渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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2人ののんびりとした休日の様子を綴った、とりとめのないお話しです。

 


おまけ
耳をすませば。《前編》


 

 

 

 

 よく磨かれたガラスは街並みの様子と歩道を行き交う人々、そしてショーウィンドウを熱心に覗いている一人の男性を写し出している。

 少年期を終え、青年期へと移ろったばかりの彼、渚カヲルは、ガラスの向こうに並ぶ商品の一つに、熱い視線を送っていた。

 彼が立っているのは街角にあるリサイクルショップの店先。ショーウィンドウに並ぶのは、ショップが選ぶ目玉商品の数々。

 

 ショーウィンドウのガラスはカヲル以外にもう一人の人物を写し出してる。

 カヲルの数歩後ろに立つ綾波レイは、ガラスに額をくっ付ける勢いで前屈みになっているカヲルのお尻を、やや呆れ気味に見ていた。

 

 カヲルがショーウィンドウの前から動かなくなってからかれこれ20分。

 待つことには慣れているレイもさすがに痺れを切らし、鼻から微かに溜息を漏らしつつ、編み上げのショートブーツの踵をトツトツと鳴らしながらながらカヲルの横に立つ。

 

 カヲルの視線の先にあるのは、陳列台に置かれたやたらとゴツゴツとした出で立ちのカメラ。

 最近になって、このようなタイプのカメラを「一眼レフ」と呼ぶことを知ったレイである。

 

「カヲル…」

 熱心に見ている彼の邪魔をしてしまうのを悪いとは思いつつ、躊躇いがちに声を掛けてみる。

「うん…」

 カヲルからはどこか上の空の返事。

「欲しいの…?」

 わざわざ訊ねるまでもないが。

「うん…」

 やはりカヲルから返ってくる声はどこか上の空。

 

 レイは視線をカメラの値札に投げてみた。

 中古品でありながら、レイとカヲルの半年分の生活費を軽く超える額に、レイはちょっとした眩暈を覚えてしまった。

 

 レイはやたらとゴツいカメラの隣に陳列されてある、何とも控えめな小さなカメラの値札に目をやる。

 それでも2人の1月分の生活費に相当する額だったが、ゴツいカメラに比べれば何とも良心的なお値段。

 

「こっちじゃダメなの?」

 レイの問い掛けに、カヲルはほんの少しだけ小さなカメラに目をやり、しかしすぐに視線をゴツいカメラに戻してしまう。

「うん。長く続けていったら色々不満が出てきて結局買い替える羽目になってしまうからね」

「長く…?」

 レイのつるつるの綺麗な眉間に、皺が寄った。

「だったら最初からある程度本格的なものを手に入れた方が、むしろ経済的だと思うんだ」

「……」

 

 レイはガラスに映る恋人の顔をジト目で見つめるが、彼女の恋人の視線はゴツいカメラに注がれたまま。

「カメラ、必要かしら…」

 そう問われ、カヲルはようやくショーウィンドウのガラスから顔を離し、視線を隣の恋人に向ける。

「君という最高の被写体を写真に収めたいんだ。前にも言ったじゃないか」

「なぜ?」

「なぜって…」

「私たち。いつも一緒に居るわ」

「確かにそうだけど…」

「いつも一緒にごはん食べてるし。いつも一緒に畑仕事してるし。いつも一緒にお出掛けするし。いつも一緒にお風呂入ってるし。いつも一緒のお布団で寝てるし」

「レイ。後半の2つはこんな往来では言わない方がいいんじゃないかな」

 2人の隣でショーウィンドウの商品を眺めていた壮年のご婦人は、「なんて淫らな」とでも言いたげな視線を残して去っていった。レイは構わず続ける。 

「ずっと一緒にいるのだもの。わざわざ写真を撮る必要、ないと思うの」

「人生とは日々綴られる物語りだ。そして物語りは読まれてこそ価値がある。写真は僕たちの物語りを読み返すうえで、つまりは思い出を振り返るうえで、実に有効的な手段になるんじゃないかな」

「物語り?」

「うん。君と僕の日々の」

「そう…」

「だろ?」

「でも私たち。10年後も20年後も同じ布団で目を醒まして、一緒にご飯を食べて、一緒に畑仕事して、一緒にお昼寝して、一緒にお出掛けして、一緒にお風呂に入って、一緒のお布団で寝ていると思うけど」

