新選組屯所の砂利敷の中庭で仁之助と沖田総司が対峙している。沖田の手には薪が握られており、一方の仁之助は真剣を抜き放ち構えている。しかし仁之助の構えは第三者の目には到底剣術の構えに見えなかったであろう。刃を相手に向けたままに切先を杖をつく様に地面に突き立ている。
さらに驚いた事に仁之助は手ぬぐいで目隠しをしていた。そんな仁之助に沖田は手に持った薪を投げつける。
「ハッ!!」
瞬間、仁之助の刀が弧を描き垂直に跳ね上がった。
コンッ
乾いた音が響く。
「
「ああ!大丈夫ですか藤木さん」
沖田は慌てて駆け寄った。仁之助の額に直撃した薪が砂利の上に転がっていた。
あの後、池田屋での戦いは土方隊と松原隊の到着でさらに激しさを増してまさに乱闘となった。
結果、新選組側の死者ニ名、重傷三名を出し、志士側の死者十七名、逮捕者二十名、池田屋に集った尊王攘夷の志士は壊滅。このために維新が一年遅れたと云われる。
会津藩兵の増援到着は全ての戦闘が終わった後だった。その事で隊士と藩兵の間で些かの諍があったが、ともかくも池田屋事件は一応の終結を見た。
近藤は笑いを堪えていたが堪えきれずついに顔を笑み崩した。
「池田屋での我々の働きに京都守護職より五百両、朝廷より百両合わせて六百両が下賜された。さ〜て、どうするね
「そうですね、まず池田屋に突入した者と死傷者にそれぞれ十両づつ。ああ、武功の有る者には追加で恩賞が必要でしょうね」
新選組の資金繰りに苦労していた近藤にとってまっ事有難かった。ともかく池田屋事件を境に新選組隊士の金回りは随分と良くなった。
また多くの同志を失った尊王攘夷の志士達の大半が京都より撤退、一時的な事とはいえ京都の治安は格段と良くなった。
こう言った訳で命懸けの任務に日夜駆け回っていた新選組隊士達にも余裕が出来た。
その余暇を多くの隊士は祇園や島原、大坂の新町などの花街で上方特有の風雅な遊興に溺れ込み酒色に耽った。それは幹部も例外では無く、近藤勇は芸者を妾として囲い、美男として有名な土方歳三などは花魁達に大モテだと江戸の家族に手紙で自慢していたほどだ。
危険な任務を帯び明日をも知れぬ身を忘れるためか、あるいはただの若さ故か、新選組隊士の遊びかたはとにかく派手で金を湯水の如く使った。
とはいえ隊士の全てが酒色に溺れたわけでは無い。沖田総司などは恩賞や給金のほとんどを実家に仕送りしていたし、斎藤一は「酒を呑むと人を斬りたくなる」と笑えない冗談を言い酒色を控えていた。
仁之助も酒色を避けていた。『人斬り抜刀斎を倒すための工夫を付ける』その一心があった。
仁之助は痣だらけになった体に湿布を貼りながら先の鍛錬を頭の中で反芻していた。
(無明の秘奥未だ至らず···か···)
あの夜の一戦で分かった事があった。
即ち『抜刀斎の強さは三つの速さに有り』
相手の意図と技を察知する‘見切り’の速さ
目にも留まらぬ動きで翻弄する‘足運び’の速さ
防御や回避の隙を与えぬ‘攻撃’の速さ
これに対するには、奇態な構えで意図を読ませず見切りを封じ、目に頼らず目にも留まらぬ足運びを捉え、防御と回避に頼らず一撃必殺で攻撃させる前に仕留める。
そのための無明逆流れなのである。
無明逆流れは元虎眼流の剣士・伊良子清玄が両目を斬り裂かれ視力を失った事に始まる。その詳細は
だが仁之助の無明逆流れは未だ完成には程遠かった。無明逆流れの‘逆流れ’の部分、即ち地に突き立てた刃先が地を裂く勢いを斬撃に乗せる斬り上げは形になった。がしかし‘無明’たる部分の習得に苦しんでいた。
そしてその‘無明’こそが抜刀斎を倒す核心であった。
無明とは目に頼らず逆流れの剣の軌道に入った者を即座に斬る。その至難を可能たらしめるための鍛錬方法が目隠しをして投げられた物を逆流れで斬ると言う単純明快な物だった。
この鍛錬は一人では出来ない。幸いなことに沖田や斎藤が協力してくれた。
鍛錬のたびに体が痣だらけになるも、来る日も来る日も投げられた物を斬り上げる。夏の猛暑の日も秋の大風の日も冬の雪の日も年が明けて春になっても斬り上げ続けた。
時は流れ、その間に禁門の変、伊東甲子太郎と配下が新選組に入隊、ぜんざい屋事件、山南敬助の切腹、松原忠司の死亡、などの事柄がおきた。
その間に仁之助は投げられた物は何であれ真二つに出来る様になっていた。
節分の時、鍛錬中に通りかかった永倉が冗談で一粒の豆を投げた事があった。日頃、仁之助に突っかかる隊士が鉄釜を投げ付けた事もあった。それらを無明逆流れで見事に真二つに斬り裂いた。
慶応二年夏 仁之助の無明逆流れは完成した。