虎を得る
文久二年江戸、三月末のこと市ヶ谷柳町の道を季春の暖かな日差しの中を一人の侍がゆるりと歩いていた。
長身に広い肩幅の堂々たる体躯で角張った顎の上に拳が入りそうな大きな口が乗っている。侍の名は近藤勇、剣術流派天然理心流四代目宗家でこの市ヶ谷柳町近くに道場試衛館を開いている。
近藤は先月の二月に初めての子を産んだ妻を労おうと、近所の菓子舗おぶせ屋のそば落雁を買って来ようと店に向かっていた。とは言え急ぐ必要も無いので散歩がてら町の様子を眺めながら歩を進めて行く。
すると急に男の怒鳴り声が聞こえてくる。見れば遠くの方で三人組の浪人らしい輩が町人を取り囲んでいる。
「武士にぶつかっておいて詫びの一つも出来んのか!!」
「あ、あれはお侍様の方から…」
町人が消え入りそうな声で言う。
「おのれ!無礼者!」
「もう面倒だ。斬って捨てよう…詫びは亡骸から剥げばよかろう」
三人目の言葉に残り二人が刀を抜き放ち構える。
「ひぇぇ!!」
町人が腰を抜かしその場に尻餅をつく。
「いかん!」
近藤は刀の鯉口を切り駆け出そうとした。しかし、間に合わない、浪人が刀を振り下ろそうとした。瞬間
「グェ」
どこからとも無く飛んできた石が刀を振り下ろそうとした浪人の顔を強かに打ち浪人は意識を失い倒れ伏した。驚いた残りの二人の浪人達は動きを思わず止まり石の飛んできた方に向き直る。
其処には手に自身の身の丈ほどある布に包まれた荷物を持った若い侍が立っていた。若い侍は歳の頃は十五ほどでまだ子供と言っていい顔つきをしていた。
「邪魔立てする気か!!」
顔を見て若侍を見縊った浪人の一人は威勢良く怒鳴り始め若侍へと詰め寄り、もう一人は警戒した様に一歩下がった。
「…」
若侍は浪人達を一瞥すると手に持った荷物と腰の大小の刀を民家の壁に立て掛ける。それを見た浪人は若侍の戦意が喪失したと見て居丈高に罵る。
「意気地なしめ!!今更謝っても遅いぞ!!」
若侍はきっぱりと言い放った。
「野良犬に表道具は不要」
浪人の顔がみるみる赤く染まり、一人が大上段に斬りかかる。
「死ねぇぇぇぇ!!」
だが刀が振り下ろされる前にその顔面に若侍の裏拳がメキッと音を立てめり込み浪人は顔を押さえ悲鳴とも呻き声とも言えない声を上げうずくまる様に倒れる。
「やるな小僧…江戸の片隅に虎が潜みよるとは…」
残った一人はニヤリと笑い腰を落とし刀の柄に手をかける。
「長い柄…抜刀術…田宮流の系譜か」
駆け寄ってきた近藤は浪人の刀の特徴と構えからどの剣術の流れを汲むものか看破した。若侍に助太刀すべきか思案し始めたが
(何だあの構えは?)
