ラミアは暗闇の中をもろともせず、目的地に向かっていた。
彼女の瞳はどんな暗闇の中でも、詳細に物を捉えることができた。
彼女に託された任務は、ドイツ軍の機密文書を持ちだすこと。
ドイツ軍の機密文書には、エヴァンゲリオンの設計データも含まれている。
軍の情報を持ちだすことは簡単なことではない。
特に欧州の基地はサイバーテロに強く、かつてアメリカのテスラ研究所で生じた大規模なサイバーテロのようなものは一切起こらなかった。
アメリカはもともと対立するものたちを無理やり統一してできた国。愛国心に篤くない者もたくさんいる。余計にテロの温床になりやすかった。
ドイツもさまざまな対立と戦争の中で歩んできた国であるが、その中で生まれた鉄のヒエラルキーが国民をうまく統率してきた。
だが、ラミアはそのガードを堂々と突破してしまった。
本来、このような任務は命がけであり、手練れのテロリストであったとしても、プレッシャーを感じるものだ。
しかし、ラミアはそういうものを感じていなかった。人間ではなくサイボーグではないかというほど、すべての行動が落ち着いていた。
ラミアは目的の場所にたどり着くと、素早い手つきでパスワードの解除を始めた。
あらかじめ訓練されているとはいえ、初めて見る機械を扱うのだから、普通なら焦りを感じるものだが、ラミアは終止落ち着いて、すべてのロックを解除した。
だが、最終局面で、ラミアにとある誤算があった。
それは基地の電源を破壊する際に、機密文書保管庫のシステム電源だけ残すというやり方をしていたが、いくつかのシステムが外部の電源に依存していたため、最終ロックを解除する際のオペレーション装置が起動しなかった。
「まずいな。15分以上のロスだ」
それでも、ラミアは慌てず、携帯していた小型バッテリーを装置の電源につないで、装置を起動させた。
装置が立ち上がるまでに時間がかかった。
起動すると、パスワードの入力画面が出た。
装置の起動に際してもパスワードが設定されており、ラミアにとってはそれも想定外だった。
パスワードは約380万桁の数字およびギリシャ文字とドイツ軍で使用される暗号文字の組み合わせで成り立つ。
ラミアはこのパスワードをハッキングによって無効化しようと、装置に携帯していた小型タブレットを接続した。
その間に時間だけがどんどん過ぎていった。
◇◇◇
加治は機密文書の保管庫の前にやってきた。
その通路にすぐ入るのではなく、たばこに火をつけて一服した。
この男も、こんな状況であるにも関わらず、マイペースだった。
一服落ち着くと、そのまま通路の先を目指した。
人の気配を察知したラミアは作業を中断した。
ラミアの携帯品の中に、ハンドガンがあった。武装していない人間ならば、それで対処することが可能だった。
ラミアは近づいて来る足音に集中した。
すり足で近づいて来ているわけではなく、警戒心を感じさせる足つきでもない。
まるで散歩でもするような足取りだった。
ラミアはハンドガンのロックを解除した。
「しまった。肝心なものを忘れた。まあ、いいか」
男の抜けた声が聞こえて来た。どうやら、戦闘に心得のある人物ではないと見えた。
それでも、ラミアは警戒心を忘れずに、壁越しに息を殺した。
人物の足音に合わせて、ラミアは絶妙なタイミングで飛び出して銃を構えた。
相手が誰だろうと射殺するつもりだったので、標的を捉えると発砲した。
しかし、ラミアにとって想定外のことが起きた。
ラミアが発砲するよりも早く、その人物は発砲していた。
警戒心のない足音、抜けた声。
そこからは想像もできないほどの早業。
ラミアは右肩を撃ちぬかれ、携帯していたハンドガンを失って転倒した。
「こんな危ないものを持ってちゃダメだぜ、子猫ちゃん」
加治は床に転がったハンドガンをゆっくりとした手つきで回収した。先ほどの早業から一転、加治の動作はすべてがゆっくりだった。
ラミアは銃を失って、右肩を損傷した。しかし、それでも、ラミアの表情はまったく変わらなかった。
ラミアはすぐに次の行動に移ろうとした。
しかし、さらにラミアにとって想定外のことが起きた。
いくつかのシステムが壊れてしまっていた。同時に、記憶の一部も失われ、なぜこの場所にいるのかも思い出せなくなった。
「さて、教えてもらおうか。なんの目的でここにやってきたんだい?」
「……」
ラミアは何もしゃべらず、故障したシステムの修正を図ろうとしたが、この場での修正はできなかった。
「聞くまでもないか。しかし、こんなところに入ってもろくなものはありゃしないぜ。飯はまずいし、給料は安い。そのくせ激務だしな」
加治はそう言って笑った。
ラミアは無理やりシステムを修正しようと、あちこちのシステムをいじった結果、さらに体全体のシステムがおかしくなり始めました。
「おほほほほほほほほほほ」
「……?」
