渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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1.某撮影スタジヲにて。

 

 

  

 

 綾波レイは簡素なパイプ椅子に腰かけていた。

 

 そこは様々な品物が雑然と置かれた部屋。部屋の真ん中には幾つもの段ボール箱が積み重ねられ、段ボール箱の中にも色々なものが無造作に突っ込まれ、その上にはブルーシートが被せられている。

 まるで、祭りの後のような。全てが終わり、片付けも概ね済み、後は撤収されるのを待つだけの荷物たち。

 その中に、綾波レイも居た。

 

 ふと、壁に掛けられたカレンダーに目をやる。

 2029年。

 「あの日」から、世界はすでに14年の歳月を刻んだことを彼女は初めて知った。

 

 パイプ椅子から、そっと腰を浮かせる。

 お尻が痛かった。

 背中が痛かった。

 だったら椅子から立ち上がり、背中とお尻の除圧をすればいいのだが、立ち上がったら立ち上がったで、今度は膝が痛い。

 

 なにせ14年も、あの席に座り続けたのだ。

 彼を、2度とあの席に座らせないで済むように。

 ずっと、あの席に居座り続けた。

 

 襟元で摘まれていた空色の髪は今や膝まで伸び、着続けてきたプラグスーツはあちこちがほつれ、真白い生地はあちこちが黒くくすんでいる。

 

 

 彼が2度と乗らなくて済むように。

 彼がまた乗ってしまえば、彼はまた深く傷ついてしまうだろうから。世界はまた一歩、破滅の淵へと歩みを進めてしまうだろうから。

 

 

 閉鎖空間の中での14年間。

 ひたすらあの席に座り続けた14年間。

 

 辛くなかったと言えば嘘になる。

 でも、それ以上の幸せが、あそこにはあった。

 彼の存在を、常に感じることができていたから。

 彼を一人占めにできる。

 それはレイにとって、身に余るような、幸福だった。

 

 しかし時間が有限であることは分かっていた。

 幸せな時間も、いずれ終わりがくることは分かっていた。

 世界が再び彼を必要とする日が来ることは、分かっていた。

 彼が望むとも、望まぬとも。

 

 

 彼の旅立ちの日は、唐突に訪れた。

 14年の歳月の中で、頭の中はすっかりふやけてしまっていて。

 だから油断してしまっていた。

 あまりにも突然だったので、その時は強制的に旅立たされる彼の手に、あの音楽プレイヤーを添えてやることだけで精一杯だった。

 

 彼が居なくなった空間。

 彼の存在を感じなくなった空間。

 狭い狭い閉鎖空間。

 一人ぼっちの空間。

 

 気が狂いそうになった。

 

 すっかり荒れた肌に爪を立て引っ掻きまわし、ぼさぼさに伸びた髪を掻き毟った。

 

 何度あの席から立ち退いてやろうと思ったか。

 

 自分のこの行いに、何か意味はあるのか。

 

 外はどうなっているの?

 

 彼は無事なの?

 

 また、彼は傷ついていないの?

 

 孤独と不安が全身を蹂躙し、心が、体が、引き裂かれそうになる。

 

 

 一体どれだけの時間が経ったことだろう。

 おそらくそれは、彼の魂を羽交い締めにして、あの中に立て籠もっていた時間に比べれば、遥かに短い時間。

 でも、無限のように感じられた時間。

 

 別れが唐突だったのならば、再会もまた唐突だった。

 

 彼は突然現れた。

 

 突然現れた彼の姿を見て。

 

 青のプラグスーツに身を包んだ彼を見て。

 

 見間違うばかりの、精悍な顔つきの彼を見て。

 

 悟った。

 

 自分の願いは、もはや彼の願いではないことに。

 

 

「ごめんなさい」

 

 

 あの日と同じ。

 結局、何も出来なかった自分。

 

 久しぶりに使った声帯は、まるで壊れ掛けの音楽プレイヤーのように酷く濁った声を響かせた。

 

 この空間に立て籠もって以来、初めて席から腰を上げる。

 座席とプラグスーツとの生地はすっかり引っ付いてしまっており、腰を上げた時にはパリパリと乾いた音を立てて、プラグスーツは座席から剥がれた。

 

 彼を見つめる。

 

「碇くんを…、エヴァに乗らなくていいように…、できなかった…」

 

 彼は小さく頭を振る。

 

「いいんだ綾波…。あとは僕がやる」

 

 そう告げた彼の目は、すでにこちらを見ていなかった。

 

 そこでようやく気付かされた。

 彼がここから旅立った時点で、自分の役割はすでに終わっていたことに。

 

 

 

 

 

