呪術師に後悔はつきもの。いや、最早憑きものと言ってもいい。順風満帆の生活を送ることはほぼ不可能だ。最強と呼ばれる者でも、大切な者を失ってしまう。ある日突然だ。そんな業界だからこそ、後悔が無いように生きなければならない。
ただし、ここには運の要素も絡んでくる。運が良ければ、最悪の事態も回避できるのだ。黒怨龍已の過去にも、できることなら覆したいほどの後悔がある。間に合ってさえいれば、何かが違っていたかも知れないのだ。これは、まだ黒怨龍已が黒圓龍已だった時の話であり、有り得たかも知れない、もしたらればの世界の1つの話。
「御足労いただきありがとうございます。日本の呪術師、黒圓龍已様」
「仕事ですので。早速で申し訳ありませんが現場まで案内願います。私にも色々と用事がありますので」
「黒圓様の日々は多忙と聞き及んでおります。申し訳ありませんでした、こちらでございます」
海外のとある国。その辺境にて、龍已は案内される道を歩いていた。舗装は辛うじてされているような場所で、周りの建物は石造りとだけ言っておこう。斜め上の位置付けである特級を除いた最高等級である1級の彼は、海外への出張任務も出されている。そう頻度は多くないものの、実力の高さから依頼されること自体は多い。
この日は最後の任務であり、終わりさえすれば日本に帰れるものだった。買ってある日本行きのチケットの予定離陸時間を思い浮かべると、割と時間ギリギリだ。これを過ぎてしまうと恐らく明日の便になってしまうだろう。置いてきてしまっている新たな2人の親友達の事を考えると、早く帰りたいのが本音だった。
発見されている呪霊は1級相当であり、土地神が絡んでいるという。故に呪いが強く、そこらの呪術師では対応ができないということで、龍已の方に任務が回された。1級ならば彼の相手にならない。特級でも同じだろう。だからさっさと案内してもらい、祓除して帰りたかった。
歩いて案内してくれている老婆は歩くのが遅い。礼儀正しく挨拶をしてくれるのは良いが、現地に着くまで時間が掛かる。車がないのでどうにもできない。照りつける暑さに背中を汗で濡らして不快感が強い龍已は、首に巻き付いた武器庫除霊のクロをチラリと見て、あるものを吐き出させた。
黒く長い銃身。到底人に向けるものではない大口径。龍已の持つ多くの呪具の中で唯一の狙撃銃『
「な、何をするおつもりですか。黒圓呪術師?」
「いえ、2㎞先が目的地ということなので此処から祓おうかと。問題ありませんね?」
「え、ええ……祓っていただけるならば」
「では……──────『
『黒曜』より超音波状の呪力が放たれる。約半径4㎞の全てを視る事ができる呪いを飛ばし、目標の呪霊を捕捉する。老婆が悪い訳ではないが、時間が掛かりすぎる。面倒くさくなった龍已の狙撃である。
目標の呪霊に呪力が当たり、見つけた。超微力の呪力の音波なので、当たっている事には気がついていない。一方的に捕捉しているだけ。まさか数㎞先から狙われているとは思うまい。『黒曜』に装填された呪力弾に呪いが込められていく。膨大なそれは、傍に居る老婆が狙われている訳でもないのに死を覚悟するもの。
立ったまま『黒曜』を構え、スコープを覗いて呪力により倍率を変え、目的の呪霊を目視した龍已は、引き金を引いた。銃口から発射されたのは指向性を持った莫大な呪いの光線であった。直線上のものを消し飛ばす勢いで放たれた呪いの光線は、目標である呪霊のところまで一瞬で到達し、頭を正確に撃ち抜いて消し飛ばした。
「──────祓除完了」
腰を抜かしている老婆を余所に、『黒曜』の構えをやめた龍已は静かにその場を後にした。携帯を取り出して時間を見れば、まだ間に合う。これなら、早く日本に帰れそうだ。
「──────はぁ……はぁ……クッソ……報告した『窓』はポンコツかよ舐めてんな……はぁ……あれのどこが、はぁ……2級だボケ……しかも……1体じゃねーし……3体だしよクソが……ッ!」
「ひ、妃ちゃん……ッ!」
「ふー……ッ!……前に出てくんじゃねーぞクソザコ……お前庇いながらじゃ無理だ……今でトントンだっつーのによォ……」
頭から血を流し、顔の半分は血塗れになりながら左腕の上腕からも同じく大量の血を流して肩で息をしている巌斎妃伽と、そんな彼女の背後でほぼ無傷である音無慧汰。彼女達は任務である廃病院にやって来ていた。『窓』の報告によれば2級の呪霊1体が出現しているという。京都姉妹校交流会にて、等級が上がった巌斎は現在2級。3級の音無の一緒にこの任務を任せられた。