突然、目の前の女性が笑い始めた。普段から、どんな相手にも柔軟に対応する加治も首をかしげざるを得なかった。
「今日はいい天気でございますですね。こんな陽気の日には、素敵な殿方と二人きりで過ごしちゃったりなんかしてみたいでございますですわね」
――く、いかんな……言語システムの障害が修正できん。
ラミアは言語システムを通して言葉にする内容を決めている。しかし、そのシステムが先ほどの衝撃で破損したようだった。
「はははは」
加治は笑うと、相手に会わせて話し始めた。
「そいつはちょうどいい。おれの部屋にいいワインがあるんだ。ケチな上司が軍の金を私的に使ったのがばれて、証拠隠滅のためにおれによこしたマルゴーのワインさ。どうだい? 今からおれの部屋に来ないかい?」
「それは楽しみでございますですわ。ほほほほ」
テロリストとの対峙はおかしな方向に進み始めていた。
◇◇◇
一方そのころ、基地は空軍の本基地に被害を届けていた。本基地からは即座に部隊を送ると返信してきた。
「本部のすぐは1時間後だ。1時間もこんな真っ暗闇なんて冗談じゃない」
スタッフの一人が嘆くと、別の反応をするスタッフもいた。
「こういうときこそ、男を上げるチャンスさ。経理のピーナちゃんにアプローチしてみせるぜ」
「ちょっと、こんなときにどこ触ってるんですか。セクハラで訴えます」
「違う違う、わざとじゃない。暗くて見えなかったんだ」
暗闇で一部の通信機以外は利用できない状態だったので、調子に乗るスタッフも出て来た。
「ところで、加治のやつはまだ戻ってこないのか?」
「あいつのことだ。どこかで女にちょっかい出してるんだろ」
「経理のピーナちゃんに手を出したら許さねえ。おーい、ピーナちゃんはどこにいるんだい?」
テロリストの攻撃を受けたにも関わらず、基地内は愉快な雰囲気に包まれていた。
一方そのころ、アラドとアスカは加治に言われたとおり、電源の復旧に乗り出していた。
しかし、復旧の方法がわからなかったので、生き残っていた電波通信機を用いて、他の空軍基地に、被害状況を伝えたところで、やることがなくなった。
「ちょっと加治さんの様子を見てくるわ」
アスカはそう言うと、加治が残してくれた唯一の懐中電灯を手に取った。
「ここで待機してろって言われただろ。勝手な行動をするなよ」
「あんたはここにいなさいよ」
「それ持ってったら、ここも真っ暗になるだろ。だったら、おれも行くよ」
アラドはアスカについていくことにした。
基地の地下施設は本当に真っ暗だった。保険まで科学の力に頼り切っていたため、こういうときに機能するアイテムはほとんどなかった。
アスカの照らす懐中電灯の光だけが頼りだった。
地下は複雑で広い。普段、この基地を使わないアスカにとっては右も左もわからなかった。
「ここどこ?」
「はあ?」
アスカが突然振り返って尋ねてきたので、アラドは愕然とした。
「なんだよ、わかって進んでたんじゃないのかよ。さくさく進むからてっきりそう思ってたぜ」
「格納庫って書いてあったから来たのよ。でも、たどり着いたのはなぜか衛星通信室だったのよ」
「侵入者を騙すためのダミーだったってことか? 味方が騙されてどうするんだよ」
「だから聞いてんでしょ。あんた、ここまでの道、覚えてないの?」
「おれはアスカについて歩いてただけだよ」
「使えないやつね、ついてきただけって。あんたカモ?」
「無茶苦茶言うなよ。だいたい、加治さんのところに行くと言い出したのはアスカだろ」
ここで言い合いをしても解決しなかったので、アスカは来た道を引き返して進み始めた。
「なあ、勝手な行動はせず、電源が戻るまで待ってたほうがいいんじゃないか?」
「ダメよ。なんか胸騒ぎがするのよ。加治さんの身にあったんじゃないかって」
アスカははりきっていた。恋する男のために夢中になると止まらなかった。
「加治さんに限って滅多なことはないと思うけど。それにあの人影がテロリストと決まったわけじゃない。格納庫の整備士かもしれねえし」
「違うわ」
「なんでわかんだよ?」
「女の勘。あの人影はろくでもないやつに違いないわ」
アスカはその勘を頼りに進んだ。
しかし、進んでも進んでも長い通路が続くばかりで、まるで迷路だった。今度は「地下陽子核炉」にたどり着いたので、また引き返すことになった。
「ねえ、アラド」
アスカは歩きながら、唐突に声を上げた。
「あん?」
「あんた、ゼオラとはどこまでやったの?」
「はあ?」
アラドは思わず、大きな声を上げた。
「あんたら付き合ってたんでしょ? ゼオラは教えてくれなかったけど、キスぐらいまではいったの?」
「い、いってねえよ。つーか、別に付き合ってたとかでもねえし……」
アラドはもじもじと声を潜めた。
「なに緊張してんのよ。あんたらが付き合ってたって軍の中じゃけっこう有名な話よ」
