響け、イエローハート 作:ぴいのぷりん
夏。
うだるような暑さが未だ絶好調を見せる中、立花響はクーラーの効いた室内でひたすらペンを走らせていた。
その速度は過去に類を見ない。響自身最速を自覚しつつ、ヒエログリフじみた謎の記号が量産されていく。積もりに積もった夏休みの宿題も、この集中が続けば白紙を埋めきるには十分だ。
そう、続きさえすれば。
終わらない夏などないように、絶好調というものは長続きしないものだ。
唐突に襲来するのは眠気と疲労と空腹。恐怖の三重奏に響はたまらずダウン。ペンを放り出し、机に突っ伏して顔だけを上げた。
「おーわーらーなーいーよー! 未来ー! たーすーけーてー!」
「もう、早めに手をつけないから」
と、小日向未来が呆れたのにも無理はない。夏休みは既に後半に入りかけており、登校日も差し迫りつつあるのだ。
タイムリミットは近い。いかに月を穿つ塔、空に浮かぶ新大陸、世界解剖の城を乗り越えたシンフォギア装者といえでも、学生に定められた理を突破するには至らなかった。
されど響の怠惰が特別突出しているわけではなく、原因の六割方はS.O.N.Gでの救護活動にある。
認定特異災害『ノイズ』が消えたところで地球に住む限り天変地異は襲い来る。超常の力を持つシンフォギア・システムは特一級の災害に対する絶対的なカウンターであり、人類最後の砦でもあるのだから、暇などそうそうあるわけがない。
さらに、懸念される現象がここ最近確認されている。
例えば、同じく装者である風鳴翼やマリア・カデンツァヴナ・イヴらが調査している欧州での錬金術師の暗躍。他にも、唐突に出現した『UM』と呼称される謎の生物群など、平和にはまだ遠く、新たな戦いを予感させるばかりだ。
そして日常にもまた、本来あり得ざる変化が起きていた。
「ひびき、あそぼ! あそぼ!」
「ちょーっと待っててねピーシェちゃんッ! これだけ片付けちゃうから――」
ピーシェと呼ばれたオレンジの髪の少女は、低い角度から響に向けて勢い良く飛び込む。鋭いタックルだ。ともすれば大の大人ですら痛みで転げまわる一撃ではあるが、響はしっかりと受け止めて、自分の膝の上に座らせた。
その拙い言葉に小柄な体躯からして、彼女は未就学児か小学校低学年……だと、響は理解している。のっぴきならない事情があってしばらく同居しているのだが、不明なことが多く詳しいことは調査中。先ほどのようにタックルを繰り出すのが癖のようで、師匠のもとで鍛えている響でさえ受けるのに少々構えがいるほどの技の冴えを持っている、不思議な子だ。
どうにも響とピーシェは波長が合うらしい。タックルを放ち受け止める関係というのは、二人にしてみればじゃれているのと同じ。響が相当の体力を持つ子供と元気良く遊び続けられるのもあって、朝昼晩と騒がしい日々が続いている。
それに少しばかり“むっ”とした感情を未来が抱いたのは、言うまでもなく。
「仲が良いんだから」
しかし、歳の離れた姉妹のように笑顔が繋がる二人を前にするとつられて笑みがこぼれた。
いつまでも、とはいかないだろうけど、ひだまりと太陽に咲く小さな花は綺麗なものだ。
未来は思い出す。彼女と出会った、夏休みのある日のことを。
◆
「エルフナインちゃんッ! 次はなに食べよっか!」
夕暮れ時の大通りに元気な声が聞こえる。それは喧騒に紛れてもなお一直線に、呼び掛けた人物へと届いていた。出処はもちろん、普段の装いと違う浴衣を着た響である。
未来と共に肩を並べて歩いているのはエルフナインと呼ばれた小さな子。彼女は少し考えるそぶりを見せてから、とても真面目に言った。
「最近、ハマってるものがあるんです。あればいいんですが……」
「屋台の物ならだいたいはあると思うけど、それって?」
「流しそうめんです」
「なっ、流しそうめん……そうめんは……――あッ、あった!?」
