怒涛のイチャイチャラッシュ。
裏庭のビワの木を狙う猿の群れを追って、森の中へと消えていく彼の背中。
上半身だけを起こして彼の背中を見送る私は、胸の前で小さく手を振りながら、がんばってとエールを送った。
彼の背中が森の中へと消えて。
たちまち、私は大きく息を吐いた。両手を岩場につき、体の中に溜まりに溜まった熱を追い出すかのように、長い長い吐息を漏らした。
堪らず、沢の水面に向けて身を乗り出す。水面に映る私の顔が赤く染まって見えるのは、私の顔を汚しているスイカの果肉やら果汁やらの所為だけではないだろう。
水面に両手を差し伸べ、水を掬って汚れた顔をジャブジャブと洗う。火照った顔を、冷たい水でパシャパシャと冷ます。
今も、彼の吐息が私のうなじに掛かっているかのよう。今も、彼の唇が私の唇に重なっているかのよう。今も、彼の手が私の体の上を滑っているかのよう。
この体に新しい生命が宿っていると知ってからそろそろ3カ月。
体の不調が著しく表れる時期がようやく過ぎ、体を動かすこともそれほど苦にならなくなって、家の中のこともこなせるようになって、涼しい時間帯ならば彼と一緒に畑仕事にも出られるようになって。
それでも私の体のことを一番に考えてくれている彼。
いつ以来だろう。
あんなにも激しく求められたのは。
久しく覚えることのなかった、内から湧き出る熱く滾った衝動。
その衝動が今も全身を駆け巡っていて、全身がマグマのように熱くて堪らない。顔を洗うだけじゃ足りず、このまま沢の中へ飛び込んでしまいたい気分だったが、さすがにそれは堪えた。
どうやってこの火照りを冷まそうか。
沢の冷たい水をごくごくと飲んで、体の中から冷まそうか。
ああ、そうだった、そうだった。
地面に置いていた、まだ手付かずのスイカに手を伸ばす。
三日月状に切り分けられたスイカを顔に近付け、口を目一杯広げる。
真っ赤な果肉に、かぶり付く。
むしゃむしゃと咀嚼し、まだ口の中に残っているのも構わず、二口目、三口目と、次々と果肉を口の中に掻き込んでいく。
体の火照りを冷ますために、次々とよく冷えたスイカの果肉を、体の中に入れていく。
種を出すのも忘れ、息をするのも忘れ。
一切れを喰らい尽くしたら残りのもう一切れも喰らい尽くす。
この日、私は生まれて初めてのやけ食いを経験した。
小玉とは言え、スイカ一玉のうちの4分の3を食べてしまって、お腹の中がたっぷんたっぷんになってしまった。動いてしまうとせっかくのスイカを戻してしまいそうだったので、沢の畔に腰を下ろし、足の先っちょだけを水の中に入れ、お腹の中が落ち着くまで暫し待つ。
滝の音。水車の軋む音。セミの鳴き声。木々の隙間から零れ落ちる木漏れ日。
この滝壺から5メートルも離れれば、容赦のない陽射しとたっぷりの湿気を孕んだ猛烈な暑さに襲われることになる。そんな猛暑の世界とは切り離されたような、滝壺の周辺。
この季節限定の、私のお気に入りの場所。
お腹の中が落ち着いてきた。
沢の水の中に入れられた網。その中でぷかぷか浮いている夏野菜たち。今日のお夕飯は冷やしトマトとキュウリの丸かじりと、ナスとカボチャの天ぷらの夏野菜尽くしにするつもりだったのだけれど。
未だにお腹の奥の方で疼いている火照り。スイカをやけ食いしたくらいじゃ消化されない衝動。
ぽっこり膨れたお腹を、両手ですりすりと撫でる。
意を決した私は、よしっ、と呟いて立ち上がると、滝壺の近くにある岩場へと向かう。湿った苔が生い茂る岩の上を慎重に歩き、そして辿り着いたのは青々とした葉っぱの絨毯が一面に広がる山菜の自生地。滝壺から舞い散る水飛沫を浴びたウワバミソウが、生き生きと茂っている。
私はその場に膝を折り、ウワバミソウの茎を根元で折りながら、一本一本摘んでいく。携えていた盆ざるに溢れるほどのウワバミソウを摘んだら、水車のもとまで戻り、沢の中に浸けていた夏野菜を引っ張り出し、蚊取り線香も片づけて、おうちへと戻る。