「これからもずっと?」

「ええ。だから、同じ日々をわざわざ振り返る必要はないと思うのだけれど…」

 自分たちの平平凡凡な日々は未来永劫続くだろう。彼女が思い描く未来予想図にカヲルの心は思わずときめいてしまったが、だからと言ってここで彼女の言葉に納得してしまっては、自分はいつまで経ってもカメラを手にいれることができない。

「君が悪いんだよ?」

「私が?」

 意味不明な責任転嫁をしてくる恋人に、レイは思わず眉を顰めてしまう。

 そんなレイにカヲルはどこか得意気な顔で言う。

「日々美しくなってしまう君がいけないんだ。僕は半年後に僕の隣で寝息を立てている美しい女性が君だと迷いなく言える自信はないよ。でも日ごと美しくなってゆく君の記録を残しておけば、僕は世界で一番美しい女性の隣で眠ることができる世界で一番の幸せな男だったことを忘れずにいられるじゃないか。それとも君は僕が起きる度に驚いてしまって、君の安眠を妨げてしまうことになってもいいのかい?」

 何とまあげっぷが出てしまいそうなになるくらいのくさいセリフだとは自覚しているものの、半分以上は本心で言っているカヲルである。

 自分のセリフに対し、彼女はどんな反応を示すだろうか。毎日お天道様の下で農作業に勤しんでいるにも関わらずくすみ一つない真っ白な頬を、桃色に染めてくれているだろうか。

 期待を込めて彼女の顔を見てみたら。

 

 レイはジト目でカヲルの顔を見上げていた。

 

 レイは小さく鼻で溜息を吐き、視線をショーウィンドウに戻す。

 

「カヲル…」

「なんだい…」

「あの釣竿。おばさんに頼んで、メル〇リで売ってもいい?」

 レイのその言葉に、カヲルはバツが悪そうに後ろ髪を掻く。

 

 カヲルがレイの前でカメラが欲しいと宣言してからすでに多くの月日が過ぎている。

 カヲルが高級カメラを手に入れるために日々節約し、コツコツと購入資金を貯めているのであれば、レイもカメラの購入に反対する理由は何もなかった。

 ところがカヲルは貯めたカメラ購入資金を、事あるごとに散財しているのだ。

 しかもそれは2人の生活のための必要経費などではなく、カヲル個人の趣味によるものだった。

 

 

 趣味はその人の見聞を広め、教養を高め、心を豊かにする。

 様々なものに好奇心を示すのは彼の長所であると思うし、趣味を広げるのも悪い事ではないとレイも思う。しかし彼女の恋人が始めた趣味は、いずれも長続きしなかった。

 彼と彼女の慎ましやかな家の小さな倉庫は、どうも形から入る性格らしい彼が新しい趣味を始める度に購入しては、2~3回しか使われずにそのまま放置されている道具の数々で占拠されてしまっていた。

 

 ちなみにカヲルが直近で手を出した趣味は釣りであった。釣り道具一式を手に入れたその日から毎日のようにいそいそと海岸に赴き、海に向かって釣り針を投げ入れたが、初日から3日連続でボウズが続いた時点で彼の釣りに対する熱はすでに冷めてしまっており、そして4日目にしてようやく釣れた一匹のボラの皮のぬめりと臭いで完全に嫌気が差してしまい、5日目には釣り道具は無事、倉庫の中の「うどん打ちセット(作務衣付き)」と「陶芸入門セット(ろくろ付き)」の間に収まったのだった。

 

 ちなみに2人の食卓に並ぶ料理は、レイが肉類を受け付けない体のため、野菜や穀物が食材の中心である。レイは魚を食べたことがなかったため、そんなレイに魚を食べさせてあげたいというのもカヲルが釣りを始めた動機の一つだったが、その釣果はご覧の有様だったため、2人の食卓は変わらず野菜と穀物が中心である。

 

 

 改めてカメラの値札を見る。

 釣り道具一式を遥かに上回る数字が並ぶ値札を。

 そして「前科持ち」の恋人の顔を見上げる。

 