「それは誤解だ。別に付き合ってたとかじゃなくて、たまたま小隊の配置が隣だっただけだよ」
「ふーん」
アスカはそう言うと、おかしそうに笑った。
「まあ、そうよね。私がまだなのに、あんたみたいな臆病な落ちこぼれがそんなに進んでるわけないわよね」
「……」
アラドは不服そうにしながらも声を抑えた。
「じゃあ、私としてみる?」
「はあ?」
突然のアスカの申し出にアラドは飛びあがった。
何かの罠かとも思ったが、アスカの狙いがさっぱりわからなかった。
「なにびびってんのよ。ただの遊びなのに。いまどきキスなんて挨拶みたいなもんでしょ」
「……」
アスカの言い分が正しいかどうかはわからなかったが、たしかにアラドがドイツ空軍傘下にいたころに、部下に挨拶代わりにキスをする上官がいたのは確かだった。
「やっぱ、あんたは臆病者ね。そんなんで戦争なんてとうてい無理ね」
「待て。別にびびってるわけじゃねえ。でも、お前のことだから、あとで強制されただのなんだのと言いがかりつける」
「そんなことするわけないでしょ。私をなんだと思ってんのよ」
「狂暴猫。軍の中じゃ有名だぜ。ラトやプルは純情だったけど、お前とゼオラは狂暴猫だから近づいたら引っかかれるってな」
アラドは本音をぶちまけた。
それを聞いたアスカは唐突に懐中電灯を投げ捨てて、素早くアラドに接近して、そのままアラドを壁際に追い詰めた。アラドの背中は何かの扉になっていて、「格納庫」と書かれていた。
「ずいぶんな言い草じゃないの。なら、そのイメージを変えてあげるわ。どう?」
「ど、どうって」
「本当に私が狂暴かどうか確かめてみたら? 別に暗闇で誰も見てないわよ」
アスカはそう言うと、アラドと体が触れ合う距離まで近づいた。
「ぐ……」
アラドは息を呑んだが、近くで感じるアスカの感覚に引きずり込まれた。手を伸ばすと、アスカの体に触れた。
それでも、アスカは抵抗しなかった。
アラドは表情を作り直した。
「ほ、本当にいいんだな?」
「いいわよ」
アスカはそう言うと、目を閉じた。
◇◇◇
そのころ、加治はラミアに殴られていた。
あの後、加治が隙を見せたところで、突然襲い掛かってきた。
よく訓練されていたようで、打撃の精度は高く見のこなしも俊敏だった。肩を怪我しているとは思えないほどだった。
加治は床に転がった銃を拾い上げようとしたが、ラミアに阻止された。
こうなったら、やり合うしかない。
加治は立ち上がると、ラミアの打撃をブロックした。
「ずいぶん荒々しいな。こりゃ扱いが大変だ」
「ほほほほ、わたくし、隊長からこんな暴れ馬は乗りこなせないとお褒めになっているでございますですわよ……といかんな」
「おれももう暴れ馬は懲り懲りだぜ。さんざんやり合ったからな」
加治はラミアをある女性に見立てた。
拳の力強さも鋭い前蹴りもその女性を彷彿とさせる。
しかも、寝技に持ち込めば、さらに狂暴性を発揮するのだから、タチが悪かった。
加治は何とかラミアの拳を封じ込めて、床に叩き伏せた。
「殿方、ひどいですわ。か弱い女をこんなに乱暴に扱うなんて」
「こんなことで根を上げてもらっちゃ困るな。夜はまだまだ長いぜ」
ラミアは先ほどのやり取りの中で銃を拾っていたので、それで加治を殴りつけた。
振りほどくと、容赦なく発砲してきた。
加治はかろうじて弾をかすめるようにかわすと、もう一度ラミアを押さえつけた。
腕力がものを言う態勢に持ち込むと、ラミアも抵抗できなかった。
加治も軍の訓練で格闘技のイロハを持っていたから何とかなった。
「やっとこさ殴り合いから技術者の世界に転身できたってのに、またこんな目に遭うとは思わなかったぜ」
ラミアも格闘技の造詣があり、最後まで抵抗しようとしたが、加治は完全にロックして押さえつけた。
――ダメか、抵抗できぬ……。任務失敗か。
任務失敗は死を意味する。ラミアは体の力を抜いた。
「ようやくおとなしくなったか。やはり女はそうでなくちゃな」
「一思いにやってくださいませでございます、殿方」
「楽しみは後に取っておくのがおれの主義なのでな」
そのとき、失われた電源がオンになった。
施設内のすべての明かりが一斉に点灯し、格納庫の扉もオンのスイッチが入り、開かれた。
「うわっ」
突然、背中を失ったアラドは後方に転倒。アスカも前のめりにアラドを押し倒すように落ちた。
ちょうど、加治がラミアを押さえつけていたところで鉢合わせになった。
アスカが顔を上げると、謎の美女に馬乗りになっている加治の姿が見えた。
「加治さん……何やってるの?」
「お、お前たちこそ」
その後、基地にやってきた部隊がライフルを構えて、格納庫のほうになだれ込んできた。
「大丈夫か?」
しかし、現場にはいちゃつく男女の組がいるだけだった。
「なんだよ、お取込み中か。それは失礼した」
今回のテロ事件では、死者はゼロ。一件落着となった。