うわ。滝壺から一度離れると、やっぱりムワッとした熱気。たちまち、全身から汗が吹き出た。口から胸元までにべとつくスイカの果汁が少々不快で、おうちに戻ったらすぐに体を拭いてすぐに着替えようと思っていたのだけれど、この暑さだとすぐに全身汗まみれになるだろうから、お夕飯の支度前までこのままでいることにした。
夏野菜たちとウワバミソウを土間の日陰となっている比較的涼しい場所に置いて、畑の方へと向かう。
生垣の間を抜けると、道が右と左の二手に分かれる。右に向かえば、海の方へ向かうなだらかな下り坂。左に向かえば、山の方へ向かう急峻な上り坂。左の上り坂へ向かえば、私の一番のお気に入りの場所であるハンモックの丘があるけれど、体調がある程度戻ったこの体であってもこの坂を上るのはちょっとしんどい。口惜しく段々畑に囲まれた上り坂を見つめながら、生垣の裏へと回る。
生垣の裏の小さな畑。種々様々な野菜たちが勝手に繁殖と衰退を繰り返す無法地帯。そこに足を踏み入れ、目的のものがないか見渡すと、あったあった。
種を蒔いたら勝手に育つ、手間の掛からない、ずぼらな私にはぴったりな野菜、モロヘイヤ。ちょうど採り頃の葉っぱがたくさんあったので、それらを摘み取り、おうちへ持って戻る。
次に向かったのは裏庭の奥の木陰にある納屋。風通しがよく、湿気も少なく、一日中日の当たらないこの納屋の中には、長期保存用の食材が置かれている。その中の一つ、古新聞にくるまれたもの。泥が付いたままの山芋。土の中で越冬させ、春に掘ったものをこの納屋で保管していたのだけれど、すでに季節は夏。鮮度には一抹の不安はあるけれど、多少痛んでそうなものを食べても2人とも不思議とお腹を壊したことがないので、これも大丈夫だろう、と結論付け、山芋を持って納屋を出た。
納屋の隣は2人の普段の足代わりになる原付バイクが駐輪されているガレージになっているが、原付バイクの隣には長方形の箱のような車体の小さな自動車が一台停められている。なんでも彼がこの家に住み着くようになった時から原付バイクと一緒にここに停められてあったそうで、バイクの方はおじさんが直してくれて動くようになったが、自動車の方は西欧製の随分古いものらしく、おじさんでも直すことができなかったそうだ。緑と白のツートンカラー。曲線を帯びた美しいフォルムと車体の顔の真ん中にデカデカと貼られた子供のらくがきのような「V」と「W」のエンブレムが何ともアンバランスで、それがかえって可愛らしさを感じさせる小さな自動車。彼が村のレトロ車好きなおじいさんに色々と教えを乞いながらレストアに励んでいるが、この自動車がこのガレージから動くのはいったい何時の事やら。
食材が揃った頃には、泥だらけの彼がおうちに戻ってきていた。
「猿には勝ったよ」
誇らしげに言う彼の背負いカゴの中には、一杯のビワの実。
私はおかえりなさいと笑顔で彼を迎えながら、彼にタオルを渡そうとして。
「このままシャワーを浴びてしまおうよ」
そう言って、彼は私の手からタオルを受け取らず、私の手首を掴んでそのままおうちの裏へと向かってしまう。私は今日何度目かの、もう、という抗議の声を上げながらも、彼の後を素直に付いていく。
おうちの裏へと回ると、裏庭の隅に小さな給水塔が立っており、沢から水路を伝って運ばれた水が貯められるタンクの底には地面に向かってシャワーヘッドがニョキっと生えている。
背の高い彼よりもさらに50センチメートルばかり高い位置にあるタンクの底。その真下に来た私たち2人。彼は泥だらけの作業着を脱ぎ、下着も脱ぐ。私もスイカの果汁で汚れたアッパッパを脱ぎ、下着も脱いで、2人ともすっぽんぽんに変身。
彼は爪先立ちをしてぐぐっと背筋を伸ばし、さらに腕も伸ばしてタンクの底にあるシャワーヘッドに手を伸ばし、何とか届いた水栓のハンドルをくるくると回した。
シャワーの口から、じょろろと流れ出す水。この時期はぎらつく太陽の陽射しでタンクの中は熱がこもっているため、その中の水はそれなりに温かい。この時期以外は冷たい水しか出ないため、この季節限定の簡易シャワーだ。
