渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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 2人がしてるのはあくまで「お掃除」と「お食事」です。

 


夏 ― 前編 ―

 

 

 

 

 自分はどうしようもなく脆くて弱い存在であると。

 そう痛感させられる瞬間はいくらでもある。

 

 何処とも知れない荒れた農園にたった一人で放り出された時。

 いくら種を蒔いても花も咲かず実も付かず枯れてしまう農作物を前にした時。

 初めて入ったコーヒー屋さんで意味不明のメニューを渡された時。

 彼女の居ない生活が頭の中を過ってしまった時。

 偶然彼女の本当の名前を知ってしまった時。

 それを彼女に告げず、黙っていようと一瞬でも思ってしまった時。

 ショーウィンドウに並ぶ品々に目を奪われ、物欲を刺激されまくった時。

 あの人が馴れ馴れしく彼女の下の名前を呼んで、ちょっとムカっとしてしまった時。

 内から湧き上がる衝動に突き動かされるままに彼女を抱いてしまう時。

 

 

 そして、森の中で大きなイノシシ一頭とご対面した時。

 

 

 僕たちが住んでいる海辺の高台にある人里離れた農園。高台の斜面には段々畑が連なっており、段々畑の背には小高い山が聳えている。

 僕がここに住み着き、そして彼女が着の身着のままでこの場所に転がり込んでからそこそこの年月が経過したが、実はこの農園は僕たちのものじゃない。

 高雄のおばさんの話によれば、亡くなったおじさんの古い友人の土地であり、いずれ古い友人とその奥さん、そして子供3人でここに移住し、のんびり過ごすつもりだったらしい。何故彼らがこの場所に移り住まなかったのかは定かではないが、おばさんが言うには彼らの子供、息子さんについては立派に成人していて、別の場所で平穏に暮らしていることは分かっている。つまり、現状知りうる上でこの土地の正当な所有者はその息子さんということになるが、息子さんはこの土地について特に関心がないらしい。おばさんが伝手を伝って息子さんに連絡を取ってみてくれたらしいが、山や農園を管理してくれるのならば何時までも住んでくれて構わないとの返事が返ってきたそうだ。

 そう。つまり僕たちはこの農園だけでなく、この高台。山全体を任されてしまったわけだ。   

 村の先達たちによれば、山は放っておいてはいけないらしい。山が荒れてしまうと災害の原因になってしまうし、好き放題伸びた草木がそこを住処とする動物たちを追い出してしまい、結果、彼らが畑を荒らしてしまうのだとか。

 だから農作業の合間に定期的に山に入り、あっという間に茂ってしまうササやコシダなどを刈り、樹木に巻き付くフジやクズなどの蔓植物を引っぺがし、森の中の風通しを悪くする低木は伐採する。

 なにも里山の管理はひたすら削り取るだけに労力を取られる作業ではない。よく燃えるナラやクヌギの木は釜土やストーブ用の薪になるし、春から秋にかけては食材の宝庫だ。山は、僕たちに様々なものを惜しみなく与えてくれる、まるで母親のような存在だ。

 

 今日も間伐作業の傍ら、農園の裏山を50メートルほど登った場所に自生する大きなヤマモモの木によじ登り、赤く生ったヤマモモの実を腰カゴ一杯に収穫。この実で作ったジャムが大好きな彼女の喜ぶ顔を想像しながら、ホクホク顔で山の斜面を下っていた時に出くわしたのが、大きな大きな一頭のイノシシだった。

 

 口の両端から鋭く伸びる牙。岩も砕いてしまいそうな堅牢な蹄。黒光りする野太い毛。まるで小山のような大きな体。

 イノシシは本来憶病な生き物で、こちらが刺激しない限りあっちからは近づいてこないものだが、このイノシシは明らかにこっちに興味を示している。

 大きな鼻をフンフン鳴らしながら、こっちを睨んでいる。

 

 分かっている。

 彼(オスだと思う)の狙いが何なのか、僕には分かっている。

 僕の腰に付けているアケビ蔓で作ったカゴ。

 腰カゴの中一杯の赤い実。

 分かっているのだ。

 ヤマモモは彼らの大好物だというのは。

 そして、彼女の大好物だということも。

 

 腰に付けたカゴの中身を見つめて。

 そして目の前のイノシシの顔を見つめて。

 イノシシの厳つい顔に、彼女の笑顔を重ねて。

 彼女が、真っ赤なヤマモモジャムを塗った、薪ストーブで焼く自家製の窯焼きパンを幸せそうに頬張る顔を想像して。

 そして右手に持っていた、間伐作業用の鉈を握り締めて。

 

