「ッ! お兄ちゃん!」
「香、那」
薄氷が割れるような、ガラス細工が砕けるような音共に、香那がこの死の世界に入り込んだ。俺を叫ぶように呼ぶ香那の顔は、今までに見た事がない程に鬼気迫る険しいものだった。
俺がこっちに来るなと、そう香那に向かって叫ぼうとした瞬間、香那の左手首のブレスレットが眩い白い光を放つ。それは強烈な輝きだったが、目を潰すような鋭い光ではない。優しい朝焼けのような、包み込むような暖かみを感じる光。
ほんの一瞬の内に、酷い死臭が充満する赤黒い世界を白い光が満たした。
「危ない!」
『お゛ぉ゛おおぉ゛お!』
「っ!」
一瞬の浮遊感と共に、足元の肉肉しいぶよぶよとした地面が硬質なものに変わったのを知覚した。それは倉庫の床だ。俺の領域が破壊されたことの証明。
まだ目の前が光によって眩んでいたが、俺の身体を誰かが右斜め正面から押し倒すように突き飛ばした。その衝撃を感じるのとほぼ同時に、とてつもなく禍々しい呪力が俺の頭のすぐ上を迸ったのを知覚する。もし誰かに突き飛ばされていなかったら、俺の頭部はその炎に死ぬまで焼かれていただろう。
「っ、いてて」
「何やってんだ! 早く逃げろ! 香那!」
俺を押し倒すように突き飛ばした者──香那に向かって叫ぶ。俺の側にいるのは危険すぎると判断し、すぐさま俺が香那をどかして離れようとするが、一度突き飛ばされた身体は立ち上がる事さえ出来ない。もう身体は限界だった。
「俺はもう動けない! あれの今の殺害対象は俺だ! 早く逃げろ! 巻き込まれるぞ!」
「……私が逃げたら、お兄ちゃんはどうするの?」
「俺はもう遅かれ早かれ死ぬだけだ! 頼むから逃げてくれ! 早く!」
俺が完璧に近い形で創り出す為に設定した
『おぉ゛お゛に゛ぃ゛あぁ゛!』
俺の肉体を喰らうのに邪魔な存在がいれば、『ヒルコノカミ』は躊躇なくそれを殺すだろう。近くにいるだけであの黒い炎に焼かれてしまうかもしれない。俺の近くにいる香那はあまりにも危険すぎた。
「いやだ! もう家族は死んで欲しくない!」
「ッ! バカ言うな! 早く俺から離れろ! 俺を襲うあれは少なく見積もっても特級! 二級のお前が倒せる相手じゃない!」
何故か今は俺を攻撃してこず、その巨躯で苦しげにその場でのたうち回るように暴れている『ヒルコノカミ』だか、いつ再び俺を殺そうとするか分からない。
二十二年間肌身離さず持ち歩いて込め続けた呪力に、殺害対象に俺も加わるという実質的に自己の命を懸けた縛りによって底上げされた術式効果は、千年前の平安時代に成立した本式とほぼ変わらない性能のはずだ。
「特級……」
「ああ、そうだ! 分かるだろ! もう俺のせいで誰も死なないでくれ! 頼むから……!」
『お゛ぉ゛に゛ぃ゛ぃ゛!』
「……っ」
香那が俺の上から立ち上がる。ようやく逃げてくれる気になったのかと安堵するが、香那は俺と『ヒルコノカミ』の間に立った。まさかと、嫌な予感が俺を襲う。
「逃げろって言ってるのが分からないのか!」
「……お兄ちゃん。約束、覚えてる?」
「何言ってるんだ! 早く逃げろ!」
「忘れたとは言わせないよ。私が高専を卒業したら、一級推薦してくれるって約束」
「ッ! ……そんなの、そんなのもう無理だ! 俺が約束を果たせないのは謝る。だから、だからお前は逃げてくれ! 頼むから、香那!」
『お゛に゛ぃ゛ぃ゛い!』
のたうち回っていた『ヒルコノカミ』が、俺と香那の方へその殺意に濁った赤黒い眼球を向けた。俺を殺すという至上命令を思い出したのだろう。その身体を一度大きく震わせ、俺たちの方へとその肉体を荒々しく躍動させ猛進してきた。
その荒御魂が如き存在の視界に入るだけで、身の毛のよだつ強い死の気配をありありと感じる。それは殺害対象の俺だけではないはずだ。