 ジト目で見つめられ、「前科十犯」のカヲルは居心地悪そうに後ろ髪を掻く。

「行こっか…」

「ええ…」

 2人は静かにショーウィンドウの前を立ち去るのだった。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 2人が訪れている大きな街。2人が住む海沿いの高台にある農園から原付バイクで30分、さらに電車を乗り継いで30分ほどの場所にある街。日用生活品の購入は農園から原付バイクで20分のスーパーマーケットやホームセンターが集まる郊外の商業施設で済ませているが、「たまには大きな街に出て色んなものに触れて感性を磨かないと」というカヲルの案で、1月に1回は2人でこの大きな街に訪れている。

 わざわざ1時間掛けて訪れているからと言って、大きな街でしか買えないものを買う訳でもない。大きな街にしかないないような施設に入るわけでもない。ただ2人で、街中をぶらぶらするだけ。彼女の方は元来極端な無口だし、彼の方も多弁というほどではない。大きな街に出たからと言って2人の会話がいつもより弾むというわけでもなく、静かな2人は手を繋ぎながら、のんびりとした足取りで街中を闊歩するだけ。

 それだけでも何だか満たされた気分になってしまうことをレイは不思議に思いつつ自然と頬を緩め、カヲルは「何とも安上がりな僕たちだ」と苦笑いしながら、ショーウィンドウの前で待っている間に冷たくなってしまっていた彼女の手をしっかりと握って温めてやるのだった。

 

 世界は寒い寒い冬を乗り越え、この街にもそろそろ春の足音が近づいてこようとかいう季節。

 とは言え空気はまだ凍てついており、この日の空はどんより曇り空。

 信号待ちの間、高層ビルの隙間から見える灰色の空を眺めていたレイ。ふと、あることに気付き、視線を灰色の空を埋めるビルの足もとに移す。

 ビルが面する道路にあるバス停。道路と並行して走るモノレールの高架。「当時」に比べればすっかり装いは変わっているが、この場所は紛れもなく…。

 

 信号が青になったため横断歩道を渡ろうとしたが、握っていた恋人の手が動かない。

 振り返ってみると、恋人は明後日の方向を見たままぼんやりと突っ立っている。

「どうしたの?」

 声を掛けられ、レイは一度目をぱちくりと瞬かせ、カヲルの方を向く、

 口もとに、少しばかりの笑みを浮かべて言う。

「ここ。私が前に、住んでたとこ」

「え? ここが?」

 カヲルはレイが見ていた方に視線を向けた。綺麗に剪定された生垣の向こう。全面ガラス張りの荘厳な造りのエントランスルーム。奥にあるカウンターには小ぎれいな身なりの女性が立っており、エントランスルームに入ってきた老夫婦に向かって頭を下げている。

 カヲルの視線はそのまま上へと向かう。空へ空へと伸びる、高層ビル。

 レイが見ていた建物は、俗にいうタワーマンションだった。しかもただ背が高いだけのマンションではなく、コンシェルジュ付きの富裕層向け高級マンションだ。

 カヲルは目を丸くする。

「君って、もしかして何処かイイとこのお嬢様なのかい?」

 カヲルにそう言われ、レイは再び目を、今度は2回続けてぱちくりと瞬かせた。

 驚いた顔のままでこちらを見つめているカヲル。

 そんなカヲルに、レイは悪戯っぽい笑みを口もとに浮かべて。

「ええ、そうよ」

 カヲルの手を引っ張り、青信号が点滅しつつある横断歩道を小走りで渡り始めた。

「君ってコは、いつまで経ってもミステリアスだね」

 少し呆れ気味なカヲルの声を背中で聴きながら、レイはクスクスと笑う。

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 帰りの電車の時間以外は何も決めずのんびりと街を歩く2人は、人で賑わう商店街を抜け、裸の街路樹の下を通り、整備が行き届いた河川敷の遊歩道を歩き、そして緑地公園へと入っていく。

 芝生の上に小さなレジャーシートを広げて座り、2人の間に家から持ってきたお弁当箱を広げ、カヲルが大きなおにぎりにかぶり付いている間に、レイは魔法瓶からプラスチックのコップに温かいお茶を注ぐ。カヲルの趣味による散財以外は経済の循環というものに全く寄与しない世間からのはみ出し者の2人は、今日も彼らだけの彼らなりの休日を楽しんでいる。

