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( やはり僕は荷物が少ないんだろうか )
クローゼットに風呂のついたワンルームに腰を下ろして、花井春樹はひとり思う。この部屋に引っ越してくる前にさんざん幼馴染に指摘を受けた部分だ。春樹からすれば最低限生活に必要な自炊関連のものに白物家電、勉強や食事に使えるテーブルに寝具、それから本棚があればそれでじゅうぶんな環境なのだが、一般的な観点からすればそれだけでは明らかに足りないらしい。たしかにニュースが見られないという点でテレビは欲しいし、勉強のお供にラジオがあればなお良しといったところだ。ただそれはあくまでわがままであって、無いなら無いで済ませてしまえる範囲のものでしかない。春樹自身の考えがその程度のものだから部屋を圧迫する物が増えることなどなく、そのすっきりした部屋を見たのが彼の抱いた感想の理由である。
まだ早春の冷たい風が春樹の頬を撫でる。カーペットも敷いていないフローリングに太陽の光が反射して眩しい。窓の向こうの見慣れない景色が彼に新生活を実感させる。来月になれば、それにはまだ二週間あるが、彼は大学生になるのだ。早めにできる限りの生活基盤を確立しておきたいことを考えれば、大学が始まる前のこの時期からもう忙しくなる。春樹もこのあと出掛けて昼食を摂りがてら近所の様子を確かめるつもりでいた。本当なら先に同じアパートの住人に挨拶を済ませておきたかったのだが、先ほど確認したところ見事に誰もいなかったのだから仕方がない。そろそろ出かけようかとスマホで時間を確認すると11:59の表示があった。
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駅前は西側と東側に分かれており、それぞれの名前がついた商店街が伸びている。東京だからといってどこもかしこも高層ビルが建っているわけもなく、二階三階の建物が並んでそこに様々なテナントが入っている。多くは食事のための店だが他にも美容室や花屋、カラオケボックスに携帯ショップに果ては工房なんてものも店を構えている。もちろんスーパーマーケットも駅からすぐのところにあって、基本的にはそこで多くの物を買いそろえることになりそうだ。望み通りの本や家電となると電車に乗って買い求めなければならないだろう。西も東も商店街を抜ければ住宅地となっており、そうなるとコンビニや小さな公園がちらほら見受けられる程度に落ち着く。東側をしばらく進むと川にぶつかり、それなりに広い河川敷が春樹を待っていた。春樹の住むアパートは西側にあるから川まではそれなりに距離がある。
食事を済ませて駅周辺を見終わるころにはもう夕方で、高い建物のない街にはよく夕陽が刺さった。春樹がアパートに着いて階段を上がるとがたがたと音がする。どうやらお隣さんは部屋に戻ってきているらしい。これは挨拶をするチャンスだな、と春樹の気分はすこしだけ弾んだ。もともとが律儀な男なのだ。挨拶をしないなどとは欠片も考えない。その顔は地元で売っている茶菓子を片手に隣の部屋のピンポンを鳴らす気満々のものだった。通りがかりにアパートの玄関に設置された郵便受けを思い出す。隣の部屋番号に書かれた苗字は見慣れないもので、初めてその文字の並びを見たときから気にはなっていた。
( しかしあれ、どういう読みをするんだろう。じゅうじでいいんだろうか……?)