 

 自分がどうしようもなく脆弱で無力で頼りない存在だと感じる時。

 採れたてのヤマモモがたっぷり入った腰カゴを放り投げ、そのカゴにイノシシが顔を突っ込んでる間にそそくさと山を下りてしまった時。

 

 

 沢沿いに山を一気に下っていくと、ようやく小さいながらも愛しい我が家が見えてきた。

 豊富な水が流れる沢は途中で滝となり、滝つぼへ向かって流れ落ちていく。

 

 その滝つぼの畔に立つ、小さな木製の水車。上水道が通っていない我が家に沢から水を引くために、僕がこしらえたものだ。

 その水車の隣の岩場にちょこんと座る人影。

 白磁のような白い肌。

 すらりと伸びた腕、足。

 肩が隠れるまで伸びた、癖のある空色の髪。

 僕の愛しい人。

 

 

 ああ、それにしても今日はまた何て格好をしているのだろう。

 薄い木綿の生地で作られたゆったりめのワンピース。俗に言うアッパッパ。

 スカートの裾は膝丈でおまけにノースリーブ。胸元もちょっとゆるゆる。白い太ももや白い肩、胸の膨らみかけの部分までが剥き出しじゃないか。おまけにワンピースは彼女の肌と同じ、無地の白。肌と生地との境目が曖昧で、パッと見、素っ裸に見えてしまう。滝が撒き散らす水飛沫が霧状となって周囲に広がり、彼女の髪や肌を濡らしているのが余計に艶めかしい。そんな姿の彼女を誰かが見たら二度見してしまうこと請け合いだ。まあこの場には僕しか居ないのだから別にいいのだけれど。むしろちょっと嬉しいのだけれど。

 

 滝壺の畔にちょこんと腰を下ろし、足の踵を水の中に突っ込んで上下に振り、ぱしゃぱしゃと軽く水飛沫を立てて戯れている彼女。

 僕たちが住んでいるこの場所で、彼女のお気に入りの場所が幾つかある。それは農園のてっぺんに造ったハンモックだったり、家の南側に造った縁側だったり、生垣の裏の小さな畑だったり。

 そして夏になれば彼女のお気に入りの場所ランキング赤丸急上昇するのが、この沢の滝壺だ。

 なんたって、涼しい。

 夏。陽当たりのよい我が家の中は、風のない日は蒸し風呂と化してしまうため、一番気温が高くなる昼下がりに、彼女はしばしばこの場所に避難しているのだ。見れば、滝壺の中には網が投げ入れてあり、その中にナスやキュウリ、トマトなどといった夏野菜が放り込まれ、水の中をぷかぷかと浮き沈みしている。きっとあれが今日の夕ご飯になるのだろう。

 沢の畔でぱしゃぱしゃと水飛沫を立てながら佇んでいる彼女。まるで陸に上がった人魚姫みたいだ、とメルヘンチックなことを思いながら、斜面を下り切り、彼女のもとへと歩み寄っていく。

 

 足音が聴こえたらしく、彼女が顔を上げた。

「おかえりなさい」

 木々の隙間から零れ落ちる木漏れ日のような彼女の笑顔。僕はただいまと言いながら、彼女の隣にどかりと音を立てて座る。

 ちょっと不機嫌そうな僕の態度に、彼女は「どうしたの?」と訊ねる。

 僕は大袈裟に顔を歪めながらゴロンと体を横へ倒し、僕にとっての指定席、彼女の膝枕に僕の頭を乗せた。

 彼女は「あらあら」と困ったような笑顔を浮かべながら、僕の髪の毛を撫でてくれる。

 僕は拗ねたように唇をとんがらせながら、せっかく君の為に採った大量のヤマモモをイノシシに盗られたことを打ち明けた。

「それは残念…」

 大好きなヤマモモのジャムを作れないことに、眉を「ハ」の字に下げてしまう彼女。そんな彼女の表情に、イノシシの獰猛な圧力にあっさりと負けてしまった自分の無力さに、心が痛んでしまう。