「もし、あれを私が倒せたら、お兄ちゃんは安心して私を一級推薦出来るでしょ?」
「やめてくれ! もう俺に人を殺させないでくれ!」
『お゛ぉ゛ぉ゛おおおぉぉ゛!』
「……絶対助けるから、ちゃんと見ててね」
情けない俺の懇願の声も、香那はちらと俺のほうを見るだけで流した。あの悍ましき存在の呪力にあてられながらも強がっているが、その足は酷く震えていているのを隠せていない。だというのに、香那は『ヒルコノカミ』に立ち向かう。
「バカ!速く逃げっ……!」
やめてくれ! にげろ! はやく! そんな言葉を俺は叫ぼうとするが、出たのは赤黒い血の混じった反吐だけだった。
「『一天地六の小世界。四方角を束ねようぞ』」
『ほ゛の゛お゛ぉ゛ぉ゛お゛!』
「『艮』『巽』『坤』『乾』『
香那は袖から小さな編みぐるみを取り出し、呪力の乗った言霊を紡ぎながらそれらに呪力を込める。二メートルを超える式神たちが現れ。それらは香那の身体に全身鎧のように纏わりついた。初めて見る術式の使い方だ。
おそらく蒐獄は香那から呪物や式神の触媒を奪わなかった。抵抗されても『新皇祟総術』やその他の術式の刻まれた能面があれば、二級の香那など恐るに足らぬと慢心していたのだろう。
それは幸運な事だが、準一級程度の式神を四体身に纏ったところで、目の前の二十二年間も濃密な呪いにあてられた『ヒルコノカミ』には勝てるわけがない。
『お゛ぉ゛ぉ゛!』
「ッ! その黒い火に触れるな! 呪力を燃やし尽くすぞ!」
香那に向かって『ヒルコノカミ』が燃え盛る黒い炎を吐き出す。蒐獄の黒い炎よりも猛々しく呪力を燃やすその炎は、まともに喰らったらひとたまりもない。死だけが待っている。
「『乾』! 『坤』!」
『ワゥゥヴ!』『メェェエ!』
香那の言葉に反応し、左手からは台風並みの暴風が、右手からは濁流が如き水流がその炎に向かっていく。水流は一瞬の内に全てが蒸発したが、暴風によって黒い炎は逸らされた。
呪力の風はともかく、術式によって巻き起こされた風は燃やせないらしい。だが、それはたまたま相性が良かっただけだ。『ヒルコノカミ』に対する決定的な武器にはならない。
「『巽』! 『艮』! あいつの動きを封じて!」
『ジャァアァ!』『モガァァ!』
香那の倉庫の床を踏みしめている脚部に呪力が篭り、それが床下から『ヒルコノカミ』の足元へと向かっていく。瞬間、木の根と鋭く尖った金属が『ヒルコノカミ』の足元から現れ、その全身を突き刺した。さらに木の根も金属も生成されてドーム状となり、『ヒルコノカミ』の三メートルを超える巨躯を軽々と覆い隠す。
香那は振り返り、俺をその手で掴んだ。
「この隙にお兄ちゃんを安全な場所まで運ぶから」
「だからお前じゃ勝てない! 俺を置いてお前だけでも逃げろ!」
「そんなこと言わないで! 本気だから! もう私は家族を目の前で殺させな……」
『お゛ぉ゛ぉ゛に゛ぃ゛い゛!』
「な! あの拘束が一瞬で!」
しかし、『ヒルコノカミ』はかなりの質量があるだろうそのドームを、自分の身体を突き刺す木の根や金属ごと燃やし尽くした。ありえない火力だ。
木の根だけならともかく、金属の杭も軽々と燃やしている。いや、あの黒い炎の前では呪力で構成された物ならば全て燃料に同じ。ただそれだけのことだろう。
「……どうしたんだろう」
『お゛ぉ゛ぉ゛お゛ぉ!』
だが、そんな尋常もない火力を見せた『ヒルコノカミ』の様子がおかしい。とてつもない苦痛に身を捻るようにしたり、地面をやたらに殴りつけたりなど妙な行動を取っている。領域内にいた時よりも、その身体は一回り小さくなっているように見えた。
『お゛に゛ぃ゛ち゛ゃあ゛ぁ゛ぁ!』
