渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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耳をすませば。《中編》

  

 

 

 

 青年の人差し指が押す「ファ」。

 カヲルの人差し指が押す、青年の指から2オクターブ低い位置にある「ファ」。

 2つの「ファ」の音に耳を傾けながら、お互いを見つめ合う。

 どちらからともなく。

 

「ふふっ」

「ははっ」

 

 笑みを零し始め。

 そして2人の手は鍵盤から離れ、互いの右手同士を宙で勢いよく交差させた。

 

 バチン、と2人の手がハイタッチを交わす傍らで。

 

 

 パチパチパチ…

 

 

 客席の方から控えめな拍手が鳴り響き、驚いた2人は客席へと目を向ける。

 

 見ると、階段沿いの客席の一つにちょこんと座る、空色髪の女性。

 レイが、胸の前で両手を合わせてパチパチと、控えめながらも、頬を上気させ、熱心に、舞台の2人に向かって拍手を送っていた。

 

 青年はレイの姿を認め、目を輝かせた。

「やあ、ツバメちゃ…」

「レイ、こっちおいで」

「え?」

 

 カヲルに呼ばれ、レイはぴょんと跳ねるように椅子から立ち上がると、踝まで被るコクーンスカートの裾を摘まみ上げながら、ぴょこぴょこと階段を下りてくる。そしてトコトコと舞台へと上がる木製の階段を駆け上がった。

「久しぶりだね」

 ピアノへと歩み寄ってくるレイに対し、ひらひらと手を振りながら声を掛ける青年。

 レイはピアノの側まであと3歩のところで立ち止まり、背筋をピンと伸ばし、ぎこちない動作でぺこりと頭を下げる。

「ははっ。イカリさんに久しぶりに会えたものだから、緊張してるみたいですよ」

 どこか揶揄うようなカヲルの口調に、レイは少しだけ口を「へ」の字に曲げつつ、両頬を赤く染めた。

 そしてニヤニヤ笑っているカヲルに抗議の視線を向けつつ、意外そうな顔もするという、普段表情筋というものを殆ど使わない彼女にしては珍しく高度な表情を浮かべながら。

「カヲル、ピアノ弾けたんだ…」

 そんな恋人の言葉に、カヲルは人差し指で前髪をさっと優雅に払う。

「なんでも出来てしまう自分の才能が怖ろしいよ」

 芝居がかったカヲルの物言いに、レイは「やれやれ」と呆れ気味に鼻から溜息を吐いた。

 レイとカヲルの間では、不思議そうに2人の顔を交互に見つめる青年が居る。

 

「次…」

 レイがぽつりと呟き、どこか呆けた様子だった青年は瞬きしながらレイの顔を見る。

「次…、ないの…?」

 どうやらピアノの前に座る2人にもう一度演奏するようねだっているらしい。

 青年は心の中にある疑問はとりあえずどこかにうっちゃっておいて、にっこりと笑った。

「ピアノの音。気に入った?」

 レイは頷こうとして寸でのところで止め、頭をふるふると横に振った。

 青年はちょっと残念そうに眉尻を下げる。

「気に入らなかったの?」

 青年に見つめられ、レイは少し緊張した面持ちで答える。

「ピアノの音は、よく分からない…。でも、2人が奏でる音は、とても素敵…。胸の中が、ぽかぽかした…。いつまでも聴いていたい…」

 レイの口からぽつりぽつりと伝えられる素直な感想に、青年は照れたように頭を掻きながら隣に座るカヲルを見ると、やはりカヲルも照れたように人差し指で頬をぽりぽりと掻いている。

「彼女には敵わないね…」

「ええ…、全くその通りです…」

 たった二言三言で2人の男をいっぺんにノックアウトしてしまう相手のリクエストに、応えないわけにはいかなかった。

 