 それでも彼女はすぐに柔らかな笑顔に戻ってくれた。

「でも、あなたが無事で良かった。それが何よりのお土産だわ…」

 彼女はそう言いながら、僕のとんがらせた唇を人差し指と親指とちょんちょんと挟む。

「だから機嫌直して…」

 しかし僕の口は相変わらずとんがったままで、ふくれっ面のまま。

「お願い…」

 彼女は優しく言いながら、僕の膨らんだ頬を人差し指でちょんちょんとつっつく。

 それでも口を「へ」の字に曲げたままの僕に、彼女は「もう」と呆れたように呟きながら、しかたなく彼女の顔を僕の顔の近くに寄せ、そして彼女も唇をとんがらせ。

 頬にふっとした軽い感触。

 彼女の顔が離れる。

 たちまち、「へ」の字とは逆方向に曲がる僕の口。

 彼女はそんな僕の反応に、心底呆れたようにもう一度「もう」と呟く。

 

 牛になってしまった彼女に、はははと笑い掛けながら僕は体を起こす。

 靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、作業着のズボンの裾を折り曲げて、彼女と同じように沢の水の中に足を突っ込んだ。ずっと山の中を歩き通し、最後はイノシシから逃げるために山を駆け降りて、火照ってしまった足が、沢の冷水に浸かって一気に冷やされる。この感触が溜まらない。肩を震わせ、くー、と唸りながら、爪先から頭へと通り抜けていく冷気を全身で感じる。クーラーのない我が家にあって、真夏に涼が取れるこの場所は僕にとっても大のお気に入りの場所だ。

 ふと、隣の彼女を見る。

 薄着の彼女。蚊取り線香が燻らせる煙を纏う彼女。そのお腹。ぽっこりと膨れたお腹。

 そのお腹に向かって手を伸ばす。

丸みを帯びたお腹に、手のひらでそっと触れる。

 この丸みはもしかしたら自然界においてもっとも美しく、そしてもっとも尊い形象なのではないだろうか。

 本気でそう思いながら彼女のお腹を撫でる。そして彼女に、あまり体を冷やさない方がいいよ、と言うと、彼女はいつもの調子で「平気」と短く答えながら僕の手に彼女の手を重ねた。

 彼女のお腹と手に挟まれた僕の手。彼女の手から伝わってくる温もりと、彼女のお腹の中にある新しい生命の熱量を感じる。まるで彼女の体それ自体が湯たんぽのようにほかほかと温かい。

 彼女の肌から伝わる心地よい温もりを感じながら、僕の手は彼女のお腹の上を滑り落ち、鼠径部をなぞり、そのままスカートの裾から覗く白い太ももの上へと辿り着く。

 彼女が僕を睨みながら「エッチ」と言う。

 僕は殊更朗らかに笑いつつ、君の体が冷えていないか確かめてると言いながら、彼女の体の上を滑る手を、彼女の内ももへと滑り込ませた。

 けしからんその手はたちまち彼女によって抓られてしまい、手の主はいててと情けない悲鳴を上げながら、赤い痕が残ってしまった手を引っ込めた。

 君の体を心配しての行為なのに、と抗議するも、彼女は「フン」とそっぽを向いてしまい、なしのつぶて。

 思いのほか不機嫌になってしまった彼女に、慌ててしまう僕。この凍てついた空気を和らげる方法を探して視線を方々にやると、沢の水の中にぷかぷかと浮かぶ緑色の物体を発見。

 緑の素地に黒の縦縞が入るボール状の物体。

 僕はズボンが濡れるのも構わらずに沢の中に入ると、そのボール状の物体、網の中に入ったスイカを取り上げ、彼女のもとへと戻る。

 スイカを食べよう、と彼女に提案。

 彼女は「それは夕食後のオヤツ」とそっぽを向いたまま答える。

 まあまあ、と彼女を宥めながら、腰にぶら下げていた鉈を握り、沢の水で濯いで、鈍く光る刃をスイカに向けて振り下ろした。

 

 2人で食べるにはちょうどよい小ぶりな大きさのスイカを、鉈で4等分に切り分ける。半月状になったスイカを、ほら、と言いながら彼女の顔の前へ差し出した。

 目の前に差し出されたスイカを見ず、じろりと横目で僕を睨んでいる彼女。彼女が纏う不機嫌な空気をどうにか打ち払おうと、顔に精一杯の笑顔を浮かべながら、彼女がスイカを受け取るのを待つ僕。

 辛うじて僕の粘り勝ちだ。

 彼女は仕方なくといった様子で、僕の手からスイカを受け取る。

 

