男は目を覚ます。軋む床の上に敷かれた粗末なベッドから身を起こした。朝日も満足に届かない部屋の中で一度伸びをして体を目覚めさせる。今日は予定通り王都へ出向きカルステン家を訪ねる。ベンには元の世界に帰る手掛かりが必ずしも見つかるわけではないと忠告されたが、この男としては期待せずにはいられなかった。
ロム爺が朝食として用意してくれていたであろう湿ったパンの欠片を薄まったミルクで流し込むと意気揚々と外へ出てバイクが止めてある盗品蔵へ歩き出す。うまくいけば今日でこの貧民街ともお別れだ。男はこのみすぼらしい街並みを見回しながら歩いた。環境は至極劣悪だが異世界に流れ着いた己の仮初めの揺りかごとなったこの町には多少愛着のようなものも湧いているのかもしれないと思った。
別れ際にロム爺には感謝の一言でもかけていこうと考えながら盗品蔵の近くに到着した。そこで男を待ち構えていたのは異様な光景だった。
盗品蔵の壁が崩壊しているではないか。そしてその下にはロム爺が修復作業に取り掛かろうとしている。一瞬何が起こったのか分からず思考が停止するが、同時に得も言われぬ嫌な予感が男の脳裏に走った。
「おうお前さん、起きたか。朝飯なら置いてあったじゃろう」
ロム爺が男に気付いて気さくに話しかけてくる。しかし男はその不気味な既視感にどうにか「ああ」と返すことしかできなかった。男の中で嫌な予感が現実的な輪郭を帯びてくる。それでも聞かずにはいられなかった。
「なあ、これどうしたんだ」
質問にロム爺は目を丸くした。まるで何を聞かれているのか分からないといった様子だった。両者の間に一瞬の沈黙が流れる。
「……どうしたもなにも昨日の晩のこと覚えとらんのか。お前さんがやったんじゃろうが」
「昨日だと⁉」
嫌な予感どころかそれに一つプラスされて返って来た言葉に驚愕する。これまでこのようなことは何度かあった。自分以外の人間が自分との出来事や会話の記憶を無くしているといったようなことだ。しかしロム爺の言っていることが本当なら今回は時間が巻き戻されているということになる。これは初めてのことだ。
いや、これまでの怪現象も知らないうちに時間が巻き戻っていたと考えれば辻褄が合うことに男は気づいた。時間が巻き戻ったからこそ自分は何度も王都の路地裏に飛ばされていたのだ。時間が巻き戻るなど俄かには信じられないが現にこうなっている以上受け入れざるを得なかった。
時間が巻き戻っているとして、その原因は何か。そういえばかつて出会ったスバルが言っていた。
―――それは多分俺の能力のせいだけど……。
スバルは何か知っている様子だった。しかしなにか事情があるようで結局そのことを話すことはなかった。尤も、訊けるとしても今スバルがどこにいるのかも分からないが。
「なにをぼさっと突っ立っとる。お前さんもさっさと手伝わんかい」
ロム爺は考え込んでいた男に痺れを切らした。男は我に返ると黙ってロム爺の言う通りに壁の修復に取り掛かる。ただすでに一度こなしていることから手際もスムーズになる。妙に熟れた手つきに驚くロム爺をよそ目に黙々と作業を進める男。
(たとえ時間が戻ったとしても俺のすることは変わらない。何度でもあがいてやるさ)
男は決意を新たにする。かつていた世界を想いながら。
♢
何もかもが無かったことになるなんて。死に戻りでリセットされたスバルは残酷な現実に耐え切れず自分を起こしに来たメイドの制止を振りきり、とある部屋で独りうずくまる。
すべてが順調だと思っていた。危機は去り、平穏で幸せな生活がスタートしたと思っていた。しかしそれは嵐の前の凪に過ぎず今無情にも戻ってきてしまった。
4日間の日々が無に帰してしまった。屋敷の人々の中から自分は消えてしまったのだ。そんな途轍もなく大きな喪失感に苛まれた後、思い出すのはあの男のことだった。
