第十七話:特級呪詛師の昔語り
「君たちが高専の新入生かな? 初めまして、私は二年の夏油傑。よろしくね」
私はその日少し早く起きてしまい、いつもより早く寮から高専の校舎へと向かった。その道すがら、今日は一年生が来る日である事を思い出し、挨拶の一つでもしようと去年まで私たちが使っていた教室へと立ち寄る。
入学式なんてないこの高専だ。これからの任務でお互いの命を守りあうこともあるかもしれない。ならば、交流は深めておいた方が良いと思ったのだ。
「はい! 灰原雄です! よろしくお願いします! 好きな食べ物はお米です!」
真っ先に挨拶をしたのは、黒髪の人懐っこい犬のような印象を受ける子だ。呪術師どころか一般人としても、その裏表の感じられない快活さはとても好ましく感じられた。
「七海建人です。これからよろしくお願いします」
次に挨拶をしたのは、髪の色素が薄い堅物そうな印象を受ける子。その珍しい髪色と、日本人にしては彫りの深い顔立ちから、海外とのハーフかクォーターだろうかと当たりをつける。高専にもアメリカ人の術師がいるが、それもかなり珍しいことなので少し驚いた。
「司條刻嗣です。……お噂は予々聞いております。これからよろしくお願い致します」
一番最後に挨拶をしたのは、まだ十五歳とは思えないほど堅苦しい挨拶をする子だった。この三人の中で唯一呪術の家の出であるので、その辺りの作法を躾けられているのだろうか。……いや、悟はそんなことないから、彼個人の性質かもしれない。
しかし、そんなことは気にはならない。それよりも彼の目が気になった。日本人にしても珍しい虹彩の黒みの強い、室内だと真っ黒に見えてしまうほどのその目が、不穏で危うい闇を孕んでいるようだ。いや、闇の黒というよりも、黒土の泥のように冷たく質量があり粘度がある黒。
呪術師として何度も見たことのある呪いの被害者たちの遺体、その目に似た不吉な濁りさえ感じられた。
「三人とも、確かに私は先輩だけど、
「オイオイオイ。傑何やってんの?」
「後輩イビリなんて趣味悪いよー」
「後輩たちと親交を深めていただけだよ」
私が挨拶をし終えたところで悟と硝子がやってきた。ちょうど良かったと、この二人も一年生に紹介する。
「この二人も二年生で五条悟と家入硝子だ。特に硝子は他者にも反転術式が使えるから、怪我をした時に世話になるといい」
「よろしくね〜」
少し気の抜けた挨拶をした硝子に、一年生の三人もそれぞれよろしくお願いしますと会釈をした。それから三人が再び自己紹介をしようとしたところで、悟が急に声を上げる。
「自己紹介なんて後でいいだろ。それより、今日の夜一年のお前ら俺の部屋に来いよ。桃鉄やるぞ。桃鉄。もちろん九十九年な」
「おい悟。前ドベだったからって、一年相手に気を使わせるつもりか?」
いきなりそんなことを言い出した悟に口を挟む。高専に入ったばっかりの一年に、九十九年も桃鉄をやらせるのは流石に酷だろう。まだ週末でもない。
「あ? なんだよ? お前もやりたいのか? ならお前も参加しろよ」
「別に私が参加するのは構わないが、今日は月曜日だぞ。前に九十九年でやった時は一日と半日以上かかっただろ」
「チッなら二十五年な。それなら文句ねぇだろ?」
「それならまぁ、入学直後だし、すぐさま危険な任務なんてやらせないだろうから問題はないと思うけど……」
「なら決まりだ。今日夜飯食ったら俺の部屋集合な。なんか適当に飲み物とか買ってこいよ」
悟も悟で、後輩達と交流を深めようとしているのかもしれない。三人のうち二人は非術師の出だ。悟が少しでも学生同士で仲良くなれるように気を使っているならば、私が口を出すのも野暮だろうとそれ以上余計なことを言うのはやめる。