過去にも2級を何度も祓っていることから、今回の任務も遂行は確実かと思われた。しかし、廃病院に入った途端、術師を付与されていないものの領域が展開され、自力での脱出がほぼ不可能になってしまった。肉塊で造られた建物のような場所に出た2人は、濃い呪いの気配から2級どころか更に上の呪霊が居ることを悟った。
助けが来るまで待とうかという話になったが、まさかの好戦的な呪いだったがために、接敵してしまった。しかも、呪霊は1級ではなく特級であり、1体ではなく3体だった。まさに絶望的な状況。未だ特級との戦闘経験は無かったが戦うしかなくなった。サポート側である音無を前に出さないように、戦闘員の巌斎が常に前に出て戦闘しているが、特級の攻撃に晒されて満身創痍となっている。
『聴く』術式を持つ音無には分かる。巌斎がかなり体力を消耗していること。怪我自体は浅くても、流している血が多くて頭に血が回っていないこと。そして、1人で特級を3体相手にしながら、音無に攻撃が行かないよう配慮しつつ、攻撃を最大限避けなければならないこと。これらが彼女の足枷となって、満足に戦えていない。
身体的負荷もありながら、精神的にも追いつめられている。本来自由気ままに戦うのが巌斎の戦闘スタイルなのに、無理矢理型に嵌め込まれている。それだけで彼女の戦闘能力は半減していた。
「チッ……目ェ霞んできやがった。何でだァ?」
「ち、血を流し過ぎてるんだッ!俺も戦うよ、妃ちゃんッ!」
「あ゙?だからテメェはクソザコで戦いの役に立たねェっつってンだろーがクソカスッ!居るだけ邪魔なンだよッ!ゼッテー私の後ろから前に出てくんなッ!」
「で、でも……」
「へッ……目がちょっと見えねェのが何だ?不利ってか?ンなもんどーってことねェ。龍已は私の拳を目隠ししながら1時間避け続けたんだぞ。私だって死ぬ気でやりゃァできんのよ。いいか?こういうのはな──────結局勘頼りなんだよッ!!」
「今1番聞きたくないセリフだよそれッ!?」
「オラ行くぞノミ野郎共とフンドシ野郎ッ!タコ殴りにしてぶち祓ってやるぜェッ!!!!」
目が見えなくなってきている巌斎が、姿勢を低くしてから爆発音を響かせてスタートダッシュを決めた。呪力を術式に回せば回すほど身体能力を爆発的に上げることができるシンプルなもの。しかし元から身体能力が異様に高く、呪力も豊富で戦闘スタイルと合っている巌斎とは相性が良い。
しかし、シンプル故に、それが通じなかった場合は他に打つ手が無くなってしまう。特級1体ならばどうにかなっていただろう。それだけのフィジカル的な強さも、判断力もある。伊達に規格外の同期に鍛えられていない。だが他にも2体居るともなるとそうも言ってられない。
瓜二つの姿をした、ノミを無理矢理人型にしたような呪霊2体。それともう1体の人型の呪霊。この呪霊は両面宿儺の指を取り込んだ特級呪霊であり、巌斎はまずこちらの方を狙った。手に嵌め込んだメリケンをばきりと打ち合わせて、左腕を引く。前傾姿勢のまま全速力で駆けながら殴打を繰り出そうとして、呪霊は脚に呪力を込め、サッカーのシュートをする要領で呪力の塊を飛ばしてきた。
飛来する速度は速く、狡猾さが内包している。仮に巌斎が良ければ音無に当たるような軌道にしている。それを目が見えない彼女は直感で感じ取り、引いた拳を叩きつけた。空間に張り詰めるような衝撃が走り、巌斎はどうにか呪力の塊を殴り壊した。だがそこへ、ノミの呪霊2体が接近しており、鎌錠になっている手を振り下ろした。
左に体を逸らし、体勢を低く取り、次には少し跳躍してから空中で体を捻り込んで回転し、着地と同時に上体を後ろへ反らす。この動きでノミの呪霊からの5回の攻撃を回避した。そして反らした上体を元に戻しつつ体を回転させて勢いをつけ、右拳を振った。そこへ、人型呪霊の呪力が飛んできて脇腹に被弾。肋骨からびきりと罅が入る音が聞こえた。
「ぐッ……ぅぐ……ッ!?」
「ぁ……妃ちゃんッ!!」
「かッ…っ……ひゅっ……ひゅーーッ……シィイィィィィィ……ッ!!痛くも痒くもねェンだよそんなしょっぺェ攻撃はよォッ!それがぜん……ッ……全力かァッ!?特級のクセにしょべェなァッ!?」
──────ダメだ。妃ちゃんは俺が居る所為で戦いに集中できてない。今の攻撃で肋骨に大きな罅が入った。もういつも通りの殴打は出せないし、動く度に激痛が走ってるよね。……もう、俺が妃ちゃんの壁になって隙を作って、決めてもらうしか……ッ!!