ファイズという戦士に変身したあの男。彼はしきりに元の世界に帰りたがっていた。自分が死んで時間が戻ったことによって彼の足止めをしてしまっているかもしれない。そう思うとスバルは自責の念を感じざるを得なかった。
「ノックもしないで勝手に部屋に入ってくるなんて随分と無礼な奴なのよ」
ふさぎこんだスバルの頭上から可愛らしい声色とはミスマッチのとげとげしい言葉が降ってきた。スバルはベアトリスのもとへ、禁書庫と呼ばれる部屋に逃げ込んできたのだ。
「すまねぇ、もう少しだけ居させてくれ」
声の主は分かっている。スバルはベアトリスの愚痴に反論する気力もなくただここに居させてほしいと懇願した。
「まったく、さっきといい、今といいどうやって扉渡りを破ったのかしら」
相手があからさまに落ち込んでいようとも我関せずでその容赦のない口調が緩まることはない。しかしスバルはそこではなく別のところに少し違和感を感じた。
「…さっきと今って言ったか?てことは俺とベアトリスが会うのは2回目ってことか。じゃあお前は俺のこと覚えてんのか」
スバルにとっては意外な事実だった。よく考えてみれば先ほど目覚めたのはベッドの上でカドモンの店先ではなかった。するとなんらかの要因でいわゆるセーブポイントが変わったと考えるべきか。
「そもそもあの時何が起きたんだ。急に寒気を感じたと思ったらあっという間に体が動かなくなった。あの場には他に誰もいなかったし、変なものを食ったわけでもない……」
「さっきからごちゃごちゃと耳障りなのよ。またベティの堪忍袋の緒が切れないうちにさっさと出ていくかしら」
スバルの心の声がいつの間にか声に出ていたらしく、いよいよベアトリスは痺れを切らしかけている。また以前のようにひどい目にあうことを想像して肝を冷やす。
「分かった分かった。出ていきますよっと。でもお前のおかげでなんかちょっと元気でたわ。あんがとな」
腰を上げてその場を立ち去ろうとするスバルの背中にベアトリスが声を掛ける。
「ベティには関係の無いことだけど、お前がさっきぶつぶつと呟いていたのはおそらく呪いのことなのよ。心当たりがあるならせいぜい気を付けるかしら」
「!……フッ、サンキュー」
ベアトリスからの不意なアドバイスに驚くがすぐにその意味を理解して顔をほころばせる。すっかり気を取り戻したスバルは力強く扉を開いて部屋を出た。
スバルはベアトリスの扉渡りの能力によって直接庭園に出た。そこには麗らかな銀髪のエミリアが佇んでいた。
「やっぱり、キラキラしてるじゃねぇか」
するとエミリアもスバルに気付いて慌てて駆け寄ってきた。その心配に満ちた顔を見るとスバルはかえって安心した。目を覚ましていきなり取り乱していたスバルを心配してあれこれ聞かれたがスバルは笑ってかわした。焦っているエミリアも可愛いと思ったが、同時に今度こそ失いたくないと強く思った。
(次は必ず俺の手で運命ってやつを切り開いてみせるぜ……必ず)
♢
できうる限り前と同じ行動を繰り返す。それがループもの攻略の定石だ。ベアトリス曰く、前のループでスバルが命を落としたのは呪いによるものらしい。スバルの身に覚えはなかったが、改めて呪いに注意して以前と同じ行動をすればなにか見えてくるものもあるかもしれない。
……と思ったのだが、
「制服の採寸は後回しでいいわ」
「屋敷の案内も後」
「まずはラムの仕事を手伝ってもらうわ」
「あれ……?」
スバルの目論見を知る由もないがラムから課されるのは前回のループとは明らかに異なっていた。内心焦るスバルは展開の軌道修正をそれとなく試みるもどんどん違うルートに逸れていく。それでもスバルは死の運命を変えるべく呪いに関係のありそうな怪しい人物を警戒することを怠るつもりはなかった。
