反重力感覚   作:箱女

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B-01 人助けが縁のひとつになるとあなたは知っているかな

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 春樹が考えていたよりも早くに生活のリズムは整って、あとはアルバイトを探せば万事問題なしというところまで来ていた。しかしまだ入学前の身だ。できれば講義の時間を決め切ってからアルバイトを探したいと春樹は考えていた。そもそも受験勉強から卒業式を経て早めの引っ越しとかなり詰め込んだスケジュールを送ってきていたのだ。ちょっとくらい予定に追われることのない時間を楽しもうとしたってバチなんて当たるわけもない。むしろ周囲の人間から言わせればもっと自分のために時間を使えと言われるくらいだろう。そんなことを知ってか知らずか、春樹は新しいことに挑戦しようと本屋に向かうつもりになっていた。

 残念なことに春樹の最寄り駅には本屋がなく、とりあえず知っている限りでは三つ先の大きな駅ビルに入っている店が利用しやすいものだった。本当ならそのまままっすぐ向かってもいいのだが、やはり今のアパートに居を構えてから日が浅い。当然ながら周辺の地理にも疎い。そういう事情もあって春樹は自転車にまたがった。もしかしたらその駅ビルにつく前に隠れた名店のようなものを見つけることもあるかもしれない。知らない街というのは得てしてそういうものだ。春樹もこれから冒険に出かけるような珍しい高揚感を味わっていた。いかにクソ真面目な堅物といえど十八歳であることを考えれば自然な反応といえるだろう。

 

 まだまだ冷たい早春の風が首元を通り過ぎていく。しっかりとアウターを着こまなければ三月中旬の朝は寒いことのほうが多いものである。自転車に乗るならなおさらだ。時間帯を考えれば当然のことだが、街中は年配者や主婦と見受けられる人々が散歩をしている姿が多かった。ときおり犬を連れている人もあった。たとえば卒業したての学生がもっといてもよさそうなものだが見当たらない。もっと早くから出かけているのかもしれないし、逆にお昼を過ぎてから遊び始めるのかもしれない。買い物をするために開店時間近くに店に向かうのはたしかに珍しいかもしれない、とは春樹の考えるところでもあった。ともあれこれから知っていく町並みから疎外感のようなものを受けないのは良い兆候だった。

 目的の駅に近づいたところで春樹はある場所を探さなければならなかった。駐輪場である。まさか法学を修めるつもりの彼が路上に自転車をほうっておくわけにもいかないだろう。さすがに駅ビルの近くか、あるいは駅ビルの中にそういった施設が備えられているだろうことは予想がついたので、春樹は自転車をおりてその辺をうろつくことにした。

 なぜ彼がここの駅ビルに本屋があることを知っているかと言えば、いま住んでいるアパートをこの駅の近くの不動産屋で見つけたという縁があった。ただその用事が終わったあとに出くわしたイベントのほうが、もしかしたら彼にとっては大きなことだったのかもしれない。それは花井春樹という個性にあっては実に自然なことであって、春樹からすれば当たり前の、正義感にすら属さないような事件であった。

 

 

―――――

 

 

 内見を済ませて店舗で一定程度の話を進め、さて帰ろうと駅に向かう途中に彼女はいた。いたという表現よりはそこになんとか立っているといった具合だった。肌の血色は悪く目はわずかにくぼみ、どこを見ているのかは春樹にはわからなかった。彼女の周りの空気だけが一段トーンを落としているように見える。どれだけ楽観的な人間でも体調を崩していると判断できそうだった。そんな彼女に春樹が迷うことなく声をかけたのは当然だった。彼を知る人間がその光景を見たとしたら何も疑問を持たずに納得しただろう。

 

「君! 君! 大丈夫か、医者は必要か!?」

 

 妙に黒い胡乱げな瞳が春樹を捉えて、そのあとで彼女は首を振った。ちいさい口がもごもごと何かを言おうとしているが雑踏のせいでかき消されて春樹には聞こえない。

 意識レベルが落ちていることも考慮に入れて、春樹は彼女が倒れても対応できるように肩に手を置き、そうして口元に顔を近づけ言わんとしていることを聞こうとした。

 

「…………ご、ごはん、……と、みず……」

 

 待っていたまえ、と叫ぶが早いか春樹は近くの自販機へとまずは走った。

 ゆっくりとスポーツドリンクを飲ませ、状態が先ほどより上向いたと確信できると腰を下ろせるところを探した。ベンチに座るころには目にかすかな光が戻っており、コンビニで買ってきたバナナも自身の手で皮をむけるまでに回復した。

 もちろん春樹はそのあいだもずっと彼女に付き添った。初めて見かけたときよりははるかにマシとはいえ、じゃあそれで、と帰れるような状況でないのは明らかだ。春樹はずっと真剣だった。消化能力が落ちているだろう彼女の食事に負担をかけないように、声をかけずに隣でただひたすら見守った。通常であれば信じられないほど時間がかかっても、その集中力に陰りはいっさい見えなかった。

 

 たった一本のバナナをやっと食べ終え、その皮をビニール袋の上に置くと、やっと彼女は意識を持ったと言える状態で春樹のほうを振り向いた。まだ500mlのスポーツドリンクは多少残っている。ちなみに春樹の後ろにはおかわりのときのための飲み物が隠されている。

 よく見ると彼女の肌は奇妙なほどに透き通っている。それはたとえば大福の生地から粉を取っ払ったものを連想させた。むしろそのせいで先ほどの血色の悪さが強調されていたと思えるくらいに。それが今度はなんとか残り少ないなけなしの体中の血を集めたようにほんのりと赤く色づいている。青空に映える桜よりは雪煙る向こうの紅梅に近い。雪中にほんのりと紅を差す冬の花だ。そうすると、本来色のあるべきくちびるが白いまま薄く開いた。

