第十九話:昏天黒地/2018年10月31日20:21
十月三十一日、ちょうどハロウィンの日だ。古ケルト人のドルイド達による、悪しき死者の霊から人々を守り、そして新たな年を祝うための儀式の日。日本でいうお盆と新年のための厄祓いを兼ねた行事らしい。
だが、そんな日に渋谷に帳が降りた。……いや、そんな日だからかもしれない。一箇所にあんなにも多くの人々が集まるのは、日本広しと言えどもそうそうないだろう。西洋の呪術的儀式を模したのか、それともただ人が多ければいいのか。とにかく、これは呪術を秘匿すべしという方針の高専に対し、真っ向からその方針に中指を立てるが如き事態だ。
高専の上層部はその未曾有の事態に対し、五条悟だけをその帳の中心である渋谷駅に送り込み、その他の術師をバックアップとして帳周辺で待機させた。
「司條、擬奴羅に反応は?」
「今のところはありません。……学長、本当に俺は渋谷に行かなくていいんですか?」
「……ああ、それが上の判断だ」
「……」
渋谷には同じ一級である七海や高専の一年生すら動員されている。だが、俺は高専で待機しているのだ。確かに高専にも万が一に備えて人員を割かなければならないのは当然。しかし、どうにも素直にそれを飲み込めそうにはなかった。
一年前の百鬼夜行でも、呪霊と呪詛師への対処に東京と京都に数多くの術師を向けてしまったせいで、手薄になった高専に夏油さんが直接乗り込む事を許したのだから。真の目的である『特級過呪怨霊折本里香』を取り込む事は、二年生と乙骨君の奮闘で何とか免れた。もしその目的が叶っていたら、今頃は呪いが我が物顔で闊歩する世界になっていたかもしれない。
「……納得行かなそうだな」
「ええ、一年生すら渋谷に向かっているのに、自分は高専に待機なのは少し……」
「高専を守る事も大切な役割だ。……それに、渋谷は陽動で本命はここの可能性もある。天元様を失うわけにはいかない」
「分かっています。分かっているんですが……」
一年前だけでなくつい最近、俺が妹の創った式神である袱紗影伏と契約したり、少し調べ物をするために京都へ帰っていた時に行われていた交流会。そこで特級呪霊数体や呪詛師が高専に侵入した。
五条さんだけが入る事が出来ないという特殊な条件が付与された帳のせいで、それ以外の場所の警戒が薄くなってしまい忌庫にまで入られたらしい。忌庫にまで入られた事はついさっき学長に教えてもらったが、死傷者はその帳の外にしか出なかった。百鬼夜行や交流会襲撃の件を考えると、むしろ危険なのはここの可能性もある。
今回、帳の中の一般人が五条さんを呼んでいるそうだ。だが、それも五条悟という高専の最高戦力を渋谷へと引きつけ、別の場所を襲撃するための敵の作戦である事は否めない。それこそ、百鬼夜行時の東京と京都の呪霊呪詛師群や交流会襲撃時の特殊な帳のように。
「俺と学長、広範囲を索敵できる術師を二人もここに残しますか?」
「渋谷には冥冥もいる。渋谷に戦力を傾けている分、こちらの穴を少くする為の人選だろう」
「……」
言っていることは分かる。確かに筋は通っている。だが、苦々しい何かを胸中にずっと感じているのだ。違和感や不安、気味の悪さが凝固したかのような何かを。
天元様がいなければ、国内のあらゆる結界が作用しなくなってしまう。天元様を亡き者にするのが敵方の真の目的なのかもしれない。しかし、前回の襲撃で忌庫にまで潜入されているのならば、その際に天元様を殺そうとするのではないか。……やはり、分からない。奴らは何が目的なんだ。
