毎朝目を覚ますと、肉体が1日を開始しようと血を巡らせている事実を恨む。5年以上毎日恨み続けてもまだ訪れる、新しい無価値な日。
『寝間着』から『百武照』に着替える度に嫌になる。こんなものは、この人生を可能な限り遊び尽くす為の、愉快で薄っぺらなお洋服だ。
『おはようたまたまちゃん! りょーげんくん! 声が聞けて嬉しいよ────』
「おはようございますっ、早速ですがラフを1枚描けたので、りょーくんが描き終わったら送られた線画に色塗りお願いします!」
『早いね~! 色塗り楽しみだよー』
パソコンの向こうから、無料通話アプリを通した照の声が聞こえてくる。
燎原の自宅で作業している珠輝は、新歓のPV制作を燎原と照の三人で行っていた。
珠輝がラフを描き、燎原がそれを描き上げ、照が色塗りと動画編集を担当することで、それぞれの負担を下げつつ作業効率を上げる。
通話に使っている方とは別のパソコンに繋いだペンタブに筆を走らせる燎原は、ふと気になったことを思い出して照に聞いてみた。
「照さん、貴女受験勉強があるはずですよね。そっちは大丈夫なんですか?」
『へーきへーき! あと1年あるんだしピョピョッとやれば受かるよきっと!』
「たま、これがフラグってやつだ」
「なるほど……」
描き終えた線画のデータを照に送りながらそう言った燎原は、ふぅと一息ついて首を鳴らすと、おもむろに立ち上がって廊下に向かう。
「茶を淹れてくる。飲むか?」
「うん、お願い」
『い~な~、私もりょーげんくんのお茶飲みた~~~いな~~!』
「はいはい」
適当に流してそのまま居間を出ると、不意に玄関の鍵を荒々しくガチャガチャと弄る音が聞こえてくる。一拍置いて、ガラララとスライドされた扉の外から、人影がぬっと現れた。
「──ただ~いまぁー、撮影終わったからしばらく家に居られるお母さんよぉ~」
「……お帰り母さん。あと、今は作業中だから静かにしててくれ」
「イ──ッ、『作業』とかの仕事を連想させるワードは頭痛がするからやめて」
「……修羅場だったか」
「そりゃあもう、ね」
げっそりとやつれた女性──燎原の母、犬井碧がドスンとキャリーケースを玄関に乗せる。
「茶を淹れるつもりだったから居間で待っててくれ。たまも居るから三人分にするか」
「お父さんは?」
「大事な話があるからと、めちゃくちゃ嫌そうな顔で出版社に向かった」
「また放送禁止用語をすれすれで回避してる表現でも使ったのかしら。というかたまちゃんが来てるなら言いなさいよ元気でてきた!」
たまちゃ──ん! と言いながら居間に向かった碧を見て、燎原とは現金だなと呟いてから、改めて台所へと向かった。
──燎原が台所に向かった同時刻、スパーン! と襖を開け放ち珠輝を発見した碧が、声をかけようとして作業しながら通話しているらしい光景を目にして反射的に声量を抑える。
「たまちゃ……おっと」
「あっ、りょーくんのお母さん」
『えっりょーげんくんのお母さん?』
「およ、貴女は誰かな?」
電子音とはいえ聞き覚えの無い声に、碧は脳裏の人物像と照らし合わせて初見だと思考する。照は燎原の母親という部分に、一瞬声を詰まらせながらも自己紹介をした。
『────初めまして~! 息子さんとご友人の部活のOGやってます百武照と言いますっ』
「あらご丁寧にどうも、母の犬井碧です。OGってことは……大学生?」
『ええまあ……色々あって中退したので受験勉強やり直してますけどね!』
「ロックねぇ~」
それとなく珠輝の隣に座りつつ、碧は自分の顎に指を当てて、男が髭を擦るような素振りで表面をすりすりと撫でる。照の声色、自分への対応の仕方、それらが取り繕っているが演技をしていると察し、小さくふぅんと呟いた。
「あの、テルさん、やっぱり受験勉強しながら私たちの作業を手伝うのって大変じゃないですか? こっちで作業量増やした方が……」
『…………大丈夫っ! りょーげんくんの線画が綺麗だから作業自体はかなり楽だよ! たまたまちゃんのラフが上手いからかな~』
「そ、そうですか?」
『うんうん、それに勉強自体はこっちの自業自得なんだからさっ! 気にしないでよ』