「同じ曲を弾くのも芸がないしな~」

 レイのリクエストに応えようと、青年は腕組みをしながら考えて。

「そうだ。ねえ、コードって分かるかな?」

「コード、ですか?」

 カヲルの頭の上にはてなマークが浮ぶ。

「うん。楽譜の読み方覚えるよりも、コード覚えた方が色んな曲の伴奏弾けるようになるから手っ取り早いし楽しいよ。例えばコレ」

 青年はカヲルの前にある鍵盤のうち、「ド」と「ミ」と「ソ」を同時に抑える。ポロロンと3つの音が奏でる、明るく、濁りのない、調和のとれた響き。

「これがC(シー)」

「シー…ですか」

「うん。で、これがG(ジー)で、これがF(エフ)、これがB♭(ビーフラット)、これがAm(エーマイナー)、これがEm(イーマイナー)。ちなみにマイナーってのは悲しい感じがするコードのことだよ」

「へー…」

「で、これは4つの音を同時に鳴らすからちょっと複雑だけど、C7(シーセブン)、んでこれがD7(ディーセブン)で、これがG7(ジーセブン)。覚えた?」

「え、えっと。もう一度お願いします」

 一つ一つのコードを丁寧に教える青年と、鍵盤上での青年の指の動きを熱心に追うカヲル。

 

 レイが勤めているお店やカヲルがよく出入りしている親方さんちの繋がりで、少しずつ人付き合いというものを覚え始めた2人。それでもド田舎に住んでいるため、付き合う相手は必然的におじいちゃんおばあちゃんばかり。

 ピアノの前に座る青年も2人とは一回りくらいは年の差がありそうだが、それでも若い青年とカヲルが肩を並べて一つのことに熱心に取り組んでいる姿は、見つめるレイの胸をほっこりと温かくさせた。

 まるで仲の良い友達同士のような2人。見ているこっちが、ちょっと嫉妬してしまいそうなほどに。

 

 

「どう?」

「何とか覚えました」

「じゃあ…」

 青年は椅子の下に置いていた鞄からA4サイズの書類を1枚取り出し、裏側の白紙の部分にボールペンで「C」「G」「C」「C7」・・・といった具合に、コード譜を書き連ねていく。

「この通りに弾いてみてよ」

 言われるままに、覚えたてのコードを、コード譜通りに弾いていくカヲル。

 27小節分のコードを無事に弾き終えて。

「すごいじゃないか。完璧だ」

 青年に拍手され、カヲルは照れくさそうに後ろ髪を掻いた。

「じゃあ最初から繰り返してみて」

 カヲルがコード譜の最初から弾き始めると同時に、青年は右手を鍵盤の上に滑らせ始めた。

 カヲルが鳴らす伴奏の上を、青年の奏でる旋律が舞う。

 それは先程2人が奏でた格調高い荘厳な楽曲とは違う、耳に馴染む親しみやすい楽曲。

 最初はやや寂し気だった旋律は、おそらくこの曲のサビと思われる部分に差し掛かると大きく羽ばたくような力強い旋律へと変化する。曲調に吊られるように青年は両手を使って副旋律を付加し、煌びやかな旋律を奏で、そしてカヲルも両手を使って重厚な伴奏を響かせていく。

 

 27小節が終わり、曲は終焉。

 パチパチパチ、と、ピアノの側に立つレイから熱心な拍手が送られる。

 拍手を送りながらも、どこか不思議そうなレイの表情。

「わたし…、この曲聴…、知ってる…」

 レイのその呟きに、青年はにっこりと笑う。

「だろうね。だって、あのS-DATに入れてた曲だから」

「エスダット?」

「ふふ。あ、そうだ」

 きょとんとしているレイを他所に、青年は背広のポケットから携帯通信端末機を取り出し、タッチパネル式の画面に触れて何やら操作を始める。目的の情報を呼び出した青年は、端末機をレイに差し出す。

 レイは端末機を受け取り、その画面に映し出されたものを見つめた。

 画面を見て。

 そして青年の顔を見て。

 くてん、と首を傾げる。

 

「それ。この曲の歌詞だよ」

 

「かし?」

 

「うん。じゃあ歌ってみようか」

 