「……苦しそう」
「……っ!」
香那のその言葉に、『ヒルコノカミ』が何故あんなにも苦しんでいるのかその理由に思い至る。おそらくその身体を成す
俺の領域内で貪った屍はあくまで俺の呪力で構築されていた物質。領域内なら現実世界の屍と同等の質量を持つ物質として振る舞うが、現実世界に戻った途端ただの呪力に戻ったのだろう。構築術式のように術式終了後も永遠に残り続けるわけではない。
『あ゛ぁ゛ぁ゛ぁあ゛あ゛!』
「今しかない! 俺を置いて早く逃げろ!」
「……」
もしかしたら香那でも倒せるのではと考えるが、それは絶対に無理だ。香那では勝つことは出来ないし、俺は『ヒルコノカミ』に殺されるべきなのだ。
俺が二十二年もの歳月の間、ずっと込め続けた呪力はまだまだ奴には有り余っている。その魂の飢えを満たす為により一層凶暴になるだろうし、俺が呪いによって魂を歪め、変質させてしまったのが『ヒルコノカミ』だ。
俺は、『ヒルコノカミ』に殺されなければならない。
「……たいだけでしょ?」
「何を言って……」
「お兄ちゃんは死にたいだけでしょって言ってるの!」
「!」
香那が叫び声を上げる。俺はずっと『ヒルコノカミ』の様子を見ていたが、その声に領域を出てから初めて香那の顔をちゃんと見た。見たことない程に怒っていて、しかし今にも泣きそうな顔をしていた。
「カッコつけて死んで、早く楽になりたいだけなんでしょ!」
「……っ、ああ! そうだよ! 俺なんて、俺なんて早く死ぬべきだったんだ! 今まで惨めにのうのうと生き永らえてしまった! もう、終わりにしてくれ! 俺を殺してくれ!」
今まで隠してきた本音が決壊する。香那に向かってその全てをぶちまけてしまう。それも本当に情けなくて、より一層死にたくなる。
俺のせいで五人も家族が死んだ。二人の母親、一人の父親、そして妹とまだ性別も分からない胎児。そして香那すら死の危険に晒した。晒してしてしまったのだ。
復讐の為と家族の身体を切り刻んで呪具を創った。弟か妹になるはずだった存在を、あの悍ましい化け物に変えてしまった。ただ自己満足のために。
呪霊を祓う為と自分自身に嘯いて、呪霊に殺されてしまった死者の尊厳を踏みにじり、その身体を使い潰した。本当は全て蒐獄を殺す為だったのに。
『死處胎蔵界』。あの悍ましい生得領域は俺の事をよく表している。家族の屍を、顔も知らぬ一般人の屍を、親友の屍を自分の為だけに使い潰す俺に相応しい醜い世界だった。
自分自身で積み重ねた血と呪いに溢るる大量の死体。その死屍累々の丘に立つ俺は、ずっと前から死ぬべきだったのだ。
「……絶対死なせないから」
香那がゆっくりと立ち上がる。硬い決意を感じさせる言葉を呟きながら。俺にそれを止める術はなかった。情けなく、やめろと縋るように言うことしかできない。
もし香那が『ヒルコノカミ』に殺されてしまったら、本当に俺は自分自身を許せなくなる。……違うか。俺は許されたいのだ。少しでも自分の罪を軽くしたいのだ。香那を使って。本当に情けない。
「どんなに無様でも絶対に生きてもらう。だから、私はあいつを絶対に倒す」
『ほ゛のぉ゛ぉ゛お゛お゛!』
香那が『ヒルコノカミ』に向かって駆け出した。奴はもはや殺害対象の区別などついていない様子で、向かってくる香那に黒い炎を迸らせる。
「『乾』!」
『ワヴゥゥ゛ヴ!』
暴風が黒い炎を散らし、香那は拳が届く距離にまで肉薄した。右手に急速に呪力が集まる。
「『大瀑布』!」
『メ゛ェ゛エエ゛ェ!』
バチンと、巨大な破裂音が倉庫に響いた。大質量の呪力の水が『ヒルコノカミ』の全身に叩きつけられる。一級呪霊なら軽々と吹き飛ばせるだろう衝撃。しかし、奴は微動だにしなかった。
『お゛ぉ゛の゛ぉ゛ぉ゛!』