死に戻りから一日目の夜、スバルは自室にてじっと待っていた。この後ラムがこの部屋にやってくる約束になっている。こんなこともまた、前のループには無かった出来事だ。夜中に部屋で二人きり。男なら緊張が走って当然のシチュエーションだった。もちろんそういう経験のないスバルはあることないことを想像して額から脂汗を流した。静まり返った部屋の中に生唾を飲み込む音だけが響く。
その時扉をノックしてラムがずかずかと入ってきた。その表情はいつも通りの仏頂面だ。
「バルス、いまから読み書きを教えるわ。机の前に座りなさい」
「……え?」
あっけにとられるスバルを気にも留めずラムは持ってきた本やノートを机に並べていった。
「バルスが読み書きできないのは今日1日見ていてわかったわ。読み書きができなければ買い物も任せられないし用件の書置きもできない。まずは子供向けの簡単な童話集。これから毎晩ラムが勉強に付き合うわ」
「そりゃあありがたいけど、どうしてそこまで親切にしてくれるんだ?」
「決まっているわ。それはラムが……いいえラムが楽をするためよ」
「言い直せてねーよ!」
真顔でボケるラムにスバルはツッコミを禁じ得ない。そもそもこれがボケであると断定できないところもラムのおそろしいところではあるが。しかしスバルにとってもありがたい提案なのは事実であった。今後この世界で生きていくためには読み書きは必須だ。
「でも俺はそれでも嬉しいよ。正直好かれてると思ってなかったし、これからも迷惑かけると思うけどなるたけ早く戦力になるからさ」
「くだらないことを言ってる暇があったらさっさと始めるわよ」
「この……!」
せっかくの素直な気持ちを無表情で切り落とされてしまった。なににせよスバルのリスタートは幕を開けた。あの夜を越えるために。
♢
「こっちへ来い!侵入者!」
「痛ってえな!放せよ、おい!」
ここは王都の一画に存在する名家、カルステン家の敷地内。その広大な土地の中央にどんと大きく構えた本館、から少し離れた小さな小屋。ちょっとした騒ぎが起こっていた。
「門番がいたはずなのにどうやって侵入したんだ?」
「だから門番なんかいなかったって言ってんだろ!そっちの不手際なんじゃないのか?」
変わった服装の長髪茶髪の男が敷地内をうろついていたところ、駆け付けた者にあっけなく捕まり独房代わりの離れに押し込められていた。男はこの世界のことについて聞きに来ただけだが、あまりの理不尽な扱いに憤りを抑えきれない。
小屋のドアが開いてまた新たな人物2人が入ってきた。頭の上に猫耳のついた少女と顔に深いしわを刻んだ老年の男だ。2人は取り押さえられて床に座らされた男の前に立ち睥睨してくる。男は怯むことなく自分に不当な扱いをする連中を睨み返した。
「キミが侵入者?まったく、こんな大事な時期にやってくれるよね」
「あ?」
男はいきなり向けられた呆れと苛立ちが混じったような声の主である猫耳少女の方に鋭い目線をやる。そこで何となく気付いた。自分はなにやらタイミングが悪かったことに。この屋敷の関係者と思われる面々からは少しぴりついた雰囲気が流れてくる。
「まず名前は?」
「……」
厳しい目で追及されるも男は例によって口を開かず名乗ろうともしない。少女の方はフンと鼻を鳴らして吐き捨てるように言う。
「名前を言う気もないの?ホント不愉快なんだけど」
「お待ちください。名前を聞き出すにも順序というものがあるのでは?まずこちら側が名乗った方が良いのではないですかな」
男の態度にいら立ちを隠さない少女を諫めるように今度は老年の男が話す。少女は渋々それに従うように改めて問いかける。
「もう、しょうがないなぁ。私はフェリックス・アーガイル。こっちはヴィルヘルム・ヴァン・アストレア」