「え? え?」

 青年の突然の提案に、レイは目を点にする。

「聴いたことあるんでしょ? じゃあきっと歌えるよ」

「え? え?」

 レイは目を丸くする。

「だってズルいじゃないか。僕たちばかり君に聴かせて。今度は君の歌声を僕たちに聴かせてくれる番じゃないかな? だよね?」

 青年に突然同意を求められて。そしてそう言えば、2人が出会ってこの方一度も恋人の歌声を聴いたことがないことに思い当たったカヲル。

 やや大きめな口の両端を上げ、ニンマリと笑った。

「そうですそうですその通りです! イカリさんの言う通り!」

「え? え?」

「はいじゃあ行ってみよー。はい、伴奏スタート」

「はーい」

 タチの悪い男2人が演奏を始める。

「え? え?」

 相変わらず短い声を上げながら、恋人と青年の顔を忙しなく交互に見つめるレイ。

 こんなに狼狽する恋人を見たことがないカヲルは、吹き出しそうになりながらも伴奏を続ける。見ていて気の毒になるほど顔を引き攣らせているレイを置いてきぼりにして、曲は進んでいってしまう。

「あ~あ~、一番が終わっちゃうよ~」

 旋律を奏でる青年は意地悪く囃し立てる。

 そんな青年を悪魔でも見るような目つきで恨めし気に見つめたレイは、今度は助けを求める様に悪魔の隣に座る恋人を見つめた。

「聴きたいな~。レイの歌、僕は聴きたいな~」

 駄々っ子のように頭を左右に揺らしながら言うカヲル。

 近くにいるのは悪魔と駄々っ子だけ。この世界に救いの手を差し伸べてくれる者など誰もいないことを悟ったレイは、端末機を両手でぎゅっと握り締めながら、辛い現実から逃げるようにぎゅっと目を閉じてしまった。

 

 その楽曲はついに一度も歌声を乗せられえることなく、一番が終わってしまった。

 前奏となる部分を繰り返すカヲル。

「レイ…」

 恋人の名前を、全てのものを温かく包み込む柔らかい羽毛のような声音で呼ぶ。

 

 恋人に呼ばれ、うっすらと目を開くレイ。薄く開いた瞼の隙間から覗いた赤い瞳が、ジロっとカヲルの顔を見つめた。

「ね…? レイ…」

 まるで夜の布団の中で背後から抱き締められ、耳もとに囁かれる時のような声音。

 その声で求めらると、自分は彼の願いに逆らうことなど決してできないことを、レイは嫌というほど知っていた。

 

 そして彼女は観念したようにもう一度ぎゅっと目を閉じ、ふ~、と大きく息を吐く。

 そして恋人が奏でる伴奏に合わせる様に頭を上下に振り始めた。どうやら歌いだしの瞬間を、見極めているらしい。

 そんなレイの様子を青年は温かい眼差しで見守り、恋人はワクワクと期待に満ちた面持ちで見つめる。

 そして長い長い前奏が終わり。

 レイは、鼻で深く息を吸うと、固く閉じていた小さな口を開いた。

 

 

 ♪い…ま…

 

 

 レイの掠れたような、今にも消え入りそうな歌声がピアノの音色の上に乗せられる。

 

 ついに彼女が歌い始めた。ピアノの音で、彼女の歌声を掻き消してしまわないよう、青年もカヲルも慌てて鍵盤を叩く力を極小まで抑える。

 まるで幼児の初めてのお遣いを物陰から見つめる親のような心境。2人とも、ハラハラと緊張した面持ちで、ピアノの向こうの歌姫の顔を見つめる。

 

 その歌は、歌い手の想いを綴った歌。

 歌い手が望むものを綴った歌。

 

 ゆったりとした歌い出し。

 どこか寂し気な旋律。

 そのに旋律に、か細く、儚げな彼女の歌声が乗せられる。

 技巧的とは程遠い。

 音程も少し外れ気味。

 緊張しているのか、少し震えた歌声。

 何度も何度も躓いてしまう歌詞。

 お世辞にも巧いとは言い難い彼女の歌。

 

