仁之助は長屋で小豆を茹でていた。固く炊き上げた小豆に葛餡を掛けさらに水飴を絡める。
「どれ···」
箸で一粒摘み上げる。ヌチャと糸を引く、眼前まで持ち上げた小豆を見て仁之助は満足気に頷く。
「これで良し」
小豆を箱に詰めるとふいに部屋の畳を引っ剥がした。古びた木材の床板の一部の色が違い、その色違いの床板を外し床下から細長い布包を取り出し包の中身を確認する。一振りの刀、無銘ながら新選組時代を戦い抜いた愛刀、常より長い二尺六寸の刀身を抜き刃や目釘に一通り目を通すと布包に戻し、小豆の入った箱と共に布包を抱え塚山邸へと向かった。
古い剣術流派の多くには様々な仕来りが有り、それは特別な儀式的な物で有ったり、普段の稽古や生活に関わる事で有ったりする。
そういった仕来りは時代の流れの中で形を変えつつも流派創始当時の信念や技術体系を今に伝えている。
虎眼流入門儀式『涎小豆』もその一つで有る。
由太郎は塚山邸の松の庭木に縛られていた。あの襲撃事件の後すぐに仁之助に弟子入りを申し込んだ。渋る仁之助を父の口添えも有り説得に成功させたのだが「虎眼流には入門に際して儀式が有る」と語り「準備して三日後にまた来る」と言い残しそのまま帰って行った。
はたして三日後、荷物を持った仁之助が現れた。荷物を持ったまま、庭に回った仁之助は人払いを行い由太郎だけが庭に残り、そしてアッと言う間に松の木に縛りつけられた。
「本当は他の門弟に押さえつけさせるのだが、最初の弟子だしな」
「あ、あの先生、これからいったい何を···」
戸惑う由太郎を尻目に刀を腰に差しながら言う。
「良いかこれから何が有っても私から目を逸らすな、正面から真直ぐ見据えるのだ」
「は、はい!!」
縛られた由太郎の前に仁之助が立ち手に持った箱から小豆を一粒摘み上げ由太郎の額に貼り付けた。
「何をっ!?」
由太郎が何をするのか訪ねようとした瞬間、背筋が凍り付いた様に感じた。
呼吸が荒くなり全身から汗が噴き出し目に涙が溜まる。
仁之助から滲み出た‘殺気’が由太郎を叩き込まれたのだ。由太郎は「殺される」と思った。馬車襲撃など及びもつかない、生まれて初めて本物の死の恐怖を味わった。だが由太郎は___
(負けてたまるか!!)
___仁之助を正面から睨み付ける。
「シャッ!!」
腰の刀が抜き打たれた。由太郎の眼前を刃が閃き通り過ぎる。由太郎は一閃としか認識出来なかったが、十文字に二閃の斬撃が放たれた。
由太郎には傷一つ付ける事なく額の小豆が十文字に割れた。同時に縛っていた縄もパラリと切れ落ち、由太郎も膝から崩れ落ちる様に伏した。
「ハァ、ハァ、ハァ、」
荒い呼吸を繰り返す由太郎の肩をポンと叩き、仁之助はニコリと笑った。
「良く頑張ったな」
「先生···」
汗や涙でグシャグシャな由太郎の顔に割られた小豆からトロリとした汁が垂れた。これが涎小豆の涎の所以であった。