くすんだ窓ガラスの向こうに見える風景。
ぽつぽつと白い雲が浮かぶ青空。森林が茂る遠くの山々。空を舞う鳥たち。
目線を下にやると、道路を行き交う車や自転車。林立する集合団地。高架を走るモノレール。豊かな緑に囲まれた公園では子供たちがボールを追いかけて走り回っている。
窓ガラス越しの風景を見つめる赤い双眸。
赤い瞳の持ち主である、空色髪の少女。ベッドの上で布団から顔だけを出した少女は、いかにも起き抜けといった気だるげな表情で、窓の外をぼんやりと眺めている。
目を醒ました頃は空のてっぺんにあった太陽は少しずつ傾いていき、少女が居る部屋に強烈な西日が差し込み始めた。少女は天からの容赦ない攻撃から身を守るべく、カーテンを閉める。
薄闇に包まれる室内。目を醒ましてからというもの、結局一度も布団から出ることのなかった少女は、布団を頭から被り直した。1分もしない内に、布団の中からはスヤスヤと寝息が漏れ始める。
* * * * *
太陽が沈み、室内は暗闇へ。カーテンの隙間からは、おそらく月だろう。淡く青白い光が差し込み、布団がこんもりと盛り上がったベッドの上を静かに照らしている。その淡い光もやがて消え、再びカーテンの隙間から太陽の陽射しが差し込み始めた。窓の外では、新しい一日が始まりつつあるらしい。
カーテンの隙間から差し込む陽射しは、ベッドの上を左から右へと移動していく。そして再び室内は暗闇へ。やはりカーテンの隙間からは淡い光が差し込み、ベッドの上を静かに照らす。
強烈な陽射しと淡い月の光と。
カーテンの隙間から漏れる光が、交互にベッドの上を照らして。
それを何度か繰り返して。
次第に月の光が弱まっていき、やがて陽が沈めば部屋の中は真っ暗闇になって。
そして何度か暗闇と陽射しとが交互に入れ替わって、再び陽射しと入れ違いに月の淡い光が部屋を照らすようになって。
カーテンの隙間から差し込む淡く青白い光が照らす室内。
ベッド上に変化。
こんもりと盛り上がった布団がもぞもぞと動く。
布団の端から、すらりとした真っ白な足が覗いた。1本の足は布団から出るとゆっくりと床に着地。続けてもう1本の、やはりすらりとした真っ白な足が現れ、床へと降り立つ。
布団から伸びる2本の足。
しかしそこからの動きはなく、布団の端からにょきっと伸びる2本の素足という奇妙な光景が暫く続いた。
布団の中から、く~、という気の抜けたような音。
その音が合図となって、布団の端からにょきっと伸びた真っ白な2本の足に変化。
伸びていた膝が少しずつ曲がっていき、その膝に引っ張られるように布団の端から真っ白な2本の太ももが現れ、太ももの持ち主が履く白のショーツが現れ、捲れ上がったコバルト色のスカートが現れ、白いブラウスが現れ、足と同様の真っ白な2本の腕が現れ、やがて顔が現れ、空色の髪が現れ。
布団の端からずるずると滑り落ちてきたその人物は、ベッドの側でぺたんと尻餅をつく。
瞼は半開き。その瞼の隙間ら覗く目は白目気味。眉間には皺を寄せ、口をだらしなく半開きにさせ。
いかにも寝起きといった表情。
床の上でいわゆる女の子座りをする少女。
しかしせっかく布団という堕落の国から亡命してきたのに、少女は床に座ったまま、こくりこくりと舟を漕ぎ始めた。
少女の頭が下がっては上がり、下がっては上がり。
少女のお腹から、く~、という気の抜けたような音がする。
そして下がっては上がってを繰り返していた少女の頭が、がくんと落ちる。
少女は不機嫌そうに、う~と唸った。
仕方なしにといった様子で、ゆっくりと顔を上げる。
ぼんやりと、柔らかな月の光が照らす室内を見渡した。
側のベッドに右手を乗せ、その右手に体重を掛ける。少しずつ腰を上げていく。床からお尻が浮いたら膝立ちをし、右膝を立て、次に左膝を立て、少しずつ膝を伸ばしてく。
2本の足で立ち上がった少女。久しぶりの立位に、少し両膝が震えている。久しぶりに高い位置に上った頭に血が行き渡らず、少しくらくらしてしまう。
立位に体を馴染ませて。
ゆっくりと歩き始める。
お腹を、く~と鳴らしながら。
ベッドから少し離れた場所に置かれた冷蔵庫の前に立つ。
扉を開け、ドアポケットに入った500ml紙パックの牛乳を取り出す。紙パックの口を開け、その口に自身の口を付けて、紙パックを傾ける。
紙パックの中身を一口分、口に含んで。
途端に少女は咳き込み、慌ててシンクへと向かう。
排水口に向かって、口に含んだものを全て吐き出した。錆びが浮くシンクの上に、ボタボタと黄色い粘着状の塊が広がる。
あらかた口の中のものを吐き出した少女。涙目になりながら紙パックの口を広げ、中を覗き込む。そして鼻を近づけ、くんくんと臭いを嗅いでみる。少女の顔が、まるで梅干しのようにシワクチャになってしまった。
シンクの排水口の上で、紙パックをひっくり返してみた。
