違いはない。無理のない速度で悠々と先行しての3番手、無理して逃げに入ったアサカジャンボは既に息が切れている。そのアサカジャンボを追いかけた2番手ルーミナスレイサーもまた体力が持ちそうにない。
このまま直線に入れば、勝つ事は難しくない。
スズマッハの伸びは驚異的だが、先行した私の末脚に追いつく程ではない。ビゼンニシキもまた十分に距離が空いた現状では恐るるに足らず、誰にも私の影も踏ませないままゴールまで突っ走るだけだ。
先ずは一つ。栄光への道に目掛けて、第4コーナーに差し掛かる。
「…………?」
背後から音がした、誰だ? 私の脚に付いて来られる者は居なかったはずだ。
私は今、前を走る二人を避けるように外側に位置付けている。その更に外から迫る影に意識を向ける。外から来るとすればスズマッハ、しかし彼女は最終コーナーからのスパートはなかったはずだ。それが出来るのであれば、もっと早くに名前が上がっていたはずだ。ビゼンニシキはバ群の内に埋もれていたはずなので、これもない。他に来る可能性があるとすれば、追い込み戦術のゴールドウェイ。だが今日の彼女は状態が良くなかったはずだ。
では、誰だ? チラリと横目に後ろを見れば、直ぐ横に迫る白き影。栗色の髪を揺らして、ただ前方を見つめて突っ走る。
「ビ……ゼン、ニ……シキッ!」
「捉えたぞ、ルドルフ!!」
何故、此処に!?
混乱する頭、首筋に剃刀の刃を添えられたような悪寒が走った。
しかし、直ぐに意識を切り替える。
「そういう事なら受けて立つ!」
最後の直線、錯乱するよりも早く脚に力を込めた。
私、スズパレードにはビゼンニシキのように外側から巻くって勝ち切るだけの実力はない。
するするっと外に抜け出した彼女を見送り、私は内側で前が開くのを祈った。そして第4コーナーで開けた隙間に目掛けて突っ込んだ。
出だしが遅れるのは仕方ない。これではビゼンニシキとシンボリルドルフを相手に追いつけないが、外側に出ては勝負にすらならないことも分かっていた。これが最善、これが私の最速の道だ。さあ二人は何処まで前を走っている!?
抜き去った先、開けた視界には誰も居なかった。
「えっ?」
困惑する私の外側をオンワードカメルンが抜き去る。
その更に奥で、私達の遥か前をシンボリルドルフとビゼンニシキが走っていた。
……なんで、そんな外を?
よろめく友達の前を、シンボリルドルフが1バ身抜け出した。
シンザンは、私達にとってひとつの到達点だった。
彼女が生み出した偉業の数々は日本の競馬界、今世ではウマ娘界隈を大いに盛り立て発展させることになり、サラブレットとしての遺伝子をより強いものへと加速させる。古くはハイセイコー。TTGの時代を経て、想いはミスターシービーへと託される。
シンザン以来となる3冠ウマ娘である彼女を筆頭に、私達は着実に神馬への高みに手を伸ばしていた。
「……あと少し。……シンザン、ようやく貴女に時代が追いつこうとしています」
芦毛というよりも白毛な私、ハッピーミークは生徒会室へと忍び込んでいた。
私には前世の記憶がある。とはいっても競走馬としての記憶であり、人間の言葉は単語として断片的に残るだけだ。それでも強く印象に残っている馬の名前が、シンザン。前世では新しい2頭の3冠馬の誕生を見届けてから死んでいった。
孤高の苦悩は今世でも残っている。トゥインクル・シリーズを卒業した今、ドリームトロフィー・リーグにおいても彼女は過去の名ウマ娘を蹴散らし、ハイセイコーやトウショウボーイ、テンポイントと云った有数の名ウマ娘を相手に無敗の勝利を続けている。
あまりにも強すぎる為、現在、ドリームトロフィー・リーグよりもトゥインクル・シリーズの方が人気のある始末。
相変わらず、出鱈目なウマ娘だ。
それでも前世では、競馬界がたった一頭の馬を相手に20年もかけて追いついた道のりを、今世では半分以下の時間で追いついている。競馬界の歴史を短く圧縮したようなウマ娘の歴史には、前世では見られた競走馬の何世代かが今世では見られなくなっている。
その世代の内の一つが、前世における私が駆け抜けた時代だった。
毛色は鹿毛、幼い頃は全く見栄えがしないと溜息を吐かれたもので、たらい回しにされるように他の馬主へと売られた経歴を持つ。
そんな私は今世でも見栄えのしないウマ娘として評判だ。
再び馬として――いや、ウマ娘だが、兎に角、ウマ娘として産まれた以上は芝に出て走りたい。ウイニングライブなるものには欠片の興味も湧かないが、前世では取れなかったクラシック3冠の栄光をこの手で掴んでみたかった。
しかし見窄らしい身体の私はトレセン学園への入学も難しいと言われている。もし仮にレースに出るにしても中央よりも地方を薦められる始末だ。
遠戚であり、トレセン学園の生徒会長を務めるハイセイコーの伝手を使って、オープンキャンパスには参加させて貰っているが、やはり身内からは良い顔をされなかった。トレーナーや他ウマ娘も見窄らしい私の事なんて気にも留めず、こうして抜け出しても誰も追いかけて来なかった。
冒険がてらに校舎内に忍び込み、今は生徒会室の椅子に腰を下ろしている。
「……戻りますか」
ひっそりと生徒会室を出た後で、堂々と廊下の真ん中を歩いて帰る。
期待されないことには慣れている。前世よりも頑丈さに劣る今の身体ではオープンクラスに上がることすら難しいかも知れない。
それでも走るのは競走馬だからだ。
ウマ娘になっても走ることに対する本能は欠片も衰えてはいなかった。
さて、皐月賞はもう終わった頃合いか。
録画はしてある、レース内容なんて後で確認すればいい。
今日という日まで、まだ私の予想を覆す結末が訪れた事は、ただの一度だってなかったんだし。
『シンボリ強い! シンボリ強い!』
歓声が上がる最後の叩き合い。
抜け出した、抜け出してしまった。
不本意な結果だが、脚を緩める訳にはいかない。
気付いた時には、全てが手遅れだった。
それに――――
「…………まだ……まだ、だ……!」
――錦の輝きが、衰えない。