 

 おにぎりを食べ終わった後は、いつもなら2人で寝そべって、彼女は寝っ転がりながら持参した本を読み、彼は彼女のお尻や太ももを枕代わりにお昼寝してだらだら過ごすのが日課だが、この日は生憎の寒風吹きすさぶ曇り空。このまま寝そべってだらだらしていたら風邪を引いてしまうので、おにぎりを食べて少しだけのんびりした後に、お弁当箱をしまい、レジャーシートを畳んだ。

 

 

 

 乙女の花園へお花摘みに行ったレイを待つカヲルは、緑地公園の隣にある公会堂の玄関前の大きな柱に背を預けて立っていた。時々体を襲う冷たい風に身を震わせ、首に巻いたマフラーを鼻の辺りまでたくし上げ、両手をモッズコートの両ポケットに突っ込む。

 公会堂は空気の入れ替えでもしているのか、全ての窓や扉を開け放っていた。

 その全開の扉から漏れ出てくる音が耳に入り、カヲルは柱から背中を離す。

 冷たい空気を伝って聴こえてくる軽やかな音色。

 その音色に惹かれるように、カヲルは公会堂の出入り口へと歩いていった。

 

 出入り口から公会堂の中を覗き込む。

 すり鉢を半分にしたような客席の中央には舞台。

 その舞台の上に設置されているのは、一台のグランドピアノ。

 そのピアノの前に一人の青年が座り、両手を鍵盤の上に滑らせ、涼やかな音色を奏でている。

 

 シンプルな伴奏の上に乗せられた印象的な旋律。僅かな音数にも関わらず、ピアノから奏でられる音色は、ピアノの前に座る青年以外誰も居ない公会堂の中を、豊かに満たしていく。

 序盤こそ僅かな音数でシンプルに奏でられていた楽曲は、突如として曲調が変わり、滝のような音の奔流へと変化する。その後も同じ低音主題を繰り返しながらも並ぶ音符の構成は次々と変化し、ピアノを奏でる青年の指も変貌していく曲調に合わせて忙しく鍵盤の上を弾み、その両腕は窮屈そうに何度も交差する。

 やがて楽曲の中でも最も高度な演奏技術が求められる場面に差し掛かったところで。

「ああ、ダメだ」

 青年の10本の指はついに楽曲を譜面通りに再現することができなくなってしまい、宙を泳いだ上で演奏は中断。青年は悔しそうに呻きながら天を仰いだ。

 

 出入り口の扉に肩を預けながら舞台を見下ろしていたカヲルは、演奏を止めてしまったことに悔しがっている青年の背中を微笑みながら見つめ、そして素敵な音楽を聴かせてくれた青年に向けて心の中でささやかな拍手を送りつつ、出入り口から立ち去ろうとした。

 

 

 

 ピアノの前に座る青年は背広の袖を捲って腕時計を確認する。

「リニアの時間までまだあるな。よっしゃ。もういっちょ」

 演奏を止めてしまった箇所の少し前から演奏を再開しようとして。

 

 客席の間の階段をドタドタと五月蠅く駆け降りてくる足音。

 視線を、足音がする方へと向けた。

 

「イカリさん! イカリさんですよね!」

 

 階段を駆け降りながら弾んだ声を上げるのは、白銀の髪の青年。

 

「君は!?」

 

 青年も声を弾ませ、椅子から立ち上がると舞台から客席へと飛び降りた。

 互いに駆け寄り、がっちりと握手を交わす。

「やっぱりまた会えたね!」

「ええ! お久しぶりです!」

 

 

 自分が新しい名前を手に入れたあの日。

 森の中の道と駅のホームでほんの数分だけ言葉を交わしただけに過ぎなかったあの青年。

 それでもカヲルは腹心の友との再会を喜ぶように青年の手を握り締め、それだけでは満足せず青年の背中に腕を回し、抱擁を交わしながらばちばちと青年の背中を叩く。

 

 

