同時に複数のジャンボジェット機が到着したばかりの国際線ターミナル。到着ロビーでは入国審査ゲートの前で乗客たちが長い行列を作って順番が回ってくるのを待っている。
そんな乗客の列の横を、すたすたと歩く細身の男性が一人。短く纏められて黒髪、カーキ色のくたびれた背広、手には所々がほつれ気味の使い古されたブリーフケースと、一見冴えない風貌の男性。他の乗客たちと同じようにジャンボジェット機から降りたばかりの彼は、入国審査ゲートの前まで辿り着くと、背広の内ポケットから取り出した一枚のカードを警備員に見せる。順番待ちを無視して近づいてきた男性に身構えていた警備員は、カードを見た瞬間たちまちすっと背筋を伸ばし、そして男性に向けて頭を下げた。男性は目立っちゃ困るからとばかりに警備員に顔を上げるように言う。それでも警備員は男性に向けて小刻みに会釈を繰り返しながら、入国審査ゲートの端っこに男性を案内し、厳重に施錠されているドアを開けて男性を通した。
入国審査を素通りした男性は空港のエントランスを抜け、空港ターミナルを出た途端、この国の夏特有の湿気を帯びた熱気に煽られ、思わず顔を顰める。見れば目当てのバスがロータリーに停まっていたので、すぐさまバスの中に駆け込んだ。ヒンヤリとしたエアコンの冷気を期待していたが、生憎このバスは省エネ運行中らしく、窓は全て開け放たれ、天井にぶら下がっている古い扇風機がしゃかしゃかと動いているのみ。がっかりする彼は背広の上着を脱ぎ、絞めていたネクタイを外し、ワイシャツの第一ボタンも外して、せめてもの涼を取る。バスが走り始めれば窓の外から風が流れ込み、バスの中は一気に涼しくなった。
歳を重ねるにつれ母国を離れる時間が多くなってきた。今回の帰国も久しぶりの事で、しかも次の赴任先に向かう前にちょっと立ち寄っただけだ。明日には、またこの国を発たなくてはならない。本当ならば色々と訪れたい場所があるのだが、その時間を取れそうにないのが口惜しい。
窓の外に見える街の風景。訪れる度に数を増やし、背を高くしていく高層ビル群たち。”世界の再創世の日”からすでに多くの歳月が経過したが、少なくともこの窓から見える範囲では、この国の復興につてはすでにセカンドインパクト以前の水準まで達しているらしい。
あの村はどうだなっているだろう。以前は定期的に訪れていたあの村の跡地。彼の再出発の地となった場所。忙しさにかまけて、もう久しく行けてない。
あの街はどうだろう。父と母のお墓がある街。そして。
そしてあの2人と出会えるかもしれないあの街。
きっとまたすぐに会えるだろうと思っていたのに、もうずっと会えてない。冬のあの日に偶然ばったり会って、ピアノを囲んで小さな音楽会をした日から、ずっとご無沙汰。
ああ、こんなことになるんだったら、やっぱり連絡先なり、彼らの家までの地図なりを貰っておくんだった。偶然というものにいつまでも頼ってちゃダメだった。
ああ、あの2人に会いたいな。
蒼銀色の髪の彼女と、白銀色の髪の彼と。
『はい! 本日のリポートはこちら!
〇△村の道の駅からお送りいたしております!
何の変哲もない道の駅ですが、ご覧ください!