 僕は大きな声で、いただきま~す、と言いながらスイカの真っ赤な中身にかぶり付いた。

 たちまち口の中に広がるさっぱりとした甘味と豊潤な水分とシャリシャリ感。沢の水でよく冷えた果肉と果汁が口腔内の隅々まで行き渡る。まるでリスのように両頬を膨らませてしゃくしゃくと咀嚼し、口全体でスイカの甘味を味わい、嚥下し、そして口の中にまだ残ってる状態で我慢できずに二口目。そして三口目。

四口で1つ目を全て平らげ、口の中に残していた種は畑に撒くため一粒一粒丁寧に皮の上に落とし、そして2つ目に手を伸ばす。

 ふと、隣を見る。

 半月状に切ったスイカに、小さな口を目一杯広げてかぶり付いている彼女。

 ぷぷっと笑ってしまった。

 

 彼女の食事マナーは手放しで良いと褒められたものではないが、取り立てて悪いと言えるほどのものでもない。どうも僕と出会う前の彼女はまともな食生活を送っていなかったらしく、その所為かお箸の持ち方も出鱈目だったが、アルバイト先のおばちゃんたちに矯正させられて、人前で食べても恥ずかしくない程度には彼女のテーブルマナーは向上した。

 そんな彼女だが、未だに苦手にしているのが、頬張る、という行為だ。

 

 口がちょっと小さ目だからだろうか。おにぎりを頬張ると口の周りには毎回必ずお米粒が引っ付いているし、お煎餅を頬張ると割れたお煎餅を膝の上にぼろぼろと零してしまう。頬張るのが苦手なのならば、お弁当用に用意するおにぎりは彼女の口のサイズにあったもっと小さいものを作ればよいのに、と僕が言っても、彼女は大きい方が美味しいからといつも彼女のげんこつ2つ分はある特大のおにぎりを作ってしまう。だったら一口で口に含む量をも少し減らしたら、と提案しても、頬張るときは目一杯口に入れた方が美味しいからと却下されてしまった。頬張ることが下手っぴなくせに、頬張るという行為におかしな拘りを持ってしまっているらしい。

 彼女と2人で農作業していた頃は、いつも決まって農園の一番てっぺんにある丘のハンモックに座って、お弁当のおにぎりを2人して頬張っていた。僕の隣で大きなおにぎりをむしゃむしゃと美味しそうに頬張る彼女。一口かぶり付く毎に2粒は彼女の口の周りにくっついているお米粒を摘まんでは僕の口の中に運び、彼女の口の周りをお掃除してあげるのが僕のお昼ご飯での役割だ。

 

 そして今、僕の隣でスイカを頬張っている彼女。

 やっぱり今日の彼女も、口の周りをスイカの果肉で汚し、顎には1粒2粒と黒い小さなスイカの種を引っ付けている。

 僕は苦笑しながら彼女の顔に手を伸ばし、彼女の顎に引っ付いたスイカの種を摘まみ取る。そしてそれをそのまま僕の口の中へ。おっと、これはおにぎりじゃないんだった、と口の中に入れそうになった種を、僕が食べ終わった皮の上に落とした。

 その間も彼女はスイカをむしゃむしゃと頬張り続けている。

 半月状のスイカの半分を食べ終えて、彼女はスイカを膝の上に下ろし、口を丸く開けてふーと息を吐いた。

 

 スイカの赤い果肉で濡れた彼女の唇。口の周りに付着していた赤い果汁が少しずつ彼女の唇の先端に集まって水滴を作る。その重さはやがて表面張力を上回り、ついに水滴は弾け、果汁はそのまつつつと唇の下を伝い、顎を越え、喉を滑り落ち、鎖骨へと辿り着く。鎖骨のくぼみに出来て小さな果汁の水溜まり。やがて果汁はその鎖骨の堰も越え、胸元まで垂れそうになって。

 唇から落ちていく果汁の行方を目で追っていた僕。その果汁が彼女が着る白のアッパッパの襟元を汚してしまいそうになったので、僕は慌てて彼女の胸元に手を差し伸べた。

 

 手を差し伸ばしたはずなのに。

 何故か、彼女の鎖骨が目の前にあった。

 そして僕の唇に触れる感触は、触れ馴れた、彼女の肌。

 手を差し伸ばす代わりに、彼女の胸元に顔を寄せ、彼女の肌に吸い付いていた僕。まるで吸盤のように窄めた唇を彼女の絹のような肌にくっ付け、彼女の肌を滑り落ちる果汁を吸い上げていた僕。ちゅるちゅると、僕の唇が鳴らす何とも間抜けな音が僕の耳に届く。何だか樹木に抱き着いて樹液を吸ってるカブトムシになった気分だ。

