事務室に拝借したハサミを返し、資料館を出ようとして、ふと出入り口のベンチの上に置かれたアルバムが目に入る。少年は足を止め、ベンチに座り、アルバムのページを捲った。
「あの写真」のページを開く。
そこに写る、赤ん坊をおんぶした空色髪の少女。
見れば見るほど、彼女と瓜二つ。写真の隅には『2029.××.××』の印字。今から14年前の日付。
写真の下には添え書き。
その添え書きを見て。
ガラガラと引き戸が開く音がし、少年ははっとして顔を上げる。
「あら、こんにちは」
引き戸から現れた黒のブルゾンを羽織った女性は、ベンチに座る少年の姿を認め、挨拶をする。
「こんにちは」
少年も軽く頭を下げて挨拶する。
女性は言う。
「ここ、今日はもう閉館だけどいい?」
「ああ、うん。構わないですよ」
少年はベンチから立ち上がろうとして。
「…ここの管理人さんです?」
少年の問い掛けに、女性は頭を掻きながら答える。
「いんや。あたしはここの管理人の知り合い。そいつ、今日は用事があるんで、かわりにあたしが来たの」
「…もしかしてお姉さん。この村の出身ですか?」
「出身っちゅーか。まあ、そうとも言えるかな」
「だったら…」
少年は手に持っていたアルバムを開こうとして。
しかしその手を止めてしまう。
「だったら…、なに?」
「ああ、いえ。何でもないです。気にしないで下さい」
「ふーん」
女性は資料館の窓の施錠を確認して回る。
「どうだった? 見学してみて」
資料館の奥から女性の張りのある声が響いてくる。
「素敵な村だったようですね」
少年も少し声を張って返事をする。
「まあ、ここに展示されてるのは、村の綺麗な思い出ばかりだろうからね」
「綺麗な…ですか」
「そりゃあんな時代だから。思い出したくないようなことも一杯あるだろうさ」
資料館の奥から女性が戻ってきた。ポケットから鍵束を出し、事務室のドアの鍵を閉める。
「お姉さんにも、思い出したくないような過去って、あるんですか?」
「あたし?」
「ええ」
女性はいじわるそうな表情を浮かべる。
「おうおう。初対面のレディに対して、いきなりの質問ね」
「おっと。ごめんなさい。つい…」
少年が素直に恥じらったことに満足した女性は、表情を和らげる。
「ふふっ。まああたしの場合は思い出したくても思い出せないからさ」
「え?」
「あたし。昔の記憶がちょっと曖昧なんだよね。特にここに住んでた頃以前の…ね」
「そう…なんですね」
何とはなしにしてみた質問に対し、想像以上に重い返事が返ってきてしまった。少年はそんな表情をしながら、言葉を詰まらせてしまった。
そんな少年を気遣うように、女性は笑ってみせる。
「でもこの14年間は、まあそれなりに幸せだったから。いい仲間にも恵まれたしね。そう考えると、思い出したくない過去ってのは、特にないかな。ある意味幸せもんだね」
「そう…ですか」
「ま、でも…」
明るい表情だった女性の顔に僅かばかりの影が差し込む。
「思い出したくないような過去がないことは良いことなのかもしんないけどさ、忘れちゃいけない過去ってのもある。そう思わない? 少年」
「はぁ…」
突然同意を求められ、気の抜けた返事をしてしまう少年である。
「目覚めてからあたしの記憶が曖昧になってるって気付いた時、同居人は何だか安心したような顔してたよ。なんだろうね? 昔のあたしって、よっぽど酷い目に遭ってたのかな? 忘れてしまった方がいいほどに」
「どうなんでしょう…ね」
「どこのどなた様があたしの記憶をこんな風にしちゃったのか知んないけど。もしかしたら忘れたのは辛い思い出ばかりなのかもしんないけど。でも、記憶ってのは言わば己の半身だ。それを奪い取っちゃうって、酷い話しだと思わない? ねえ、少年」
そう言いながら、女性は少年の隣に座る。「重い話し」から「面倒くさい話し」に流れが行っているような気がしてしまう少年である。
「あ~、何だか腹立ってきた…」
貧乏ゆすりを始める女性に対し、少年は持っていたペットボトル入りのお茶を差し出す。
「お茶でも飲んで、落ち着きましょうか」
「あ~、ありがと。とにかくあたしはあたしの記憶を勝手に奪った奴が許せない」
「おう、まだ続くか…」