 カヲルの手荒い歓迎に青年は苦笑いしつつ。

「元気にしてた?」

「ええ。イカリさんも」

 青年に声を掛けられ、カヲルはようやく青年を抱擁から解放したが、両手はなおも青年の手を固く握っている。そんなカヲルの顔を、青年は見上げる。

「背、伸びたんじゃない?」

 青年に言われ、カヲルはようやく青年から手を離した。

 あの駅のホームで会った時にはほぼ同じ高さの目線だったカヲルと青年。青年もこの国の成年男子の平均を上回る長身だが、今のカヲルはその青年よりもさらに頭半コ分高くなっていた。

「ええ。まだ成長期らしいんです」

 際限なく天へと向かって伸びていく体のてっぺんに乗っかている頭を、恥ずかしそうに掻くカヲル。毎晩寝所を共にする恋人からは、布団が狭いとクレームを入れられるこの頃である。

「ふふ。何だかこの目線の高さの差が懐かしいよ」

「え?」

「あ、いや。今日はどうしてここに?」

「僕たち、この近くに…、って言っても、電車とバイクで1時間ほど掛かるところですけど、そこに住んでるんです」

「へえ、そうなんだ」

「イカリさんこそどうして?」

「ああ、うん。碇家の墓がこの街にあるからね。近くに来たから墓参りに寄ってみたんだ。久しぶりに来たものだから、ついつい色んな所に寄り道しちゃってね。でも、この街も随分と変わっちゃったな…」

 そう言いながら、青年はピアノに並ぶ鍵盤の一つを人差し指で押す。ポーン、と澄んだ音がホールの中に響き渡った。

 

「ピアノ…」

 

「ん?」

 

「ピアノ、お上手なんですね」

 

 少し寂し気な表情を浮かべていた青年は、そのカヲルの一言に一気に顔を赤くしてしまった。

「え、あ、いや、じょ、上手だなんてそんな。下手の横好きさ」

「でも耳にする者の心に語り掛けるような、素敵な演奏でしたよ」

「はは、参ったな」

 カヲルのお世辞ではない心からの賞賛に、青年ははにかみながら頭を掻く。

「僕のピアノなんて。「彼」に比べれば子供のお遊戯のようなものだよ」

「「彼」って?」

 そう問われ、青年はカヲルの目を正面から見つめる。

「僕にピアノを教えてくれた人さ」

「ピアニストなんですか? その人」

 青年は頭を横に振る。

「ピアノだけじゃなく、色んなことが出来た不思議な人だったよ。彼からはピアノ以外にも、色んな大切なことを教わったな」

「なんだか凄い人だったんですね」

 自分の話す人物が、カヲルの中ではどんな人物像に仕上がっているのだろうか。想像してしまい、青年は思わず口元を綻ばせる。

「君は?」

「え?」

 突然問われ、カヲルは目を点にした。

「君はピアノ、弾けないの?」

「僕が、ですか?」

 今度は目を丸くする。

「いやいや。僕がピアノだなんて」

 小刻みに頭を横に振るカヲルに、青年は少し寂しそうに、そしてとても嬉しそうに笑って、カヲルの手を引く。

「まあ座って座って。君ならすぐに弾けるようになると思うから」

 そう言いながら、カヲルをやや強引にピアノの前の椅子に座らせる。そして青年自身も、カヲルの右隣に腰を下ろした。

 2人の男性が座り、窮屈な椅子の上。

「ふふ」

 いきなりピアノの前に座らされて戸惑っているカヲルは、隣に座る少年が声に出して笑っているのを見て、更に深い困惑の色を表情に浮かべている。

 お尻の半分が椅子からはみ出してしまっている青年は言う。

「お互い、随分と大きくなっちゃったね」

「はあ…」

 あの駅のホームで会った時に比べれば、確かに自分の身長は伸びてしまったが、青年の体躯はそれほど変わっていないように見えるが。気の抜けた返事をするカヲルに対し、青年は促す。

「じゃあ、弾いてみよっか」

「え?」

「簡単さ。君はこっちで鍵盤を叩くだけでいいんだ」

 青年は腕を伸ばし、カヲルの前に並ぶ鍵盤をド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドと軽やかな指捌きで叩いてみせた。