このお客さんの列!』
バスの運転席の後ろには客席に向けた大きな液晶ディスプレイがあり、テレビ番組の映像が流されている。女性リポーターが、どこかの田舎にある商業施設の取材に訪れているらしい。
『正に奇跡の道の駅。
奇跡のお野菜。
我々は道の駅職員への直撃インタビューにも成功しました。
ご覧ください』
映像が切り替わり、テレビに映し出される一人の女性。
突き付けられたマイクの前に、ぼんやりと突っ立っている。
『大変な盛況ぶりですが率直な感想をどうぞ』
『……』
『こちらのお野菜にはどんな秘密があるんでしょうか。ご存知ですか?』
『……』
『あなたもお野菜を食べて何か幸運が恵まれましたでしょうか?』
『……』
『これからいらっしゃるお客さんへ何か一言どうぞ』
『……』
『以上、あまりの盛況ぶりに言葉を失っている職員さんでした』
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
突然、客席の方から大声が聴こえたものだから、運転手は慌ててブレーキを踏んでしまい、座席から立ち上がっていた男性はバスの急制動に前につんのめり、前の座席のバックシートで鼻を打つ羽目になる。
* * * * *
渚カヲルが、彼の伴侶のパート先だった村の農産物直売所兼道の駅に寄ると、たちまち道の駅の職員のおばちゃんたちに囲まれてしまった。
おばちゃんたちは無駄にカヲルの腕や肩にペタペタと触りながら、カヲルの伴侶の様子を訊ねてくる。
「ええ、順調です」
おばちゃんたちの迫力ある質問攻勢にはにかみながら応じるカヲル。伴侶がこの道の駅を辞めてから半年余り。みんな、身重の彼女のことを心配してくれているらしい。
おばちゃんの一人が言う。
「ほんとは顔を出して色々してあげたいんだけどねぇ。カヲルちゃんのおうちに行くまでのあの坂を上る自信、うちにはないわぁ」
カヲルとその伴侶が住まう村はずれの高台にある農園。辿り着くまでにはくねくねと曲がりくねった狭くて急峻な坂道を何キロメートルも上がらなくてはならない。陥没だらけのアスファルトがやがて砂利道になり、泥道になるあの悪路を、カヲルとその伴侶以外の者が使うことはほぼなかった。
カヲルが伴侶の元職場に訪れたのは、元仕事仲間たちに伴侶の近況報告をするためだけではなく、伴侶から頼まれていたこの村の農家が作っている味噌や蜂蜜などを買い求めにやってきたのだが、いつの間にか彼の手は大きな段ボール箱を持たされ、その段ボール箱の中には「レイちゃんに食べさせてやって」とおばちゃんたちの手によって次から次へと村の特産品が放り込まれていくのだった。
駐輪場に停めていた原付バイクの荷台に段ボール箱を縛り付けていたら。
「そういやカヲルちゃん」
わざわざ駐輪場まで見送りに出てくるおばちゃん集団の一人が、カヲルのお尻をペタペタと触りながら声を掛けてきた。カヲルはおばちゃんの手をスマートに避けながら「なんです?」と訊ねる。
「あんたたち。ちょっと気を付けた方がいいかもよ」
「はぁ…。なるべくレイには負担のないように暮らしてもらってるつもりだけど」
「カヲルちゃんがレイちゃんを大切にしてるのは話聴いてるだけで十分に分かるよ。そーゆーことじゃなくて。最近、村に変な人が来たんだけど、カヲルちゃん、何か心当たりある?」
「変な人?」
「そうそう。その人、どうもカヲルちゃんとレイちゃん探してるっぽいのよ」
「ああ、あの男ねぇ」
「え? あんたも会ったの?」
「あたしが田んぼの草刈りしてたら声掛けられたんだけどさ。この辺りに若くてやたらと白い男女が住んでないか、って。まっさきにレイちゃんとカヲルちゃんが思い浮かんだだけどさ。見るからに怪しい男だったからあたし、すっとぼけちゃったよ」
「あれじゃないかい? 去年ここの野菜がやたらめったら話題になっちゃった時さ。レイちゃんテレビに映っちゃったでしょ。あのあと野菜騒動が落ち着いてからも「あの美人は誰だ」みたいな感じで、エスエヌエス? ってやつ? にカクサン? されて、暫くの間カメラ小僧どもが村ん中うろついてたじゃないか」
「でもうちの倅が言うには、あの後ネット中にばら撒かれたレイちゃんの写真。なんでか全部削除されてたって話だよ。それ以来、ぱったりカメラ小僧どもも来なくなったし」
「それに今度の男はレイちゃんだけじゃないんだ。どうもカヲルちゃんのことも探してるっぽいんだよねぇ」
「そりゃこんなにいい男だよ。世間が放っておくわけないじゃないか」
そう言いながら腕に絡みついてくるおばちゃん。他のおばちゃんたちもきゃーきゃー言いながらカヲルの腕に胴に抱き着いてくる渦中で、カヲルははははと乾いた笑い声をあげることしかできない。