本来ならドバドバと白い液体が流れてくるはずの紙パックの口からは、くすんだ黄色い粘着状の塊がボタボタと零れ落ちていった。
紙パックの中身を粗方出し終え、改めて紙パックを見つめる。紙パックの先端には、「消費期限 2015.××.〇〇」と表記されている。
少女は紙パックを無造作にシンクの中に捨てる。
改めて冷蔵庫の前に立ち、冷蔵庫の上に乗せられた未開封のペットボトルの1本を手に取る。キャップを開け、口を咥えようとして。思いとどまり、ペットボトルの口に鼻を近づけ、臭いを嗅いでみる。
ボトルの中身はミネラルウォーター。嗅いでみる限り、おかしな臭いはしない。
今度こそペットボトルの口を咥え、中身を口腔内へと流し込む。
両頬を膨らませ、ブクブクと口の中を濯ぐ。
シンクへと向かい、口に含んだ水をシンクの中へと吐き出す。
再びペットボトルの口を咥え、中身を口腔内へ。今度は口の中を濯がず、控えめな喉仏を上下させて咽頭の奥へと流し込む。
ペットボトルを口から離し、ふう、と溜息を吐いた。
ふと、視線はシンクの隣のガスコンロに向かう。
ガスコンロの上には、大きな寸胴鍋。
ベッドに椅子、冷蔵庫、チェスト。必要最低限のものしか置かれていない殺風景な部屋の中にあって、不釣り合いな、異様な存在感を示す寸胴鍋。
少女はコンロの前に立つ。
寸胴鍋の丸い蓋を、そっと開けてみた。
そして少女はすぐに蓋を閉めた。
決して見てはならないもの。まるでこの世の終わりでも見てしまったかのような表情の少女。
逃げるように、コンロの前から立ち去る。
冷蔵庫の上を見つめる。
埃を被ったビーカーに薬袋。薬袋の端からは錠剤やカプセルが収められた包装シートが覗いている。
その薬袋の隣には、ゼリー食のパウチが並んでいる。
そのパウチの1個を手に取る。パウチのあちこちを確認するが、消費期限の表示がない。キャップを開け、臭いを嗅いでみる。少なくとも変な臭いはしない。
思い切ってパウチの口を咥え、中身をぎゅっと絞り出す。
口の中にゼリーが流れ込む。舌の上でゼリーを転がしてみて、少女の顔がほっと安心したように和らいだ。
チューチューとパウチの中身を啜って。
空になったパウチをゴミ袋の中へと投げ込む。
お腹の中が満たされた少女は、大きな欠伸をする。
足は自然とベッドへ。
寝具を整えようと掛布団をはぎ取ると、その掛布団の下から奇妙な塊が現れた。
少女はその塊に手を伸ばす。
それは丸めた藁に群青色の汚れた布を巻き付けただけの、粗末な人形。巻かれた布には、まるで殴り書きされたみたいに乱暴な字で、「ツバメ」と書かれている。
藁人形を、不思議そうに見つめる少女。
なぜこれがベッドの中にあったのか。よく分からないまま、しかし体は不思議と勝手に動き、藁人形を胸に寄せ、ぎゅっと抱きしめる。
藁の柔らかな感触。
その感触を胸と頬で確かめながら、少女は布団の中へと入った。
藁人形を抱き締めながら眠りにつく少女。
カーテンの向こう側では、太陽と月とが何度も交互に入れ替わる。
お腹がく~と鳴れば布団から這い出てパウチのゼリー食を口にし。
喉が渇けばペットボトルの水で潤し。
そして布団に入り。
ベッドと冷蔵庫の間を行き来するだけ。
その2メートルだけで全てが成り立っている生活。
* * * * *
その日はまだお日様が高い位置にある時間帯に目を醒ました。
布団から這い出て、何時ものように冷蔵庫の上のペットボトルの水を飲もうとして。
少女は、スン、スン、と強めに鼻を2回ほど鳴らした。
瞬きを2回ほどする。
そしてスン、スン、と鼻を鳴らす。
眉根を顰めた。
スン、スンと鼻を鳴らしながら、何かを探し求めるように方々に視線をやる少女。
その視線が、左腕に抱き締めていた藁人形へと落ちる。
少女は藁人形に鼻を近づける。
クン、クン、と臭いを嗅ぐ。
藁人形から顔を離し、首を傾げる少女。再びスン、スン、と鼻を鳴らす。
何かに気付いたように目を丸くする少女。
今度はその小さな鼻を、自分の二の腕に近づけてみた。
クン、クン、と臭いを嗅いで。
途端に顔中を顰めてしまう少女であった。
着ていたブラウス、吊りスカートを脱衣所で脱ぎ捨てると、アコーディオンカーテンを開ける。
素っ裸の状態でシャワーの前に立った。
栓を捻る。
暫く待ってみて。
少女は首を傾げて高い位置にあるシャワーヘッドを睨んだ。
栓を捻ったのに、シャワーはうんともすんとも言わない。
いつもなら最初に冷たい水が噴き出して、徐々に温かくなって、そしてだんだん水圧が下がっていくはずのシャワー。
少女は栓を全開にしてみる。
やはりシャワーはうんともすんとも言わない。
シャワーヘッドの幾つもの小さな穴は、一滴の水も落とすことなく乾き切っている。
一度栓を閉じてみる。
そして全開にしてみる。
栓を閉じる。
全開にする。
同じことを繰り返し、しかしシャワーはやっぱりうんともすんとも言わない。
どん! どん! どん!