「きゃっ」
「香那!」
大量の水を黒い炎は一瞬の内に蒸発させる。そして炎を纏う腕を香那に振るった。何とか直撃は免れたが、香那の右腕に纏わりつく式神の一部に黒い炎が燃え移ってしまう。
「っ! ごめん! 『坤』!」
『メ゛ェ゛ギャ゛ァ゛ア!』
燃え移った瞬間、その腕に纏っている式神を素早く切り離した。すぐにその部分の式神は黒い炎に全身を巻かれ、悲鳴にも似た痛々しい断末魔を残して消える。このままでは、いつ香那をあの黒い炎が燃やしてもおかしくない。
ダメだ。それはダメだ。香那だけはもう俺のせいで殺してはダメだ。
助けなければ。どうにかして香那を助けなければならない。
考えて、考えて。一筋の光明を見つけた。それは香那の左手首にあるだろう呪物。俺の領域に侵入した際に白い光を放ち、領域を破壊したあの呪物ならば少しの可能性はあるかもしれない。
「香那! 俺がお前に渡したブレスレット、それをそいつの体内にぶち込め!」
「っ! 分かった!」
『あ゛ぁ゛ぁ゛ぁあ゛!』
体内とは一種の領域。ならばあの呪物も発動するはずだ。俺の声を聞いた香那は、ブレスレットをメリケンサックのようにして右手に装備した。そして再び『ヒルコノカミ』へと接近しようとする。
『お゛ぉ゛に゛ぃ゛ぃ゛!』
だが、それを黙って受け入れる『ヒルコノカミ』ではない。危機を察知したのか、自身の周りに黒い炎の壁を創り出した。
「『巽』! 道を作って!」
『ジャァァ!』
左足に絡みつくように一体化していた式神が体から離れ、その木彫りの蛇のような細長い身体を晒す。香那の足元でサーフィンの板のようになり、空中へと跳ね上がる。
「喰らえ!」
炎の壁を超えた香那は、そのまま思いっきり右腕を振りかぶり、『ヒルコノカミ』をその拳にある銀の環でぶん殴る。視覚外からの香那による渾身の一撃。決まったと思った。
しかしガゴンと、冷たく硬質な金属音が倉庫内に鳴り響く。
「硬っ……! やばい! 『艮』!」
『モガァァァア!』
『ほ゛の゛ぉぉおおお゛!』
香那の右足からファンシーな鬼の姿の式神が現れて、迫り来る黒い炎から香那を空中で投げ飛ばしてなんとか救う。しかし、式神は炎に飲み込まれてその姿を塵に変えた。
「まさか……!」
「……嘘、でしょ?」
黒い炎の壁が消えると、そこには『ヒルコノカミ』が二体いた。いや、片方は“影武者”だ。真っ黒でのっぺりとしたその姿は、蒐獄が操っていた影武者と特徴が酷似している。俺は領域内で蒐獄の頭部を能面ごと喰らっていたのを思い出した。
黒い炎だけでなく『新皇祟総術』ごと取り込んだのだと、ようやく俺は気がついた。いや、それは考えれば当たり前の事だ。術式の一部を取り込んでいるのに、どうして俺はその術式の全てを取り込んでいると考えなかったのか! まだ影武者は一体だけだが、奴の足元では黒い何か溢れ出すように不定形な影が蠢いている。
ただでさえ悪い状況であるのに、さらに最悪へと状況は転落しかけている。蒐獄は影武者を七体同時に操っていた。それをしないという事は、まだ完全に術式を取り込めていないのかもしれない。だがもし『ヒルコノカミ』にもそれが可能になれば、勝てる可能性は極端に低くなる。いや、不可能となるだろう。
香那はもう式神は一体しか残っていない。だというのに敵はまだまだ強くなっていく。このままでは香那が殺されてしまう。
『お゛に゛ぃぃ、こぉ゛、ごろぉ゛ず!』
二体の『ヒルコノカミ』が香那へと迫った。酸素の足りない頭を回し、少しでも今の俺にできる事を考える。
そもそも俺は立ち上がれない。呪力もほぼない。領域を展開した事によって焼き切れていた術式はようやく回復したが、素材が手元にない。クソ! 俺はどうすればいい?