目的も狙いも分からない敵について考えるが、ぼんやりとした輪郭さえも掴めない。捉えどころのない不気味な影法師を前にした気分だ。
──多分、高専に内通者がいるんだよね〜。
そんな時に、少し前に五条さんが俺に伝えてきた爆弾を思い出した。
『司條ってさ、自分が殺した相手の記憶ならほぼ自由に覗けるんだよね?』
『え、まぁそうですが。……急にどうしたんですか? 五条さん』
京都の本家から帰った時、五条さんが俺にかけた第一声がそれだ。俺を探していると伊地知から聞いたので、俺が顔を出すなりそう聞いてきて面喰らった。
組屋鞣造という呪詛師を捕縛したので、少しでも情報を抜き出すために俺を探していたらしい。どうにも要領を得ない事しか口にせず、少しでも確度の高い情報が欲しかったそうだ。断る理由もなく、俺の力が必要ならとその場では了承した。
だが、上層部が組屋という呪詛師を殺す事を許可しなかったのだ。上層部と折り合いの悪い五条さんの提言だから認めなかったのかもしれない。その際に五条さんが俺に言ったのだ。いつも通り軽い調子で、高専に内通者がいるだろう事を。
ちらと、正面でコーヒーを飲んでいる夜蛾学長を見る。高専の敷地内に多くの呪骸を放ったせいか、それともこの非常事態のせいか少しピリついた雰囲気だ。
夜蛾学長に内通者の事を伝えようかと思ったが、それは躊躇われた。五条さんは内通者について“学長以上”と言っていた。それはつまり、夜蛾学長も内通者の可能性があるという事だ。正直、恩もあり長い付き合いの夜蛾学長を疑いたくはない。
だが、彼は上層部に一度特級に認定されかけ、無期限拘束を下される直前まで行ったことがある。呪術界の無期限拘束とは言ってしまえば終身刑だ。いや、完全自律型の呪骸の製造法を聞き出すために拷問さえ行われるだろう。刑罰の無期懲役などよりよっぽど酷い目に合うはずだ。
そんな判断をしようとしてきた上層部を呪い、呪術界をひっくり返すために呪霊や呪詛師と繋がった可能性は否めない。
──だが、学長はそんな事をする人ではない。
上層部に否定的であっても、反逆を企てるような人ではない。もしその気があったとしても、五条さんのように教育で少しずつ呪術界の未来を担う若者たちを育てる形での、平和的な意識改革を選ぶだろう。間違っても、多くの人が死ぬような手段を選ぶ人ではない。俺は夜蛾学長を信頼している。
だが、信頼しているからこそ、裏切られた時に背後を取られる危険性は上がる。内通者が元々信頼出来ない人物ならば、早々に五条さんが見つけ出すなり目星をつけるなりしているはずだ。あの人は色々といいかげんだが優秀ではある。
信頼している人を疑わなければならない。その事へ申し訳なさと疑う事の必要性との間の葛藤に苦いものを覚える。夜蛾学長の傀儡操術は広範囲を索敵できるという点で、これ以上ない程に内通者に向いているからだ。自分がどこにいようとも、呪骸を放てばいつでも内通できる。アリバイなどどうとでもなってしまう。
それに学生内にいるかもしれない内通者として、五条さんと歌姫さんが疑っていた生徒の術式も傀儡操術だった。そして、今その生徒は音信不通で行方もわかっていないらしい。その事実が俺がどれだけ夜蛾学長を信頼していても、完璧に信頼しきれない理由だ。
「おい、司條。電話が来てるぞ」
「え、あ、すみません。少し席を外します」
思考に気を取られすぎて、自分のスマホが震えている事に気がつかなかった。夜蛾学長に一言断ってから一度部屋の外に出る。
冥さんからの電話だ。
「もしもし、司條です」
『冥冥だ。
「今のところは。冥さんの方はどうですか?」