「さ、弾いてみなよ」

「え、えー…」

 カヲルは困ったように声を上げながらも、青年が最初に叩いたドの鍵盤に人差し指をおそるおそる乗せてみる。

 ポーン、とピアノ全体から澄んだ音が響き渡った。

「へえ…」

 音楽に対して何の知識も持たない自分が、ただ白い板を押すだけで美しく透き通った音を鳴らすこの巨大な楽器に、感動してしまうカヲルである。

「続けて続けて…」

 鍵盤を見つめるカヲルの横顔を嬉し気に見つめる青年は、カヲルにそのまま弾き続けるよう促す。

 しかし、

「えっと…」

 カヲルの人差し指は次に押す鍵盤を決めかね、鍵盤の10センチメートル上を泳ぐばかりで、次の音を鳴らそうとしない。

「難しく考える必要はないよ。君の思うままに弾いたらいい」

 カヲルを慌てさせてしまわないよう、青年は優しく声を掛け、辛抱強く次の音を待ってみた。

 しかし結局カヲルの指は次の着地点を見い出すことはできず、どの鍵盤も押すことのないまま、彼の膝の上へと着地する。

 

 カヲルは頭を掻く。

「すみません。慣れないものだから…」

「気にする必要ないよ。新しいことを始めるのは、何時だって誰だって躊躇ってしまうものさ」

 何だか必要以上に落ち込んでしまっている様子のカヲルに対し、青年はその肩に手を置いて慰めてやる。

「じゃあこう弾いてみてよ」

「え?」

 まだ続けるの? と言いたげなカヲルの表情に対し見て見ぬふりをする青年は、カヲルの前に広がる鍵盤の一つを押す。

 ポーン、と音がする。

 それは「ファ」の鍵盤。

 続けて青年の人差し指は下の「ド」の鍵盤を押す。さらに続けて隣の「レ」、続けて下の「ラ」。次に青年の人差し指は初めて黒い鍵盤を押す。「ラ」のすぐ隣の、「シ」のフラット。そして下に下がって「ファ」の鍵盤。再び「シ」のフラットを経由して、「ド」へと上がり、最初の「ファ」へと戻る。

「これを繰り返す…」

 青年の指は「ファ」、「ド」、「レ」、「ラ」、「シ」のフラット、「ファ」「シ」のフラット、「ド」を、一音一音確かめるように、とてもゆるやかなペースで反復させていく。

「これくらいだったら出来るんじゃないかな?」

「ええ、これくらいなら」

「じゃあほら」

「え? わわっ」

 青年が鍵盤から手を離してしまったため、カヲルは慌てて人差し指で鍵盤を叩き始め、青年が奏でていた一連の音を引き継いだ。

「そのまま続けて」

「は、はい…」

 カヲルは青年が片手で弾いていた至極単純な旋律を、両手の人差し指を使ってぎこちなく奏でていく。 

 カヲルが一連の音の連なりを2回繰り返したところで。

 

 ポロロンと、カヲルの隣に座る青年の両手が、軽やかに鍵盤をはじき始めた。

 青年が奏でる音も、至極単純なアルペジオ。

 しかしそのアルペジオはカヲルが奏でる音と見事な調和を見せ、単純な音でしかなかったそれらは全く別のものへと変貌を遂げる。

 

 自分が単音を響かせているだけだった時は、一体自分は何をさせられているんだろうと困惑しきりのカヲルだったが、青年が単音に対し分散された和音を乗せてきただけで、平凡の音の響きが楽曲という作品へと進化を遂げる過程を肌で感じ、全身の産毛が逆立ち、心臓が一気に高鳴っていくのを感じた。

 

 両手で単純なアルペジオを奏でていた青年は、右手を鍵盤から離し、左手のみでアルペジオを続けると、右手はカヲルと同じタイミングで別の単音を奏で始める。

 「ラ」から始まるその旋律は、実に単純な音の過程を辿っていく。隣の「ソ」へと移り、さらに隣の「ファ」、続けて「ミ」、「レ」、そして「ド」まで下がると、引き返し、「レ」から「ミ」へ。

 

「あっ」

 青年がその単純な旋律を繰り返し始めると、隣のカヲルが声を上げた。

「この曲、聴いたことあります」

 それは誰もが一度は聴いたことがある旋律。

 弾んだ声で言うカヲルに青年はにっこりと笑いながらも、次の音を奏でる前に右手の人差し指を唇に当て、「しっ」と囁く。

「音に集中して…」

 