シャワーから流れ出した水は、その真下に居る私たちの頭の上へ。
この給水塔兼シャワーも、彼のお手製。シャワーのハンドルが背の高い彼が手を伸ばしてやっと届く位置にある、つまり、私の手では届かない位置にあるのは、彼の策略であること。つまり、私がシャワーを浴びようと思ったら必ず彼を呼ばないといけないこと。ようするに、彼と一緒に浴びないといけないようになっていることは、彼のけしからん企みであることは私もとっくに気付いているのだが、ここはあえて気付かない振り。
だって、彼と2人でシャワーを浴びるこのひと時は、私にとっても大好きな時間なのだから。
お互い近い距離で向き合いながら浴びるシャワー。
視界を覆う無数の縦の線の向こうに見えるのは、収まりの悪い髪が水に濡れて肌にくっ付いた彼の顔。私もきっと同じような顔をしていることだろう。
彼の両手が私の顔に差し伸べられて、目の上を覆う前髪を掻き分けた。視界が広がり、目の前にあったのは至近距離まで接近していた彼の顔。私は瞼を閉じ、素直に彼の唇を受け入れる。
彼の顔が離れのと同時に瞼を開いた私は、少し身を乗り出して給水塔の柱に括り付けた小さなカゴに手を伸ばし、中の石鹸を取る。
その石鹸をシャワーの水に晒して両手で揉み込み、泡立てると、それを彼の頭の上に持っていき、石鹸ごと泡を彼の頭に塗りたくっていく。その間彼は背伸びをし、またぐぐっと腕を伸ばしてシャワー水栓のハンドル回し、シャワーの勢いを弱めた。
彼の頭がまるで綿菓子のように石鹸の泡塗れ状態になったところで、彼に石鹸を受け渡す。そして空になった両手で、改めて彼の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜ始める。
彼も受け取った石鹸を手で揉んで泡立てると、それを私の頭の上に乗せ、肩まで伸びた髪全体に塗りたくった。石鹸をカゴに戻し、両手を使って私の髪の毛をわしゃわしゃと掻き混ぜ始める。
いつからかどちからともなく始まった、この頭の洗いっこ。私の頭はちょうど彼の胸の位置にあるため彼は洗いやすいだろうが、彼の頭は私が手を伸ばしてやっと届く位置にあるので、腕を上げっ放しの私はちょっと辛い。そして時々意地悪な悪魔に変身してしまう彼は、更につま先立ちして背伸びをし、わざと頭を私の手から遠ざけてしまう。仕方なく私もつま先立ちをして、一生懸命背筋を伸ばし、腕を伸ばして彼の頭をわしゃわしゃと掻き混ぜ続ける。
自然と私の顎は上がり。私の両手は彼の後ろ頭を抱えるようになり。
これじゃまるで私がねだっているようじゃないか、と気付いた時には、意地悪な彼の唇が私の唇を塞いでしまっているのだ。
やられっ放しは癪なので爪先で彼の向こう脛を蹴っ飛ばしてやりつつ、彼は「イテっ」と小さく悲鳴を上げながら笑いつつ、お互いの頭の洗いっこを続ける。私は石鹸の泡が彼の目に沁み込まないよう注意を払って彼の髪の毛を掻き混ぜているのに、彼の私の髪の毛を掻き混ぜる手は少しだけ大雑把。石鹸の泡が少しだけ目に染みてしまい、瞼を閉じてしまう私。視界が真っ暗になってしまっても、彼の髪の毛を掻き混ぜる行為は止めない。一方の、私の髪の毛を掻き混ぜる彼の手は止まってしまった。掻き混ぜる代わりに髪の毛を一つに纏めて伸ばしたり、ぺたぺたと叩いたり。時折聴こえる、彼の小さな笑い声。きっと私が目を閉じていることをいいことに、泡立った私の髪を逆立てたり平べったくさせたり、色んな形を作って遊んでいるのだろう。
彼の立て続けの悪戯に、いい加減私が頬を膨らませてへそを曲げ始めたので、彼はごめんごめんと笑いながら謝り、水栓のハンドルを捻った。シャワーの水が勢いを増し、私の顔の上から石鹸を洗い流したところで、私はようやく目を開けることができた。