「まあとにかくだよ。カヲルちゃんもレイちゃんもあたしたちのアイドルなんだから」
「そうそう。不審者はあたしたちの手でやっつけてやろうじゃないか」
「よっしゃ。じゃあ、あたしは村の駐在所と青年団によくゆっとくよ。その不審者? の背格好、よく教えてくれでないかい?」
「うん、それがいいね。カヲルちゃんもレイちゃんも、あたしたちの手で守ってやんなきゃね」
「うちの旦那にもゆっとこうかねぇ。ほら、うちの旦那、猟友会だから」
「用心しとくことにこしたことないからね」
「んじゃ言うよ。30半ばくらいの見るからに冴えない風貌の男でさぁ。なんだかひょろっこくて頼りな~い感じなんよ。でもまあ、見ようによっちゃ男前の部類に入るのかなぁ。まあ、あたしの好みじゃないけどねぇ」
「あんたの好みなんざ誰も訊いちゃいないんだよ」
「はっはっはっは…」
勝手に話題を振って勝手に話題を盛り上げて勝手に話題を終えて話題の中心のはずの自分を置いて去っていくおばちゃん集団のたくましい背中を、瞬きしながら見送るカヲル。
「さっ、帰るか」
ヘルメットを被りながら原付バイクに跨り、差し込み口に挿しっぱなしだったカギを捻る。心の中で、自分の伴侶も将来ああなるのだろうか、などとちらっと思いながら、原付きバイクを走らせた。
* * * * *
まるであのおばちゃんたちの背中のように、太く逞しく育った我が家の稲。今年も大きな嵐や害虫の被害を受けることなく、無事に収穫の時期を迎えることができた。
一束一束を鋸鎌で刈り取っていく作業。一家2人分のお米さえ収穫できたらよいので、3つある小さな田んぼの稲刈りは、1人でやっても半日もあれば終えることができる。一度に三束を刈り取ったらそれらを1つにまとめて藁で結わえ、田んぼの半分を刈り取った時点で立てておいた稲架の足もとに向かって投げていく。
この作業。毎年一番の楽しみにしているのがカヲルの伴侶なのだが、作業時間の半分は中腰の姿勢を強いられるため、今の伴侶にはとても任せられるものではない。自宅待機を命じた伴侶は今頃家で拗ねていることだろうが、ここは心を鬼にして一人で全部を刈り取ってしまう。
全ての稲を刈り終えて、投げておいた稲の束を稲架に干していたら、どこからか悲鳴のような声が聴こえて、カヲルは作業の手を止めた。まさか伴侶の身に何かあったのではと一瞬頭を過ったが、悲鳴は我が家とは逆の方向から聴こえてくる。
田んぼの前を通る未舗装の道。道の反対側はすぐに急峻な斜面になっていて、数百メートル下れば砂浜があり、そして海が広がる。道を右に行けば山奥の林道へと繋がり、そして左に行けば森の中へと入って高台の麓の村へと至る。
悲鳴の発生源を求めてきょろきょろと周囲を見渡していたら、その悲鳴が段々とこちら側に近付いてくるのが分かった。
悲鳴の発生源は、未舗装の道の左側から。村へと下る道。森の中へと消える道。森の暗がりの中の道の奥を、凝視していたら。
道の奥から、一人の男性がひょろひょろと危なっかしい足取りで走ってきていた。
あの坂道を。
原付バイクで上がるのも一苦労なあの道を、走ってきたのだろうか。身に着けた背広の上着は大きくはだけ、その下に着るワイシャツも第3ボタンまで外し、何度もこけたのかズボンの膝小僧は泥だらけになっている。
暗い暗い森の中を抜け、ようやく明るい場所に出てきた。
眼前に広がるのは、午後の太陽の光を受けて黄金色に輝く海。
光溢れるその光景に男性はほっとしたのか、立ち止まり、その場にしなしなと崩れ落ちた。
ぜーはーと肩で息をしている男性を、遠くから訝し気に見つめるカヲル。
地面を向いていた男性の顔がすっと上がった。
カヲルと目が合う。
「み、み、み…」
何かを言おうとして、喉がカラカラだったのか、途端に咳き込んでしまう男性。
2回ほど深呼吸して、口の中に残った最後の唾液を呑み込んで。
そして改めて。
「見つけたああああああああ!!!」
男性はカヲルを指差しながら叫んだ。
「え? し、シンジさん!?」
慌てて駆け出すカヲル。
碇シンジも立ち上がり、カヲルのもとに駆け寄ろうとして、しかし笑った膝はすぐに彼のお尻を地面に引き摺り落としてしまう。
まともに立ち上がることもできないシンジのもとに駆け寄ったカヲル。
「シンジさん、久しぶ…じゃなかった、何があったんです? これまた酷い有様だ」
側に跪いたカヲルに、シンジはまるで縋りつくようにカヲルの二の腕を握った。息も絶え絶えに彼は言う。
「ど、どうなってんの、この村…! バイオハザっちゃったの…! 犬鳴村かなんかなの…! 人を見るなり、いきなりみんな鎌や鉈持って僕のこと、追いかけ回してきたんだけど…! 何人かは鉄砲持ってるしさ!」
「え? あ、あ~…。不審者って、シンジさんのことだったんですね…」