視線の先では真っ黒な『ヒルコノカミ』の分身が香那に突撃した。それを香那は紙一重で避けるが、いつ潰されて殺されてもおかしくはない。影からさらにニ体目の『ヒルコノカミ』の影武者が現れた。
俺が領域に『ヒルコノカミ』を引き摺り込む? いや、無理だ! そこまでの呪力はもう残っていないし、あの領域は『一生に一度』という縛り。そもそも左腕がなく右腕しかない状態では、掌印を組むことすら出来ない。
……ああ、素材ならあるじゃないか。
「……どこ、だ!」
あたりを見回す。そしてそう遠くない所にお目当ての物を見つけた。そこ目掛けて這うように進む。半身を潰された芋虫のような不恰好で鈍重な動きだが、それでも急ぐ。何とかそのお目当ての物を手にした。それは俺の刀。
「……づぅ!」
膝立ちになり、直ぐに鞘から抜いてその刃を右肩にあてがう。右腕
「あ゛ぁ゛ぁ!」
もう『没薬・瘵』の効果も切れてきて、ほぼほぼ生身と変わらない激痛が俺を襲う。だが、それを無視する。こんな痛みにかまっている暇はない。力を込め、右腕の付け根に刃を更に深々と突き立てた。
「ぁあ゛ぁ゛ああぁぁ゛!」
刃が腕の半ばまでたどり着いたところで、右腕に力が入らなくなった。どこかしらの太い神経だか筋肉、靭帯だかが断ち切れたのだろう。だからなんだ。刀の峰を自分の歯で噛み締め、骨ごと断ち切らんと刃になけなしの呪力を込める。刀の鉄の味と自分の血の味が口腔で混ざり合った。
「だぁ゛!」
ようやく右腕が肩から切断されて地面に落ちる。これでいい。素材はできた。呪具化してある俺の身体なら、これだけで術式を発動できる。
「『
腕は一瞬震え、その筋繊維を肥大化させながらその五指を器用に動かして『ヒルコノカミ』の方へと向かう。さながら地面を這う蜘蛛のような動きで。
「香那! 一瞬奴の動きを止める! 頼むぞ!」
「分かった! 『乾』! 私を守って!」
『ワヴゥ゛ゥ゛ヴゥ!』
暴風が吹き荒れ、香那に迫り来る黒い火の粉を払う。香那は立ち塞がる一体目の影武者の脇を抜け、二体目の頭上を飛び越えた。
巨大化した切り落とした右腕は、背後から『ヒルコノカミ』の自由を奪う。その拘束を消し去るために『ヒルコノカミ』は黒い炎を腕に集中させた。胴体はガラ空き。これが最後のチャンス。
「いっけぇぇえ!」
『おぉ゛ぉ゛お゛ぉ゛!』
香那の拳が『ヒルコノカミ』に触れた瞬間、黒い閃光が空間を歪ませ迸った。何かが砕けるような音に少し遅れ、白い閃光も薄暗い倉庫の中を明るく照らす。
その光を浴びた影武者たちが、音もなく溶けるように消えた。
「……黒、閃」
「はぁぁあぁぁ!」
『お゛ぉ! に゛ぃ゛! ぢゃ゛っ──!』
黒と白の閃光が消えると、『ヒルコノカミ』の姿はそこにはなかった。倉庫の向こうの壁まで、コンテナを全て貫通しその中身を散乱させながら吹き飛んでいたのだ。未だ少し呻き声をあげているが、その身体の大部分を欠損している。もはやまともに動くことすら出来ないだろう。
「香那! 大丈夫か!」
立っていた香那がその場にへたり込む。ついさっきまで立ち上がることすら出来なかった俺だが、その香那の姿を見ると自然と体が動いて駆け寄っていた。
「……へへ。ちゃんと見てた? 私、倒せたよ」
「ああ、見てた! 怪我はないか! っ! お前、髪が少し焦げて……!」
「こんなの大丈夫。髪型変えようと思ってたし、気にしないで。……それより、何で自分の腕を切ったの?」
見たところ香那には大した怪我はなさそうで安心した。へたり込んだのは緊張の糸が切れたからだろう。本当に良かった。
「それは……香那を助けようと思ったら、身体が勝手に動いてた。そうするしかないと思ったんだ」
「……なら、許してあげる。あれがなかったら近づかなかったから。……ねぇ、この呪物何だったの? あれを倒せたのも、殆どこれのおかげだし」