「あたしの今の生きるモチベーションの半分は、あたしから記憶を奪った奴に出会ったら一発ぶん殴ることよ。あんにゃろうめ。見つけたら、ただじゃおかないんだから」
「このお茶、酒でも入ってたかな?」
「あ~ごめんごめん。こんなおばさんのみっともない愚痴聞かせちゃった」
「おばさん、って。まだお若いじゃないですか」
少年はお世辞ではなく、女性の容姿についての素直な感想を口にする。
「ふふっ。ありがと。ま、いずれにしろだ。少年」
ぐぐっと顔を近づけてくる女性。
「はあ…」
相変わらず気の抜けた返事をする少年。
「「過去」なんてのは、所詮「過去」。「今」よりも大切な「過去」なんてないんだ」
「今の話しだとまったく説得力が感じられなあ」
「「過去」にばっか拘ってると、あたしみたいになっちゃうよ、ってことよ」
女性はケラケラ笑いながら少年の肩をばんばんと乱暴に叩く。少年の細い首が、ふらふらと左右に揺れた。
「かわいいコね」
「は?」
自分の肩に腕を回してくる女性のその一言に、一瞬身の危険を感じ、構えてしまう少年である。
「あんたのカノジョ?」
「え?」
身構えていた少年を他所に、女性は引き戸の方を見ていた。
引き戸のガラス窓の向こう。資料館の前の広場で、少女が一人、佇んでいる。
「あ、いや。カノジョというか、何というか…」
歯切れの悪い少年の言葉に、女性の顔がニヤニヤと笑う。
「ふふっ。若いんだからさ。後悔しないようやんなさいよ」
「はあ…」
「ほらほら。もう行きな。あんたたちバスで来たんでしょ? 今度のバス逃すともう次がないよ」
そう言いながら、女性は少年の背中を叩いた。
引き戸が開き、少年が出てきた。
空色の髪がすっかり短くなった少女が待っている。
「誰…?」
少女は少年の肩越しに資料館を見つめている。
少年は振り返った。資料館の窓の向こうで、あの女性が笑顔で「バイバイ」と手を振っている。
少年も女性に向かって軽く手を振りつつ、
「ここの管理人の知り合いだってさ」
「ふーん」
少女は窓ガラス越しの女性を見つめる。
女性も、手を振るのを止め、笑顔も止め、窓ガラス越しに少女を見つめている。
「行こっか」
少年は歩き始めながら少女に声を掛けた。
「ええ…」
2人は資料館の前を後にする。
待合室もベンチもない、標識があるだけの、木漏れ日が差し込む森の中のバス停。少年と少女はオレンジ色のガードレールにお尻を預けて、バスを待っている。
「加地くん…」
「なんだい…?」
「またいつか、ここに来ても、いい?」
「……」
少年は股の上に組んだ自分の手を見下ろしている。
返事のない少年の横顔を、少女は隣から見つめる。
暫しの沈黙の後。
「君がそうしたいなら、そうすればいいよ」
少年は少女の顔を見ずに答えた。
「うん…」
少女も躊躇いがちに返事をする。
資料館へと続く未舗装路から車のエンジン音。
見ると、道の奥から白い大型のSUV車がやってくる。運転席には、資料館で会った女性。女性はバス停に居る2人の姿を認め、笑顔で手を振ってくる。そして特に少年に対しては、エールでも送るかのように右手の親指をぐっと立て、綺麗な歯を見せて笑いかける。
少年は苦笑いを浮かべながら頭を掻き、女性に対して小さく手を振った。
去っていくSUV車と入れ替わる形で、バスがやってきた。
バスと電車を乗り継いでいく内に、車窓越しに見える田舎の風景にぽつぽつと建物が増え始め、やがて街の風景へと変化する。
電車の昇降口付近に立つ少年は、腕時計を見た。
「まだ宿に行く時間には早いかな」
今日の宿は空港近くのビジネスホテルだ。このまま直行すれば、あと30分ほどで辿り着いてしまう。太陽は、まだ高い位置にある。
腕時計から目を離すと、車内の奥に座る女子高校生と思しき制服を着た3人の女の子たちと目が合った。女の子たちは少年と目が合った途端、きゃっきゃと小さな歓声を上げてはしゃぎだし、少年に向けて小さく手を振り始める。
少年は反射的に、女の子たちに向かって軽く手を振った。
その少年の手に、白く細い手が重なる。
見ると、壁に寄り掛かって立つ少女が、女の子たちに向けて振ろうとされている少年の手を押さえ、止めさせようとしている。