悟がそんな事を考えるなんて少し意外で、知らなかったその一面に感動すらしていた。意外にもいい先輩に成れるのかもしれない。
「……あ、でも俺と夏油で二人で、一年は三人いんのか。……お前らで桃鉄やったことない奴は?」
「……俺はやったことないです」
非術師の灰原と七海はどうやら桃鉄をやったことがあるらしく、司條だけがやったことがなかったらしい。悟のその確認に反応し、手を挙げたのは司條だけだった。
「じゃ、お前は強制参加な。俺またドベになるのヤだし」
……前言撤回。悟に先輩は向いていなさそうだ。
「お、来たな。さっさと始めるぞ」
夜ご飯も食べ終わり、少し時間が経った九時頃に悟の部屋に一年生が来た。全員がそれぞれ適当な飲み物をちゃんと持っている。少し前からプレステの電源を入れ、テレビに向かっていた悟はこれ以上待てないようで、入口の彼らを急かす。
「で、後一人はどっちだ?」
「はい! 自分がやります!」
一瞬七海と灰原はお互いの顔を見やったが、七海があまり乗り気でなさそうなのを察知したのか自分がやりたかったのか、灰原が立候補しそのまま参加することとなった。
悟が画面を操作し、それぞれの社長の名前を変える所まで進める。私はすぐに自分の名字を入れるが、右隣に座った司條は操作に手間取っているようだ。
「大丈夫かい? ここはこうすればいいんだよ」
「ありがとうございます。こういうの不慣れで」
「司條家にはやっぱり
司條家。悟の五条家のを含む御三家ほどではないが、それなりの歴史がある呪術の家だ。ただ、秘密主義というのか、あまりその家の情報は流れて来ない。司條家の術師は、基本的には高専に入らず家で呪術の研鑽を積む事が多いらしく、司條の術師が高専に入るのは珍しい事だそうだ。
「……そう、ですね。あそこではこういうゲームをやった事はありませんね」
「そうか。分からないことがあれば、私に聞いてくれて構わないよ」
「ありがとうございます」
司條の言葉に少し違和感を抱いたが、気のせいかと始まったゲームの方へと意識を向ける。第一印象は少し危うい所がありそうな子だったが、話してみると少しテンションは低いが真面目な子だと分かった。
同級生の二人が一般人で、呪術の家の子が一人なので浮いてしまう事はないかと心配だったが、これならば大丈夫そうだ。
くるくると回る順番決めのルーレットを見ながらそう思う。
「……これ、私がいる意味ありますか」
「そりゃお前、実況係と盛り上げ役だろ。あ、後でちゃんと感想文かけよ。十枚な」
「読書感想文の何倍ですか。他人がやってるゲームをそんな熱量持って楽しめませんよ」
ただゲーム画面を見ることしか出来ない七海がそう言うが、悟がその七海に無茶ぶりをする。やはり悟は理不尽な先輩になりそうだなぁと、少しイラっとしてそうな七海の顔を見て思った。
「七海ぃ、高専の新入生は桃鉄を先輩とプレイするか、その感想文を書くのが校則で決まってんだよ。分かったな?」
「……」
「そういう伝統なんだよ。あと一位の命令権は絶対だから。あ、週末は九十九年でやるから、次はお前も参加な」
絶対嘘だろとでも言いたげな七海だが、それを口にするのはやめたようだ。これ以上だる絡みされるのを避けたいのだろう。だが、それに関係なく悟に絡まれている。随分と悟は七海を気に入ったのか、それともボケの反応がしっかりとあるからなのかは分からないが、七海に絡み続けていた。嫌な先輩だ。
そのやり取りを隣の司條はじっと見ていて、彼は七海のように悟にだる絡みされなくてよかったと考えてるのかと私は思った。司條は悟のようなテンションと、あまり合いそうでなかったからだ。その司條が、隣の私に聞こえるかどうかぐらいの小声で呟く。