お湯を降らすという、与えられた唯一の役割を果たそうとしないシャワーを、ぼんやりと見上げていた少女。その少女に耳に、その大きな音は突然飛び込んできた。
どん! どん! どん!
その音は玄関の方から聴こえる。
それはドアを叩く音。
何者かの来訪を告げる音。
少女はシャワーを諦め、シャワー室を出て玄関の方へと向かう。
玄関からは相変わらずドアを叩く音。
ドアノブを捻り、ドアを開ける。
ドアの向こうには陽光に溢れた外界が広がり、久しぶりに浴びる強烈な自然光に少女は思わず目を細めた。
ドアを開くとそこは薄汚れた廊下。
その廊下には、2人の中年男性が立っていた。
ドアを叩いていたくせに、そのドアが開いたことにびっくりしているらしい。
「ほんとに居た…。半月前に確認した時は、誰も居なかったのに…」
2人組の片割れが呟く。
作業服にヘルメットという出で立ちの2人の中年男性を、少女はぼんやりと見つめる。
ドアの隙間からひょっこりと顔を出した少女に、2人組の片割れが胸にぶら下げた名札を見せた。
「わたくし、第3新東京市都市整備部住宅課の者です。近くの住民から通報があって来ました」
男性が示した名札を、少女は目をぱちくりとさせて見つめる。
「この市営団地は近日中に取り壊されます。もうずっと前から告知してますよね。すでに立ち退きの期限は過ぎてますよ」
高圧的な物言いの男性。少女は目をぱちくりとさせるしかない。
「それにこのE棟はもう何年も前から全室空き家のはずです。あなた、不法占拠者ですよね」
男性にそう言われ、少女は視線をドアの横の表札へと向けた。
しかし壁に貼られているはずの表札がなく、剥ぎ取られたような四角い跡があるだけ。
「住むところがなくて困っているんでしょうが、でも不法占拠していい理由にはなりませんよ。まずは市の窓口に相談してくれないと。ってちょっとあなた。聴いてます?」
表札が剥ぎ取られた跡を見つめていた少女。男性に言われ、視線を男性へと戻す。
「一応、お名前を伺っておきましょう。私の方から相談窓口に連絡しておきますから。必ず今日中に相談に行ってくださいね」
そう言って、男性はポケットからメモ用紙とペンを取り出す。
メモ用紙の白紙の部分を求めてページを捲る男性。その様子を、ぼんやりと見つめる少女。
「名前は?」
男性は白紙のページをボールペンの先端で小突きながら訊ねる。
しかし、少女から返事はない。
「名前を教えていただけませんか?」
催促する男性。
彼が務める役所からここまで車で20分。忙しい業務の合間を縫って、わざわざ訪問してきたのだ。さっさと事を済ませて、職場に戻って本来の業務を済ませ、定時には帰りたい。
しかし、少女からの返事はない。
イライラしてきた男性はメモ用紙から視線を上げ、少女を睨んだ。
「ちょっといい加減に…」
男性の声が途中で止まった。
ドアの隙間からひょっこりと顔を出した少女。
その少女の両瞼が、忙しなく開閉を繰り返していた。
瞼の向こうの真っ赤な瞳が、あちこちを彷徨っている。
どこか普通ではない様子の少女。
「大丈夫ですか?」
さすがに心配になり、男性は少女に声を掛ける。
「具合でも悪いんですか?」
少女は返事をしない。
相変わらず小刻みに瞬きを繰り返し、おまけにドアノブを握った手が戦慄き、カチャカチャと耳障りな音を立てている。
「おい…」
もう一人の男性が、少女に声を掛けていた男性の袖を引っ張った。
「…なんだかヤバいぞ…。あまり…関わらない方がいいんじゃないか…」
小声でそう呟く。
同僚にそう言われ、男性は改めて少女を見た。
痩せた頬。不健康そうな白い肌。気味の悪い色の髪。病人のような赤い瞳。
