鱗滝左近次は鬼殺隊の隊士である。
天狗の面を被り、持ち前の鼻の良さを生かし戦う男であった。
此度も鎹鴉からの情報により、とある山にたどり着いていた。
新月の夜。
普通の人間であれば、明かりを持たずして歩けぬ山道であったが、鼻の利く鱗滝にとってはなんのことはなかった。
山では、鬼のにおいはしない。
しかし、別の「なにか」のにおいはした。
獣に近いにおいだったので、鱗滝は自分の嗅いだことのない動物かと思ったが、山道をしばらく歩いたことでそれが間違いだったことに気づく。
感情のにおいがするのだ。
それも単純な動物ではありえないほど複雑な感情のにおいだ。
普段なら人間のものだと判断するその感情のにおいの発生源を、人間と断定するにためらったのは、あまりに獣くさかったからだ。
人のようなにおいは確かにする。しかし、限りなく獣に近い。そして彼の探す鬼のそれではない。
鱗滝のことを伺っているのだろう「なにか」は、頭上の枝を飛び移りながら彼についてきた。
「なにか」から嗅ぎとれる感情の中で一番強いのは「困惑」だった。
それから「期待」や「不安」、そのほかは混じりすぎて判別しにくい。
彼についてくる「なにか」は、彼に対して何事かを仕掛けて来るのかと思ったがそのそぶりもない。
先んじて、鱗滝が状況を動かすことを決断した。
「何者か」
驚愕のにおい。
存在が鱗滝に認知されているとは思っていなかったのだろう。
それはそれはすぐに木の上からすとんと降りて、女の声で流暢に話し始めた。
「此度の不躾な態度、お詫び申し上げる。私と同じものと出会うのは初めてだったので、驚き故にどう話しかけて良いか迷ってしまい」
嘘のにおいは感じなかった。
「同じ、とは……」
同じ、という言葉に対して、鱗滝は鬼殺隊のものだと判断した。
未だ人間かどうか自信は持てないが、少なくとも悪意を感じぬ口をきく生き物だ。
そんな生き物への対応を、鱗滝は人に対するそれ以外として知らなかった。
それゆえに、鱗滝は困惑した。
「貴殿について、おれは聞き及んでいないが」
同じ鬼殺隊の隊士であれば、鎹鴉から合同任務だと告げられていておかしくない。
「この山はあなたの縄張りでしたか? だとすれば許可なく訪問したこと、申し訳なく」
女から香る感情は変わらず困惑の色が多かったが、それに罪悪感が混じった。
変わらず嘘はない。
縄張り、という妙な物言いに引っかかるものはあったが、鱗滝は女の言い分に納得した。
「いいや。鬼が出ると鴉から聞き、参上しただけのこと」
鎹鴉からの命がなくとも、自主的に鬼を探し、討伐しようとするものは珍しくない。
彼女もその類であろうと彼は思った。たまたま、鱗滝の任務と、彼女の自主的な活動の場所が被ったのだろうと。
「私の探した限りでは、ここに鬼はいませんよ。代わりに天狗はいましたが」
「.......そうか。たしかに、においはしない」
そこで、ようやく鱗滝は気づいた。
自分は鼻に任せ、闇夜の中でも動き、鬼を探すことができる。
しかし彼女は一体、どんな方法で鬼を探したのか?
山の位置までは聞き込み等でわかるにしても、今現在、新月のこの山の中で、どうやって。
鱗滝を追ってこれたのもそうだ。
彼は、彼女が初めて口にした言葉を思い出した。
『私と同じものと出会うのは初めてだったので』
ともするとこれは、鱗滝の鼻のことを言ったのではないか。
そうだとすれば、彼女が鬼を索敵した方法についても納得できる。
鱗滝は天狗の面を被っているせいもあり、鬼殺隊内ではそれなりに名が知れている。
鼻のことを聞きつけて、同族意識を持ち『同じ』と称したのか。
そこまで考えて、彼女から香る自分に向けられた感情が特定できた。
「同族意識」。初対面であるのに妙なにおいだとは思ったが、鱗滝は得心いった。
「しかし、念の為におれも調べる」
おそらく彼女は、入隊したばかりの後輩だ。
同じく鼻の利くものが入ってきたのに未だ鱗滝の耳に入っていなかったのはそういうことだろう。
少し前に最終試験があったはずだ。それの合格者であろうと鱗滝は判断した。
念の為、とはそういうことだ。
新人の鬼探しが失敗していたら、此度の任務を受けている鱗滝の責任になる。
彼女から嘘のにおいはしないが、彼女が鬼に気づかなかっただけという可能性は十分にあるのだから。
「それではお供させていただいてもよろしいですか」
「なんのためだ。お前はすでにこの山に鬼はいないと確信しているのだろう」
「あなたと語らってみたいのです」
「なぜ」
鱗滝は素直に疑問に思った。
念の為に鱗滝が調べ直すと言ったとき、彼女は鱗滝に信用されていないと思ったろう。そんなにおいがした。
印象は悪くて当然だ。鱗滝は、自分が特別愛想の良い方ではないと自覚している。
「仲良くなりたいと思ったのです」
懇願だった。
すがるようなにおいだった。
今まで鱗滝が嗅いだこともないほどに強い孤独感だった。
彼女がどのような人生を歩んできたのか、鱗滝にはわからない。
だが、初めて会う、天狗の面を被った珍妙な男にすがるほどのなにかだったのだ。
鱗滝は、救いあれと己に伸ばされた手を振り払うことはない。
そのために刀を握った。
「.......わかった」
少し声が震えたのは、彼女の強い孤独感に当てられたからだろう。
鱗滝は、その孤独を溶かす言葉を知らない。
だから了承の言葉だけを述べた。
鼻がいいのであれば、己のようにひとの感情が分かると判断していた。
だから、鱗滝が付いてきて良いと示していることは伝わっているはずなのだ。
しかし、彼女は困惑のにおいをさせたまま、その場に立ち尽くしていた。
この状況を信じたいような、信じきれぬようなにおい。
鼻の利くもの同士、あまり言葉はいらぬかと思ったが、それは間違いであったようだ。
振り返り言う。
「.......共に行こう」
たったそれだけの言葉で、これほどまでに彼女から歓喜の香りがするとは、鱗滝も思っていなかった。