巌斎は内臓にもダメージを受けており、血を吐き出している。肋骨が折れる寸前であり、激痛が響く。殆ど目が見えていないことから戦闘で不利な状況だ。そして最大の原因は音無だ。彼を庇って動きに制限があることから、背後に気にして自由に動き回れない。
そこで音無は、致命傷を避ける形で攻撃を態とくらい、巌斎の盾となることで一瞬であろうと隙を作り、渾身の一撃を以て1体でも祓ってもらおうと考えた。もうそれくらいしか、自分にできることが無いのだと確信していた。だから、よろよろと立っている巌斎の傍へ寄ろうと1歩踏み出した。その瞬間に巌斎がぐるりと顔を向けた。
「余計なことしようとしてンじゃねーぞ、クソカス。テメェはその場に居りゃァいいって何回言わせんだ?あのノミ野郎共とフンドシ野郎の前にテメェをぶち殺すぞ」
「……っ。だ、だって……もう妃ちゃんは戦える状態にないじゃないかッ!本当はもう気絶しそうなくせに、俺が居るから庇ってるんでしょッ!?庇われるだけなんて嫌だよ俺ッ!」
「あー……?適材適所だろーが……戦える私が先頭で戦って何が悪いンだよすっとこどっこい。ぶ…っ……げほっ……あ゙ー……つーか、気絶しそうなのに戦ってンのはお前の為じゃねぇ……」
「じゃあなんで……ッ!」
「──────
「だったら尚更俺を庇うことはないッ!とにかく今は死なないことだけを考えて態勢を立て直そうよッ!そのためなら俺だって体張るからさッ!?妃ちゃんはもう戦える体じゃないし、体力も残ってないッ!呪力だってもう殆ど無いんでしょッ!?だから呪力の防御が薄くなってダメージが大きいんだッ!」
「私は死なねぇ……ッ死ねねェンだよッ!死んでたまるかボケクソがァッ!!血ヘド吐こうが心折れようが、最後に生きてりゃ私達の勝ちなんだよッ!!勝って、生き残って……アイツに告白して……お嫁さんに……ッ!!」
「ぁ……ぁあ……っ……どうすればいいんだよぉッ!逃げられる状況にないし、妃ちゃんは死にそうだし、俺は何もできないッ!!術式使ってもあの呪霊の動きが聴こえないッ!ど、どうすれば……どうすればぁ……ッ!!」
巌斎は既に限界だ。戦闘を開始してから既に4時間半以上は経過している。最初こそ呪霊にダメージを与えられていたものの、祓いきれず、傷を治されてしまった。有限の呪力が底を尽きかけているのだ。むしろ、4時間以上の戦闘を繰り広げて、未だに残ってある方が驚愕に値するのだ。
もう巌斎は意識が朦朧としている。目が霞むほどの出血に大ダメージを受けており、疲労が積み重なっている。あと何かしらの攻撃を受ければその場で倒れてしまうだろう。それでも少しでも生き残る為に立って、音無の方へ呪霊が行かないように気配と殺気を叩きつけ続けている。
足手纏いの自覚はある。この場に1番相応しくない存在だ。戦闘向きではない術式であるため、戦い方はまだ勉強中なのだ。なのに相手が特級呪霊というのは無理がありすぎた。自分の力ではこの場を凌ぐことができない。じわじわと焦燥感と絶望が脚を登ってくる。背筋が凍りつき、呼吸が乱れる。どうすれば解らず頭を掻き毟り、そして……弱々しく、助けを求めた。
「誰か……助けて。助けてくれ……ッ!!」
「──────ゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラゲラッ!!!!」
「────────────っ!!!!」
「────────────ッ!!!!」
しかし現実は非情だった。助けを求める音無の声に反応して、特級呪霊達が嗤った。狡猾さが高く、相手の心をへし折りに来ている。音無は膝を付いてしまった。打破できない現状に膝が屈してしまったのだ。巌斎はそんな彼を見て舌打ちをし、無理に動こうとしたが脚が前に出ず、よろりと蹈鞴を踏んだ。