ドアに隠れて見えないが、腕には注射針の痕が幾つもあるんじゃないかと疑いたくなるような挙動と風貌だ。ちなみに男性2人はドアから顔だけを出した少女が、首から下がすっぽんぽんであることまでは知らない。
「と、とにかく明日また来ますからその時までに退去をお願いします。その時は警察も連れてきますので。もしまだ不法占拠を続けているようであれば、強制的に立ち退きを迫まることになりますから、どうぞよろしく」
そう言い残し、男性はドアから離れ、まるで逃げるように階段へと向かい始めた。
同僚もその後を追う。
「…おい。今の…、どう見ても中学生か高校生だよな…?」
「ああ…。一応、児童相談所にも連絡しておくか…」
2人の男性が立ち去り、少女はドアを勢いよく閉めると転がるように室内へと戻った。
冷蔵庫に駆け寄り、その上に置かれた薬袋を手に取る。
小さな紙の袋。埃を被ってしおれた紙の袋。その袋に書かれた表記。
何かの葉っぱを半分に切ったようなロゴ。『NERV』の文字。その下。
〇〇〇〇様。
この薬を処方された患者の名前が書いてある箇所がくすんでしまっていて、文字を読み取ることができない。
少女は薬袋を投げ捨てると、部屋の隅に投げられていた学生鞄を手に取る。
蓋を開けてみた。
中身は空っぽ。
教科書やノート。学生手帳のような類もない。
今度は脱衣所へと駆け込んだ。脱衣所の床にぞんざいに脱ぎ捨てられた学生服。その服の、隅々までを調べる。
ない。
どこにもない。
ゆっくりと、服を床へと落とす。
洗面台の前に立った。
薄汚れた鏡。
その中に映る、一人の少女。
空色の髪。
真白い肌。
真紅の瞳。
少女は両手を頬に、額に、髪に。
自分の顔の形を確かめるかのように、手を顔の上に這わせる。
「これは…私…」
自分の顔の形を確かめ終えた手を、今度は自分の顔を映し出す鏡へと伸ばす。
鏡面に触れる手。
手に伝わる冷たい感触。
冷たい鏡面に映る、一人の少女。
「あなた…、誰…?」
鏡から手を離し、再びその手で、自分の顎に触れる。
「私は…、誰…?」
* * * * *
持ち出せるものは持ち出しておこうと、学生鞄の中になるべく多くの荷物を詰め込もうと思ったが、ところが何を持ち出せばよいのか分からない。そもそもこの部屋には、持ち出すほどの荷物もない。
とりあえず数組の下着と、冷蔵庫の上にある数本のペットボトルとゼリー食だけを詰め込んだ。
右手に学生鞄を持って。
左手に藁人形を抱えて。
玄関に立ち、踵が踏み潰された白のスニーカーを履く。
振り返り、室内を見渡した。
必要最低限のものしか置かれていない、殺風景な部屋。
「私の部屋…」
自分が纏う、ブラウスと吊りスカート。
「私の服…」
今履いたばかりのスニーカー。
「私の靴…」
右手に持った学生鞄。
「私の鞄…」
左手に抱えた藁人形を見つめる。
「あなたは…誰…?」
藁人形は何も答えない。
ドアを見つめる。
「私は…、誰…?」
ドアは何も答えない。
ドアノブを捻り、ドアを開ける。
途端に、暴力的なまでの強烈な日差しが薄暗い部屋の中へと飛び込んできた。
少女はその光にまるで怯えたようにドアを閉めてしまい、一歩、二歩とドアから後ずさってしまう。
踵が上がり框に当たってしまい、その場に尻餅を付いてしまった。
痛むお尻を摩りながら後ろを振り返って。
薄暗い部屋を見渡して。
見渡す先に、自分に手を差し伸べてくれる存在は何もないことを確認して。
自分の背中を押してくれるものは何もないことを確認して。
目をぎゅっと瞑り、深く静かに鼻息を吐く。
ゆっくりと立ち上がった。
改めてドアノブを捻る。
錆びついた蝶つがいの音。
開いたドアの隙間から差し込む正午の強烈な日差し。
ゴミや剥がれた壁や天井のタイルが散乱した廊下。
少女の少しくすんだ白いスニーカーが、陽の光の下へと一歩踏み出す。