──蒐獄。蒐集の蒐と地獄の獄で蒐獄だ。
もう随分前に冷めてしまったコーヒーに口を付ける。元々コーヒーの味などよく分からないが、今日はその苦味さえ感じる事が出来ない。冥さんから告げられた家族の仇の通り名が、ぐるぐると永遠に頭の中を巡っていた。
「……蒐獄」
その恨めしい名前を味わうように呟く。コーヒーなどとは比較にならないほどに苦々しい憎悪の味が口腔に広がった。そのへばり付いた不快感を洗い流す為に、残り少ないぬるいコーヒーを一気に飲み干す。
そうでもしなければ今すぐにでもこの部屋を飛び出し、高専の資料を読み漁って奴の情報が本当にないのか再び調べたくなってしまうだろうから。
しかし、蒐獄とは。随分とふざけた通り名だ。
呪術において名前とは重要な因子。名は体を表すなんて言葉があるように、名前は肉体と魂に紐付けられる。名前を構成する言葉に宿りし言霊を一生受け続けるのだ。その存在の行動や運命、在り方を相補的に定めるだろう。それが本名ではなく、通り名であっても同じ事だ。
地獄を
──ふざけやがって。
その通り名の意味する所が分かっているわけではない。だが、俺の考えはそう大きくは間違ってはいないだろうと直感的に察知していた。まだ奴の居場所も素顔も割れていない。だが必ず見つけ出す。そしてその息の根を絶対に俺が止めてやる。
「司條、どうかしたか?」
「……いえ、すみません」
夜蛾学長の言葉で気がつく。無意識のうちに空のマグカップを割らんがばかりに強く握り込んでしまっている事に。ヒビが入っていなかった事に安堵して、そっとマグカップをテーブルの上に置く。
窓の外に目をやると、いつにも増して不穏さを孕んだ闇が広がっていた。少し前に渋谷では改造人間が現れ、一般人を襲い始めたらしい。渋谷にいる術師たちや一般人たちは大丈夫だろうかと、窓の向こう側にぼんやりと視線を向けながら考える。ふと、窓に映る夜蛾学長が俺の方を見ている事に気がついた。
「……司條、お前は──」
俺に何かを問おうとした所で電子音が鳴る。夜蛾学長がポケットからスマホを取り出した。夜蛾学長は、自身が創る呪骸のようなゆるい可愛さが目立つスマホカバーのそれを操作して電話に出る。
「誰からですか?」
「七海だ。……もしもし、夜蛾だ」
妙だなと、七海が電話してきた事を不思議に思う。何かしら不測の事態が起こっても、まずは現場での情報共有を優先するはずだ。高専には七海から情報伝達を受けた補助監督か誰かが報告するだろう。
わざわざ一級のあいつが夜蛾学長に直接電話してくるなんて、よほどの緊急性が高い事態だろうか。俺も少し警戒心を強める。
だが、少し警戒心を強めた程度では何の意味をなさないほど、尋常ならざる事態が渋谷で起こっている事を数瞬後に俺は知る事となった。
「な! 悟が封印されただと!?」
「──は?」
夜蛾学長のその言葉が意味する事を理解できず、俺は自分の耳を疑った。最強の敗北。ありえない。いや、あってはならない事態だ。俺の知る限り五条さんは文字通り最強。比喩でも誇張でもなく、それが純然たる事実。過ぎ去った時が戻らない事や死者が蘇らない事と同等の、世界の絶対則といっても過言ではない。
高専だけでなく、御三家やその他の呪いの家系にアイヌ連の術師まで含めた呪術界の全戦力を、たった一人で殺し尽くす事も容易く行えるのが五条悟という人間の正当な評価だ。
「七海! それは確かなんだな!」
平時では見た事がない程に鬼気迫った剣幕で、電話先にいるのだろう七海に確認する夜蛾学長の様子は、それが冗談でもなんでもないことを如実に表していた。
五条さんが負けるという事は絶対にあってはならない。それはそっくりそのまま、五条さんを打ち負かす事が可能な戦力を相手が保持している事と等号を結ぶ。五条さんが本当に敗北したのなら、高専側の勝ち目はもうほぼゼロだ。味方の最大戦力が消えたのに、敵方はこちらと同等以上の戦力であるのだから。……いや、夜蛾学長は殺害や行方不明ではなく封印と言った。もしかしたら特殊な術式か呪具呪物を用いたのかもしれない。