『私たちは渋谷から少し離れた所にいるからね。まだ平穏さ』
その言葉にやはり違和感を覚えた。冥さんは実力的にも能力的にも、渋谷のすぐ近くにいるべきだろうと思ったからだ。烏を使った索敵、情報収集は今の渋谷で一番必要なものだろう。
今の高専には、ただでさえ情報が足りていないというのだから。冥さんをその場所に配置した上層部への疑念が深まる。
『司條、君はこの状況をどう思う?』
「……キナ臭いですね。そんな事を聞いてくるという事は、やっぱり冥さんも?」
『ああ、どうにも妙だ。……ん? 電話の相手? 司條だよ。……話したい事があるって? ちょっと待て、今スピーカーにする』
「どうかしましたか?」
何やら電話の先で冥さんは会話をしている。どうかしたのだろうかと思ったが、すぐに別の声がスマホから聞こえてきた。虎杖君のようだ。
『あーあー、聞こえてます?』
「ああ、聞こえるよ」
『司條さん、あの時はありがとうございました!』
「え、あ、ああ」
電話越しに聞こえてきたその声色は、やっぱり快活で人の良さそうな声だ。しかし、いきなりの感謝の言葉に詰まってしまう。虎杖君が俺に感謝する事とはなんだろうか。あまり関わった事はなかったはずだが。それを疑問に思っていると、虎杖君が会話を続ける。
『ナナミンが里桜高校の時、俺を助けに来られたのは司條さんと猪野さんって人たちのおかげって聞いてたから、感謝したくて。ほんとは直接言いたかったんだけど、今まで機会が無くてすんません』
その言葉にようやく納得した。俺たちは改造人間達と戦っただけで、領域すら展開する特級呪霊と戦った彼らのほうが大変だっただろうに、俺に礼を言うなんてわざわざ律儀な子だと思う。
「ああ、その事か。気にしないでいいよ。最近俺は出張が多かったし、礼ならナナミンに……七海の事だよな?」
『そうっす!』
俺も虎杖君に返事をしようと思ったが、ナナミンという呼び名に全ての意識を持ってかれた。おそらく七海の事だろう。俺と虎杖君の共通の知り合いで、そんな呼び方をされる可能性があるのはあいつしかいない。
随分と可愛らしいあだ名だ。ピクミンの一種だろうか。あの生真面目な顔の頭頂部からお花が生えて、二頭身のキャラクター化したナナミンが頭の中に浮かんだ。
そういえば、あいつが俺と猪野に何か奢ると言っていたのを思い出す。この騒動が収まったら、七海にその事で弄るついでに酒でも奢らせようと決めた。
「色々堅苦しいあいつと気が合うか心配だったが、杞憂だったみたいで安心したよ。ははは、ナナミンか。可愛らしいな」
『へへ、最初言ったときは『ひっぱたきますよ』って言われたけど、結局そのままになっちゃって。成り行きで』
あいつはどちらかといえば体制側の人間だし、その体制が定めた規定から大きく逸脱している虎杖君という存在にどんな考えがあるのかは少し不安だった。だが、今はナナミンなんて呼ばれるほど虎杖君に懐かれている。七海は変人奇人が多い術師の中では少しクセがある程度の人間だ。それも良かったのだろう。
『実は俺も最初はちょっと心配だったんだけど、ナナミンすげぇいい人で良かったっす。……司條さんはナナミンと仲良いの?』
「仲は良いと思う……というか、同級生だしな」
『え、そうなんだ!』
「ちなみに、五条さんと家入さんは一つ上の先輩で、伊地知は一つ下の後輩だ」
『へ〜、やっぱ狭いんすね。この業界』
虎杖君はやっぱり妹に似ている。いや、顔立ちや仕草は特に似てはいなかったが、雰囲気というか人間性がだ。呪術師としてはありえないほどに明るくて、同時に人懐っこさのある人好きのする人間。そんな彼が危険な前線にいて、俺が高専で待機している事に罪悪感を覚える。