香那はそう言って、右手に握られた銀の環の残骸を俺に見せる。もはやその残骸からは一切の呪力を感じられなくなっていた。
「中身の話か? それなら呪物『聖祖真舎利』を俺の術式で加工した物だ」
「え、……ね、ねぇ、それって」
俺の言葉を聞き、顔を青くした香那がボロボロになった残骸に再び目を落とす。加工といっても、こんな強力な呪物に俺が手を加えられる所はほぼない。
だからもし香那が領域を使ってくるような相手と戦った際、その領域よりも強い結界を展開して相手の領域を破壊するように制限をかけただけだ。結局、俺のために使わせてしまったが。
「ああ、約二千五百年前から寺院仏閣の結界の基底となっている由緒正しき呪物の一部。……聖遺物って言った方が正しいのか?」
「な、何でそんな物を持ってるの! それより何で自分で使わず私に渡してるの!」
「五条さんとの契約で貰ったんだよ。前に言っただろ? 呪具を渡したって。その対価としてな。お前に渡した理由は……っ!」
「お兄ちゃん!」
気が緩み倒れてしまう。銃弾によって穴を開けられた心臓が再び鼓動を始めようとして、体外へと血を緩やかに送り出しているのを感じた。……ああ、もう時間切れか。
「……助けてもらったのに、悪い。限界だ」
「待ってよ! 死なないで!」
「……一級推薦の約束、果たせそうにない。ごめんな」
「そんなのどうでもいいから! 死んじゃダメ!」
地面に倒れ込んだ俺を、香那が抱えるようにして仰向けにする。香那は泣いていて、俺なんかのために涙を流してくれているのが嬉しかった。
「ガハッ」
「お兄ちゃん!」
内臓もどこか傷ついていたのだろう。食道を血の塊が逆流してきた。俺が吐いた血は明るい赤ではなく、死体のような黒っぽい血だった。今まで何度か仮死状態になった事はあるが、本当に死ぬのは初めてで少し怖い。緩やかに死に近づいていく感覚は得体の知れない物だった。
「最後に、香那に言わなきゃいけない事がある」
「ダメ! 最後とかいわないで!」
「頼む、聞いてくれ」
こんなに泣いている香那を見たのはいつぶりだろうか。いや、そういえば昔から香那は泣き虫だった。広くて和風の司條家が怖いと、俺の後ろをちょこまかとついて来た事を思い出す。ひどく懐かしい記憶だ。……ああ、そういえば。あの子も泣き虫だった。
「……香那っていう名前は、俺がつけさせてもらったんだ。その名前は俺の殺された妹の名前だ」
思い出す。蒐獄に殺されてしまった妹を。身体を焼かれ、最後に俺に手を伸ばしたその光景を。その手を取れず、何も出来なかった自分自身を。
「……決して、お前を妹の代わりとして見てたんじゃない。次は絶対に妹の命を救うと、兄としてすべき事を果たすと、自分自身に対する誓いだった」
だから、今回は守れて良かった。俺の命に代えて、妹を絶対に次は守り抜くと決めていたのだ。
「俺は、ちゃんとお前の兄になれたか?」
「ずっと! ずっと昔から私のお兄ちゃんだったから! だから死んじゃダメ! 1人にしないで!」
「……そう、か。──良かっ、た」
それを聞いて安堵した。ずっと聞くのが怖かった。俺はお前の兄たりえるかを聞くのが。きっと今俺は笑っているだろう。
一気に意識が薄くなっていく。安心したのだろう。この世に命を繋ぎ止めていた大きな執着が消えたのだ。ひどい自己満足だとは分かっている。でも、俺にはこうする事しか出来なかった。本当にバカだ。
ああ、頼まなければいけない事を一つ忘れていた。鉛のように重たい舌を何とか動かして言葉を紡ぐ。
「……俺の、遺体は、あれと……あの子と一緒に、海にでも沈めてくれ。あの子は、俺のせいであんな風になってしまった。最後ぐらい、いっしょに、いなければ」