「へ? 不審者って?」
「え、えーと…」
カヲルがどう説明しようか思案に暮れていると。
「カヲル~…」
遠くから女性の声。
「お茶にしましょう…」
まるで涼やかな風のような女性の声。
カヲルもシンジも、声がする方へと視線を向ける。
田んぼの脇を通るなだらかな坂道。その道を、一人の女性が下りてくる。右に左にと小さく揺れながら、どこか危なっかしい足取りで。
そんな女性の姿を認め、村人たちに襲われた恐怖で引き攣っていたシンジの顔がぱぁっと華やいだ。右手を上げ、女性に向かって手を振ろうとして。
「やあ、綾な……」
シンジの顔が、再び引き攣った。
「ああああああああああああああああああああああ!!!」
すぐ側からの叫び声に、思わずビクっとしてしまったカヲル。
シンジは叫び続ける。
「やあああああああああああああああああああああ!!!」
ようやくカヲル以外の存在に気付いた女性。
「なあああああああああああああああああああああ!!!」
その叫び声に、女性も驚いてしまったのだろう。
「みいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!」
女性も肩を震わせて、その場で止まってしまった。
「のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
シンジの顔は相変わらず引き攣ったまま。
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!」
口を限界まで開け、叫び続けている。
「なあああああああああああああああああああああ!!!」
息継ぎもせずに叫び続けるものだから。
「かあああああああああああああああああああああ!!!」
酸欠状態となり青くなってしくシンジの顔。
「があああああああああああああああああああああ!!!」
そこまで叫んで、ついにシンジは白目を剥き、背中から地面に倒れ込んでしまった。
「シンジさん! シンジさん!」
泡を吹いて気絶しているシンジの肩を揺さぶるカヲル。
その後ろでは、慌てた様子の綾波レイが、大きく膨らんだお腹をえっさほいさと両手で抱えながら、2人のもとへと駆け寄ろうとしている。
涼やかな風の流れを感じ、眠りの底に沈んでいた意識は微睡みの水面へ。
うっすらと広がっていく視界。
どこかの縁側だろうか。板張りの床の上に寝かされているようだ。庭を覆うように立つ大きな金木犀の枝の隙間から差す柔らかな陽射し。頭の下には折り畳んだ座布団が枕代わりに敷かれている。
だんだんとはっきりとしてくる視界。
側に、女性が座っている。縁側の床に、女性が足を崩して座っている。
見慣れた空色の髪。白い肌。紅玉の瞳。
でも、髪の長さは見慣れたものとは違う。
あのマイナス宇宙で。
今生の別れと思って対峙した彼女。
14年の歳月で伸びに伸びてしまった彼女の髪。あの時の長さまではいかないけれど、あの時を思い起こさせるような、背中まで伸びた癖のある彼女の髪。
「やあ、綾波…」
曖昧な意識のまま、彼女の名前を呼んでみた。
「なあに…?」
まるで今の自分の体を包み込んでいる涼やかな風のような、彼女の声音。どうやらこの風の正体は、彼女が扇いでくれている団扇によるものらしい。
「また僕のこと…、待っていたの…?」
彼女はこくりと小さく頷く。
それを見て、嬉しさ半分、悲しさ半分の気持ちが心の中に広がっていく。
「ダメだよ…。君は…、君の場所を…、見つけなきゃ…」
ぼんやりとした視界の向こうで、彼女がくすりと笑ったような気がした。
「大丈夫…」
すぐ側にいるはずの彼女の声が、何故か遠くに聴こえる。
「え…?」
「私は…」
彼女は一旦そこで言葉を切り、ふるふると首を横に振って。
「私も…、彼も…、大切な居場所を…、見つけたわ…」
「カヲル…」
レイに呼ばれ、作業着から作務衣に着替えたカヲルが縁側に出てきた。その手に持っていたガラスカップを乗せたソーサーを、縁側の床で横になっているシンジの前に置く。
「大丈夫ですか?」
「え? あ…」
寝ぼけまなこでレイとカヲルの顔を交互に見るシンジ。
「レイが淹れてくれたハーブティーです。寝起きにはこれが一番ですよ」
シンジは緩慢な動作で体を起こすと、口の端からだらいなく流れていた涎の跡を手で拭い、床に置かれたカップを見つめる。
もう一度カヲルを見て、そしてこちらに向けて団扇を仰いでくれているレイを見て。
少し顔を赤くし、頭をぽりぽりと掻きながら、小さく「いただきます」と呟き、手に取ったカップを口に近付ける。
一口飲んで。
「うはっ。スース―する」
顔を顰めるシンジに、レイもカヲルもくすりと笑った。