あぁ、これで死ぬなと思った。でも、心が折れても諦めはしなかった。特級呪霊が隙を見せる瞬間を常に聴いていた。どこかで絶対に隙が生まれると。その瞬間を狙い、巌斎を回収してこの場を後にする。勝てなくて良い。時間を稼げれば良いのだ。音無は限界まで術式を行使して範囲を広げ、精度を上げる。そしてハッとする。彼の術式が、違う音を捉えた。
何かがこの術式を付与されていない領域に入り込んだ。自分から入り込んで来て、姿勢を低く取った。次の瞬間、侵入者はこちらに向かって真っ直ぐ……途中にある壁を気にせず全てぶち破り、音無と巌斎が居るこの部屋までやって来た。足音で分かっていた。でも信じられなかった。けれど目にして、現実なのだと安堵した。
轟音を立てて壁を破壊して現れた人物。黒を基調とした服に、両脚に装着された黒いレッグホルスター。両手に持つのは愛用の2挺の拳銃。浮かべているのは変わらない無表情。しかし全身から醸し出される気配はおどろおどろしく、禍々しく、怨念の塊のようで、これ以上ないほど恐ろしくて頼もしかった。
「──────俺の親友達に何をしている、塵芥の呪霊風情が」
「……?」
「龍已……ッ!!ご、ごめんッ!俺何もできなくてっ!妃ちゃんの足を引っ張っててどうしようもなくて……ッ!ダサいし不甲斐ないのは分かるけど……っ!お願いだ……助けて……ッ!」
「あぁ──────あとは任せろ」
音無は彼の任せろという言葉に、全身の力を抜いた。彼が来ればもう大丈夫なのだと確信した。自分達にはどうしようもない状況を、たった1人が参戦したからどうなるのかと思われるだろうが、彼こそが高専で最強の存在なのだ。1級でありながら、特級の打診が来ている傑物。その彼に、後は任せよう。
連絡を受け、空港から直でやって来た龍已は領域内に侵入し、『呪心定位』を使って全員の場所を把握すると、壁をぶち抜いて直線距離でやって来た。そして傷だらけで今にも倒れそうな巌斎と、膝を付いて絶望的な表情をしている音無を見て怒りが臨界点を超えた。
音無の方へ向いていた顔を特級呪霊の方へ向け直し、片脚を持ち上げて床に叩きつけた。瞬間、床はクレーターのように陥没し、領域内が大きく揺れ、黒き閃光が奔った。人生で初めての黒閃。潜在能力を120%引き出し、頭が冴え渡るゾーンに入る。しかし黒閃はその後4度に渡り奔った。脚を持ち上げて床を打った。その度に黒き閃光が生まれる。
駄々を捏ねる子供のように脚を打ちつけているのに、その1度の打ちつけで領域内が揺れる。特級呪霊は彼の雰囲気と気配、黒閃とその威力に1歩2歩と後退りしていく。そして背中に何かがぶつかった。何かと思い振り返れば、そこに何故か龍已が居たのだ。ごちゅり……と生々しい音が響き、人型呪霊の胸には腕が突き抜けていた。そのまま顔を掴み、握力だけで頭を握り潰して祓除した。
「──────残り2」
「──────ッ!!!!」
「─────────ッ!!!!」
「死ね──────『
前方に構えられた黒い銃の『黒龍』の銃口に身の毛もよだつ呪いが込められていく。特級呪霊は膨大な呪力で全身を覆い尽くし防御の姿勢に入った。避けることは間に合わないと察してのことだった。だが残念なことに、特級呪霊2体は1秒とて呪力の光線に抗うことはできなかった。
呪いの奔流は2体の特級呪霊を欠片も残さず消し飛ばし、術式が付与されていない彼等が居る空間に風穴を開け、無理矢理空間を吹き飛ばしたのだった。呪いの光線は斜め上に向かって放たれ、扇状に進行方向を変え、空間の大部分を削った。
圧倒的な力。破滅的な呪力出力。音無は同期であり、親友でもある龍已の姿を眺めていた。構えている銃をレッグホルスターに納め、辛うじて立っているだけの巌斎の元まで行くと横抱きにして持ち上げ、次に音無の方へやって来た。