『虎杖君、そろそろいいかな。私も司條に言わなければならない事があってね』
『あ、すんません。司條さん、ほんとにあの時はありがとうございました』
「ああ、どうも。虎杖君、そっちは危険だろうから頑張ってくれよ」
『押忍!』
『憂憂、虎杖君に渋谷の人員の配置を教えてやってくれ、私は少し司條と話す』
『はい! 姉様!』
電波越しで虎杖君と憂憂君の声が離れていく。冥さんが少し移動したのだろう。冥さんが話したい事とは一体何だろうか。今の渋谷の状態だとかだろうかと、当たりをつける。
『さて、司條。こんな時で悪いけど、情報屋から連絡があってね。早い方がいいと思ったから連絡させてもらったよ』
「……例の件ですか」
『ああ、そうだ』
俺の予想は外れていたが、俺が何よりも欲しい情報についてだ。心臓の鼓動が早まるのを知覚する。やはり冥さんに頼んで正解だった。感謝してもしきれない。
『といっても、今回も大した情報ではないんだけどね』
「いえ、何でもいいんです。奴について知る事ができるなら、本当に何でも」
『今回知る事が出来たのは、通り名。能面の呪物をばらまいている呪詛師のだ』
そこで冥さんは一つ息を吸い込んだ。俺はその言葉を決して聞き逃さないよう、耳を澄ませる。二十二年も追い求め続けた家族の仇。奴の名を脳に刻み込むために。
『その名は──』
「
「ハハ、前祝いだよ。前祝い。差し入れに来てやったのに、そんな言い方は酷いぜ。オガミ婆」
「ふむ?前祝いとな」
渋谷Cタワーの屋上のヘリポート。そこで真っ黒な経帷子を左前で着付けた蒐獄と呼ばれた男が、日本酒といくつかの枡を取り出しながらオガミ婆に答える。その男は、感情を感じさせない不気味な能面を被っていた。
「日本の終焉、その始まりがすぐそこまで来てるんだぞ。俺らが好き勝手出来る時代が再び来る。これ以上の酒の肴はないだろうよ。だというのに、肝心の酒がないなんて寂しすぎるだろ?」
座り込み、酒瓶をひっくり返して枡へと酒を注ぐ。とくとくと、透明感の強い液体が枡を満たした。
「お! これいい酒じゃねぇか」
枡に注ぎ終わった酒瓶の銘柄を見て粟坂がそう言う。それを聞いた蒐獄は少し機嫌をよくしたようで、自慢げな声色で口を開いた。
「そう言ってくれると嬉しいぜ。粟坂の爺さん。わざわざ
「……最近お主の呪物が流れていると聞いたが、その為か」
「ああ、そうだ。呪いの時代が来るなら、あんなチャチな物に拘泥する方がバカらしいだろ?」
蒐獄はとくとくと他の枡にも酒を淀みなく注いでいく。此奴が目立つ行動をするなんてどうかしたのかと思っていたが、なるほどそういう事かとオガミ婆は納得した。
「ほらほら、オガミ婆と孫もこっち来いよ。まさかあんたら、仕事前だからって酒を飲まないなんて言うお真面目サンだったか?」
「お前らが飲まないなら俺が全部飲んじまうぞ」
「飲まないとは言ってないだろう」
もう既に飲み始めていた粟坂にそう答え、オガミ婆も枡を手に取り酒に口を付ける。少し強いが、なかなかどうして旨い酒だ。それは酒の質がいいのか、これから来る呪いの時代が待ち遠しいからか。
それぞれの想いを馳せながら、阿鼻叫喚の地獄となるだろう東京の街に視線を落とす。彼らには死ぬだろう渋谷の人々へは何の感情もない。頭の中は、もうすぐ来たる自分たちが好き勝手出来る世界についての事で一杯だ。
彼らの愉しげな酒盛りの声は、一般人の不安と恐怖に満ち満ちた渋谷の上空に不気味に響いた。