窓ガラスの向こうに流れる外の景色を見ながら。少しふくれっ面の、どこか不機嫌そうな顔で。
少年はばつが悪そうに頬をぽりぽりと掻き、そして少女のご機嫌を取ろうと彼女の後ろ髪を、ぽんぽんと撫でた。
「帰ったら美容室に行って整えてもらおうね」
その少年の言葉に、少女は頭をふるふると横に振る。
「でも僕も人の髪を切ったのは初めてだから。やっぱりちゃんとした人に切ってもらおうよ」
「いい…」
「え?」
「加地くんに、切ってもらったんだもの…」
そう呟き、首元の毛先を弄りながら顔を俯かせる少女。その両頬が、ほのかに赤く染まっている。
「そ、そっか」
少女のその言葉と態度に、思わず頬を赤らめてしまう少年である。
目的の駅に辿り着き、ホームに降り立つ。
改札口へと向かう跨線橋に向かおうとして、
「あ」
2人は足を止めた。
向こうもこちらに気付き、驚いた表情で足を止める。
ホームの真ん中に、森の中で会った背広姿の青年が立っている。
「やあ、同じ電車だったんだね」
「ええ、そうみたいですね」
笑顔で2人のもとまで歩み寄ってくる青年。
その青年の視線が少女の方へと留まり、青年はさらに驚いてしまった。
「あ、あれ? 君、どうしたの?」
あの森の道で出会った時は背中まで伸びていたはずの少女の髪が、今は首元で短く切り揃えられている。
「ああ、えっと、美容院に寄ってきたんですよ」
青年にとっての大切な場所で「髪を切りました」とは言えない少年。咄嗟に誤魔化してしまった。
「ふーん」
青年は少年の言葉を疑うことなく、まじまじと少女の顔を見ている。
「うん。やっぱり君には、その髪型が一番似合ってると思うよ」
「え?」
「あ、いや。どうだったかな。綺麗な湖だったでしょう」
「ええ、まあ」
少年はやや歯切れの悪い返事をする。
確かに廃墟の近くから見た湖の風景は、心が洗われるような素敵な場所だった。でも、果たして少女をあの場所に連れていったのは正解だったのだろうか。
そんな思いに駆られている少年の横で、少女ははきはきと言った。
「はい。教えて頂いて、ありがとうございました」
その顔に柔らかな微笑みを浮かべながら言う少女の横顔を、驚いた顔で見つめる少年。まだ顔を合わせて2回目の相手に対して、こんなにも素直にお礼が言える少女を、少年は見たことがなかった。
一方、お礼を受けた青年も青年で、少女からお礼を言われるとは思っていなかったのか、やはり驚いた表情を浮かべている。しかしすぐにその顔に満面の笑みを浮かべ、
「うん。良かった」
大きく頷いた。
「それにしてもすごい偶然だね。全く違う場所で2回も会うなんて」
微笑む少女の横顔をぼんやりと見つめていた少年は、声を掛けられ慌てて青年を見る。
「え、ええ。そうですね」
青年は少し考えこんで、何かを決心したように小さく頷く。
「せっかく出会えたんだしこれも何かの縁かもね。よかったら連絡先でも交換しない?」
そう言いながら、青年はスーツのポケットから携帯通信端末機を取り出す。
「あ、えっと…、その…」
青年のその提案に、少年は困ったように後ろ髪を掻いた。
「ごめんなさい。僕たち、携帯電話持ってないんです」
「そうなの。今時珍しいね。じゃあ家の電話は?」
「家の電話もないんです」
「え? じゃあ住所は? 手紙書くよ」
「ええっと…」
少年は言い淀み、視線を下げてしまう。
「あ、ごめんごめん」
青年は不用意な質問をしてししまったと反省した。
「あの日」から14年経ったとは言え、まだ世界は復興半ば。住所すら定まっていない子供たちの存在は少なくなってきたとはいえ、決して珍しいわけでもない。
「一応、住む場所はあるんですけど。正式な住所も付いていないところなんで、手紙送ってもらっても、たぶん、届かない…かな」
「そっか…」
少し暗くなってしまった場の空気を取り戻そうと、青年は明るい声で質問を続ける。
「2人で暮らしているの?」
「ええ」
「助けてくれる大人たちは?」
「あ、はい。世話を焼いてくれるおばさんがいます」
「そうなんだ。よかった」
「ええ」
安心した様子の青年。若い自分たちを心配してくれている青年の優しさが嬉しくて、少年も笑顔で答える。
青年は少しだけいたずらっぽく笑う。
「2人での生活は楽しい?」
少し意表を突いた青年の質問。