「っ! お兄ちゃんは反転術式使えるんでしょ! 早く治して!」
随分と無茶を言ってくれる。反転する呪力すらないのに、反転術式が出来るわけがない。そもそも、心臓だとかその他多数の臓器を治せるような腕は俺にはない。家入さんでも不可能だろう。
視界がぼやけていく。目のピントを合わせる力も残っていないのかと、いよいよ死が近いらしい事を察知した。
「──い──死ん……!」
聴覚も遠くなった。香那が何か叫んでいる事は分かるが、もうはっきりと聞き取る事ができない。だというのに自分の弱々しい心臓の音は嫌にうるさく聞こえた。しかし、次第にその心臓の音も小さくなっていく。
何か言い残した事はないか。酸素も殆どなくなった脳内で考える。……思い浮かぶより先に、勝手に口が動いていた。
「香那、俺の分まで生きろ」
この言葉は呪いになる。死にゆく者からの呪いは何より重い。だからきっと、香那は俺より長生きしてくれるだろう。それだけを祈って、俺は目を瞑った。
「バ──! やだ……!」
ふと意識を取り戻す。あの世とやらは随分と居心地がいい場所なんだなと、身体は動かないがそう思った。全身を酷い筋肉痛と倦怠感が襲い、思考が泥酔したかのように纏まらない。
ぼやけた視界が確かな像を取るより先に、嗅覚が嗅ぎ覚えのある匂いを察知する。消毒液のツンとした匂いと、少しのタバコの臭いだ。ようやく視界に映るものが明確な形を取りはじめた。
視界の両端はカーテンで仕切られていて、俺はどうやらベットに寝かされているらしい。目線の先にある棚には色々な市販薬が常備されていた。見覚えのある場所。どうやら俺はあの世ではなく、高専の医務室にいるらしい。
ここが普通の学校の保健室よりずっと広く、そして薬が揃っていると俺に教えたのは誰だったか。七海か灰原だったように思う。俺は高専以外の学校には行っておらず、普通の学校には医務室がないなど知りようもないからだ。
「……すぅ、すぅ」
「……香那」
俺の寝ているベットの右側から寝息を立てる者がいた。首を動かすだけでも億劫な身体を動かし、その寝息の主を確認する。髪の毛が短く切り揃えられた香那がベットの側の椅子に座っていて、ベットに上半身だけを預けて伏せるように眠っていた。
「……」
どうしてか無性に香那の顔をちゃんと見たくなって、香那の顔に少しかかった髪の毛を払おうと右手を伸ばそうとする。そして気が付いた。俺の右手がない事に。それはあの倉庫での戦いが確かにあった事の証明。
しばらくぼんやりとその安らかな寝顔を見ていた。今は何日なのか、どれぐらいの時間が経ったのかを確認しようと思い、辺りを再び見渡す。すると、左手側の机にメモのような紙が置かれている事に気がついた。そこまで身体を何とか動かし、その紙に書かれた走り書きを読む。家入さんの字だ。
『司條家の当主代理からの要請で猪野、伏黒、乙骨だとかとお前を助けに行った。彼らは少しでも呪具が必要らしい。借りは返したぞ』
「……義導さん」
半死半生どころかほぼほぼ常世の国の住民となった俺が生きているのは、彼らと家入さんのお陰らしい。感謝してもしきれない。まさかあの状態の俺を生きながらえさせるとは、そんな事のできる人材をあんな危険地帯に向かわせてしまった事が申し訳なかった。
そういえば加茂家と禪院家は高専に預けてあった呪具を回収したんだったか。御三家ほどではないが司條家も歴史だけはある。ある程度の呪具は持っているし、俺が創る事もできるのだ。彼らには俺もできる限りの協力をしようと思う。今の状況では少しでも戦力を上げる事は重要だ。
「ぅうん」
寝づらそうな体勢だからか、香那は少しみじろぎをした。今思い返せば、随分と恥ずかしい事を香那に言った気がする。死に際はせめてカッコつけたいと思ってしまうのは男の性だろうか。しかし悔いはない。今まで言えなかった事を言えて良かったと思う。