 カヲルは最初に青年に指示された8つの音をひたすら繰り返しながら、隣の青年の指の動きを観察する。

 アルペジオを奏でる青年の左手の動きはちょっと複雑そうだが、右手の動きは自分の手の動きとは押す鍵盤の違いだけで、押すタイミングは全く一緒だ。

 これだったら、と。

 

 左隣から鳴る音に変化が生じ、青年は驚いた様子で鍵盤の下半分に視線をやった。

 見ると、カヲルの左手は青年に最初に指示された8つの音を変わらず奏でつつ、右手は青年が右手で弾く音を2オクターブほど低い音程でそのままトレースしていたのだ。

 青年の視線を受け、カヲルは少し照れた様子で頬を赤らめながらも、2つの音を同時に奏でることに集中している。

「いいね。いいよ、君の音。そのまま、君の思うままに弾いてみたらいい」

 青年はカヲルに語り掛けながら、右手で奏でていた旋律をカヲルに任せると、カヲルが奏でる上から下へと降下していくだけの単純な旋律とは対を成すような4分音符の連なりを奏で始める。そして4分音符から8分音符へと大きな展開を見せた。

 するとカヲルは青年の右手の複雑な旋律に合わせる様に、8分音符による分散和音を奏で始めた。それは青年が提示した単純な音の連なりから大きく逸脱したものだったが、青年が奏でる旋律を邪魔するどころか絶妙な調和を見せ、様々な音が絡まった芳醇な音色を2人が立つ舞台への周辺にまき散らしていく。

 カヲルのその行為は、つい5分前まで一つの音を鳴らすのに四苦八苦していたカヲルが、ある程度の知識が必要な和音の構成というものをいつの間にか理解していることになるが、青年は驚くことなく、むしろ「さすがだね」とでも言いたげな表情で、鍵盤を叩くことに熱中しているカヲルの横顔を見つめていた。

 

「慣れてきたようだね」

「はい…」

「じゃあ今度はもう少し僕の音に耳を傾けて」

「イカリさんの音に?」

「そう。気持ちのいい音を奏でることも大切だけど、それだけじゃダメだよ。相手の心情を理解しながら、相手の奏でる音に寄り添い、時に相手の奏でる音に反発させ。どちらか一方向じゃない、双方向に響き合うことで、アンサンブルというものはより高みへと昇ってゆくものなんだ」

 そうカヲルに語り掛ける青年は、おそらくこの曲のハイライトなのだろう。彼の右手は今までにない、まるでダンスのステップでも踏むような軽やかな旋律を刻み始める。

 青年が奏でる旋律に耳を傾け。鍵盤の上を跳ねる青年の10本の指を見つめ。

 それまで複雑な分散和音を続けていたカヲルは、8分音符による分散和音を止めて4分音符によるシンプルな同時和音へと変化させた。

 幾つもの音が次々と連なっていく煌びやかな分散和音から、控えめながらも一つ一つの音を丁寧に響かせる同時和音へ。それはまるで鍵盤の上で軽やかなステップを踏む青年の旋律を、両手でそっと支えているような、柔らかな響き。

 カヲルが響かせる伴奏に支えられ、青年の両手はさらに音数を増やしていき、色鮮やかな旋律を思う存分奏でていく。

 

 青年はカヲルの顔を見つめる。

 カヲルも鍵盤から目を離し、青年を見つめる。

 言葉は交わさずとも、カヲルは青年の目が何を訴えているのか感じ取ることができた。

 曲が終止線へと近づいていると。

 

 青年が指揮棒代わりに頭を前後に大きく振りながら、曲のテンポをリタルダンドへと導いていく。

 終止線に迫るにつれ、音数を減らしていく青年。

 カヲルも青年の動きに同調するように、鍵盤を撫でるように押さえ、音量を絞っていく。

 そして2人の一本の指は示し合わせたように1オクターブ違いで同じ「ファ」の鍵盤を静かに押さえて、長い長い余韻を残しつつ、2人の計二十本の指は全ての動きを止めた。

 

 

 

 

 




劇伴1. ゴルトベルク変奏曲
劇伴2.3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調 (パッヘルベルのカノン)
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