「行きましょう!」
病み上がりにもかかわらず走り出したエルフナインを、響は心配しつつも嬉しくなった。
実のところ、夏祭り自体は数日前に大人数で行っている。商店街が主催のものだ。その時の反応に心打たれた響は、もっと楽しんでほしいと未来と共にエルフナインを連れて花火大会をハシゴしていたのだ。
彼女が喜んでくれるならばと色々と情報を集めてスケジュールを組んだ。結果出来上がった強行軍に、響をよく知る装者の一人は「なにやってんだあのバカ」と言っていたとか。
今回のお祭りは屋台が多い。運良く見つけた流しそうめん。お祭りの定番たるわたあめ。それに射的や金魚すくい。バリエーションに富んだそれらにエルフナインは目を輝かせていて、存分に楽しむのには十分だった。
こうして楽しい時間は早く過ぎて、気がつけばメインイベントである花火の時間が迫っていた。
ここまで来れば、もちろん花火も楽しみたい。むしろとっておきたいとっておきだ。良い場所で見ることができないものかと歩き回るのは当然だろう。
よく見える穴場スポットはないかと思案を続けるエルフナイン。事前に入手した告知チラシを手に道を教える未来。そして響はと言えば、目の前の出来事に釘付けになっていた。
「迷子……?」
視界を通り過ぎたのは小さな子。わき目もふらず一直線に駆けていった。
それだけならば「危ないよ」とか「気をつけないと」とかのお節介を言えばいい。されど、日頃のトレーニングで鍛えられた動体視力には、その子が涙を浮かべているのが見えたのだった。
立花響が、泣いている幼子を無視するだろうか。趣味は人助けというお人好しが、気のせいだったで済ませるだろうか。
答えは決まっている。
「未来、エルフナインちゃんッ! ちょっと持ってて!」
一瞬の判断で二人に荷物を預けて追いかける。
いくら人混みの中に紛れ込んでも、子供の黄色と茶色っぽい黒の縞々模様の服が蜂の警告色のごとくよく目立つ。小さな体躯で駆けていく姿を確かに響は捉えた。
しかし、なかなか追いつけない。浴衣を着ていることや、人の多さが邪魔をしているだけではない。子供は身軽だからなのか、走る速度そのものが距離を保ち続けており、三歩進んでも二歩先を行かれている。それだけならば追いつけるはずだが、曲がり角や車の通る道路という障害物がリードを維持する手伝いをしていた。
結局のところ肩に手が届いたのは、お祭りのメインである大通りを通り過ぎて、高台にある自然公園に繋がる階段を登りきってからだった。
「捕まえた!」
「つかまったー! おに!」
あまりにも元気が良い言葉に「あれ?」と違和感。
振り返った彼女の表情は、暗がりの中でも眩しく見えるほどの笑顔であった。
「お、おにごっこ? ……さっきの見間違いだったッ!?」
「さっき?」
「お祭りで走ってたでしょ? 誰かとはぐれちゃったかなって心配だったんだよ」
「むぅ」
途端に表情が曇る。視線をずらしてはぐらかした。
その行為は、見間違いじゃないと直感させるには十分。こういうときは言いたくないことがあるはずと察した響はしゃがんで、目線を合わせてからとびっきりの笑顔を返した。
「わたしは立花響! お名前、教えてッ!」
「……んっと、ぴいは、ぴいだよ!」
「そっか、ぴいちゃんっていうんだ! よろしくね!」
どうにも本名ではなくあだ名や愛称のようだが、自分のことをそう呼ぶタイプなんだなと納得する。そういうこともあるだろう。
ひとまず自己紹介は成功。次は人差し指を立てて、言い聞かせつつも優しく話しかけた。
「危ないから道路に飛び出しちゃダメだし、もう暗いからひとりだと危ないよ。お姉ちゃんとお祭りに戻ろう?」
「や! もどらない!」
「うーん、ケンカしちゃったのかなぁ……よしッ! じゃあ一緒に遊びに行こう! 屋台は見て回った? わたあめ食べたかな?」