 そして綾波レイはこの部屋に居た。

 簡素なパイプ椅子に腰かけていた。

 部屋の真ん中に積み上げられていた荷物たちはいつの間にか姿を消し、残るのは木製の平台と打ち棄てられたように置かれた数台のカメラだけ。

 ここには、彼女と彼とを彩るための舞台装置も、彼女と彼とを照らす照明も、彼女と彼の声を記憶するマイクも残されていない。

 閉じられるのを待つだけの、撮影スタジオ。

 

 ここも「あそこ」と変わらずの閉鎖空間だった。窓はなく、外の世界がどうなっているのかも分からない。

 

 それでも感じた。

 彼らの魂が、一つ一つ浄化され、補完され、旅立っていくことに。

 

 

 

    そしてきっと、

 

           次は自分の番。

 

 

 

 膝の上で組んだ手に、ぎゅっと力がこもった。

 

 

 

 ふと、背後で気配を感じた。

 

 部屋の片隅に、誰かが居る。

 

 彼ではない。

 

 レイは椅子から立ち上がり、膝の痛みを我慢しながら後ろを振り返る。

 

 

 部屋の片隅に立つ、影。

 

 全身、真っ黒の、人の形をした影。

 

 ゆらゆらと揺らいで、今にも消えてしまいそうな影。

 

 影はゆっくりとレイの方へと歩いてくる。

 今にも倒れてしまいそうな、不安定な足取りで。

 

 影はレイの前に立つ。

 相変わらず影は全身真っ黒。レイの目の前にある影の顔も真っ黒。

 レイはちょうど自分と同じ背丈の影の顔を、じっと見つめる。

 

 不思議と、「何者だろう」という疑問は浮かばなかった。

 

 影はレイに向けて両手を伸ばす。

 その黒い手には、人形が抱かれていた。

 藁を丸めて布を巻いただけの、とても不出来な人形。

 

 影は、人形をレイへと差し出す。

 

 レイも、影へと手を伸ばす。

 影から、人形を受け取った。

 

 人形を左腕で抱え、右手で人形の頭部を支え、そっと胸元に引き寄せる。

 

 当たり前のように人形を抱きかかえたレイを見て、その影はまるでホッとしたように両肩を下げた。

 

 そして再び影はレイに向けて両手を伸ばす。

 影の手はレイの背中へと回る。

 影は、そっとレイの体を抱き締めていた。

 その見た目からはまるで温かみというものを感じさせない真っ黒な影だったが、影に包まれたレイは不思議な温もりを感じていた。あの席に座り続けたおかげでカチコチに固まっていた全身のあらゆる関節が、ぬるま湯に浸されたようにじんわりとほぐされていく。立ち上がっただけで感じた膝の痛みも、潮が引いていくように消えていく。

 

 まるで、孤独な戦いを終えた者に対する、ささやかなご褒美のよう。

 レイは影が与えてくれる温もりに身を委ね、静かに目を閉じた。

 

 

 

 

 背後で音がした。

 目を開ける。

 いつの間にか、自分を抱き締めていたはずの影は消えていた。

 

 背後を振り返った。

 

 彼が居た。

 部屋の壁のシャッターを閉め終えた彼は、レイの方へと視線を向ける。

 

「残っているのは君だけだ。綾波」

 

 柔らかな彼の声音。

 それでも、レイには彼の言葉がまるで罪人に対する死刑宣告のように、冷たく聴こえた。

 

 

「私はここでいい…」

 

 

 咄嗟に嘘を吐いた。

 私が居たいのは、「ここ」ではない。

 

 でも、もうそれは叶わないと分かっているから。

 だったらせめて。

 

「エヴァに乗らない幸せ…。碇くんには、そうして欲しかった…」

 

 今までと同じように、自分がここに残ればいい。

 あなたが幸せならば、それでいい。

 私の願いは、14年前も今も、ただその一つだけ。

 その願いを頼りに、この14年間をここで生きてきた。

 

 それでも彼は、私の逃げ道を容赦なく塞いでいく。

 

「もう一人の君はここじゃない居場所を見つけた。だからここじゃない君の生き方もあるよ。僕もエヴァに乗らなくていい世界を選ぶ。時間も、世界も戻さない。エヴァがなくてもいい世界に書き換えるんだ」

 

 世界を書き換える。

 新しい世界の創生。

 それは彼にしかできないこと。

 

 もう彼は後戻りしない。

 振り返らない。

 前だけを見つめている。

 

「そう…、分かった…」

 私に吐き出すことが許された言葉は、これしか残されていなかった。

 

「ありがとう…、碇くん…」

 私に歩くことが許された道は、彼が用意してくれた道しか残されていなかった。

 

 影に渡された人形を抱き締め、彼に背を向ける。

 