「そんな校則と伝統があるのか……知らなかった」
……もしかしたら、司條は少し天然なのかもしれない。
「おっしゃ、ドベ回避!」
「悟、初心者に勝って嬉しいのかい?」
「は、嬉しいね。てかお前絶好調になりやがって、ずるだずる」
「ふふ、三位の戯言は聞こえないね」
外が少し明るくなり始めた頃、二十五年設定の桃鉄が終わった。一位が私で二位が灰原、三位が悟で僅差で最下位が司條だ。やはり初心者だと、カードの使い所やボンビーの押し付け合いで割りを食ってしまっていた。
「で、傑? 一位の命令は?」
一位の私に悟が聞く。どうやら本当に一位の命令権とやらがあるそうだ。まぁ、そんなに重い命令をする場でもないだろうと、適当な質問を聞くことにした。
「じゃあ、みんなには術師になろうと思った理由や術師としてどうしたいか、何をしたいかを答えて貰おうかな」
「あ? 何だよそんなぬるい命令」
「一位の命令権は絶対なんだろ? ほら、悟からでいいから答えろよ」
「そんなもんねーよ。俺に
「まったく、悟は……」
悟に聞いたのが間違いだったと少しイラっとする。だが、ここで呪術師の在り方を口論した所で空気が悪くなるだけだ。喉元まで出かかった言葉を飲み込んで、一年生の方へと視線を向ける。
「はぁ、君たちはどうだい?」
「僕は自分に出来ることを精一杯頑張って、多くの人を助けたいです!」
「私が数少ない呪術に適性がある人間ならば、その適性が発揮出来る所に行くべきだと思ったからです」
「……」
「そうか、二人ともいい理由だと思うよ。……司條はどうなんだい?」
一年生の二人も私の質問に答えた。二人とも悟なんかよりよっぽどちゃんとした理由だ。私はこの二人の先輩として恥じないようにしなければと、そう強く心に決める。
残るは司條だけだ。だが、司條は一度言おうとしたがそれを飲み込んだように見えた。別に悟より酷い理由なんてないだろうと、それを聞く。しかし、司條はなかなかその理由を言おうとはしなかった。
「おいおい、早く言わないと場がシラケちまうぜ。理由があるなら何でもいいから言ってみろよ。……あ、でも一位の命令は絶対だから、嘘はダメだぞ」
「……そう、ですね」
口籠っている司條を悟が急かす。まさか、悟はみんながその理由を言いやすいように、自分にはそんなもんねーよと言ったのだろうか。……いや、ないな。悟は元々そういう奴だ。
だが、その言葉に司條も言うならば早く言うべきだと思ったのだろう。一つ息を吸い込んでから口を開いた。
「俺には殺したい奴がいます。だから、術師になりたいです」
「え……」
驚きからか、小さく私の口から言葉にならない言葉が出た。いや、私だけではない。悟も一年生の二人も私と同じような様子だ。
場を凍らせた司條の目には輝きは無く、底無し沼のようなどろりとして濁った黒い色が深く強くなっていた。
「……すみません。空気を悪くしてしまって。こうなってしまうかなって思って言わなかったんです。……ゲーム楽しかったです。部屋、戻りますね」
本当に申し訳なさそうな様子で、司條は立ち上がって部屋を出て行った。その背中に何か言葉をかけるべきだと思ったが、言うべき言葉が見つからずただ見送ることしかできない。
司條の『殺したい奴がいます』という言葉には、燃え盛るような怒りによる熱も無かった。ただただ底冷えした声色で、淡々とした言葉だ。だからこそ冗談の色は感じられず、一層強くその理由が本当なのだと印象付ける。
少しの間ゲームをしたぐらいだが、私が司條の聞いてきた事を答えたらその度に律儀に感謝の言葉を使い、丁寧な言葉遣いを崩さなかった。司條の
それ以来、私は司條を気にかけるようになった。
『でぇんわぁですよぉぉ!』