続けて、焼きそばやベビーカステラ、お好み焼きにフランクフルト、りんご飴も付け加えて思いつく限りの屋台の食べ物を羅列していく。ちょっとでも戻る気になってくれたらというアイデアだったが、その意図は互いの別の部分に作用した。
ぐぎゅるる、と二人から同時にお腹の鳴る音。
おいしそうなイメージをしていたら、先ほどまで食べていたはずの響でさえお腹にクリティカルだった。
「ひびきもおなかすいたの? おなじ! あははは!」
「あはは、全部おいしそうだもんッ!」
それでも目の前の少女がまた笑ってくれたのだから、恥ずかしいなどという気持ちはなかった。
あとは「食べに行こう」と言ってお祭りに戻るだけ。後はまた考えればいいだろう。
――そんな展望は、遠目に見えたありえざるものに消された。
「アルカ・ノイズ……ッ!?」
響は咄嗟に少女を自分の後ろに下げて庇う。
前に見えるのはオレンジ色の人型が数十体。ぐるりと巻かれた手は白く発光しており、前に突き出すために猫背になっている。顔にあたる部位はなく、代わりに緑色の六角形をした器官がくっついていた。
じりじりと距離を詰めてくる異形たちではあったが、響の視線はその後ろ。見慣れた敵よりも注意を向けるべき者がいた。
「ピーシェをこちらに渡してもらおうか」
それはフードを深く被ったローブの男。全身黒ずくめであり、中世かはたまたファンタジーの世界にいそうな出で立ちであった。かくも現代と季節に似合わない暑苦しい恰好の者のことを、響は報告から知っている。現在の欧州を暗黒大陸と言わしめる状況を作った原因――錬金術師と呼ばれる、さる秘密結社の構成員だ。
涙を浮かべて逃げていたこと。
お祭りに戻りたがらないこと。
それらの原因は、もしかすると眼前の錬金術師。
「ぴいちゃん、ピーシェってもしかして……」
「うん、ぴいはピーシェだよ」
響の浴衣をぎゅっと握る彼女に、直感でも察したわけでもなく、確信した。
「だから渡せと言っている!」
錬金術師の男が腕を振るうと、それが命令となって、アルカ・ノイズの群れが走り寄る。発光する解剖器官により瞬く間に命を奪える存在が、一挙に押し寄せている。
しかし。
「女の子を寄ってたかって、はいって言えるわけないでしょッ!」
立花響には、対抗手段がある。
「――balwisyall nescell gungnir tron」
紡がれた聖詠が、ペンダントに秘められた聖遺物と共振する。
展開されたバリアフィールドがアルカ・ノイズのみを吹き飛ばす。夜の闇に黄色の閃光が輝き――旋律が、響いた。
「歌……? まさか、あれは……ッ!」
光から現れたのは、白と黄色の姿。腕と脚にはそれぞれメカニカルなガントレットとグリーヴ。最も特徴的なマフラーが大きくなびき、腰部バーニアに火が灯る。
男もまた、それがなんなのか気づいた。新たに増援を出そうとするも、既に響は口を開いて戦闘態勢に入っている。
そう、歌だ。
「一番槍のコブシ!」
流れる曲と叫ぶ声は伊達や酔狂ではない。
踏みしめる脚は石畳に亀裂を走らせ、放った拳はアルカ・ノイズを貫き、彼方まで吹き飛ばすパワーを得ている。
ピーシェを守るために遠くには移動できないが、近距離戦闘は響の独壇場。飛び掛かるものは蹴り返す。伸ばされた解剖器官はガッチリと掴んで振り回し、まとめて薙ぎ倒す。
錬金術師も自らの劣勢を自覚するしかなく、唯一見える口元が苦々しいものへと変わっていく。
逆転できないかと取り出したるは追加のテレポートジェム。出現したのは青い個体。両手がハサミのように変化したタイプであった。そのサイズはあまりにも大きい。10階建てのビルですら優に超える。まさしく、切り札として用意していたものだ。
だが、それがどうしたという。
「稲妻を喰らい! 握り潰しッ!」
巨大な体躯目掛け、腰のバーニアを強く吹かす。
右腕の腕部ハンマーを展開。目指すはただ一直線。最速で、最短を!