 辛うじて彼女の服を汚すことを阻止した僕の唇は、彼女の肌にくっ付いたまま彼女の白い肌の上を登り始めた。

 僕の唇は彼女の肌を濡らす果汁をちゅるちゅる吸い上げながら鎖骨を越え、喉を這い上がり、顎を伝い、そして終着点は当然。

 唇同士が重なると彼女の柔らかい唇の上には果肉の小さな塊が残っていたので、それも丁寧に吸い上げる。自然と僕の唇は彼女の唇ごと吸い上げる形となり、彼女から顔を離す時には彼女の下唇が僕の口に挟まっていて、ぴろんと伸びていたのが可笑しかった。彼女の引っ張られた下唇と形の揃った白い歯の間には残っていた数粒の黒い種を目ざとく見つけた僕は、離し掛けた唇をもう一度近づけ、彼女の唇の隙間に滑り込ませた舌で、彼女の唇と歯の間の粘膜を舐めずる。彼女の口の中に残っていた小さな固い粒が僕の口の中に移動したことを確認した上で、今度こそ彼女から顔を離し、僕は口を少し開け、彼女の唇を解放してやる。

 ずっと吸い続けていたものだからちょっとした酸欠状態になってしまった僕は、大きく深呼吸しながら、僕の唇との間に細い唾液の線を引いている彼女の唇を見つめた。よく見てみれば、彼女の口の周りには、まだ果肉と果汁が残っているではないか。

 お掃除を再開しようと彼女に顔を近づけようとしたら、彼女は背中を仰け反らして僕から顔を離してしまった。

 僕が何故だい?と眉を顰めていると、彼女はそんな僕の顔と彼女の顔の間に食べかけのスイカを挟んだ。

「まだ、食べてる途中」

 どうやら今の彼女の中では、僕との「お掃除」よりも、スイカを食べることが優先されるらしい。

 スイカと食い気なんぞに負けてられない僕はにっこりと彼女に笑い掛けて、分かったよ、と言い、他の人と比べてやや大き目らしい口を大きく開いた。その口で、彼女が持っているスイカにかぶり付く。彼女が時間を掛けてようやく半分食べたスイカの残り半分を、僕の口は強引に一飲み。頬を大きく膨らませ、口の中にある大量の果肉をむしゃむしゃと咀嚼し、口の端からは果汁をぽたぽたと零しながら、上半身を傾け、首を伸ばし、離れてしまった彼女の顔に僕の顔を近づける。スイカの果肉で一杯になっている僕の口を、スイカの果汁で濡れている彼女の唇に覆いかぶせた。

 僕の口で彼女の口を左右から挟み込み、少々強引に彼女の閉じていた唇を開く。そして僕の口の中に含んでいた果肉を、まだ食べ足りないらしい彼女の口の中へと移していく。

 意外にも彼女はこの行為を素直に受け入れた。もしかしたらよっぽどお腹が空いていただけなのかも知れないけれど、彼女はか細い下顎をこくこくと上下させながら僕の口の中のものを吸い寄せ、彼女の口の中へと収めていく。僕の口の中で唾液と混じりながら散々に咀嚼され、スイカのシャリシャリとした歯触りも清涼感もあったもんじゃないただの食塊を、彼女の口は余すことなく受け止めようとするが、やっぱり彼女の口は僕の口よりも随分と小さいようで、僕の大きな口から受け止め切ることができなかった赤い果肉が彼女の小さな口の端からボタボタと零れ落ち、顎から胸元へと滴り落ち、結局のところ彼女のお召し物を汚してしまうことになる。最終的に僕の口の中の果肉は、半分が無事に彼女の口の中へと収められ、半分は彼女の口の外へと零れ落ち、彼女の血となり肉となることはできなかった。

 彼女から顔を離す。彼女にスイカを食べさせていた間はずっと息を止めていたため、またもや軽い酸欠状態。肩を上下させながら深呼吸を繰り返していたら、見ると彼女も酸素が足りてないらしく、大きく胸を上下させている。僕の口から大量の果肉を移された彼女の口は、中身を零すまいと閉じられたままで、もぐもぐと顎を動かしながら中身を咀嚼し、時折喉ぼとけを動かして中身を飲み込み、その間は口では呼吸できないため鼻のみで荒い呼吸を繰り返した。