だとすると、五条さんと同等と言えるほどの戦力は相手にはない……はずだ。特殊な帳、今の渋谷という極めて限定的な条件下でようやく五条さんを何とか出来る算段がついたのだろう。だから今日まで息を潜めていた。……そんな根拠のない推測に縋らなければならない事が、現状が本当にマズイ状況だということの証明。
「首謀者の情報は無いのか!? ……何だと?」
五条さんを封印出来るほどの存在はそうそういないはずだ。いや、あんな化け物じみた力を持つ者が何人もいたら日本などとうに終わっている。だから夜蛾学長がその人物について知ろうとするのも当然の事だ。
しかし、おそらくその解答を聞いたのだろう夜蛾学長は、言葉に仮託する事が出来ない複雑な表情を浮かべる。俺はその表情に違和感を覚えた。夜蛾学長にとって元生徒の五条さんを封印した相手について聞いたのならば、まず怒りや衝撃の表情を浮かべるだろう。それが知っている人物でも知らない人物でもだ。
だが、今の夜蛾学長は存在しないはずの何かがふっと現れたのかのような、困惑の色の方が怒りだとかの他の感情よりも強く見えた。その困惑に疑念が混ざり合った表情で、俺の方を一瞬ちらと見る。
サングラス越しではあったが、俺にその感情の一端を向けていたのが分かった。その訝しげな視線に不穏なものを感じ取るが、それがなぜなのかは本当に心当たりもなく分からない。
「……そ、れは、本当なんだな? ……ああ、司條ならここにいる。今代わる」
どういう話の流れかは分からないが、夜蛾学長が俺に自身のスマホを渡してきた。ますます訳が分からない。情報共有ならば夜蛾学長からでいいだろうに、俺へ直接伝えなければならない理由が検討もつかなかった。
「……なぜ俺に?」
「それは……聞けばわかる」
スマホを受け取りながら夜蛾学長に尋ねるが、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだようで俺には教えてくれなかった。内心首を傾げながらスマホを耳に当てる。
「七海、聞こえるか? 今代わった」
『司條、現状をどこまで把握していますか?』
「どこまでって……五条さんが封印されたんだろ? まだ信じられない。本当なのか?」
『はい。それが事実です』
七海と夜蛾学長の会話を聞いて分かるのはそれぐらいだ。その事実一つだけで日本の終わりが大きく近づいてしまう。
『なら、五条さんを封印した人物については?』
「ずっと高専に待機してんだぞ。悪いが分からない。……そんな言い方をするって事は、俺らの知り合いか?」
『……』
探るような七海の言葉に違和感を感じながらも、俺はそう答えた。狭い呪術界、封印の実行犯が俺たちの知り合いということもあり得る話だ。少しの沈黙。その後、決心したかのように電話の先の七海が小さく息を吸い込む。
『……五条さんを封印したのは夏油さんです』
「……は?」
ありえない。今日だけで何度信じられない事を聞いたのだろうか。もし本当に夏油さんならば、五条さんを封印できた事に信憑性が増す。あの五条さんと唯一肩を並べることが出来るとしたら、俺の知っている術師では夏油さんしか該当者はいない。
だが、それこそありえない。なぜなら夏油さんは去年五条さんの手で──
『本人かは分かりません。ただ、夏油さんの姿形をしていた事は確かだそうです』
「馬鹿言うなよ。あの人は死ん──ああ、そういう事か」
『……』
そこまで口にしてようやく今の状況が分かった。夜蛾学長や七海が俺に妙な態度を取るの事の答えが、死んだはずの夏油さんが渋谷にいる事を聞いて点と点が線で結び合わさるように俺の脳内に浮かび上がる。
今、この状況で一番怪しいのは俺だ。少し前まで呪骸で内通できるからと夜蛾学長を疑っていたが、それは俺も同じ事。擬奴羅を使えばどうとでもなる。