「『
「司條、そこまででいいよ。後は取り込むから」
「はい、夏油さん」
司條が弱らせてもう祓われる直前の呪霊に対し、私の術式を使う。準二級程度の呪霊だ。私一人でどうとでもなるが、今日は司條の任務の引率役代わりなので戦闘を見守っていた。まだ荒削りだがやはり呪術の家の出と言うべきか、危なげない戦闘だ。
私は手の中に収まった黒い玉を取り込む。いつまで経っても慣れない呪霊の味に、眉が歪みそうになるがそれを抑えた。
「どう、でしたか?」
「そうだね。……死屍創術の強みは物量だ。呪具呪物の携帯数を増やせるようにすれば、二級ぐらいならすぐなれると思うよ」
「なるほど。ありがとうございます」
あの桃鉄をやった日から、もう数ヶ月ほどが経った。司條は思ったよりもほかの一年生とも馴染んでいて、五条や私とも普通に話す関係だ。特に、私たちにはどうすれば術師として強くなれるかをよく聞いていて、その姿勢は素晴らしいものだと思う。
……しかし、強くなる事に執着を見せてどうにも余裕がなさそうで、やはり少し危うい印象は残っていた。高専に入ってきた頃に比べたらマシではあるが。
「もう戻ろうか。補助監督も待たせているし」
「そうですね」
住宅街ではあるが、妙に暗く人気のない路地裏から出て補助監督の待つ車へと向かう。一帯に降りていた帳を抜けて、二人して高専の車に乗り込んだ。補助監督に目的の呪霊は祓除したことを伝えると、車は高専に向けて動き出した。
ぼんやりと流れていく外の景色を眺める。
「……すみません。寄りたい所があるんですが、大丈夫ですか?」
車が走り出して少しして、ふと司條が私に聞いてきた。今は十五時ごろでこの後にはもう任務もないし、私にも特に用事はないため断る理由もない。補助監督に確認を取る。
「ん? 私は別に大丈夫だけど……西浦さん、大丈夫ですか?」
「ええ、構いませんよ」
「ありがとうございます。まずは……」
「……ここは」
「すみません。俺の用事に付き合わせてしまって。荷物もありがとうございます」
「いや、気にしなくていいよ」
司條が降りたのは小さな墓地だった。途中で花屋に寄って仏花を買い、掃除道具や蝋燭などもほかのお店で買っていたので薄々気づいてはいたが、やはり墓参りらしい。
だが、それが疑問だった。司條家の本家は京都にあるはずだ。刻嗣は正嫡のはずだから、なぜ彼が東京のお墓参りをするのかが分からなかった。
「ここです」
「分かっ……赤桐?」
司條が立ち止まった墓石には『司條』の家名はなく、赤桐家之墓と掘られている。司條は汲んできた水が入ったバケツを置いて、慣れた手つきで雑巾を濡らして墓石を吹き始めた。
「元々俺は一般家庭の出なので。司條家は養子として入りました」
「……そうだったのか」
その後司條は、自分が司條家に養子となるまでの経緯を話した。家族が呪詛師に殺された事や司條家の相伝術式を持っていた事、そして呪術を研鑽しその呪詛師を殺そうとしている事などをつらつらと語る。
「……これでよし」
一通り墓石周りの掃除を終えて、最後に司條は仏花を供えた。そして墓前で手を合わせて黙祷する。私もすべきかと思ったが、その時に司條が振り向いて話しかけてきた。
「夏油さんたちには感謝してるんです。ずっと司條家にいて、人付き合いが苦手な俺に構ってくれて」
「礼を言われるようなことはしていないよ。……司條には少し危なかっしい所があるから、気になってはいたけど」
「そう、ですか。……でも、夏油さんや五条さんたちのおかげで、大分楽になりました……ゲームなんて、司條家に入る前しかやった事なかったんです」
「……」