 

 

 部屋の片隅にある扉に向かって歩き始める。

 レイと、少年との間の距離が、少しずつ離れていく。

 

 少年に全てを託して、この部屋から出ていく。

 そう決心したはずなのに、彼女の歩みは極めて遅い。

 

 一歩歩いては、振り返り。

 

 一歩歩いては、振り返る。

 

 未練がましく。

 名残惜しそうに、肩越しに少年を見つめる。

 

 そんな彼女の様子に、少年は苦笑いをしながら頭を掻いた。

 

「綾波…」

 

 呼び止められ、レイは前に出しかけた右足をすぐに引っ込めた。

 おずおずと、少年の方へと振り返る。

 

「まだちょっと時間がある。そこに座って」

 

 少年は、先ほどまでレイが腰掛けていた簡素なパイプ椅子を指さす。

 レイは、訳も分からぬまま、言われた通りに、パイプ椅子に腰かけた。

 

 少年は彼の足もとにあった段ボール箱の中を漁る。目的のものを見つけると、レイのもとに歩み寄った。

 そのまま、レイの背後に立つ。

 

 何が始まるのか分からず、落ち着かない様子のレイ。

 そんなレイの視界を、何かが覆った。

 軽いパニックになってしまい、両足をばたつかせる。

 

「はは。大丈夫だよ、綾波。ただの新聞紙だ」

 少年はレイの顔の前で広げた新聞紙を、エプロンのようにレイの首に巻き付ける。新聞紙の下になったレイの長い長い髪を引っ張り出し、梳いて広げた。

 

「せっかくの君の門出だ。ちょっとは身なりを整えないとね」

 

 右耳のすぐ近くで、ジョキッという音がした。

 バサッと、足もとで何かが落ちる音がした。

 途端に、右肩が軽くなった。

 

 ジョキジョキジョキ、と金属的な音は続く。

 バサ、バサ、バサッ。

 肩や首が、どんどん軽くなっていく。

 

 足もとに広がる、空色の長い長い髪。

酷く痛んだ髪。

 この14年間で伸びに伸びた髪。

 自分があの場所で14年間戦い続けた証。

 彼のために捧げたこの14年の象徴。

 

 それが、自分から離れていく。

 

 

 たちまち、視界がぐにゃりと歪んだ。

 熱いものが目尻から溢れ出し、頬を伝う。

 肩が小刻みに震えた。

 

 ジョキジョキジョキ。無機質な、金属的な音は鳴りやまない。

 淡々と、作業を進めていく音。

 

 ついに、レイはその金属音から逃げるように人形を腹に抱え込み、前屈みになり、顔を俯かせた。

 それでも金属的な音が鳴り止む気配はない。

 

「碇くん…」

 嗚咽混じりの、彼女の声。

 

 彼の返事はない。

 

「私…、碇くんが…好き…」

 腹の底から絞り出されたような、彼女の声。

 

 彼の返事はない。

 

「碇くんの…、側に…、いたい…」

 

 

 そこがどこだっていい。

 ここでもいいし、あのプラグの中でも、ネルフ本部でも、ヴィレの戦艦でも、学校でも、マイナス宇宙でも。

 あなたの隣であれば、どこだっていい。

 

 あなたが幸せであったならば、それでいい。

 私の願いはただその一つだけ。

 

 そんなのは嘘だ。

 

 あなたの側に居たい。

 あなたの側で生きていたい。

 あなたと共に生きて、共に死にたい。

 

 こんなことを言ってしまえば、彼を困らせてしまう。

 そんなことは分かっている。

 でも、一度溢れ出した想いは止まらなかった。

 

 おそらく彼女は生まれて初めて、他者に対して、ありのままの、剥き出しの自分の感情をぶつけていた。

 

 

 ジョキジョキジョキ。

 それでもなお、金属的な音は止まらない。

 次々と、ぼさぼさの空色の髪を断っていく。

 

 

 

 少年は刷毛を使って、レイの体に残った髪の毛を払ってやる。

 その間も、レイはずっと前屈みに伏せ、背中を震わせ続けていた。

 そんなレイの細い両肩に、少年はそっと手を添える。

「綾波…、起きて…」

 レイは少年に促されるままに、上半身を起こす。風通しの良くなった首回りが、スース―した。

「立てるかい…?」

 その問い掛けに、レイはしゃくりを上げながらも頷き、椅子から腰を浮かせ、膝を伸ばす。

「これも脱いじゃおうね」

 そう言って、少年はレイが着た白のスーツの手首に手を伸ばし、そこにあるボタンを押した。プシュッと、空気が膨らむ音と共に、レイの体にぴったりとくっ付いていたスーツが緩まる。