加えて死んだはずの夏油さんの存在。死者を蘇らせる術はないが、限りなく近い事は俺の術式なら出来る。
そして、俺は七海や五条さんだとかの他の術師とは違い、完全に私怨で呪術師をやっている。彼らのように顔も知らない誰かのためだとかではない。それで家族が報われる訳でもないのに、ひたすらに独善的で自分よがりな理由で呪術界に身を沈めている。彼らからすれば、俺が復讐を果たすために内通する可能性も否めない。
少しでも強くなるために自分の腕を切り落とす術師など、俺だって疑う。むしろ疑わない方がおかしいだろう。
『司條、率直に聞きます。貴方は信じていいんですね』
七海は普段より幾分か強い口調で真っ直ぐに俺に問う。それが俺にとっては救いだった。変に疑われるよりもずっと気が楽だ。だから、俺は電話の向こうの七海に口を開く。
「俺は高専の術師だ。呪詛師や呪霊と俺は絶対に組む事はない。家族の仇のようには絶対になりたくない。奴の情報をちらつかされたとしても、そいつを殺して情報を奪ってやる」
『……そう、ですね。貴方ならそうするでしょう。疑ってすみません』
「いや、いい。状況的に一番怪しいのは俺だ。疑われても仕方ない。気にするな。ナナミン」
『……虎杖君から聞いたのですか?』
「はは、本当だったのか。随分かわいいあだ名だな」
「……」
七海
「一度学長に代わる。……七海、五条さんを封印出来るような相手だ。死ぬなよ。まだお前には酒を奢ってもらう約束があるんだからな」
『ええ、当たり前です。時間外労働中に死ぬなんて笑えません。労災も降りないでしょうし』
「はは、お前らしいな。事が終わったら、またあのバーでギムレットを飲もう」
『了解です』
夜蛾学長にスマホを返すと、七海と夜蛾学長はその他の詳細な情報を共有し始めた。邪魔になっても悪いので、俺は静かに思索を巡らす。
夏油さんに関しては俺は本当に知らない。一年前の百鬼夜行の際、俺は秤君や七海と京都に配属されていたし、夏油さんの遺体は五条さんが俺や家入さんには処理させなかった。俺が最後に夏油さんと会ったのはあのバーだ。だから、俺は夏油さんの遺体がどうなったかも与り知らない。
考えられるとしたら、夏油さんが死から蘇る術式を持つ呪霊をストックしていたとかだろうか。人々の信仰や畏れが集積して誕生する呪霊ならば、そんな規格外の術式を持っていてもおかしくはない。
例えば
そういえば、ツギハギ顔の呪霊は魂に関する術式を保持していた。ならばその術式の解釈次第では死者の復活も可能かもしれない。
「……ああ。分かった。悪いが、お前はすぐに帳内に戻って五条の封印を解く事に尽力してくれ。俺は硝子や高専で待機している術師と渋谷に向かう。……ああ、頼んだ」
数分して電話は終わった。どうやら渋谷に戦力を向ける事にしたらしい。それもそうだろう。五条さんを取り戻さないと高専側に勝ち目はない。今回は陽動でもなんでもなく渋谷が敵の狙いだ。交流会襲撃時の帳だとかの陽動こそ、目立つ所が本命ではないと思わせる為の陽動だったのかもしれない。
「……渋谷に向かうんですか」
「……ああ、そうだ。悟の封印を解く事が今の最優先事項だ」
「そうですよね。……俺を拘束しますか?」
夜蛾学長は眉間に手を当てながら考え込んだ。客観的に見て俺は怪しすぎる。広範囲の索敵と内通が容易であり、そして死者に干渉する術式。それに学生時代で一番交流の深い先輩は夏油さんだった。呪詛師の情報を求めているという動機すら揃っている。
学長は俺の事をよく知っているはずだ。だからこそ、俺を野放しにするわけにはいかないだろう。
「……司條」
「……何ですか」
「お前は渋谷に先行してくれ」
「……え?」
「悪いが急いでくれ。お前なら渋谷に急行できるだろう」
「ちょ、ちょっと待ってください。俺をフリーにしていいんですか?」