すると案の定と言うべきか、開いた目と鼻の先にあったのは、彼の顔。彼は小さな声で「ごめん」と呟きつつ、そして私は心の中で、もう、と呟きつつ、結局今度も私は彼の唇を素直に受け入れた。
一応外から隠すために給水塔の柱と梁には防水カーテンが付いているのだが、私たちは一度もこのカーテンを使ったことがない。どうせ誰も来ない場所だ。カーテンは閉めない方が、開放感があっていい。
まあでも。
私たちの間に、新しい一員が加わったら、その時はカーテンを閉めながらシャワーを浴びることにしよう。以前の私のように、下着姿のままでお店の中を練り歩くような子に育ってしまってはいけないから。
シャワーで汗と汚れを洗い落とし、新しい服に着替えると、さっそく今日のお夕飯づくり。干していた洗濯物を取り込んで畳んでくれた彼はそのまま「手伝うよ」と言ってくれるが、山仕事で疲れているだろうからお夕飯まで休んでてと言って、炊事場には一人で立つ。
山芋は泥を綺麗に洗い流し、皮を剥き、定番の擦りおろしにのとろろに。
ウワバミソウは葉の部分を削ぎ落し、茎と根っこだけにすると、お湯で柔らかくなるまで湯がき、みじん切りにする。さらに2本の包丁を使い、まな板の上でみじん切り状態の茎と根っこをたたき、これもとろろ状にする。この2本の包丁でまな板をリズミカルに叩く瞬間が、たまらなく楽しい。とろろ状になったウワバミソウのたたきに、少量のお味噌と擦りおろしにんにくを混ぜて小鉢に移して出来上がり。
モロヘイヤの方は、逆に茎と根っこを切り落とし、葉っぱだけにすると、これもやはりお湯でさっと湯がいてみじん切りにし、そしてやはり2本の包丁を使ってたたきにする。散々叩かれてとろろ状になったモロヘイヤ。こっちは醤油とみりん、そして擦りおろしのわさびで味付け。
ナスとカボチャは予定通り天ぷらにし、冷え冷えのトマトとキュウリは大雑把に切ってお皿の上に盛り付ける。
陽が傾き、少し風も出てきて、涼しくなってきた。
いつもの縁側で休んでいる彼のもとに、お夕飯を運ぶ。この季節は夕食も縁側で食べることが多い。おうちの中よりも涼しいし、生垣の隙間から水平線に沈む夕陽が見えるからだ。床の上に直接ランチョンマットを敷き、その上にお夕飯を並べていく。
お茶碗に盛られたご飯、お椀に注がれたお味噌汁、大皿に盛られた天ぷら、ガラス皿に盛られた冷野菜。そして小鉢に分けられたウワバミソウのたたき、モロヘイヤのたたき、山芋の擦りおろし。
縁側の床に胡坐をかいて座る彼は、ランチョンマットに並べられた小鉢を、興味深そうに覗き見る。
「なんだかネバネバ系のものが多いね」
当然の感想を口にする彼。
私はお盆で顔の下半分を隠しながら、おずおずと頷く。
「ネバネバ系のもの…、精力つく…、らしいから…」
「そっか。夏バテ予防だね」
肝心なところで察しが悪い彼に心底がっかりしてしまう私。お盆に隠れた私の頬が、赤く染まっていることなど知りもしないのだろう。
仕方なく私は縁側から立ち上がると、居間の中に入り、隣の部屋の襖を開ける。
居間の隣の部屋は、私たちの寝所。
その寝所に敷かれた、セミダブルの布団。
縁側から寝所に敷かれた布団を見る彼。
「へー。もう布団敷いてたんだ。今日は早めに……あっ…」
短い声を上げた彼。
ようやく私の意図を察したらしい。
「あ…、えっと…」
布団と、足もとの小鉢と、そして襖の前で膝頭を付き合わせながらもじもじと立っている私の顔とを交互に見比べる彼。
彼はランチョンマットの上に置かれた箸を手に取り、逸る声で言ってきた。
「すぐに、すぐに食べよ。急いで食べよ。早く食べよ」
私も赤く染まった顔でこくこくと2度短く頷くと、とてとてと縁側の彼のもとまで駆け寄り、彼の真向かいに足を崩して座る。
箸を手に取り。
「いただきます」
「いただきます」
どんなに急いでいたとしても、ぴったりと重なる彼と私の「いただきます」。
そして彼の心も私の心もサバトの夜に向かってぴったりと歩調を合わせながら、目の前の食事を急いで口の中に掻き込むのだった。