「ジャッジした空を――ぶっ、飛べえええええッ!!」
拳がハサミに触れる。その質量がぶつかってもまったく減速せず、夜空を流れ落ちる黄色の流星はいとも容易く巨大アルカ・ノイズを貫き――爆散させた。
形式番号『SG-r03' Gungnir』。
想いに共鳴し、歌唱することで相乗的にポテンシャルを発揮する戦装束。これぞFG式回天特機装束、シンフォギア・システム。幾度と世界を救った超常の力の一端である。
「く、くそ!」
いかに錬金術師といえでも下っ端の彼では逃げるしかない。戦力の大半を失えばなおさらだ。
考える頭はあるもので、今度は最後のテレポートジェムを使って盾とし、響ではなくピーシェを狙うようにけしかけた。先ほどの一騎当千の守る光景から思いついた手だ。これならば僅かでも時間を稼げるとの判断であった。
響もまた、無理に追うつもりはなかった。装者が一人しかいない現状では無限に被害を広げるノイズを放ってはおけない。
さらに言うなら今も背後にいるピーシェを守るため。頼れる仲間を信じ、逃げる姿を目で追うのみにしたのだった。
だが、その視界に、黄色と黒の服が入った。
「ピーシェちゃんッ!?」
彼女は真っ直ぐ全速力で駆けている。こちらに向かってくるノイズに対して、一切の加減なく。
それは自ら崖や火災に飛び込むようなものだ。幼子でもノイズの脅威は知っているはず。知らずとも、火に触れたりはしないように本能が異物を認識して恐怖する。
響の落ち度ではない。ただ、ピーシェがその
ここに奇跡はない。
ノイズから身を守るバリアコーティングも音。つまりは装者を中心に遠ざかるほど効果は落ちていく。ましてや、いくら低減しようとも生身の人間が直に触れてしまえば、炭素転換は免れない。
シンフォギアを纏う今ならば一蹴りで追い付ける。しかし、気づくタイミングが遅かった。ピーシェは無謀にも拳を握って戦おうとしている。触れるまで、あと一秒あるのか。
発光に素肌が触れ――
「じゃまっ!!」
打ち上げられ、宙を舞うノイズ。
ピーシェの拳は無傷のまま天高く掲げられている。
つまりは、解剖器官に触れた腕がアッパーを繰り出した。
それがいかにありえないかは、かつて似た真似をした響自身がよく知っている。
困惑する現象。されど今も存在する多数の敵。響は、理解するよりも先に敵の殲滅を選んだ。二度目はないと胸に刻んで。
またもピーシェが手を伸ばす前に全力で突撃する。一体につき一撃。烏合の衆がいまさら相手になるわけもなく、シンフォギア・ガングニールによりアルカ・ノイズが一匹残らず撃破されるのにそう時間はかからない。
さらには駆けつけたS.O.N.Gのエージェントにより現場が封鎖され、ピーシェが確保されるのもまた、早かった。
なぜならば、変身を解除した響が駆け寄った時、既に彼女はぐっすり眠っていたのだ。
「腕は無事だし、変なとこはないみたいだけど……」
本当にただ眠っているだけで、見た目は大丈夫でも心配なのは変わらない。ひとりのシンフォギア装者でしかない以上は身体構造など理解の埒外。エージェントに交戦内容を伝えて検査の準備をしてもらうことにした。
迎えに寄越された車に乗ろうとお姫様抱っこでピーシェを運ぶと、無意識に袖を掴まれる。
それは後部座席のシートに座らせてもずっと。S.O.N.G本部である潜水艦に辿り着き、医務室のベッドに移されてからもずっと。
それを離すのが響には少々心苦しかったが、精密検査すると言われたら仕方がない。
ピーシェに一時の別れを告げて向かったのは司令室。連絡を受けた未来とエルフナインは先にこちらに来ていると聞いて、足を運んだのだった。
自動式の扉が横にスライドして、いの一番に見えたのはやはり黒髪だ。帰りを最も待っているのだから、当然この場で最初の出迎えとなる。
「響、お疲れさま」
「未来ッ! ……あ、その荷物!」
そういえば走り出した時に手荷物を渡していたと、今更ながら響は思い出した。お祭りに手ぶらで来ているわけもなく、財布もその中に含まれている。
「じゃあ私、お財布ないのにピーシェちゃんと屋台に行こうとしてたのかぁ」
「ふふ、響らしい。遠くからでも大きなノイズが見えたからすぐわかったんだよ」
「そうか、あのノイズッ! あれで気づいてくれたんだ!」
「おかげで避難誘導もすぐに済んだ。迅速な行動のおかげだな」