夜蛾学長は眉間に当てていた手を離すと、俺の方を真っ直ぐに見てそう言った。てっきり俺は拘束されるものだと思っていただけに、その言葉に驚いて聞き返してしまう。
「なんだ。お前は裏切っているのか?」
「な、裏切ってませんよ!」
「なら頼む。少しでも戦力がいる。一級のお前の力が必要だ」
暗いサングラス越しでも、夜蛾学長が俺の目を真っ直ぐに見ていることがわかった。そこにはもう一切の疑念の色はなく、ただただ俺への信頼の色がある。分からない。その理由が分からない。こんな術式を持つ俺を信じる理由が。
「……お前が、自分の術式と呪術師をやっている動機にコンプレックスを抱いている事は知っている」
「……!」
まだ納得出来ていないのだろう俺の様子を見かねたのか、夜蛾学長は話し始めた。それは正しく俺の思っている通りの事で、いつのまに見抜かれていたのかと言葉にならない言葉が口から漏れる。
「だが、それでもお前が呪いを祓い、助けた人たちは確かにいる。お前が擬奴羅の完成度を上げる為に俺から呪骸の創り方を熱心に聞いた事を、呪力の扱い方を悟や硝子から真剣に学んだ事を、格闘術を傑から何度も学んだ事を知っている」
「……」
「だから、俺はお前を信じる。頼んだぞ」
「──分かりました。今すぐ渋谷に向かいます」
全幅の信頼が込められたその言葉に、何故だか泣きそうになった。俺は嫌いだ。立派な動機もなく復讐のために生きている事が、死者の尊厳を踏みにじるこの術式が、そして、そんな術式を自分の為に使う自分自身が。だが、夜蛾学長に肯定してもらった事が嬉しかったのだ。
黒い闇に包まれた窓を開け、鷹笛を三度鳴らす。高専の敷地内に笛の音が響き渡った。それは集合の合図。擬奴羅達を呼び戻す為の合図だ。
「……すみません。夜蛾学長。実は俺、学長のことを内通者かと少し疑ってました」
「別に構わん。俺の呪骸と過去を考えれば当然だ」
擬奴羅達が帰ってくるのを待っている間、準備の為に部屋を後にしようとした夜蛾学長に話しかける。どうしてもそれを謝っておきたかったのだ。夜蛾学長も五条さんによって守られている人物の一人。
もし五条さんが封印されたままならば、どうなってしまうか分からない。今度こそ正式に無期限拘束が下される可能性もある。だから信頼してくれた学長の為にも、少しでも俺にできる事をしようと心に決めた。
「今度、お詫びに酒でも奢ります。確か甘いお酒は好きじゃありませんでしたよね?」
「ああ。だが、お前が奢らなくていい。七海と硝子、悟や伊地知も呼んで俺が奢ろう」
「はは、五条さんは下戸でしょうに」
「ふ、いつも手を焼かされてるんだ。封印された事をいじって肴にしてやろう」
「それ、いいですね。……楽しみにしておきます」
暗い夜の闇の中から、俺の擬奴羅が近づいてくる気配を感じ取る。窓から外に出てチェロケースを背負う。朽鼠や閂鼠が俺の影の中に潜む袱紗影伏の中へと入っていくのを見届けながら、そんな他愛ない会話をした。
その少し未来のための会話は、お互いの無事を願い渋谷の事件を平定できる事を祈るもの。縛りでも何でもないが、そんな会話が大きな力となる事もある。
一番遠くで見張らせていた伽楼堕が二体、ようやく帰ってきた。その伽楼堕に俺の身体を掴ませ、空を飛んで渋谷へと向かうのが車などよりよっぽど早いはずだ。本来は東京のような人の目につく場所ではやらない手段だが、今は緊急事態。背に腹は変えられない。
「……武運を祈る」
「ええ、任せてください」
俺は夜蛾学長にそう答え、俺の背中をがっしりと掴んだ伽楼堕に合図を出した。足が地面から離れて空へと浮かび上がっていく。十一月直前の夜の空は酷く冷たかったが、不穏な生暖かい空気を孕んだ風が強く吹いていた。
俺は中途半端に欠けた月の光と、街灯だとか住宅から漏れ出る灯りに照らされた東京の上空を飛ぶ。渋谷の人々を救助する為に、五条さんを封印から解く為に、夜蛾学長の信頼に応える為に。
だが、妙に嫌な感覚が俺を捉えて離さなかった。