珠輝の問いにそう言ってからからと笑う照。そんな彼女に、珠輝は善意で
「うーん……と、確かメンバー追加の方法は……こうだったかな?」
『……? たまたまちゃん?』
『──なんスか? この『PV制作部!』って』
「音楽の打ち合わせとかやりやすいと思ったので、歌夜先輩を呼びましたっ!」
『……あらら~』
「戻ったぞ…………どうした?」
お盆に湯気の立つ湯呑み三つを乗せて台所から戻ってきた燎原は、不味いことをしてしまったと言わんばかりの珠輝の表情と状況の変化に着いて行けず小首を傾げた。
──戻ってくるまでに出来ていたラフを線画にする作業に入った燎原は、どこかギスギスした空気と自分の親が作業を覗き込む気まずさに挟まれながら、画面越しに二人に問いかける。
「もしや二人とも、まだ喧嘩してるのか」
『いや、そういうワケじゃあないよ』
『そうだね~』
「…………そうか」
意外にも雰囲気は悪くないのかとホッとしたのも束の間、そんなことはなかったと悟るのにそう時間は掛からなかった。
『他人の生き方に色々言ってもしょうがないって理解したいけど、まだ私が消化不良ってだけ』
『そっかあ、よく噛んで食べようね』
『……先輩、大学で嫌な事でもあったんスか』
『別に? あっ前より荒んでるように見える?』
『見えますね。ていうか、PVをたまちゃんと燎原くんと作るのは良いとして、部活の体にすんのはなんスか、当て付け?』
『その方がキラキラ感して楽しいからね!』
画面の奥で繰り広げられる淡々とした口論に、ペンタブを弄っていた燎原が額を押さえる。
「……胃が痛くなってきたな」
「こんなの修羅場のしの字にも入らないから大丈夫よ、本当に人間関係ヤバいときは誰も何も言わなくなるから」
「母さんほどの人間が言うと説得力があるな」
碧の整った顔の綺麗な笑顔でそう言われ、燎原は熱いお茶を飲み干した。
その隣で、珠輝はラフを描きながら話題を逸らすように話の流れを変えようとする。
「そ、そういえば歌夜先輩! あのあれ、だんべる? の進捗どうですかっ!?」
『ジングルね、まだ完成してないけど聴く?』
「はい!」
「たまちゃん頑張れ~」
「他人事だからって……」
なんとか必死に話題を逸らそうと頑張る珠輝を小声で応援する碧のにやけ面にそっと苛つきながらも、燎原の手はペンを動かしていた。
『──おー、シンフォニック路線! いいじゃんインスピレーション涌いてくる~』
『どーも。……そういや先輩、アレどうなったんですか? 前に私が曲書いた──』
『ああ大学でゲーム作ろうとしたやつ? エターナッちゃった』
『は? なんで今まで連絡無かったんスか? 一応それなりの量あったシナリオ読み込んでから曲書いてたんですけど』
『や~ごめんタイミングが迷子になっててさ~』
『私そうやって先輩がすぐ諦める所が──』
つらつらつらつらと会話が続き、燎原はついに思考をシャットアウトした。
「貴方の所の子達面白いのね」
「……俺はどうやら、母さんのそのメンタルは引き継げなかったらしい」
「そりゃ映画監督の経験由来だし。燎原もこの先こうやって他人のギスギスに触れていけば私みたいになれるわよ。ファイト!」
「それはそれで嫌すぎる……」
──他人の不幸はなんとやらか。燎原はそう内心で独りごちて、歌夜と照の確執を浴びせられている珠輝に同情していた。
『まあまあ、次の大学ではちゃんといい感じにメンバー集められると思うから~』
『え、初耳。大学辞めたんスか』
「りょーくんたすけて!」
「その願いは俺の力を超えている」
「ぅぅ……そ、その、浪人のことは本人から聞くべき事かと思いまして……」
『んん、たまちゃんが謝ることじゃないから。……じゃあまあ、それならそれで、私より凄い大学に入ってあの時の曲使ってもらわないと本当に恨みますからね?』
ふっと笑う歌夜に、照は言葉を返す。
『おっ、受験生ライバルが増えて嬉しい?』
『先輩に貸しが増えたSの笑みっすよ』
二人の会話を前に、ラフ用のスケッチブックで顔を隠しながら、珠輝は燎原に言った。
「りょーくん、後輩が増えたら、情報共有は徹底させようね……!」