 

「……おなかすいた」

 

 

「やー、あたし勘当されちゃってね、家」

 

 あれだけ衰弱していたのがまるで嘘だったかのように美味しそうに注文した料理を胃に収めていくのを、春樹は不思議な気持ちで眺めていた。あまりの落差というものは時には夢を見ている錯覚を生ませるものである、と初めて彼は学んだ。話に相槌こそ打ててはいたが頭には内容をそれほど残せなかった。しかし問題のある言葉を聞いた気がして、どうにか集中力を取り返した。

 

「ま、待ってくれ、勘当?」

 

「うん」

 

 冗談のように軽く話してはいるがそれにしては趣味が悪いし、何より先ほどの状態を思い返せばあながち否定もしきれない。春樹の性格上、すぐに立ち去る選択肢はなくなっていた。それにこれが春樹でなかったとしても彼女にしっかりと食べさせるためにファミレスのボックス席についてしまっている以上、せめて席を立つまでは身の上話くらい聞くのが筋というものだろう。

 空いた時間はちょうど今の春樹の財産と呼べるもののひとつだった。さすがに彼女を完全に救うことはできないが、その財産を使うことにためらいはなかった。

 

「理由はとくに聞かないが、大変だったね」

 

 春樹がそう声をかけると彼女はわずかに居心地の悪そうな表情を浮かべた。もしかしたら彼女の側に落ち度があったのかもしれないが、春樹はそこには触れないことにした。どのみち勘当が大変でないわけがないのだ。目の前の人間をいたわって何のミスがあろう。

 

「うん。これはさすがに死んだかと思ったよ。ありがとう」

 

「構わないよ、当たり前のことだ」

 

「えっ、素?」

 

「ん? 何がだい?」

 

 彼女が雨上がりの虹くらい貴重なものを見たような顔つきになったのを春樹が見ていたが、その理由が当の本人にはわからなかった。人助けを当たり前と言って実践している人間を見つけるのはかなり困難ということに春樹は気づいていない。それ以前に彼女のようにわかりやすく困っている人間を見つけるのもなかなか難しいが。

 パスタをすっかり食べ終えてコップを空にすると、あらためて彼女は手を合わせて礼を述べた。こういう経験が同年代に比べればはるかに多く、また聡い春樹はそれを止めはしなかった。お礼を言いたいときに言わせてもらえないのは人によってはかなりのフラストレーションになるのだ。そして春樹は頃合いを見計らって次の提案をした。

 

「それじゃあ交番に行くのがいいのかな、とにかく一度実家に帰ったほうがいい」

 

「ちょっ、え、ちょっと待って、え、なんかお返しせんでええの?」

 

「君はもうお礼を言ったし、お返しも何も行き倒れみたいなものだろう」

 

 春樹の言葉は彼女の考えの外にあったのか、その顔は不可解そうな疑わしそうな単純な表現を許さないものになっている。またお互いにお互いを図りかねている空間が生まれた。打ち解けた空気よりもそういった微妙なバランスの空気が支配している時間のほうが長いボックス席だった。たしかに行き倒れを助けて積極的に打ち解けようとするよりは実直と言えるのかもしれないがなんとも判断の難しい話である。

 

「あー、えーっと、あー、あたし塩見周子。あなたは?」

 

「僕は花井春樹だ、よろしく」

 

「春樹ね。わかった、今はあれやけどとにかくどうにかお礼はするから。近所の人?」

 

「この春から近くの大学に通うんだ。お礼は、じゃあ、期待しないで待つことにしよう」

 

「助かるわあ。命救われて何もできないってなったらお天道様の下歩けんわ」

 

 気が抜けたように周子は大きく息をついた。

 

「じゃあ塩見くん、行こう。ちゃんと交番を探すんだよ」

 

「いや塩見くんて、いやさん付けもイヤやけど」

 

「ええ?」

 

「呼び捨てでいーよ、なんならしゅーこちゃんでもいいし」

 

「……突然ノリが軽くなったな、君」

 

 そうしてファミレスを出て別れたのが顛末である。

 

 

―――――

 

 

 本屋で買い物を楽しんだ春樹が駅ビルの外に出ると急に声が飛んできた。弾むような、間違いなく明るい方面の声だ。周囲を歩く人も一度は目を向けるくらいの声量で、そこには欠片もためらいはない。

 

「おーい! 春樹!」

 

「塩見?」

 

 言うが早いか周子は春樹に飛びついた。さすがに抱き着くようなことはなかったが、手を取って勝手にぶんぶんと振り回している。接した時間はそれほどないが、こんな性格ではなかったと断言できるような調子の彼女に春樹は当惑した。

 春樹はまだ彼女がこの街にいることをすぐさま叱らないとならなかったし、またそうするつもりだったが周子の勢いに完全に吞まれてしまっていた。

 

「やっっと見つけた……、いや携帯ぐらい聞いとくべきやったわ」

 

「え、塩見、君実家に帰ったんじゃ」

 

「あれからもいっこあってね、あたし東京にいることになったんだ」

 

「……なるほど、住み込みのアルバイトか、よくそんな短時間で見つけたな」

 

「違うよ」

 

「ん?」

 

「あたしアイドルになるんだ、つまり春樹は未来のアイドルの友達かつ命の恩人だね」

 

 春樹は自分の記憶の中から、あまり似ていないはずなのになぜかある人物が同質の人間としてピックアップされてきて、こいつにはあいつと同じように振り回されるから気をつけろ、と脳髄がガンガン警報を鳴らしているのを現実に聞いている気がしていた。

 

 

 

 

 




悪ふざけめっちゃ楽しい
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