横から声をかけたのは屈強な体格の男性。赤いワイシャツが特徴的なS.O.N.G司令官、風鳴弦十郎。
その隣にはエルフナイン。花火大会の時とは打って変わって、白衣を着こんでいる。
「追っ手はやはり、錬金術師……か?」
「あの恰好は翼さんたちが欧州で追っている人たちと同じだと思います。アルカ・ノイズも持ってたので」
「……錬金術師に追われる子供。まるで以前のボクみたいですね」
「やはり追われる理由があるのだろうな。エルフナインくん、憶測でいい。なにか想像できるものはあるか?」
弦十郎に問われたエルフナインの表情は、お祭りとはまた違う。いずれ錬金術分野の顧問となることを期待されている研究者のものであり、己に課せられた問題を解こうとするものでもあった。
「まず間違いなく、響さんが見たアルカ・ノイズへの特異性に関係するものでしょう――」
それは一番近くにいた響がよく知っている。
さりとて、理論的なものは話を聞くまではわからない。できる限り理解しようと、落ち着いて次の言葉を待った。
「アルカ・ノイズは位相差障壁のエネルギーを解剖機関に回すことで、バリアコーティングを無視できる分解能力を持っていました。それが効かなかったというのは強化型シンフォギアシステムと同等の炭素転換の減衰機能を持っているか、干渉破砕効果のチューニングを狂わせたのかもしれません。ノイズ自体が不良品だったという可能性もありえますが、それでは追う理由がない。やはり、ピーシェさんの身体か、纏う服自体に原因があるかと」
「つ、つまり……?」
「少し時間をください。精密検査を取っ掛かりにして、理由を解明してみせます。……あ、そろそろボクは医務室に行ってきますね」
嚙み砕くのに少々手間取る内容を並べ立て、深く考え込んだエルフナインは「炭素転換率……」や「もしや新型の……」などと呟いて前を見ずに廊下へ出て行った。案の定、一般職員にぶつかっている。
「大丈夫かなぁ、エルフナインちゃん……」
「病み上がりなのだから無理はしないでもらいたいのだが……いかんせん、今の我々で錬金術に最も詳しいのは彼女だ。全力でサポートするしかあるまい」
弦十郎は「それと」と付け加えて、いくつかの書類を手に取った。
「これがピーシェ君に関する調査の結果だ」
「結果って……師匠、あんまりにも早くないですか?」
「ああ、俺も驚いた。ウチのメンバーが優秀というのは承知しているつもりだが、今回はより明確な理由があったらしい」
見せた書類の内容は全て『NO DATA』。該当なし。まったくの白紙。
「戸籍や過去に存在したはずの情報、その全てがない。よほど完璧な情報工作をされているか――そもそも存在していないか。どちらかだ。身なりからして困窮しているわけでもなし、ひょっとすると彼女はどこかの施設から逃げ出してきたのかもしれん。それが錬金術師共の隠れ家ということもある」
「ピーシェちゃんが……! だったらッ、守らないと!」
「うむ、錬金術士に追われるなど施設に預けてお終いなどというわけにはいかん。検査が終わった後の保護プランをこちらでもいくつか用意している」
「さっすが師匠!」
ひとりの子供でもやれることは全力で。
今後の検査と保護のために本部内に部屋を用意する案、高級マンションの一室にSPを付ける案。用意されているものには様々なものがあり、二人の意見もということで響と未来も意見を出していた。
そこに、扉の自動開閉音。
「ひびきー!」
「す、すみません! うっかり保護プランについて話してしまってッ!」
エルフナインの声が聞こえた瞬間、響は横からとてつもない衝撃を受けた。タックルだった。
「やーだー! やだやだやだやだ! ぴい、ひびきといっしょがいいの!」
そしてその勢いのまま床で転げまわる駄々っ子には、さすがの響も苦笑いするしかなかった。
◆
そのような経緯があって、保護と心理的観点から同居するようになってしばらく。あの襲撃が嘘のようにピーシェの周囲は平和であった。
警戒していた錬金術師の活動はなく、欧州でも同調した動きはないという。諦めたのか、それとも周辺に張り巡らされた警戒網に気づいているのかは不明だが、まるで嵐の前のような静けさだが不気味だ。
だが、当の本人たちはと言えば。
「みて! かいた!」
「どれどれ~? おおッ、上手だねッ! ぬいぐるみを持ってる子と……妖精さんかな?」