「尤もアストレアの名前はとうに捨てましたがな。今やカルステン家に仕えるただの老いぼれですゆえ」
「アストレア……?」
男の眉がピクリと動いたのをフェリックスは見逃さなかった。さらに畳みかけてくる。
「どう?こっちもご丁寧に名乗ったんだから、そっちも名前くらい言う気になった?」
「嫌だね。そっちが勝手に名乗っただけで俺がお前らに教える義理はない」
「この……!はぁ、もういいわ。そっちは後回し。それで?なんでわざわざここに忍び込もうと思ったの?」
「だから、そんなつもりなかったっての!ここには知りたいことがあったから聞きに来ただけだ!」
いつまでたっても晴れない疑いに男の怒りが募る。しかしその剣幕にもフェリックスもヴィルヘルムも動じることはない。それどころか涼しい顔をしている。
「その言葉を素直に信じられたらいいんだけどね~。でもキミ、怪しさ全開だし~?名前も教えてくれないしさ~」
フェリックスに煽られて歯噛みする男。
「この時期に来るってことはつまりそういう事でしょ。まぁ一番考えられるとしたら他の陣営の妨害工作とかかな?誰から頼まれてきたの?プリシラ陣営?アナスタシア陣営?」
「知らねえよ陣営なんて。何の話だ」
「うーん、裏をかいてエミリア陣営とかだったりして」
「いい加減しつこいぞ。だいたいエミリアって誰だよ、知らん名前ばっか出すな」
男とフェリックスの押し問答が続くが話は平行線をたどっている。フェリックスが思わずため息をついた。
「しらを切ってるだけなら大したものだけど。……まさかとは思うけど魔女教徒じゃないよね?」
「魔女?ハッ、俺が女に見えるってのか?」
「……」
魔女教徒、男にとっては聞きなれない言葉だった。男はおとぎ話に出てくるような長い帽子をかぶり嵩張った紫の服を着た老婆の姿を想像した。そんなものと自分を見違えるなんて笑止千万。鬱憤が溜まっていた男はここぞとばかりに煽り返して溜飲を下げるつもりが相手はなぜか黙りこくってしまった。
「信じがたいけど、本当に何も知らないの……?どう思う、ヴィル爺?」
先ほどから黙って二人の話を聞いていたヴィルヘルムもうーむ、と頭を悩ませている様子だ。男も目の前のふたりの様子を不審がる。自分は何かおかしなことを言ったのだろうか、と。
「とりあえず、この状況の検討も兼ねてクルシュ様にご報告された方がよろしいのではありませんか。どちらにせよこの者が不審人物であることに変わりはありませんから」
ヴィルヘルムが出した一旦保留という案にフェリックスも「そうね」と同意し二人はすぐさまこの場から立ち去ろうと背中を向けた。男としてはこんなところに軟禁されるなんて冗談じゃない。男はある程度の勝算を持ってヴィルヘルムの方に駆引きに出た。
「おい爺さん、あんたアストレアって名前なんだろ?俺はラインハルトの友達だ。俺にこんな扱いをすればあいつの面子に泥を塗ることになるんじゃないか?だったら早く俺を解放した方がいいぜ」
ヴィルヘルムにぶつけたのは大きなハッタリだ。アストレアという姓が事実なら以前出会ったラインハルト・ヴァン・アストレアとは血縁である可能性が高いと思っていた。本当のところラインハルトと友達になった覚えはない。それどころか一方的に難癖をつけて分かれてしまった。しかしそんなことはこの老人の知るところではないだろう。うまくいけばこの場で無罪放免。希望を持ちながらヴィルヘルムの出方を窺う。
「……それが、どうしたというのだ」
ヴィルヘルムは男に振り向くこともなく氷よりも冷たい声でそう言い放ち、小屋の外へ出ていった。彼にとってラインハルトの名前は何の意味も持たなかったらしい。後には賭けに負けた男だけがポツンと残された。
♢