日持ちのしない挨拶の品を渡すのもどうだろうと考えた春樹は、悩んだ結果サブレをその品に選んでいた。地元で売っているというだけで銘菓とまでは言えないが、早く食べるのを強制するよりはそのほうがいいと判断したのだ。それにあまり高級過ぎても引かれてしまう。その辺りの気遣いは実家で叩き込まれており、初対面の相手に渡すものとしてはバランスの取れたものと言ってよさそうだった。
準備を終えた春樹が喉の調子を整えてチャイムを押すと、どったどったとせわしない音が奥から聞こえてきた。鍵を開ける音がして、はぁい、と甘いと形容するしかない声とともに当然ながら女性がドアを開ける。そうして春樹の目に飛び込んできたその女性はずば抜けてかわいらしい顔立ちをしていた。ただそれ以上に油断しまくりな格好をしていた。ほとんど肌着レベルのキャミソールにホットパンツのみの立ち姿は女性性を象徴する部位をこれでもかと強調している。端的に言ってしまえば胸が大きいのだ。それの上にキャミソールの生地が乗っているようなもので、男の目などどれだけ紳士を装ったところでそこに行かざるを得ない。他にもその女性には魅力的な点がいくらもあったのだが、ドアを開けて出てきた一瞬でそちらに目を向けるのは難しいだろう。高校時代を通してクソ真面目で律儀で損な性格と言われ続けた春樹でさえわずかなあいだ抵抗できなかった。しかし彼はその一瞬の直後に自分の手でメガネの前を塞ぐことに成功した。一度はしっかり視認してしまったとはいえ、これは驚異的な自制心と評するほかないだろう。
「き、君! 見なかったことにするから、なにか他に着たほうがいい!」
「えっ? わっ、ご、ごめんなさい、お見苦しいものを」
そう言って女性が奥に引っ込んでいって、またどたばたと音が聞こえてきたとき、春樹は全力で安堵していた。いくらなんでも見ず知らずの女性のあんな姿を相手に平常心を保てる気などまるでしていなかったし、実際にメガネの前をまだ手で塞いでいるくらいだった。それにしても、と春樹は思う。世の中とはこうもインパクトの強い人間であふれているのだろうかと。通っていた高校は異次元と呼べるほど濃ゆいクラスメイトたちが揃っていたと春樹は思っていたが、それに引けを取らない人物と東京で会うのはこれでもう二人目だ。この調子でいけばどんな人と知り合うのかなど知れたものではない。あるいは奇跡のような確率で立て続けに出会ってしまったのかもしれないが、それを確かめるのには多少の時間がかかりそうだ。とはいえ春樹は自身がその濃ゆい人物に含まれていることをちっとも考えていない辺りもうすこし自省の必要がありそうだった。
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「君もこの春から大学生なのか」
「そうなんです。秋田から上京してきたんですよ」
「秋田からか、ずいぶん遠くから来たんだね」
再び出てきた彼女と玄関口でやり取りしているうちに、春樹はいつの間にか部屋に上げられて身の上話に花を咲かせていた。というのも春樹が持ってきた挨拶の品は日持ちはするが量が多く、一人で食べきるのは大変だと言われてしまったからだった。言われてみればその通りだと彼も思ったし、相手が女性ならなおさらだろう。そんなこんなで春樹は一人暮らしの女子大生の部屋でお茶をご馳走になっており、挨拶に来たつもりが完全にもてなされてしまっていた。
段ボールが部屋の隅に固まっているところを見ると彼女もこの部屋に越してきて浅いのだろう。しかしそれでもどう見たところで春樹の部屋と比べると色調が明るいし、ぬいぐるみや小物なんかが散見される。彼の中にも比べる対象がいるにはいるが不適と思われるため断定はできない。が、これがきっと女の子らしい部屋なのに違いないと春樹は一人で納得していた。そして自分の部屋とどういう点において異なっているのかを確認するために、まるで異国文化に触れるがごとく室内を眺めまわしていた。初対面を相手に失礼極まりないとはこのことである。
「もうっ、ダメですよ。女の子の部屋をそんなに見回しちゃ」
「あっ、いやすまない。同じ部屋といっても自分のとはこんなにも違うのかと思うと興味深くて」
「まだ片付いてなくて恥ずかしいんですからね」
「僕にはずいぶん整頓されてるように見えるよ。段ボールを捨ててないだけの話じゃないかな」
「それが恥ずかしいって……、あっ、ひょっとしていじわるで言ってるんですか?」