「あ、えっと」
即答し兼ねてしまった少年の代わりに、
「はい。楽しいです」
少女が答えた。
「そっか」
青年は微笑みながら答える少女の顔を、眩しそうに見つめた。
少女の横では、少年が照れ臭そうに頬を人差し指でぽりぽりと掻いている。
そんな少年のジャケットの袖をぎゅっと握り締めながら、少女は続けて言う。
「この世界で生きていけることが、本当に嬉しいです」
少女のそんな言葉に、何を大げさなと、少年は笑ってしまいそうになったが、少女の横顔は真剣そのもの。出かけた笑いを寸でのところでこらた。
青年は携帯通信端末機をポケットにしまう。
「また何時か今日みたいに何処かでばったりと会える日もあるだろうね」
青年のその言葉に、少年は笑顔で言う。
「ええ。僕もそんな気がします」
「僕はイカリ。イカリシンジっていうんだ」
「僕は加地です」
「え?」
「で、こっちがツバメちゃん」
少年に紹介され、少女は青年に向けて軽く頭を下げる。
「カジくんに…、ツバメちゃん…」
青年は、2人の名前を呟きながら、2人の顔を交互に見つめた。
「はい」
2人の名前を聴いてどこか呆けてしまった様子の青年に対し、少女がすっと右手を差し出す。
突然出された手に、青年は驚いたように目を瞬かせる。しかしすぐに表情を和ませ、
「おまじない…だね」
青年が呟いたその言葉に、少女はきょとんと首を傾げる。
「ふふ。よろしくね。ツバメちゃん」
少女の手を、そっと握った。
「カジくんもよろしく」
「はい。イカリさん」
少年も、青年と握手を交わした。
「それじゃあ」
「さよなら…」
2人は青年に対して別れの挨拶をする。
「うん、またね」
青年の前から去り、数歩ほど歩いて。
「あ、そうだ」
何かを思い出したように少年は足を止める。
「イカリさん」
「なんだい?」
「僕たち、ホテルのチェックインまでまだ少し時間があるんです。この辺りで時間が潰せるようないい場所ないです?」
青年は腕組みした。
「うーん。僕もここの人間じゃないからなあ。それにこの辺りって、工業地帯だからいわゆる観光地なんて無いんだよね」
暫し天井を睨みながら考え込んで。
「あ、そう言えば」
何か思いついたらしい。
「この近くに海浜公園があるんだ。特に何があるって訳でもないけど、今行けば海峡に沈む夕陽が見れるんじゃないかな」
「いいですね。どうやって行けばいいんです?」
「1つ向こうのホームの下りの電車に乗って終点まで行けばいいよ。駅を降りて5分も歩けばすぐだ」
「分かりました」
「今日みたいな穏やかな日和の日は、綾を成すように波が寄せ合ってとてもキレイなんだ。汐風香る、とても素敵な渚だよ」
2人の背中が跨線橋の階段へと消えていく。
若い2人の後姿を見送った青年。
少女の言葉を心の中に思い浮かべる。
―――この世界で生きていけることが、本当に嬉しいです。
気が付けば頬に一筋の涙が伝っていたため、慌てて拭った。
鼻を啜り、改めて2人が上っていた階段を見つめて。
青年の顔に浮かんでいた穏やかな笑みが、瞳をキラキラと輝かせた満面の笑みへと変化して。
「よっし…!」
周囲には聴こえない程度の小さな歓声を上げ、そして控えめにガッツポーズをする。しかしそれだけでは今の胸の内の感情を表し切ることができなかったようで、まるでダンスのステップでも踏むかのように、その場でぴょんぴょんと軽いジャンプを繰り返す。
5度目のジャンプを終えて、両手を天に突き上げ大きく背伸びをした青年は、輝かせたままの瞳をプラットホームの天井の端から見える青空に向けた。
「マリさん、聴こえてるかな?」
自分の首にはめられた首輪に触れる。
「これ。もう外してもいいよね?」
青年と別れ、跨線橋を渡り、隣のホームへと降りる。
跨線橋の一番近くのベンチに座る人物を見て、少年はまたもや驚いてしまうことになる。
ベンチに腰掛ける黒いブルゾンを羽織った女性は、跨線橋から降りてきた少年少女を見てやはり驚いた顔をしつつ、「よっ」と右手を上げた。そんな女性に対して、少年も軽く手を上げて応じる。女性は携帯電話で会話中だったため、少年とは軽く挨拶を交わしたのみで電話での会話を再開する。
女性の前を通り過ぎようとして。
バチン!