若侍が右拳を左手で掴むと左手側に引っ張る様にして構えた。近藤は俄然この若侍に興味を持ち今しばらく様子を見る事にした。
「シァ!」
鋭い気合いとともに浪人の刀が一閃煌めいた。若侍の拳の間合いの外からの斬撃に‘斬られた’近藤が思った時、若侍の右拳が消えたかの様に見えた。
「ギィァァ!!」
瞬間、断末魔の叫びを上げ浪人が刀を取り落した。見れば浪人の手が潰れた柘榴の様に酷い有様になっている。肉は裂け砕けた骨が甲から飛び出て全ての指があらぬ方に曲がっている。若侍の拳が自身が斬らるより早く浪人の拳を打ち据えたのだ。
近藤はその威力と早業に思わず感嘆の声を上げた。
「ありがとうございます!本当にありがとうございます」
浪人が役人に引っ立てられるのを見送った後、町人は拝む様にして若侍に礼をしている。
「あの様な輩が許せなかっただけだ」
町人はペコペコと頭を下げながら去って行った。町人が見えなくなると若侍はヘナヘナとその場にへたり込みそうになった。
「大丈夫か!?どこか斬られたのか!?」
近藤は咄嗟に若侍を支え問いかける。
「腹が…」
「腹を斬られたのか!」
「腹が…減った」
途端に若侍の腹の虫がグルグルと鳴き出す。
試衛館の道場の奥の居間では飯茶碗と箸とが当たる音と根深汁を啜る音、大根の漬物を齧る音だけが響いている。
近藤は腹を空かせた若侍を自宅に招き飯を食わせてやっていた。とは言え試衛館は特に裕福なわけでは無いので出された膳は飯と汁と漬物だけの質素な物だったが若侍は出された飯に美味そうに食らいついていた。
(仔犬だなまるで)
その様子を見ていた近藤はそういう感想を持った。あり付いた飯に必死に食らいつく姿は幼い獣を彷彿とさせどこか微笑ましさがある。
近藤にジッと見られているのに気がついて若侍はハッとして口元を乱暴に拭い膳を脇に退け姿勢を正した。
「この度は飯を恵んで頂きまことに有り難く」
「うむ、某当道場の主、近藤勇と申す」
そこでようやく若者は自分が名も名乗っていなかったのに思い至り恥しさに顔を染めた。
「そ、某は遠江国掛川にある虎眼流藤木道場の主藤木仁右衛門が次男藤木仁之助と申す」
「虎眼流…申し訳ないが聞いた事の無い流派だ」
「でしょうね、何せ伝えるのは我が道場だけで、その道場も掛川の郊外の田舎にあるものですから」
聞けば虎眼流なる流派は江戸初期の頃、濃尾無双と謳われた岩本虎眼と云う剣豪が創始した流派で戦国乱世の風潮が色濃く残っていた時代に成立された流派らしく実戦を想定した荒々しい剣術らしい。
「平和の世ではその様な剣術は流行らず。門弟も少なく、その門弟も掛川藩の藩士などは修行が‘キツ過ぎる’と直ぐに辞めてしまい、豪農か商家の子弟ばかりでして」
そう漏らす仁之助の声には今の軟弱な侍に対する軽侮の念が込められていた。それは近藤にも覚えがある事で仕切りに頷いている。
そんな訳で道場の経営は芳しく無く仁之助の家族は畑仕事などをしながら細々と暮らしていた。しかし、二年前に桜田門外にて大老井伊直弼が水戸浪士に殺されて以降世の中が荒み始めたのを知った仁之助は一旗揚げようと二月前に掛川を飛び出し江戸へと出てきたわけだが、何の後ろ盾も無い若者に仕官の口があろう筈もなく少ない路銀も底をつき数日まともな食事にも事欠いていたところに先ほどの事件に遭遇したのだった。
「それならば助けた町人から礼をもらっておけばよかったでは無いか?」
「それは、その…礼を貰いたくて助けた訳ではござらんので」
「今の時代、それでは苦労するぞ」
「分かってはいるのですが…」
鼻の頭を困った様に掻きはにかむ仁之助の顔を見つめていた近藤は何を思ったか膝をポンと叩き。
「行く宛が無いならば、この試衛館に住む気は無いかね」
仁之助は突然の申し出に困惑の色を隠せない。
「それは有り難いのですが、御迷惑では有りませんか…」
「な〜に、家にはもう何人か食客を抱えてござる。一人二人増えたところで何も変わらん」
豪快に笑い飛ばす近藤に仁之助は見入ってしまった。
「(この人は大人物かも知れん)では近藤殿、いえ近藤先生宜しくお願いします」
仁之助の答えに近藤は満足気に頷いた。