 やがて歌はサビへと差し掛かる。

 これまでの低くゆったりとした旋律とは打って変わって、高く、弾むような旋律。

 一気に音程が上がってしまい、彼女はまる音の濁流の中で溺れてしまったかのように、顎を震わせてあっぷあっぷしている。

 歌声は何度も掠れ、何度も途切れ。

 それでも必死で歌詞と旋律を紡いでいって。

 彼女はなんとかサビを乗り越えた。

 

 

 必死の思いで一番を歌い終えた彼女は、息も絶え絶えに肩を上下に揺らしながら、ピアノの前の2人を見る。

 

 伴奏を止めて、と。

 もう終わろう、と。

 

 頬と額を真っ赤にさせ、潤んだ目で訴えった。

 

 そんな彼女の縋るような視線を受けて。

 音の奔流の中で迷子になってしまった幼子のような眼差しを受けて。

 

「2番…! このまま2番行こ…!」

 逸る声でそう訴える青年。

「うん。レイ…! そのまま続けて…!」

 カヲルもどこか興奮した面持ちで訴える。

 

 2人からそう言われ、レイは「えええ?」と目で訴え返す。

 もう勘弁して、と目で訴え返す。

 

 恋人の、まるで許しを乞うような視線を受けて。

 それでもカヲルは伴奏の手を止めようとはしない。

 伴奏に合わせて肩を揺らし、いつでも歌い始めていいんだよ、恋人の想いとは真逆のことを目で訴え返してくる。

 

 追い詰められた彼女は、下唇を噛み締め、顔を真っ赤にさせて、またもやぎゅっと目を閉じてしまった。

 目を閉じても、恋人が奏でる伴奏は嫌でも耳に入ってくる。

 レイは「うぅぅぅ」と小さく唸り、そして薄目を開けて、端末機の画面をのぞき込んだ。

 青年は「2番へ」と言ったが、画面には1番目の歌詞しか載っていない。

 

 画面から目を離し、薄目のままピアノ前の2人の男を見る。

 恋人は相変わらず前奏を繰り返しており、その隣の青年は「早く、早く」とでも言いたげな顔で、彼女が歌い始めるのを待っている。

 

 

  ああもう!

  こうなったらヤケッパチだ!

 

 

 レイは大きく目を見開くと、鼻で大きく息を吸い、肺を膨らませた。そして大きく口を広げて。

 もうどうにてもな~れ~とばかりに、やぶれかぶれに再び1番の歌詞を歌い始める。

 

 

 その歌は、歌い手の願いを綴った歌。

 欲するものを綴った歌。

 

 1度目とは豹変した彼女の歌い方に、カヲルも青年も目を丸くする。

 1度目に歌った時は、ゆったりとして、どこか寂し気な歌い出しは、彼女の細く儚げな歌声がよく映えた。技巧的とは程遠く、音程も外れがちで、それでも喉を必死に鳴らせる彼女の口から零れる慎ましやかな歌声は、それに耳を傾ける者の心を打つ、不思議な魅力があった。

 

 しかし2度目の彼女の歌声には、歌声を鳴らすことに必死だった1度目とは違い、彼女の感情がひしひしと乗せられている。

 今の自分の心情を歌詞にぶつけるかのように歌う彼女の歌声は、か細くとも真に迫るものがあった。

 

 翼を。

 背中に白い翼を付けてほしいと夢想する歌。

 

 いやもう、本当にその通り。

 今すぐにでも背中に翼を生やして、この場から飛び去ってしまいたい。

 

 額に汗を浮かべ、顔を真っ赤にしながら歌うレイ。

 彼女の必死の歌声に、鍵盤を叩く2人の手にも熱気が宿る。

 ピアノの音色から伝わってくる2人の熱気にあてられ、レイもいつしかこの場から逃げ出したいという気持ちすらも手放し、ただ歌うことに集中する。

 