正直、まだ危うい感じは残っている。だが、確かに入ってきたばっかりの頃に比べると多少の余裕はあるように思えた。一年生の二人とも談笑しているのを見かけるようになったし、悟にだる絡みされたり硝子に反転術式のコツを聞いたりしているのも知っている。
「だから、改めてありがとうございますって言いたかったんです。特に夏油さんには、色々と呪術や格闘技について教えてもらったので」
「構わないよ。私たちは高専の仲間だろ?」
司條の目の、黒土の底無し沼のような黒は薄くなっていた。それは高専のみんなとの交流によるものだろうか。とにかく、それは好ましい変化のように私には感じられる。
それからも、司條は一年生の二人や私たちとさらに交流を深め、年相応の反応もするようになっていった。やはり、司條の
だが、司條は変わってしまった。いや、“戻った”というべきか。その引き金は、司條と七海を庇い灰原が呪霊に殺されたからだ。
「……何してるんだい? 悟」
「ちょ、お前こっち来いこっち来い」
私たちは三年になり、司條達が二年となった年だ。呪霊が多かった八月が終わり、まだまだ暑さを残しながらも九月となった頃、何やらコソコソと物陰に隠れながら何かをしている悟がいた。お互い特級になった私たちは、高専で会うことも少なくなり随分と久しぶりのように感じる。
その悟が口元に指を当て、音を立てるなとジェスチャーをしながら私をその物陰に呼ぶ。
「で、何があったんだ?」
「それがな、俺は教室で硝子と話してたんだけど、急に司條が入ってきて『家入さん少しお時間いいですか』って言って硝子を連れ出したんだよ」
「何だって?」
「しかも、司條は見たことないような様子だったんだ。だから今あいつらを追ってんの。気になるだろ? お前も来いよ」
「あ、ああ」
司條がわざわざ硝子を呼ぶことなんて今までなかった。悟から聞いた状況だけならば告白でもするのだろかと思えるが、司條が灰原が亡くなってすぐにそんな事をするとは思えない。
「あ、あいつら室内に入りやがった。あそこは解剖室とかある場所か? ……傑、追うぞ」
「……いや、やめておこう」
「あ? 何でだよ」
別の建物に入っていった司條と硝子を追いかけようとした悟を止める。やはり、司條が今そんな事をするとは思えないし、万が一に色事だとしても部外者の私たちが関わるべきではない。
「今、司條がそんな事すると思うか?」
「……そうだな。それに、いくら抜けてるあいつでも告白するのに解剖室はねぇか」
「ふふ、そうだね」
悟は頭を掻きながら物陰から出てきた。司條は反転術式か、遺体について何か硝子に聞きたい事があったのだろう。そう私たちは結論付けて、今来た道を引き返して寮の方へと向かう。
「あ、傑は今日暇? 久々に桃鉄やろうぜ。俺らと司條と七海か硝子あたりを誘ってさ」
「……そうだね。明日は任務があるからあまり長くはできないけど、久しぶりにみんなで「ガァァアアァァア!」司條の声か!?」
「ッ! 行くぞ!」
「ああ!」
私たちの背後から響いた叫び声は、明らかに司條のものだった。その尋常でない様子に、私たちはすぐさま走ってその声がした建物内へと急ぐ。
「悟! 何があったと思う!」
「硝子にフラれた司條が無理矢理に迫って、メスで刺されたとかか!」
「司條がそんな事をする奴だと思うか!」
「ねぇな! あいつはチキン野郎だ!」
「同感だ!」
やはりその声は解剖室からのようで、思いっきりそのドアを開ける。そこには司條と硝子がいて、司條が血濡れた刀を持っていた。しかし、すぐにその血は司條のものだと気づく。なぜなら、すぐそばに血の滴る司條の左腕が切り落とされていたから。
「ッ!」
「何やってるんだよ!」