ロズワール邸での死に戻りからベアトリスから受けた呪いに関する忠告にスバルは細心の注意を払いながら、改めてロズワール邸へと馴染もうと努力する日々が続いていた。しかし何もないと言っていいほどスバルの周りでは不審な動きはない。何かあっても困るが何もなさすぎるのがスバルの心に一抹の不安を残していた。
そんな日々が過ぎとうとう勝負の4日目が訪れていた。前回のループでは今日の夜にスバルは何者かの呪いによって命を落とす羽目になった。
そんなとき、
「スバル君、村に買い物に行くのを手伝ってくれませんか」
レムからの誘いだった。二つ返事で了承した。スバルには断る理由がない。
実を言えば前回のループでもこの『イベント』はあった。この屋敷から少し歩いたところのアーラム村に切らしていた調味料を買いに行く。
呪いのことも気がかりだった。もうすでに4日目を数えている。前回のループ通りならば今夜呪いが発動してスバルは命を落としてしまう。あるとすれば今から行くアーラム村が怪しいのだがスバルはあまり信じられなかった。
あの村は小さいがあたたかな村だ。村人はみな穏やかで呪術師などいる雰囲気ではない。しかしなんにせよ前回と同じ行動をとるためには行くしかない。スバルは今一度気を引き締めた。必ず呪術師の正体を暴いてやる、と。
♢
アーラム村にやって来たスバルとレム。荷物持ちのために連れてこられたスバルはレムが買い物の用事を済ませている間手が空くことになるが、その合間を見計らって改めて村人とコミュニケーションを図ってみた。
なるべく多くの村人と他愛もない会話をする。そこではそれとなく呪術師のことについて聞いてみるもそれらしい答えは返ってこない。はじめこそ村人を信じていたが疑いの目で見ると全員が怪しく見え始める。特に村長の老婆はいきなりスバルの尻を触っては「若返った」と言う言動も相まって殆ど魔女である。
ほとんどの村人と接触したが結局それらしき人物は見当たらなかった。あとはレムが戻ってくるまで村の子供たちと遊んでやって時間を潰す。そういえば前回の周回でもこんなことがあったと思い出す。
子供たちは小さくのどかな村には不釣り合いなほど元気があり余って騒がしいほどである。年上のスバルに対しても容赦がない。ただスバルは子供は嫌いではなかった。子供たちのいたずらもからかいも全部乗っかっておどけてみせる。子供たちもスバルという遊び相手に心底楽しげだった。
その時どこからか新しい子が輪にやってきた。青髪のその子は周りの子供たちと同じくらいの歳で犬を抱えていた。スバルは当然その子も歓迎し犬の頭をなでようとする。その時今までおとなしかった犬が急にスバルの手に噛みついた。スバルは噛まれたことに対して大袈裟にリアクションをとる。それを見た周りの子供たちの輪は大笑いに包まれる。当然これも周回通りだ。こうしてスバルは村の子供たちとの仲を深めていくのだった。
♢
謎の時間逆行から4日目。侵入者騒動から一夜明けたが男はカルステン邸の小屋に依然捕らえられたままである。昨晩や今朝も食事は出されたので死ぬ心配はないが……。いつまでもここにいたのでは埒が明かない。いっそのこと脱出することを考えはじめる。
次のチャンスはおそらく昼食時。扉が開くタイミングで監視を振り切ってひたすら逃げる。そんなことを考えていた。
その時突然その扉が開いた。そして見知らぬ女が入ってくる。その後ろから昨日会ったフェリックスも続いた。その女――緑髪に軍服のような出で立ち――が男の正面に立ち話しかけてくる。
「昨日はよく眠れたか?安心しろ、捕虜の扱いには慣れている」
ここに捕まってからの例によって高圧的な態度に顔を顰める男。しかも捕虜扱いであることに少し不快感を抱いた。
「私はクルシュ・カルステンという」
「てことはお前がここのトップか」