 やがて歌は難関のサビへ。

 初めて歌うことへの戸惑いも、最愛の人と敬愛する人に見つめられることに対する恥ずかしさも忘れ、彼女は透き通った、伸びのある歌声を響かせた。

 人に翼なんて生えっこない。

 悲しみのない自由な場所なんて、ありっこない。

 それでも願わずにはいられない。

 歌詞に籠められた願いを体全体で表現するかのように、彼女は懸命に歌を歌い上げる。喉を震わせ、端末機を両手で握りしめ、細い体を上下に揺らしながら。

 

 上下に揺れる彼女の細い体に引かれるように、鍵盤を叩く2人の肩も左右に大きく揺れる。

 彼女の真心の籠った歌声に負けまいと、懸命に、しかし彼女の歌声を決して邪魔しないように、ピアノの音色を響かせ続ける。

 

 楽曲はついに終局へ。

 彼女の透き通った、つややかな声が伸びる。

 その歌声の背後で、2人のピアニストが交響的かつ重厚感たっぷりの伴奏を刻む。

 そしてそれぞれの指が最後の着地点へと舞い降りて、楽曲は閉じられた。

 

 

 ピアノが響かせる余韻に浸りながら。

 2人は歌姫を見つめ。

 歌姫は肩で大きく息をしながら、ピアノの前の2人を見つめる。

 お互い目を潤ませ、頬を火照らせ、顎に汗を滴らせながら。

 

 ピアノの余韻と、歌姫の口から漏れる吐息だけがホールの中に響くなか、青年の耳にだけは、自身のゴクリという生唾を飲み込む音が聴こえた。

 

 青年はダンパーペダルから足を離し、余韻を断ち切らせる。

 椅子から腰を浮かせ、両手を前へ。

 手のひらと手のひらを合わせ。

 歌姫に対して拍手を送る。

 

 送ろうとして。

 

 真っ先に、いの一番に、見事な歌声を披露してくれた彼女に対して拍手を送りたかったのに。

 

 歌姫に対する最初の賛辞を贈る名誉は、別の者に奪われた。

 それは、青年の隣でやはり誰よりも早く拍手を送ろうとしていたカヲルでもなく。

 

 パチパチパチと。

 

 その熱心な拍手は3人が立つ舞台からではなく、客席の方から聴こえてきた。

 その拍手は、1つ、2つではない。

 舞台の3人は、驚いたように客席へと視線を送る。

 

 拍手の在り処は正確には客席からではなかった。すり鉢状の客席の向こう側。4つあるホールの出入り口。扉が開け放たれた出入り口それぞれに人だかりが出来ており、彼らが舞台の上の3人に向かって拍手を送っていたのだ。

 最初は控えめだった拍手も、舞台上の3人が観客の存在に気付くと、もう遠慮はいらないとばかりに拍手はどんどん大きくなっていく。

 

 3人だけの密やかな音楽会を、いつの間にか大勢の観客が覗いていたことに、カヲルも青年も顔を真っ赤にさせてお互いの顔を見つめ、肩を竦ませる。

 一方のレイは2人のためならばと恥ずかしい気持ちを押し殺して披露した歌声を、まさかこんなにも多くの人に聴かれていたという事態にもはや頭の回転が追い付かず、みっともない歌声を響かせてしまった口許を両手で覆い、目を白黒させていた。

 

 拍手は鳴り止まない。

「参ったな…」

 青年は困ったように頭を掻く。

 そんな青年の腕を、横に座るカヲルの肘が小突いた。

 顔を向けると、カヲルはが整った顎で何かを差している。カヲルの顎の先には、顔を真っ赤にし過ぎてリンゴのようになってしまっているレイの姿。

 カヲルが意図するものが分かったのか、青年はにっこりと笑った。

 

 

 

 どうしよう。

 どうしよう。

 

 胸が苦しい。

 頭が弾け飛びそう。

 

 初めての感覚。

 

 これが…。

 これが恥ずかしい。

 

 恥ずかしくてたまらない。

 こんなに恥ずかしい思いをしたのは、多分生まれた初めて。

 こんな時、どうしたらいいの?