すぐさま私たちは二人に駆け寄る。硝子は痛ましそうな表情だ。腕を切り落とした本人は、下を向いてタオルをかみしめていた。痛みを堪えているのだろう。その表情をうかがい知ることは出来なかった。
「司條、何があった?」
「……ッ」
私の問いかけに司條は答えず、黙り込んで大粒の汗を流しながら下を向くばかりだった。悟は司條と一緒にいた硝子へと詰め寄る。
「硝子! 何で止めなかった! いや、そんな事はいい! 早く治せ! お前ならすぐ治せるだろ!」
「いや、それは……」
「……治さないで下さい」
ようやく司條が口を開いた。息も絶え絶えで、だが感情を噛み殺している言葉だ。
「お前、何やってんだよ!」
「腕を、切り落としました」
「そうじゃねぇよ! 何でこんな事をしたのかって聞いてんだ!」
「……縛りです。後天的で、自分自身による四肢の一部の欠損。呪力量と出力を上げる為の縛りです」
悟の質問に事務的に、淡々と答える司條の顔はやはり見えない。その煮え切らない態度に苛立ったのか、悟が司條の制服の首元を掴んで無理矢理上を向かせた。
「だからって、何でそんな事が出来るんだよ!」
「……しょうね」
「聞こえねぇよ!」
「五条さんには分からないでしょうね!」
「ッ!」
ついに感情をあらわにして叫んだ司條は、今まで見たことがない程のひどい顔だ。歯を砕かんばかりに強く噛み締め口元は歪み、目の下は大きく酷いクマが塗りつぶされたかのように染み付いていた。
そして、その目には入学したての頃のように、ドス黒い底無しの泥沼の如き黒色が淀み濁っている。……いや、更にその黒色と濁りは強くなっていた。
その目で、真っ直ぐに悟を睨んだ。
「特級になれるような術式で、圧倒的な呪力量もあって、最強と言える五条さんには絶対に分からないですよ!」
「お前……! クソ! 勝手にしろ!」
悟は司條の制服から手を離し、部屋を出て行く。荒々しくびしゃんとドアが閉められた。
「……とにかく、硝子。司條の止血を」
「……お願いします」
まだ血が止まらない肩口を、何の処置もせずそのままにする訳にはいかないだろう。私は硝子に指示を出した。司條がここに硝子を呼んだのは、左腕を切り落とした後の処置を頼むためだろう。
実際それは当たっていたようで、硝子は予め用意してあった包帯を強く巻き始めた。
「……司條、そんな事をして得た力なんて身につかないぞ?」
「……力は力です。こうでもしないと、俺は強くなれない事にようやく気がつきました」
「……悟も、お前が心配なだけなんだ。分かってやってくれ」
気まずい沈黙が降りる。硝子の巻いている包帯が擦れる音だけが、いやに大きく聞こえた。ぽつりぽつりと、司條が口を開く。
「……灰原は、最後に後は頼んだって言ったんです」
「……」
「俺たちを逃がすため、祓えるわけがない土地神に、一級呪霊に一人で立ち向かって」
「……」
「俺は、逃げる事しか出来なくて、弱くて、本当に、本当に、俺は」
「もういい。司條、自分を責め過ぎるな。少し休め。……硝子、もし次司條が同じ事をやろうとしたら、絶対に止めてくれ」
「……分かった」
私はそれだけ言って部屋を出る。何かもっと言うべき事があると分かっているのに、複雑な感情がぐちゃぐちゃと絡んで言葉にならずに沈んだ。悟はすでにどこかに行ってしまったようで、もうあたりにはその姿はなかった。建物を出て、一人で寮への道を歩きながら考える。
本当に、この世界はおかしい。
灰原のような善良な術師が、非術師の無知による恐れを胎盤とする呪霊に殺される。司條や七海のような真面目な術師が、仲間たちの屍を何度も見ながらも痛ましい道を進み、そしていつか自分も仲間たちにその屍を晒すのだろう。