クルシュは毅然とした態度で頷く。見た目が若いわりに堂々として凛とした佇まいだ。
「その認識で構わない。それよりお前はなぜここに来た」
昨日のフェリックスと同じ質問が飛んできた。ここの人間は余程何かを警戒している。それが何なのかは男にはわからないが。
「何度でも言ってやるが俺はこの世界のことを知りたいだけだ。俺の世界に帰るためにな。ここならその手掛かりが手に入るかもしれないって聞いてきた」
「世界……」
二人の視線が交わったまましばしの静寂が流れる。その眼にはおふざけもごまかしもない。
「その世界とは何のことか分からないが……。残念ながらご期待には応えられそうにないな。」
「ああそうかよ。ま、そんなことだろうと思ったけどな。もういいだろ、いいかげん出してくれ」
「まあ落ち着け。それより一つ聞かせてくれ。お前はそこまでして何のために自分のいるべき場所に帰ろうとする?フェリスから聞いた話とも併せて私にはお前が生き急いでいるように見える」
その凛とした見た目に違わず聡明なようだ。男はクルシュに見透かされているように感じた。男は黙る。どう答えようか逡巡している。クルシュは急かすこともせず、ただじっと見つめてくる。その眼からは逃れられそうになかった。
「……人間を守るため」
「……!」
クルシュはハッと目を見開いた。そして小さく微笑みながら「そうか」とつぶやくと、おもむろに懐から黒い徽章を取り出した。男は驚く。これと同じものを散々探し回った。
「これは……!」
「ほう、見覚えがあるか。これは王選候補者である証だ。適合者がこれに触れれば中央の石が光り輝く」
クルシュが持っている徽章の中心が光っている。注意して見たことはなかったが確かにスバルやロム爺が持っていた時には光っていなかったような気がする。
「なぜこれを俺に?」
「君はこの国のことを何も知らないそうだな。君の目的は果たせないがせめてこの国の常識くらいは教えてやる」
いつの間にか好意的になったクルシュの申し出に黙って頷く。
クルシュはこの国のことを語った。ルグニカ王国の王族が全滅したこと。その代わりに王選が行われること。現在王選期間中であるために他者からの妨害に十分注意しなければならないこと。男の侵入にここまで敏感だったのもそのためであった。
「あと話さなければならないのは魔女教についてだな」
魔女教。それは『嫉妬』の魔女サテラを信奉する狂信者集団である。サテラはかつて世界の半分を飲み込んだという伝説を持つ存在であり今も人々から恐れられている。サテラ自身は400年もの間封印されているがその因子を受け継いだ信者たちは世間にとって厄介な存在らしい。
男はクルシュの説明を黙って聞いていたが、一つ思い出すことがあった。サテラという名前。あの銀髪の少女が最初に騙っていた名前がそれだった。この世界では伝説となっている名前だ。偶然ではないだろう。あの時自分から名乗っておいて大っぴらにされることを嫌っていた態度を不可解に思っていたが、腑に落ちた。そもそもサテラの名を騙った理由が分からないが、他人には聞かれたくないだろう。
「話は以上だ。明日ここから出してやる」
ひとりで納得していた男にクルシュは唐突に告げるとくるりと背を向けて去ろうとする。
「なんでだよ、今すぐ出せよ」
「それは出来ない。辛抱しろ」
「ちょっと⁉いいんですかクルシュ様!」
今まで黙って聞いていたフェリックスが異を唱える。自分の主が怪しげな男に懐柔されるところを見過ごすわけにはいかないといった様子だ。
「フェリス、いいんだ。彼は悪い人間ではない。話をしてわかった。きっと彼の言う通りこちらの不手際だったんだろう」
「本当にそれでいいんですか?もしコイツがクルシュ様に何か企んでいたら―――」