 

 そうだ。

 

 そうだ。

 

 逃げ出しちゃえ。

 

 逃げ出しちゃえばいいんだ。

 

 誰かに命令されているわけでもない。

 ここで逃げてしまっても、世界が滅んでしまうわけではないのだから。

 

 

 

 舞台の端にある木製の階段に向かって走ろうとして。

 そんなレイの右手首を、誰かが掴んだ。

 振り返ると、そこには彼女の恋人の姿。カヲルの左手が、レイの右手首を掴んでる。

 

 逃げようと思ったのに。身と心の安全を確保するために、この舞台から逃げ去ろうと思ったのに。 

 それを邪魔する恋人に「えええ?」と抗議の視線を送っていたら、今度はもう片方の左手首を誰かに掴まれた。

 振り返ると、今度は青年の右手が、レイの左手首を掴んでいた。

 両手を2人の男性に拘束されてしまった。

 逃亡への意志を諦めきれないレイは両腕をぶんぶんと振って拘束から逃れようとするが、2人の男性は2人に比べたらずっと小柄なレイの両腕を引っ張って、ずるずると舞台の前面へと引きずっていった。

 

 カヲルと、レイと、青年の順番で。

 客席に向かって、横一列に並んだ3人。

 レイの頭越しに、カヲルと青年は目を合わせてニンマリと笑う合う。

 そんな2人の顔を、気の毒なほどに顔を引き攣らせながら、交互に見上げるレイ。この期に及んで何を始めようとしているのか、この2人は。

 

 突然、カヲルと青年は同時にさっと両腕を天に向けて突き上げた。それこそ、先程彼女が歌った歌の歌詞のように。翼をはためかせるように。

 それぞれの手首を両脇の2人の手に握られているレイの両腕も、当然天に向かう。両腕を強引に伸ばされ、背筋を強引に伸ばされ。天に向かって伸ばされてしまったレイの踵は、宙に浮いてしまっている有様だ。高身長の男2人に両腕を引っ張られ、爪先立ちを強いられる彼女のその姿は、まるで捕獲されてしまった気の毒な宇宙人のようだ。

 

 3人はしばらく両腕を天井に向けて掲げた後。

 今度は両腕を地面に向かって勢いよく降ろし、その腕に引っ張られるように上半身は折り畳まれ、客席に向かって頭を下げる。

 

 

 観客から惜しみない拍手を送られたなのならば、演者がすべきことはたった一つ。

 

 思いがけず舞台の上で繰り広げられたカーテンコールに、客席から送られる拍手はさらに大きく膨らんでいった。

 

 観客へのお辞儀を終え、体を起こす3人。

 彼らに浴びせられる嵐のような拍手。

 客席の熱気にあてられ、カヲルと青年は、レイの頭越しに興奮した面持ちで見つめ合う。

 お互いにっこり笑って。

 そしておそらくこの現象を引き起こした最大の原因である人物の空色の頭に視線を落として。

 

 

「きゃっ」

 

 2人に強引に両腕を振り上げさせられたと思ったら、次の瞬間には強引に床へと振り下ろされ、おまけに頭まで下げさせられ。

 頭はふらふら、目はくらくら。

 やはり2人の腕に引っ張れるように体を起こされた時には、2人の男に挟まれぐったりとしていたレイ。

 そんな無防備な状態の時に、突然左右の2人にほぼ同時に抱き締められたものだから、レイは短い悲鳴を上げてしまった。

 

 まずはカヲルがレイの細い腰を腕ごと抱き締めると、その時点で彼女の両足は宙に浮いてしまった。

 その背後から今度は青年が、彼女を抱き上げる青年ごと、大きく抱きしめる。

 「ふふふ」と「ははは」と、後ろと前から2人の男性のやや昂った笑い声が聴こえるなか、2人の男性の体にぎゅっと挟まれてしまったレイは、「ううう」と呻き声を上げることしかできないでいた。

 

 

 

 若い3人の男女が舞台上で抱き締め合うのを見て、観客の中からは笑い声や指笛さえ上がり始めるなか。

 

「あなたたち!!」

 

 劈くような怒鳴り声が、豊かな拍手の音に満たされていたホールの空気を切り裂いた。

 