 それにしても、見るも無残な彼女の姿。せっかくお掃除してやったのに、先程以上に汚れてしまっている彼女の顔。口の周りを中心に、真っ白な肌の上に点在する真っ赤な果肉。唇から顎、首、そして胸全体に広がる赤い果汁。鎖骨に出来た果汁の水溜まりの中に浮く数粒の黒い種。ゆったりとしたサイズのアッパッパは大きく乱れ、襟口からは彼女の左肩、そして左胸のふくらみが覗いている。その胸が彼女の吐く息に合わせて膨らんでは萎み、膨らんでは萎みを繰り返す。

 彼女のルビーのような瞳が普段以上にキラキラと輝いて見えるのは、背の高い木立の隙間から降り注ぐ木漏れ日の所為だろうか。

 すぐ側にある滝の音も。

 水を汲み上げる水車の軋む音も。

 聴覚を破壊してしまうかのようのセミの大合唱も。

 全てが遠くに去ってしまった静寂の世界。

 静寂の中にいる空色髪の彼女。

 聴こえるのは、彼女の鼻から出し入れされる彼女の息吹だけ。

 そしてようやく口の中身を胃の中に収め切った彼女の口が、ほっと、小さく開いて。

 

 もう一度、彼女に顔を近付ける。

 彼女の唇に僕の唇を重ねて。

 右手は彼女の左の膨らみに重ねて。

 左手は彼女の腰に回して。

 ゆっくりと彼女の体を押し倒していく。

 

 僕の唇は彼女の唇から離れ、そのまま滑るように顎へと移り、そしてうなじに触れ、肩に触れ。

 服の布越しにその柔らかさを感じていた右手は、彼女の体の形を確かめるようにわき腹から腰へと滑り落ち、腿へと辿り着き、そしてアッパッパの裾をたくし上げると僕の右手はついに彼女の白磁のような肌に直に触れる。

 その右手はアッパッパの中に潜り込んで彼女の腿から腰、そしてぽこっと膨らんだお腹の上をよちよちと登っていき、そしてその先にある柔らかな2つの膨らみへともう間もなく辿り着く頃になって。

 

 ちょうど僕の耳もとにあった彼女の口が、ぽつりと呟いた。

 

「お猿さん…」

 

 彼女のそのコメントに、彼女の鎖骨に触れていた僕の口がふふっと笑う。

 ああそうだよ。

 今の僕は盛りの付いたお猿さんさ。

 

 一切否定する気になれない僕はおどけて、うきき、うきき、と猿の鳴き声を真似しながら、右手で柔らかな膨らみに迫り、そして同時に口も彼女の襟口から胸元へと潜り込ませようとして。

 

 再び彼女はこう呟く。

 

「お猿さん…」

 

 僕は、え? と言って、動きを止める。

 そんな僕に、彼女は密着していた僕と彼女の体の間に彼女の両手を滑り込ませ、僕の体を押し返す。

 離れてしまった、僕と彼女の体。

 

「お猿さん…」

 

 同じコメントを繰り返す彼女。

 僕が2度目の、え? を言うと。

 彼女は視線を僕の背後に向けながらこう言う。

「お猿さん…、見てる…」

 

 彼女の視線に誘われるままに、背後を振り返る僕。

 沢を挟んで向こう岸。

 

 大きな猿が一頭。

 こちらを見ながら立っていた。

 

 猿は、え? 続きは? とでも言いたげに、首を傾げながらこちらを見ている。その猿の背後では、数頭の猿が群れを成して山の斜面を下っているところだった。

 人の来訪などほぼないこの農園において、想定外な出歯亀の出現に、固まってしまっている僕。

 大きな猿は、な~んだ、つまらない、とでも言いたげにお尻をぼりぼりと引っ掻くと、踵を返して彼の群れを追いかけ始る。

 去っていく大きな猿の背中を唖然として眺めていたら、僕の頭がようやく動き始めた。

 猿の群れが駆け降りていった方角。

 あちらには、明日収穫するつもりだったビワの木がある。

 僕も、そして彼女も、ずっと前からとても楽しみにしていた熟れ頃のビワの木が。

 

 僕は素っ頓狂な声を上げながら立ち上がると、地面に投げていた鉈を拾い上げ、沢の中へと飛び込む。水の流れをジャバジャバと掻き分けて向こう岸に辿り着くと、猿の群れの後を追って森の中を駆け出した。

 

 

 

 

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