「もし本当に彼が悪い人間だったとしたら、それを見抜けない私にどのみち王の資格はないだろうな」
「そんな、クルシュ様……」
堂々とした振る舞いを崩さずフェリスを諫めると、今度こそ小屋から颯爽と出ていった。対照的にまだ不満が収まらないフェリスははあ、とため息をつくと男に向き直る。
「ホントはアンタみたいなヤツ無罪放免にはしたくないんだけどね。クルシュ様に免じて餞別をあげる。ここを出たら……ロズワール邸ってところを訪ねてみればいいかもね」
「ロズワール邸?」
「そ。そこには王国屈指の魔術師と巨大な書庫がある。もしかしたらお目当てのモノがみつかるかも」
「どうやって行けばいい?」
「そこまで面倒見るつもりはないし。行きたければ自分で探して。それじゃあ」
そっけなく言い残すとフェリスも小屋を出ていった。やっと静かな空気が戻る。異様に疲労感に襲われた男は壁にもたれかかって反対側の壁の小さな窓をぼうっと見つめて、おとなしく明日を待つことにした。
♢
「うわっ、びっくりした。聞いてたの、ヴィル爺?」
小屋から出たフェリスは近くに立っていたヴィルヘルムに気付いて驚いた。
「ええ。それにしても彼に助言するとは少々意外でした」
「別にそんなんじゃないから。エミリア陣営に面倒を押し付けただけ。アイツ、そのこと知らないでしょ」
「王選の駆け引きはすでに始まっているということですかな」
「アイツにとっても願ったり叶ったりでしょ。そのうえでクルシュ様にとって有利になるならもっといいってこと」
「成る程。クルシュ様には黙っておきます」
♢
「―――それでラムもレムも今夜はスバルのところに顔を出せないっていうから私が代わりに勉強の監督を引き受けたの」
夜も更けてきた頃、スバルの動悸は留まるところを知らない。原因はスバルの隣にいるエミリアだ。スバルは毎日この時間帯にラムやレムからこの世界の文字を教えてもらうのが日課だが今日は二人の代わりにエミリアが来たということだ。
スバルにとってこの上ない嬉しい誤算だった。夜更けに自室で憧れの少女と二人きり。しかしこれまでの人生でそんな状況に出会ったことなど無かったスバルは尋常じゃない緊張感に全身を襲われる。近くに感じるエミリアの体温と香りを感じながらどもりまくる。
「あ、あのさ!」
このまま状況に身を任せていても埒が明かないと思ったスバルは意を決して立ち上がる。急に大声を出して立ち上がったスバルに目を丸くするエミリア。スバルは生唾を飲み込んだ後ゆっくり『お願い』を切り出す。
「明日から真面目に働いて、勉強もするから……!デートしようぜ!」
スバルの大切なお願い。それはエミリアとデートに行く事。前のループでは叶わなかった約束。これは一度運命に行方を阻まれたスバルのリベンジなのだ。
スバルの思い切った誘いを受けてもエミリアは真顔でこちらを見つめてくる。スバルはこの反応に少し不安になる。スバルの不安をよそにエミリアの口が動く。
「でえと、って何?」
ズコー!と擬音がつくかのようにずっこけてしまった。デートとは男女が出かけること。そこでいろいろなものを見たり話したりすることだと説明した。エミリアは合点がいったようにポンと手を叩く。
「じゃあ、スバルは今日レムとデートをしてきたのね!」
「ぐお!予想外の切り返し!」
スバルはエミリアの純粋無垢な解釈に撃沈する。今日スバルはレムと村に出かけたのは間違いないから全く反論できない。おまけに村からの帰り道、レムと色々なことを話しながら歩いた。その時レムの笑顔も可愛いことを知った。要するにいい思いをしたことは否定しない。
「そうじゃなくて!村に行って可愛いガキどもや犬畜生なんかと戯れようぜ」
「うーん、村か……私が行ったらスバルや村の人たちに迷惑かけちゃうかもしれないし」