あの場でも悔いはなかった。俺は死ぬべきだと思っていた。もしかすると、だから死ななかったのかもしれない。呪術師に悔いのない死なんてない。神とやらがいるならば、もっと悲惨で、憂鬱で、陰鬱な悔いを残して死ぬために、俺を生きながらえさせたのかもしれない。
だが、それでもいいと思った。
俺は今まで、生者は死者の安らかな眠りを祈るが、死者は生者が苦しんで死ぬ事を祈っていると考えていた。死者の尊厳を犯し、使い潰す俺は特に死を望まれていると考えていたのだ。
しかしあの瞬間、俺が自分が死ぬと覚悟したあの瞬間、俺は香那にただ生きて欲しいと祈った。死者になる筈の俺が最後に願ったのは、生者の安らかな生だった。
だから、酷く独善的な考えだとは分かっているが、生者が安らかに生きる事を願う死者もいるのではないかと思えたのだ。少なくとも、俺の母達や父、灰原や七海に夏油さんだとかが俺の死を望んでいるとは思えない。
家族の、友人の、名も顔もしれない誰かの屍の上に立っているのは俺だけじゃない。きっと誰しもが死屍累々の丘に立つ者だ。そしていずれその丘に自分の屍を晒すのだろう。誰かの足場になるために。
「……ん、寝ちゃってた」
「起きたか、香那」
「うーん、起き……お兄ちゃん!」
「うぉ!」
起きた香那が抱きついてきた。その衝撃だけで全身が酷い激痛を訴える。だがその痛みも、今生きている事の証明である気がして喜ばしかった。
抱きしめ返す両腕もない。相当な負担をかけた俺の身体には、寿命はもういくばくもないだろう。生きるだけでさらに苦しみ、酷い目にあうかもしれない。
それでも、東京に数百万の呪霊が放たれている先を見通せない状況でも、香那が一級になるぐらいまでは生きてやろうと、そう強く決意した。
最後まで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました!
一つのお話を書いたのも終わらせたのも初めてで、本当にこの終わり方で良かったのかなと少し不安です。
呪術廻戦の世界観を活かすならもっとこう……煮詰まった負の感情というか、どうしようもなく後味の悪い終わり方が必要かなって考えていたので。
でも呪術廻戦も少年漫画だし、芥見先生も火ノ丸相撲とか僕のヒーローアカデミアとかで漫画を描くモチベションを取り戻したと仰っていたし、少しは希望のある終わり方でいいかと考えました。……ただ、今の本誌を観てるととんでもなくえぐい展開ばかりでちょっと怖いですが。
全然関係ないですが、呪術廻戦のノベライズは短いけど爽やかなお話が多いので、そちらを読んでから本誌の方を読むと落差が面白いですよ。第一弾は七海、真人のお話が、第二弾はメカ丸、禪院真依のお話が好きです。あと共通して伊地知さんのお話も好きです。是非読んでみて下さい。
脱線してしまいましたが、つまりは私がやっぱり最後はスッキリとした終わらせ方というか、折角見るなら極限まで作り込まれたバッドエンドより、チープでもハッピーエンドが好きな人種なので、このような終わり方になったという事です。
……まぁ、あの世界はこれから生きてるだけでも普通の術師には過酷そうですが、きっと頑張ってくれるでしょう。
わざわざ二次創作を見て下さるほど呪術廻戦が好きな方は、きっとこの終わり方に不満があるかもしれません。
ですが文章や表現だとかが稚拙でも、現時点でできる事はやり尽くして自分の書きたいものが書けたと思うので、厳しい批評をされても悔いはないです。
最後まで読んでくださった皆さんが思った事や疑問、聞きたい事があれば、どんな些細なことでもいいので是非感想を書いて頂けると幸いです。
重ねて、本当にありがとうございました。