「2人が無事で良かった。間に合えて本当に安堵している。さぁ、帰ろう。巌斎の傷の手当ても必要だからな」
「……っ……く……ひっく……あ、ありがどう……助けてくれて……ありがとう……っ!龍已ぁ……っ!」
「どういたしまして。ほら、立てるか?」
「ゔん……ゔんっ……っ!」
「俺が来るまで、よく頑張ったな」
「うぅっ……うっく……ひっく……」
音無は助かったことから安心感により大粒の涙を流した。巌斎を抱き抱える龍已の後を追い、その場を後にした。光を浴びる親友の背中は大きく、力強く、頼もしく、優しさに溢れていた。
「──────はッ!?」
巌斎妃伽は飛び起きた。上半身を起こして驚きを露わにしながら起き上がったのだ。掛かっていた布団が太腿の上に落ちる。ぼんやりとする頭で右を見れば、カーテンがあった。真っ白なカーテンは医務室のベッドのものと酷似していた。鼻につく薬品の匂いでも分かるし、戦闘訓練の後で何度もお世話になっているので見慣れている。
何があって、こんなところで寝ていたのかと寝惚けた頭で考えて、任務先で特級呪霊3体と当たったことを思い出した。満身創痍になり、気絶する寸前何かを見て聞いたような気がした。何だったかと思い出そうとして頭に手を当てようとすると、上げるはずだった左手が持ち上げられなかった。温かい何かに包まれている。目線をずらして見ると、自身の左手は傷だらけの右手に握られていた。
見覚えのある、傷だらけで硬い手に驚きながら目線を上げると、龍已が巌斎の眠っていたベッドの傍に椅子を付けて座り、静かな寝息を立てて眠っていた。近づけばいつもなら勝手に目を覚ますのに、今回は起きない。いや、よく見れば目の下にこれまた珍しく隈があった。床には数冊の本があり、長い時間この場に居たことが窺える。
察するに、巌斎が起きるまで起きているつもりだったのだろう。しかし日本に帰って来てから急いで巌斎達の方へ急行し、手当の手配や後始末、事後処理に加えて自身の任務の報告と忙しかった。それらが全部終わって巌斎のところに寄り、目を覚ます時まで待っていた。結局疲れて眠ってしまったようだが、何となくそれらのことがあったのだと察した。
「すぅ……すぅ……」
「……めっずらし。私が起きてンのに気配で起きやしねェ」
「すぅ………すぅ………」
「……私達を助けてくれたのはお前だろ?龍已。……ありがとな。助かった。お前はホント、イイ男だぜ」
左手と繋がった彼の右手。外すのはもったいなくて少しニギニギしたり、大きな傷や小さな傷を撫でたりしていた。それでも彼は起きなかった。巌斎は起こそうか迷ったが、あることを思いついて起こすのはやめてもう一度ベッドに横になる。
体は龍已の方へ向けて、繋いだ手を額の方へ持っていく。繋がった手が温かい。眠っている内に手を握られていても分からなかったが、手を握りながら寝れば、とっても安心するし、良い夢が見られるような気がした。
目を開けて、チラリと下から龍已の事を見る。いつもの無表情が、寝ていると可愛く見えるのは気のせいだろうか。それとも、巌斎が彼をそういう風に見ているからだろうか。まあとにかく、折角の機会なので甘えることにした。自身の手と繋がる龍已の手に額を擦り付けて、笑みを浮かべる。
「ふふ……お前を好きになって良かった」
「すぅ……すぅ……」
「おやすみ……龍已。起きたらまた礼を言わせてくれ。ンで、クリスマスの日のデートに誘うから、頷いてくれよな」
「すぅ……すぅ……」
「……へへ。こんなんで幸せなんだから、弱っちまうよなぁ……」
目を閉じる。彼に守られているような感覚を味わいながら、巌斎はもう一度眠りについた。次起きたときは礼を言って、デートに誘うのだと決意しながら。陽射しが彼等を照らし、ほんのりと温めた。