「ぷるると! いすとわる!」
「そっかー! 未来、見て見て!」
「これで一枚追加、だね」
このように、平穏な一日を過ごしている。
ピーシェは時々、与えられたクレヨンで落書きをする。ピーシェ自身や響、未来を描くこともあれば、プリンやごはんなど様々だ。今回は『ぷるると』と『いすとわる』というものだった。
元々、この遊びはエルフナインが提案したものだ。
というのも、どうにもピーシェには
好きなふうに絵を描かせることで本人が思い出せない記憶、すなわち心象風景を映し出す。そこからヒントが得られないかという案であった。
さりとて、響にはまったく効果がわからない。
今回のように見たことないものが描かれることはあるが、だからどうしたという話である。想像上の産物と言われたらそこまでだ。
どちらかと言うと楽しそうにしているほうが重要であり、未来も同様であった。今や額縁に入れて飾るほどである。
「よしッ、ご褒美におやつ買いに行こうッ!」
「やったー!」
「響が食べたいだけだったりしない?」
「……あはは、バレた?」
「顔に出てる」
隠し事というわけでもない、ほんのちょっぴりあった気持ちさえ見透かされて、「さすがは未来だなぁ」と心で呟いた。
そのなんでもお見通しな親友に見送られて、二人は暑い外へ飛び出す。
今日も今日とてじりじりと肌に来る日差し。目的地のスーパーへ向かう足取りは自然と駆け足になった。
汗を流して大変な思いをしながらも、店内の効きすぎた冷房の風を浴びると元通り。二人はすぐにさらに冷えたコーナーへ向かう。
「ねぷてぬ! ねぷてぬ!」
「おー! 新発売!」
ピーシェが駆け寄ったのはプリンだ。
同居してから気づいたことだが、ピーシェはプリンを『ねぷてぬ』と呼ぶ。さらに、どういうわけか蓋に同じ文字を書くと喜ぶのだ。
時々少々物足りなさそうな顔をするが、『ねぷてぬ』の意味を聞いても「知らない!」と返されるだけ。まったくもって響には意図が理解できないものの、自分も子どもの頃はそういうおまじないを絶対視していたと納得する。それに、今でも心に残って助けられているのだからあながち間違いでもない。
いつもと同じくプリンを買い込むと袋がいっぱい。響が両手を使って運ぶ数量だ。
ピーシェにはお手伝いとして数個だけ分けてもらった袋を持たせている。響が運ぶ姿を見てやりたがったのが最初で、それからは事あるごとに任せていた。
しかし、今回は物が悪かった。
新発売のプリンを前にしては、注意が手元のそれに集中してしまう。時折フラフラと左右にずれて、ついには曲がり角で壁に激突。転んで袋も落としてしまった。
「あッ、大丈夫!? 怪我は!?」
「う、えぐ……」
慌てて見てみると、ぶつかった時に当たったのか膝小僧が赤くなっている。
だがピーシェは涙を浮かべながらも、落ちたプリンを指差していた。
「ねぷてぬ……」
その意味に、響は気づいた。
一旦自分の袋を置いて落ちたプリンを拾い集める。そしてまた、ピーシェに渡した。
「ほら、全部無事だよ! へいき、へっちゃら!」
「……なに、それ?」
「魔法の言葉ッ! そうだ、ピーシェちゃんも言ってみる? 痛みなんて飛んでっちゃうから!」
「へいきへっちゃら……へいき、へっちゃら!」
「よしよし偉いぞ~!」
「えへへ」
まだ涙の跡が残っていても、頭を撫でられたピーシェは笑う。
それがなんだか昔の自分を見ているようで、響はむずかゆくなった。父も、こんな風な感情を抱いていたのかと。
見た目に傷はなくとも、未来に持たされた絆創膏を膝に張ってからまた歩き出す。
家まではもう少しある。この暑さを耐えて冷えたプリンを食べたらさぞ美味しいことだろう。
そんなことをピーシェと話しつつ、宿題のことはすっかり忘れて遊びのスケジュールを頭の中で立てる響。未来が待ってくれていることも相乗効果でプラス。今度はこちらがすっかり注意散漫である。
その時であった。
「――ど――て――」
「……なんか聞こえたような……?」
気のせいかと空を見上げる。かんかん照りの青い空が見えた。大きな白い雲が浮かぶ景色に妙なことはない。
街頭テレビの音かなにかだったのだろうと歩き出そうとすると、ピーシェが上を指差した。つられてもう一度見る。逆光で陰るなにか。
「どいてどいてどいてどいてーっ!!」
流星のように落ちてきた彼女は、頭から地面に突き刺さった。