12月第4週、中山レース場。VIP席に二人の女性が腰を下ろしている。
片や少女と見紛う小柄な体躯をした女性であり、サファリハットに似た形状の白い帽子を被っている。帽子から伸びる綺麗な栗色の長髪が太陽光を吸って綺麗に輝いており、流星のように真っ白に染まった左の横髪が特徴的だった。もう一人は全身を緑の制服で覆った清楚な女性、小柄な少女の側に控えるように彼女の隣に座っている。
この小柄な少女の名前は、秋川やよい。中央トレセン学園の理事長を務める。その隣に座る女性、駿川たづなは、理事長秘書の地位にある。
「これが見納めになるのかも知れないのだな……」
やよいが心持ち、声のトーンを落とす。
二人が中山レース場に訪れたのは勿論、本日開催の有マ記念を観戦する為だ。今年のトゥインクル・シリーズを締め括る大一番。強いては、皇帝シンボリルドルフの国内最後となるかも知れない勇姿を見る為に、多忙の中、無理やり時間を作って足を運んでいる。
本来、彼女達の立場を鑑みれば、一個人に肩入れして良い立場ではない。
しかし、それでもだ。シンボリルドルフというウマ娘は特別だった。
彼女の鮮烈にて圧倒的な強さは、全国に居る全てのウマ娘ファンの意識を向けさせる。
彼女が英雄であるか、悪役であるか。彼女の立ち位置に関しては数多くの意見が飛び交えど、彼女という存在を無視できる者は誰一人存在しない。
彼女の一挙手一投足が、ウマ娘に関わる全ての人間の注目を掻っ攫うのだ。
現在、日本のウマ娘界隈はシンボリルドルフが中心で回っていると言っても過言ではない。
今となってはもう誰も「シンザンを超えろ」等とは言わない。
シンボリルドルフは、トゥインクル・シリーズという歴史において、シンザンの功績を過去にした。
「のう、たづな? 再びターフを走りたいとは思わないのか?」
たづなは、少しだけ考え込むそぶりを見せた後、いえ、と首を横に振る。
「私はあの子に託しました、あの子が居たから引退できました。あの子が負けるなら、きっと私では歯が立ちませんよ」
そういう理事長は如何なんです? という問いにやよいは「うむ!」と手に持った扇子を勢いよく開いてみせる。
「私は戦績は、そこまで良い訳じゃないからな! 昔ならいざ知らず、今の日本のウマ娘達には勝てる気がしないぞっ!」
からからと笑う理事長の姿に、たづなは静かに目を細める。
嘗て、無敗のウマ娘が居た。
彼女は余りにも強くて、何処まで走っても手が届かないという意味を込めて、幻のウマ娘とも呼ばれていた。トゥインクル・シリーズを卒業した後、ドリームトロフィー・リーグに転向するも彼女を止められる者は存在せず、当時、最強と名高いセントライトまでもを打ち倒し、引退にまで追い込んだ。
それから先、十年以上もの年月を彼女は無敗で居続けた。
積み重ねた連勝記録は三桁にも及んだ。
そんな彼女の無敗記録を止めたのは、五冠ウマ娘のシンザン。
幻のウマ娘は初めての脅威に心を昂らせて、幾度とレースを繰り返した末に敗北を積み重ねた。
この時はもう彼女は幻のウマ娘ではなかった。
彼女はもう手が届かない幻の存在ではなくなってしまっていたのだ。
トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラス。そしてマルゼンスキーの登場によって、彼女は優勝すらも難しくなった事を実感し、これから先の時代を戦い抜く事ができないと引退を決意した。
「疑問! ルドルフはシンザンに勝てると思うか?」
「……可能性はあります。とはいえ、私と違って彼女は時折、負けることもありますけどね」
「それは、たづながおかしいだけなのでは?」
まあ良い。と、やよいはトラックコースに視線を移す。
これから始まる大舞台、観客席は超満員。彼女達が走る2分30秒の為だけに20万を超えるウマ娘ファンが集まった。
秋川やよいは先ず、全てのウマ娘の無事を祈り、トラックコースを見据える。
無意識に探してしまうのは、やはりシンボリルドルフであった。
◆
これは今よりも半世紀以上も昔の話だ。
私達の世界では、天皇賞を優勝した競走馬は春秋問わず天皇賞に二度と出走することはできない決まりがあった。短距離マイル路線が整備されていない時代、牝馬三冠には秋華賞ではなく、エリザベス女王杯が組み込まれていた頃だ。
当時、ジャパンカップもなければ、ホープフルSもない。大阪杯はGⅡ相当のレースであった。
その限定された環境下で五冠を達成したシンザンの偉業は、現在とは比較にならない価値がある。
それは皇帝シンボリルドルフにも同じことが云える。