 首回りが大きく開き そこから露わになっていく、少女の丸みを帯びた肩、真っ白な肌。

 少年の手に為されるがままに、スーツは少女の体から剥がされていく。その間も、少女は人形を抱えた手で顔を覆い、泣き続けている。

 上半身全てが露わになり、さらにスーツの両下肢の部分も下げていく。スーツを足もとまで下げて。

「綾波。右足を上げて」

 言われるままに、右足を上げる。

「今度は左足を上げて」

 やはり言われるままに、左足を上げる。

 そして彼女が再び両足で床に立った時、彼女の体からは全てのスーツが剥ぎ取られていた。

 

 

 ここは碇シンジが作り出した空間。

 彼が望めば、あらゆるものが手に入る場所。

「じゃあ、これを着て」

 いつの間にか、少年の手の上には丁寧に畳まれた白のブラウスとコバルト色の吊りスカート。

 それらを差し出されても、レイは相変わらずおいおいと泣いてばかり。

 仕方なく、

「門出の日に相応しいもっとお洒落なドレスとかの方がいいのかもしれないけどさ」 

 彼の手によってブラウスを着せられ。

「ほら。僕ってファッションとかに疎いし」

 スカートを履かされ。

「君にはやっぱり、これが一番似合うよ」

 紅のリボンタイも結ばれる。

 

 再び少年の両手がレイの両肩に添えられ。

「ほら、綾波。あれを見て」

 しゃくりを上げ続けているレイは、なかなか顔を上げられない。

「ねえ、綾波」

 再度促され、レイはようやく顔を上げ、閉じていた瞼を開ける。

 先ほどまでは壁しかなかった場所に、いつの間にか姿見が現れていた。

 

 そこに映る、少女の姿。

 少女の側に立つ、少年。

 

「ほら、綺麗になった」

 

 肩に掛かる程度の長さの、空色の髪。

 泣きはらして、いつも以上に真っ赤になっている瞳。

 白磁のような肌。

 白のブラウス。

 コバルト色の吊りスカート。

 

「もうちょっと、摘めた方が良かったかな?」

 以前の彼女の髪はもっと短かったはず。

 そんな少年の言葉に対し、少女はふるふると頭を横に振る。

「これでいい…」

「これでいいの?」

「碇くんが…、切ってくれたんだもの…」

「そっか…」

 

 少年は、レイから一歩遠ざかる。

 

「綾波。時間だ…」

 

 レイは少年に体を向ける。

 目じりを下げ、卵のような額に皺を寄せ、桃色の下唇を噛みしめ、再び溢れてきそうな涙を必死に堪えながら。

 

 

 少年は困ったように笑っている。

 

「綾波…。…笑ってよ、…あの時みたいに…」

 

「うん…、うん…」

 何度も頷き、何度も鼻を啜り、目をぎゅっと瞑って瞼の裏に溜まった涙を絞り出す。

 

 出来るだけ顔から悲しみの色を追い出し。

 そして口角を上げ、ぎこちなく笑う。

 

 レイは、左手で人形を胸に抱きよせながら、右手を少年に向けて差し伸べた。

 

「さようなら…」

 

 少年の目を、まっすぐに見つめながら伝える。

 

「「また会いましょう」という、おまじない…」

 

 何故か、自分の口から自然と出てきた言葉。

 

 少年はレイの白い手をじっと見つめる。

 ゆっくりと頷いた。

 

 彼女の手を、ぎゅっと握り締める。

 

「ありがとう…。綾波…」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 閉じた瞼の向こうから光を感じ、彼女は目を覚ました。

 

 見覚えのある天井が見える。

 

 覚えのある寝心地のベッドに枕。

 

 寝返りを打ち、体を右側に倒してみる。

 

 見えるのは薄汚れた床。打ちっぱなしのコンクリート壁。小さな冷蔵庫に、小さなチェスト。

 

 再び寝返りを打ち、今度は体を左側に倒してみる。 

 

 見えるのはベッドのすぐ側にある埃っぽいカーテン。カーテンの隙間から洩れる強烈な日差し。

 

 カーテンを開けてみる。

 

 連なるように建てられた巨大な集合住宅。

 その向こうを走るモノレールの高架。

 住宅地を囲むように広がる緑。

 

 窓ガラスの向こうには、見覚えのある街並みが広がっている。

 

 

 

 




 
  
映画本編での綾波シリーズ(ポカ波さん、黒波さん、アド波さん、デカ波さん)の不遇っぷりにショックを受けた作者が、若干不安定な精神状態で書いてますので、まとまりを欠き、かつまともなオチもつかないまま終わると思われますが、よければ最後までお付き合いください。
 
 
 
 
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