 ホールの出入り口の一つから、眼鏡を掛けた中年女性が般若のような顔で舞台上の3人を睨んでいる。

 

「何勝手に舞台に上がって、しかも勝手にピアノを弾いてるの!」

 どうやらこの公会堂の職員さんらしい。

 

「わっ、まずっ!」

 レイとカヲルを抱き締めたままの青年が、悪戯が見つかってしまった子供のような顔で言う。

「イカリさん、許可貰って弾いてたんじゃないんですか…!」

 

「逃げよう!」

「え?」

「え?」

 

 2人の了解も待たずに、青年はピアノの側に置いてあったショルダーバッグとチェスターコートを肩に掛けると、2人の腕を掴み、走り出した。

 舞台の両袖にある階段に、ではなく、舞台の正面に向かって。

 

「跳ぶんだ!」

「え?」

「え?」

 

 青年が大きく股を開いて宙に舞い上がる。

 彼の手に引っ張られるカヲルも、舞台の床を思いっきり蹴る。

 レイは訳も分からぬまま両足で内股気味にぴょんと舞台から跳びあがる。

 

 3人同時に客席の床に着地。

 青年は2人の腕を引っ張ったまま、出入り口へ向かう階段を駆け上がり始める。

 

 

 ホールの中で密やかに行われた音楽会。

 情熱がこもったピアノの音色に乗せられる、情感の宿った透き通った歌声。

 どこからともなく集まった観衆から自然と沸き起こった拍手。

 演者たちによるカーテンコール。

 素敵な歌声を披露した女性を、男性2人が抱き締めて。

 突然現れたおっかないおばさんに演者3人が怒鳴りつけられて。

 3人が手を繋ぎながら舞台から飛び降りて。

 3人が手を繋ぎながら階段を駆け上がって。

 

 何気ない日常の中で突如として繰り広げられた、何ともドラマチックな展開。おまけに3人のうち2人はまるで西洋の宗教画から飛び出してきた天使のような美男美女であり、もう一人も十分に整った顔立ちの美青年だ。職員さんがヒステリックな声を上げるなか、集まった観衆の興奮が更に高まってしまうのは無理からぬことであり、あちこちから喝采が沸き起こり、ついには紙吹雪すら舞い始める始末である。

 

 3人の先頭を走る青年は観衆からの反応に苦笑いしながら。

 青年の右隣を走るカヲルは観衆に向かって手を振りながら。

 カヲルの左隣を走るレイは真っ赤に染まった顔を俯かせて。

 

 出入り口を塞いでいた観衆は逃亡者たちのために道を開け、3人はその隙間から公会堂の外へと飛び出た。

 未だに観客から送られる拍手喝采を背中に感じながら、3人は振り返らずに公会堂前の階段をこれまた一気に飛び降りて、走り続ける。

 

 

 凍てつく空気が赤く火照った頬を撫でる。

 青年に腕を引っ張られるままに、地面を見つめながら走っていたら。

「ねえ、レイ。レイ」

 隣の恋人から声を掛けられ、レイはようやく顔を上げて恋人の横顔を見つめる。

 やはり青年に腕を引っ張られて走っているカヲルは、空いた手で空を指さした。

 カヲルの指に導かれるままに、レイは空を見上げる。

 灰色の空から舞い降りてくるのは白いもの。

 雨や雹とは違う、ふうふわと、たんぽぽの綿毛のように空中を漂いながらゆっくりと落ちてくる、幾つもの白い顆。

 レイはぽっかりと口を開けて、目を丸くした。

 恋人が期待通りの反応を見せたことに、カヲルは満足したように微笑む。

「レイ、雪見るの初めてだよね」

「これが…、雪…」

「きっと素敵な歌声を披露してくれた君への、天からのプレゼントだよ」

「何を…言うのよ…」

 初めて見る雪に夢中になって、一瞬大勢に歌を聴かれた恥ずかしさを忘れていたレイは、カヲルのその言葉に再び顔を真っ赤にさせて俯いてしまうのだった。

 

 

 

  

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