ジャパンカップというレースは増えたが、シンボリルドルフが走っていた時代は丁度、国際向けに重賞を整備している真っ只中の話だ。
彼の競走馬には、好敵手と呼べる存在は居なかった。と云う者も中には居る。
しかし彼女には偉大なる先輩が居た。ミスターシービーから始まり、カツラギエース。ニホンピロウイナーやギャロップダイナと云った名馬達がシンボリルドルフの前には立ちはだかった。その一つ下の世代であるミホシンザンは、二度目の骨折をする前は破格の実力を持っていたことは語るまでもない。
そんな強敵を相手に、真っ向勝負で打ち勝ったのがシンボリルドルフという競走馬なのだ。その過程で得た七冠馬の称号は、決して過去の栄光だからと蔑ろにして良いものでは決してない。
無論、これは未来の名馬を軽んじるものではない。
ただ知って欲しいのだ。
自国での敗北は一度きり、文字通りの常勝馬ディープインパクト。一年間無敗を貫き通した世紀末覇者テイエムオペラオー、牝馬でも牡馬に決して劣らないことを証明してのけた時代の先駆けウオッカ。今も語り継がれる多くの名馬を相手に激戦を繰り広げながらもGⅠをもぎ取り続けたジェンティルドンナ、賞金王キタサンブラック。そして、今や頂点、GⅠ九勝馬アーモンドアイ。
そんな現在の名馬達と並んでも引けを取らない偉大なる競走馬が居たことを知って欲しいのだ。
正史のシンボリルドルフには、ドラマチックな勝利はなかった。
ただ強い。それこそがシンボリルドルフを語る、唯一の言葉であると心得る。
国内において、シンボリルドルフが最後まで負け越した相手はただの一頭も居なかった。
◆
舞台裏。パドック会場まで続く長い道のり、蹄鉄で地面を打ち鳴らす音が響き渡る。
その道中で幾人かのウマ娘と擦れ違った。浮かべる表情は様々だ。
向けられる感情で多いのは敵意。このピリピリとした緊張感が心地よく感じられる。
もうすぐレースが始まるんだと、そんな気にさせてくれるのだ。
ドリームトロフィー・リーグが残っている。
しかしトゥインクル・シリーズで走るレースは、これが最後になるかも知れない。
そう思うと、不思議と力が入った。
気負い、とは少し違っている。滾る、とでも云うべきか。
バチリ、と全身から青白い稲妻が迸る。
そんなイメージ。大気が震える。一歩、踏み出せば、風が吹き抜けた。
実際に、そんなことは有り得ない。起きるはずもない。
無作為の重圧が、周囲を圧迫する。
シリウスシンボリが冷や汗を流す、サクラユタカオーが唾を飲み込んだ。ニシノライデンが強張った笑みを浮かべて、スズパレードが恐怖を押し殺すように睨み返してくる。多くのウマ娘が威圧される中で、二人のウマ娘だけが顔色をピクリとも変えなかった。
片やミホシンザン、片やギャロップダイナ。
ミホシンザンは、私の事なんて視界にすら入っていない様子で直ぐ隣を横切る。ギャロップダイナは、まるでファンに向けるような熱い視線を崩すことはしない。
二人の様子を頭の片隅に置いて、パドック会場の赤いカーテンの裏で待機する。
『彼女を紹介するのに、多くの言葉はいらない! 皇帝。その一言で全てが事足りるッ!!』
そんな前口上と共にカーテンが開け放たれる。
私は悠々と歩を進める。
ファンの夢、トレーナーの夢、ウマ娘の夢。
今まで関わってきた全ての想いを結集した夢の舞台、夢の祭典。
その有マ記念の壇上に今、私は上がる。
『3枠6番シンボリルドルフは堂々の1番人気だッ! 文句なしのトゥインクル・シリーズ最強のウマ娘ッ!!』
その時、中山レース場が、揺れた。
今日、集まってくれたウマ娘ファンの大歓声を一身に受ける。
それだけで私は幸せ者だと、感じ入ることができた。
惜しむ気持ちはある。
今日を素晴らしいレースにしたい。
全ての力を出し切りたい。全ての想いを打ち明けたい。
その一心で、私は口を開いた。
「我の前に道はなし……」
既に六冠を手にした私は今、前人未到の境地にある。
「なればこそ……勇往邁進!」
此処から先は私だけが歩める道、まだ誰も辿り着いた事のない真っ新な雪原を足を踏み入れる。
「道は自ら、切り開く……!」
この言葉は激励でもあった、挑発でもあった。
玉座は此処にある。欲しけりゃくれてやる、私が居なくなった日本で好きに座れば良い。
私の到達点は此処にはない。その遥か先を目指して、歩みを進める。
踵を返し、パドック台を後にする。
今日、有マ記念に出走するウマ娘は、これが私を打ち負かす最後の機会かも知れないことを、
確と心得ておくべきだ。
次回、出走ウマ娘紹介。その後、出走です。