きょとんとした顔を見る限り春樹に悪意がまったくなかったことは誰にでも簡単に見て取ることができた。おそらく春樹と彼女とでは基準点が違うのだろう。もちろん一概に言うことはできないが、引っ越してきたばかりという前提条件がつけば、いや仮にそんなものがなかったとしても部屋に段ボールを束ねたものが置いてあったところで嫌悪感を示す男性はそこまで多くはない。春樹は当然のようにそんなことに気を掛けなかったし、それどころか関心はむしろ彼女なりの飾りつけのほうに向かっていたためそんなものは気にさえならなかったのである。
一拍置いて二人は同時にくすっと吹き出した。初めて会ったばかりなのに、性格によるものからか実直にしか振る舞えない春樹のことがおかしくなったのだろう。不思議な感覚だった。言葉を通さずに “わかる” というのはいかにも不安定そうに聞こえて、共有された二人からすればこれ以上ないほどぴたりと来るのだから面白い。
二人してくすくすやっていると、途端に春樹がぽんと膝を叩いて叫んだ。
「いったい何をやっているんだ僕は! これだけ話しておいてきちんと挨拶すらできてないじゃないか! 自己紹介が遅れて申し訳ない、僕は花井春樹。これからよろしく頼む」
「あ。私は十時愛梨って言います。こちらこそよろしくお願いしますね」
「そうか、トトキと読むのか。気になっていたんだ、君の苗字」
「えへへ、すごく珍しいみたいで。よく聞かれるんですよ、読みかた」
なんとも奇妙なタイミングでの自己紹介は、もう一度ふたりの笑いを生き返らせた。ずいぶん季節感のある名前だと愛梨が言えば実に整った名前だと春樹は返した。ついで春樹が買ってきたサブレを食べて、おいしいけど一気にたくさん食べる品ではないねと視線を合わせてどちらもちょっと困ったというふうに確認した。
そうこうしているうちに時間は経って、引っ越しの挨拶にしてはさすがに長居をしすぎだろうというくらいになってきた。愛梨は楽しそうにしているためどう考えているかはわからないが、春樹のほうが失礼を働いているのではないかという疑念に捉われはじめた。初対面でずるずるいくのは良いとは言えないだろう。その考えに至った春樹は意を決して退室することにした。
「十時くん、今日はずいぶんと話をさせてもらって楽しかったけど、きっとこれ以上長居するのは失礼にあたるだろう。だから今日のところはお暇させてもらおうと思うんだが」
「私はとくには構いませんよ? 楽しいですし、お隣さんなんですし」
「そう言ってもらえると気がラクになるが、もともと挨拶に訪ねただけだからね」
「あ、言われてみればそうですね。ふつうに友達とおしゃべりしてるつもりでした」
「僕もだ。もし君さえよければこれからも仲良くしてくれると嬉しい」
「そんな、こちらからお願いしたいくらいです。これからよろしくお願いしますね」
だって、と愛梨が一言で切ったあと一拍置いて、お隣さんだからと二人で口をそろえると、また春樹と愛梨は笑い始めた。外から見ていてとくに面白い会話内容ではなかったが、その場にいる者にしか通じないなにかがあるのかもしれない。その深いところはわからないが、ただ二人の人畜無害な相性だけは誰に見せてもうなずくところだろう。
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春樹が部屋に戻って水出しの麦茶をコップに注ぐと、スマートフォンがバイブレーションとともにちゃぶ台の上をわずかに移動した。誰かからの連絡かと思って覗いてみれば、つい今しがた連絡先を交換したばかりの愛梨からのメッセージが入っている。絵文字にスタンプ付きのかわいらしいもので、なんだか春樹にはちょっと眩しい。少なくとも春樹のこれまでの交友関係でこういう機能を使いこなせる人間はあまりいなかった。もちろんゼロというわけではなかったのだが、悲しいかな普段のクソ真面目な生活態度のおかげでその能力を春樹に発揮する女子はいなかった。もちろん男子が彼に対してそんな絵文字でメッセージを送ってきても怖いだけである。
そこには先ほども言葉で交わした “これからもよろしくお願いします” という文面があって、春樹は彼女の礼儀正しさに感心した。それほど使い慣れているわけではないスマートフォンをどうにか操作して、こちらも先ほどとほとんど同じような文を返す。絵文字は恥ずかしさが勝ってしまいまだ使えないが、高校三年の時代にせめてスタンプは使えないとコミュニケーションに悪影響が出ると徹底的にしごかれたおかげで最低限のスタンプだけは使えるようになっている。春樹的には場面に合わせたスタンプを選んで文のあとに押した。なかなか満足な出来になったので気を良くした春樹は、一服したら取り掛かろうと考えていた部屋の片づけにさっそく手を付け始めた。