「そんなことないって!近くに花畑もあるしエミリアたんには絶対似合うから」
デートに及び腰のエミリアを必死に説得する。するとエミリアはその熱意に折れたようにため息をついた。
「分かりました。その代わりスバルがこれから仕事も勉強も頑張るっていうなら、いいよ」
「本当か⁉―――ぃよっしゃー‼」
「もう、大袈裟なんだから」
スバルの喜びに苦笑いを浮かべるエミリア。そしてまた明日、と声を掛けて部屋を出ていった。
スバルは喜びの余韻を噛み締めながら椅子に深く腰掛けて天井を見上げる。明日はきっと最高な日になる。そう確信した。失われたはずの未来をこの手に取り戻したのだ。
だが全てが終わったわけではない。忌まわしき前回の記憶。4日目の夜であるこの瞬間にスバルは呪いによって命を落とした。それを回避するために4日間慎重に行動してきた。しかし結局それと思しき人物には出会わなかったし、異変を感じるような出来事もなかった。そうなればあとは呪いが発動しないことを確認したのちに明日のデートに備えてゆっくり眠りにつくだけだ。
♢
部屋には時が止まったように静寂が充満している。スバルは静かに椅子に腰掛けてじっとしている。それとは対照的に心臓の鼓動は加速し続けていた。エミリアとの約束が成ったことに対する興奮。呪いが発動するかの緊張。そして呪いへの恐怖。自身の心音がまるで耳元でなっているほどうるさかった。
そして時は動いた。
手足がしびれ始めた。全身が寒気に襲われるも毛穴からはどっと汗が噴き出してくる。体の奥が痙攣したような感覚をおぼえ、口から吐瀉物があふれ出した。スバルは椅子から転げ落ちる。紛れもない、呪いの発動。
「な、なんで……!」
最も恐れていたことだった。こうならないように注意して行動してきたつもりだった。呪いは回避したと半ば確信を持っていた。これまでの4日間を思い出しても全く思い当たる節が無かった。
こんなはずじゃなかった。受け入れられない現実と焦りと恐怖で頭が真っ白になる。
(誰か助けを呼ばないと……!)
這いつくばりながら自室の外に出る。灯りがない夜のロズワール邸は本当に暗い。文字通り一寸先は闇である。漏れ出た吐瀉物を足跡のようにしながら力の入らない足に鞭打って闇の中をがむしゃらに進んだ。
やがて窓のある廊下に出る。窓からは明るい月の明かりが差し込んでいた。
スバルはある男のことを思い出していた。それはあのファイズの男のことだった。スバルはロズワール邸に来てからすでに一度死に戻りを経験している。これ以上自分の死によって彼に迷惑をかけたくなかった。スバルは気を吐く。
「死んで、たまるか……!あいつのためにも……俺がここで死ぬわけにいかねぇんだよ……!」
そのとき、どこからか鎖の音が響く。じゃらじゃらと何かを引きずるような音。スバルがその音に気付いたとき背後から強烈に吹き飛ばされる。
もんどりを打って転がった後、現状を把握できないままふらふらと立ち上がった。そして何気なく視界に入った天井のシャンデリアに何か見慣れないものが引っかかっているのが見えた。
それは腕だった。なぜそんなところにそんなものがあるのか分からないが、間違いない。スバルはぎょっとして自分の左腕を確認する。しかしそこにはあるはずのものが無かった。スバルが認識した瞬間切断された左腕の切り口から燃えるような激痛が全身を支配した。スバルは絶叫する。もう何も考えられなかった。ただ痛みに身を任せ、叫び声を上げ続けることしか出来なかった。
半狂乱に陥ったスバルに鎖の音が這いよる。そして炸裂。
ロズワール邸に夜の静寂が戻った。
Open your eyes, for the next φ's.
第9話『俺の名前』
どこかにあるという明日ならきっと届くだろう
痛みだけの時間を巻き戻せ