少年は突如お尻を襲った衝撃にその場で飛び上がってしまった。
何事かと驚いた様子で横を見ると、ベンチの女性が携帯電話で話しをしながら、少年をニヤニヤ顔で見上げている。どうやら、女性が少年のお尻をすれ違いざまにひっぱたいたようだ。
「何をするんですか」と無言で抗議の視線を送ってくる少年に対し、女性は相変わらずニヤニヤしながら、少年に向けて右手の親指をぐっと上げてみせている。通話中のため声には出さないが、口をパクパク開閉させており、どうやら「グッドラック」とでも言っているらしい。
少年は困ったように笑いながら頭を掻く。その横では、少女が「何すんだこの女」とでも言いたげな物凄い形相で女性を見下ろしていたため、少年は慌てて少女の腕を引っ張って女性の前を後にした。
ベンチでは、相変わらずのニヤニヤ顔の女性が、手をひらひら振って少年少女を見送っている。
2人でホームの奥へと行く。向いのホームでは誰かと待ち合わせでもしているのだろうか。誰も居ない、電車も暫くは来る予定のないホームで、あの青年がぽつんとベンチに座っている。青年は2人の姿を認め、笑顔で右手を軽く上げた。2人も笑顔で青年に対して小さく手を振る。
「大丈夫? ツバメちゃん。疲れてない?」
「平気…」
少年と少女が二言三言会話を交わしていると、向いのホームが何やら騒がしかった。
見ると、いったいどこから現れたのだろう。栗色のロングヘアの女性に手を引かれ、あの青年がホームを走り、跨線橋の階段を駆け上がっている。
「はは。元気な人たちだ」
少年と少女は跨線橋を駆け上がっていった2人の背中を見送った。
「え!?」
今度はこちらのホームが何やら騒がしい。
見ると、先ほど少年のお尻をひっぱたいた女性がベンチから立ち上がっている。
「待ち合わせってこの駅じゃないの? もう、だったら車でそっちに行くわ。ん? あーもういいよ。今日は飲まないから。サンパークで買い物済ませてからあんたたち迎えに行くから、それまでそこでテキトーに遊んでて」
女性は携帯電話で話しながらそのままのんびりとした足取りで跨線橋の階段を上がっていく。
青年と女性が去り、静かになるホーム。
少年と少女はお互いの顔を見合わせ、肩を竦ませた。
電車を待っている間、少女はふとホームの天井に目をやる。
天井の隅っこにぶら下がる、壺のような形をした器。それは泥で塗り固められた、野鳥の巣。
巣の周りを忙しなく飛ぶのは、親鳥だろうか。そして巣の穴から顔を覗かせるのは、雛鳥なのだろう。
その野鳥が巣立ちを終える季節は、すでに過ぎている。どうやら巣立ちに遅れてしまった雛鳥の初飛行の瞬間を、親鳥が懸命に励ましているらしい。
巣の穴から顔を覗かせる羽毛がまだ生えそろっていない雛鳥は、穴から大きく身を乗り出しては、翼を羽ばたかせ、しかしすぐに体を穴の中に引っ込めてしまい。再び身を乗り出し、翼を羽ばたかせ、しかしやっぱり体を穴の中に引っ込めてしまう。
なかなか大空への一歩を踏み出せないでいる雛鳥。
そんな雛鳥と、励ます親鳥の姿を、ハラハラとした面持ちで見守っている少女。
「ツバメちゃん」
背後から声を掛けれた。
振り返ると、そこにはいつの間にかやってきていたオレンジ色の電車。1両編成の電車の昇降口には、すでに乗り込んでいる少年の姿。
少女は頷き、昇降口へと足を進める。昇降口から伸ばされる少年の手に引かれ、ひょいっと電車の中に乗り込んだ。
すぐに踵を返し、視線をホームの天井へ。
そこにはやはり、巣からなかなか飛び立てない雛鳥の姿。
昇降口の扉が、音を立てて閉まる。
ゴトンゴトンと、鈍い振動を立てながら走り出す電車。
ホームが遠ざかっていく。
少女は扉の窓ガラスに張り付いた。
懸命に目を凝らす。
くすんだ窓ガラスの向こうに見える、天井の巣。
空っぽの巣。
何も居ない巣。
少女は方々に目をやる。
そんな少女の前を横切る、2つの小さな黒い影。
車窓のすぐ外を、元気に飛び回る2つの影。
親ツバメと子ツバメはお互いの周りくるくると回り、宙に螺旋を描きながら、青い空へと消えていった。
「どうかした? ツバメちゃん」
窓に張り付いている少女の背中に、少年は声を掛ける。
少女は窓ガラスに額をくっ付け、雲一つない空を眺めながらぽつりと呟いた。
「ツバメ…、元気かな…」