「全くその通りだから困る」
それからはしばらく黙りながらの作業となり、やっと安息が訪れたと燎原はため息をつく。そうしていると、不意に膝に乗せていた携帯がメッセージを受信する。
「……ん」
「りょーくん?」
「気にするな」
ちら、と視線を向けた珠輝にかぶりを振り、おもむろに携帯を見る。通話アプリが受信したのは隣でぼうっとしている自身の母、犬井碧からのメッセージであった。
【燎原、照ちゃんってもしかして、ヤングケアラーだったりする?】
【いや、知らん】
碧に視線を向けると、彼女は目を一瞬珠輝に向けてから指を口許に当てる。
背中を向けて作業に没頭する彼女らに聞かれないようにと、この手段を取ったのだと察して、燎原は携帯の画面を指で叩く。
【根拠は】
【喋り方、私への態度、他人を信用しない感じ、これら全てがどうにも、親の介護で幼少期が潰れた知り合いに似てるのよ】
【照さんがそうであると】
【は、言いきれないけど、どことなく刹那主義のニヒリストっぽいのよね】
【仮にそうだとして、俺たちにはどうにも出来んだろう。それは本人の問題だ】
【そうね。だからこそ、燎原はああいう子に惹かれるのよねー】
「は?」
「りょーくん?」
「いや、なんでもない」
思わず口に出た声を誤魔化すように、燎原は珠輝に短く返す。ぎろりと碧を睨んで、それから画面に視線を落として無言の会話を続ける。
【好きでもないなら首を突っ込むのはやめなさい。でもどうしても放っておけないのなら、最後まで責任を持ちなさい】
【いや、まて、誰が誰を好きだって?】
【あんた結構分かりやすいわよ。ともあれ、照ちゃんとは一度あってみたいわねえ】
あっはっは、という『笑い』のスタンプを飛ばしてにやりと笑う碧に、燎原は、今までで最高潮のストレスを感じていた。
──私は、私に出来ることを出来る分、ただ楽しんで終わりたいだけなんだよ。
全て思い付きで行動する私にとって、『目標』とか『努力』とか『頑張ろう』って言葉は、それなりに残酷だ。
それでもSNS部にいた時間は確かに、とても楽しくて、星のように輝いていた。
その輝きを今も皆が灯していることは、とても幸福で、とても──残酷だ。
──入学式当日、早速といつぞやのように外で机を広げてパソコンを置いたSNS部の面々の表情は、緊張に包まれていた。
「どんな新入生が来るかチェックしたいけど、これからDTM研の方もやることあるんだよねぇ」
「歌夜も多忙だな」
「まーね。ところでたまちゃんはうさ耳付けないの? 燎原くんは鶏だけど」
「それまだ私が付けなきゃダメなんです!?」
「だってその方が(見てて)面白いし」
「今なにか不純な言葉が……」
うさ耳カチューシャはともかくとして、顔をすっぽりと隠す鶏のマスクを被る燎原は人の視線を集めるのに十分であった。
結局頭に被せられた珠輝は、色々な部活の勧誘──と燎原──に目を奪われる新入生や中高一貫ゆえの卒業生を見ながら呟く。
「き、緊張してきた……!」
「大丈夫ですよ、『ゲーム制作は大変ですよ』と伝えればトラブルも減ります」
「真っ先に現実を見せるのはどうかと」
いまだに思い悩む部長──椎奈に苦言を呈する燎原。そんなSNS部の元に、人影が訪れる。
「すいません、ここって同人ゲームを作る部活ですか? 実は作りたいゲームがあるんです!」
「……照さん、なんでここに」
「どうも! 0年生のテルさん入部希望です! ……なんちゃって!」
「──先輩──────ッッッ!!」
「ぬわ──っ!?」
すっとぼけた様子で現れた百武照は、横合いから鬼の形相で走ってきた歌夜に連れていかれた。嵐のような一幕を前に、燎原は珠輝の肩に手を置いてそっと口を開く。
「二人にしてやろう、直接じゃないと、言いたいことも満足に言えまい」
「……歌夜先輩たち、仲直りできるかな」
「どうだろうな」
燎原はそう言って、マスクの奥で新入生を見ながらため息をつく。照が内包する闇が徐々に溢れ、ガワが剥がれて行くのを理解していた。
──全てを知らなくてはならないと、静かに決意しながら、彼はピンと珠輝のカチューシャの耳を指で弾いて気を紛らわせるのだった。