非術師は彼らが身を削って、命さえ賭けて戦っている事を知らず、のうのうと生き続けている。呪霊を産み落とし、しかしその存在さえ知らずに、ただただ平穏な日々を貪り続けている。私たちの何人もの仲間が死んでいる事を知らず、愚かで醜い弱者のくせに、のうのうと。
「……猿が」
「傑、司條はどうだった?」
「ッ! ……悟か」
ふと口に出てしまった言葉は、悟には聞こえていなかったようだ。悟はどこか複雑そうな声色と顔で、私に司條の様子を聞いてきた。やはり、悟も悟で心配なのだろう。だからこそ、司條にあんなにも詰め寄ったのだ。
「大丈夫だと思う。あんな事があって、少し余裕がなかったんだ」
「……そうか」
「落ち着いたら、また桃鉄でも何でも絡んでやってくれ。無理に気を使われるより、お前のテンションが助かる事もあるはずだ」
「そう、か。……さっき、桃鉄今日やろうぜって言ったけど、あれ無しな。そんな気分じゃねぇし、今やっても楽しめないだろ」
「ああ、そうだな」
二人で寮への道を歩きながら、そんな事を話し合う。随分とこうして歩くのも久しぶりな気がした。いや、私は今たしかに悟の横を歩いているはずなのに、遠く距離があるような気がするからだろうか。
「そういえば、明日任務なのか?」
「ああ、村落内で神隠しや変死があるらしくてね。それを引き起こしている呪霊の祓除だ」
「そうか。まぁ、お前なら大丈夫だろうけど、気をつけろよ。……司條のためにも」
「……ああ、そうだな」
きっと、距離を感じているのは私だけなのだろう。悟は今まで通りの接し方をしてくる。しかし、それが、私には──。
「夏油様、本当に奴を殺さなくてよかったのですか?」
「ああ、構わないさ。彼一人殺したところで、高専の戦力は大して変わらない。ここで殺して、騒ぎになる方が面倒くさい」
「……そうですか」
バーから出ると雨が降っていて、濡れないために大きな傘のような呪霊を出す。家族全員を雨から十分に守れる大きさだ。
死屍創術には、術者が死ぬことが条件で発動する術もある。負けることは万が一にもないだろうが、ここで戦闘になるのは避けたかった。それは真実だ。
お酒を飲んだのはいつぶりだろうか。いままで、猿が関わるようなものにはあまり口をつけなかった。だが、司條とは一杯だけならいいだろうと、そう思ったのだ。
「しかし、ふふ」
悟が下戸とはなかなか面白い事を聞いた。きっと、私が高専にずっといたらその事で絶対いじっていただろう。硝子はどうだろうか。強そうだな。七海や司條、灰原はどうだろうかと、たわいもない事を考える。一杯だけだったが、少し酔ってしまったのかもしれない。
「ねぇ〜夏油様さぁなんか楽しそうじゃない?」
「……うん。私たちといるより、楽しかった?」
「ふふ、そんなことはないよ。菜々子、美々子。家族といる方が楽しいさ。ただ、昔の後輩と話すのが、なかなか久しぶりだっただけだよ」
きっと彼も戦いの場に出るだろう。七海も出てくるだろうし、悟は確実に出てくる。私の目的は猿を皆殺しにすること。その為に術師達と戦うのは仕方のない事だ。彼らを殺したくはない。乙骨憂太君にも決して死んで欲しいわけではないのだ。だが、大義のために私がその若き術師の命を摘まねばならない。
どうか死んでくれるなよと、ちらとバーの方を向いて思う。
ギムレットの爽やかで強いライムの風味が、まだ口腔の中に微かに残っていた。
あとで読み返したら五条がめっちゃ桃鉄好きな人みたいになってました。
五条って色々できちゃうから桃鉄みたいなゲームでは、ハイリスクな所に突っ込んでいって大勝ちするか大負けするかみたいなイメージです。そういう所でしか負けないし、みたいな。……いや、新幹線カードとか使って安全圏に離脱しながら七海にボンビー擦りつけて煽ってそう。