仁之助は夜明け前、深夜と言っていい時間に起き出した。冷たい水で体を清めてから藤色の小袖と藍鉄色の袴を着込む。腰に二尺六寸の無銘と脇差しを腰に差す。
「···」
少し考えてから壁に掛けて有った普通の木剣を手にして、果たし合いの場へと向かった。
東京に有るとある野原、今の人口過密な東京からは想像も出来ないが、当時はこうした野原が火除地として東京の各地に点在した。ただこうした野原は江戸の頃より、剣客の果たし合いや、ヤクザ者の喧嘩の舞台として使われて来た経緯もあり、都市開発の度に数が減っていた。
ともかく、朝霧に煙る野原に一人の大男が眼を閉じ仁王立ちしていた。無論この大男は石動雷十太である。
「来たか」
雷十太はカッと眼を見開き刀の鯉口を切る。手に木剣を引っ提げた仁之助が朝霧をかき分け現れた。
「待たせたな」
そう言いながらも仁之助は周囲の気配を探り注意を払っていた。
「安心しろ、今は俺、一人だ」
「···」
二人の視線が合う。その時、初めて仁之助は雷十太の尋常ならざる様子、そして辺りに漂う血の匂いに気が付いた。
「石動雷十太、貴様一体、何人斬った」
怪しく光る眼、人を獲物と見なす獣の眼、今その眼は獲物を発見して狂喜が浮かんでいる。数日前の雷十太とはまるで別人だった。
「ほう···解るのか?」
「お前の様な眼をした連中を俺は知ってる」
そう、知ってるのだ。あの時代、血風吹きすさぶ京都、時に敵として対峙し、時に味方として共闘した。人を斬る事に取り憑かれ殺人に快楽を見出した鬼の眼だ。
「これが今の俺だ!!」
雷十太はそう叫ぶと左右に刀を振るった。刃から放たれた飛飯綱が朝霧と野の藪を斬り裂いた。そこには三人の骸が斃れていた。袈裟斬にされた鉢巻男、脳天を斬り割られた坊主頭、首を落とされ顔が分からないが鯰髭の体。
「貴様···
仁之助の体が声が怒りに震える。
「
そう豪語する雷十太の顔には陶酔に似た悦楽の色が浮かんでいた。
「やはり、あの夜に斬っておくべきだった···」
仁之助は後悔した。あの日、あの時、逃げる雷十太を追って、追って、そして倒すべきだった。そして心を圧し斬るべきだったのだ。
「もはや命を奪う他無し」
木剣を捨て刀の柄に手をかける。折られた心やひび割れた心は或いは治す事が出来るかも知れぬ。しかし、曲がり歪んだ心はもはや手の施しようが無い。これ以上の犠牲を出さぬためにも『ここで始末をつける』そう心に決め刀を抜き放った。
正眼に構える仁之助、対する雷十太は刀を大きく振りかぶった。対峙する二人、距離にして八間、刀の届く距離では無いが雷十太には飛飯綱がある。
「ぬん!」
対峙の時間は短かった。抑えきれぬ殺意に後押しされた雷十太が飛飯綱を放った。轟音を立てながら迫る刃風、しかし仁之助は振るわれた剣の動きから斬撃の軌道を見抜き小さく左右に動き飛飯綱を躱す。
「ぬん!ぬん!ぬん!」
連続で放たれる飛飯綱、それらの斬撃を最小限の動きで躱し続ける。躱しながら前進する仁之助、ついに互いの刃が届く距離まで近付いた。
「俺が飛飯綱だけと侮るなよ!」
凶暴な笑みを浮かべた雷十太は大上段に構えなおす相手に胴体を晒す大上段は真剣勝負に置いては自身に絶対の自信が無ければなかなか出来る事では無い。
「···来い」
呻く様にそれでいて力強く重い声、仁之助は刀を頭上に奉ずる様に掲げた。
(防御?馬鹿め纏飯綱は防げん!!)
纏飯綱は鋼をも断つ、仁之助の刀を断ち頭を真向竹割りにするのを想像して、勝利を確信した雷十太は刀を振り下ろした。しかし、雷十太は気が付かなかった仁之助の刀の掴みが変わっていた事を、人差し指と中指の間に柄を持つ猫科の猛獣な掴みになっていた事を。
「死ねぇぇ!!」
絶叫して斬り掛かる雷十太、振り下ろされる刃に向かって踏み込む仁之助、瞬間、血が飛び散った。
刀を持った腕が地面に転がり、肘から先を失った雷十太が膝をつき項垂れる。その腹からは腸が前垂れの様に溢れる。
あの瞬間、雷十太が防御のためと見なした刀は凄まじい速度で振るわれ、雷十太の太い腕を大根でも切る様にサクッと容易に切り落とした。そして刀を振るのと同時に逆の手は脇差しを抜き雷十太の腹を裂いた。虎眼流『簾牙』斬り上げを脇差しで防ぎ刀で攻める二刀の技、その変形、二刀を攻めに使う簾牙「野生において牙とは本来武器のはず」そう思った三代前の藤木道場の師範が工夫した技だ。
「お、おの、ゴプァ」
何かを言おうとするが口から血が止め処なく溢れ後が続かない。
「···」
その様子を冷たく見下ろす仁之助と目が合った。
「!!」
瞬間、雷十太が感じたのは恐怖、己に確実に訪れる死の恐怖だった。
(い、嫌だ死ぬのは嫌だ)
どうにかその場から逃げ出そうとするが足に力が入らない、命乞いをしようにも口からは血が溢れ声が出ない。
仁之助は刀を雷十太の首に押し付け、そしてスッと引く、動脈を斬られた首からは血がドッと流れ出し、雷十太の顔からはたちまち生気が失われていった。やがて雷十太は抜ける様な息を吐き、首の傷から流れていた血が止まった。
その様子を見る事無く、仁之助は背を向けて刀に拭いを掛け収めると野原を後にした。