午後の太陽の陽射しが差し込む縁側で、ハッカの香り漂うハーブティーをちびちび啜る。
一方で、横目でちらちらと、隣に足を崩して座っている彼女。癖のある空色の髪を背中までの伸ばした綾波レイの、大きく膨らんだお腹を見ていたら。
「ちょっとおやつを調達してこよっか」
渚カヲルはレイと碇シンジの間を通って、縁側の下にある沓脱石に降りる。サンダルを履き、庭の端へと向かった。
カヲルの背中を視線で追うシンジ。カヲルの言った通り、レイが淹れたハッカ臭強めのハーブティーは寝起きにはちょうどよく、寝ぼけていた頭とぼんやりとしていた視界がはっきりとしてきた。
地面に青々と広がる芝生。庭を囲むように植えられた生垣。家と庭を陽の光から守るように天に伸びる樹木。その隙間から見える、黄金色に染まった海。
「素敵なところだな…」
人里から離れた海辺の高台にぽつんとある一軒家。まるで御伽噺に出てくる桃源郷のようだ。
シンジの視線の先では、カヲルが斜めに傾いて伸びるブナの木の前に立っている。カヲルはサンダルをその場に脱ぎ捨てると、ブナの木をひょいひょいと登り始めた。
その様子を見ていたシンジは呆気に取られたように口を半開きにし、隣のレイの顔を見る。
「か、カヲルくんが…」
レイは小首を傾げている。
「あのカヲルくんが…、木登りしてるよ…」
それがどうしたの? とばかりにレイは小首を傾げている。
そんなシンジを他所に、カヲルはブナの木の半分まで登ると、横に伸びる太い枝に跨って、縁側に座るレイを手招きした。
呼ばれたレイは大きなお腹を重そうにしながらお尻を引き摺って床の上を移動し、縁側の淵まで行くと、沓脱石の上にあるサンダルを履く。
「よっこいせ…」
小さな掛け声と共に立ち上がるレイの背中を、目を丸くして見つめるシンジである。
レイはカヲルが居るブナの木の下まで行くと、着ていた厚手のキャミワンピースの裾の端と端を両手で摘まんで持ち上げた。ワンピースの下に着ているだぼだぼの白のロングスリーブシャツは、おそらくカヲルのものだろう。スカートの裾が上がったことで露わになるレイの真っ白な素足。脹脛、膝の裏、太腿まで丸見えになり、あ、その無防備さは相変わらずなんだ、と妙に安心してしまうシンジである。
「行くよ~」
その掛け声と共に、カヲルはブナの木の下でスカートの裾を摘み上げて広げて待っているレイに向けて、ブナの木に巻き付いた蔓から捥いだアケビを、次々と落としていく。レイは右に左に軽くステップを踏みながら、空から降ってくるアケビをスカートで受け止めていく。
シンジが居る縁側まで戻ってきたレイは縁側の床に収穫したばかりのアケビを置くと、縁側の淵に腰を下ろした。そして「よっこいせ」の掛け声と共にまずは左足だけを縁側の上に乗せ、続けて「どっこいせ」の掛け声と共に右足も縁側の上に乗せる。お尻も両足も床に付いた状態で、そこから「よっこらせ」の掛け声と共に立ち上がろうとして。
いつの間にかブナの木から降りて縁側に戻ってきていたカヲルが、すぐにレイに手を差し伸べて、レイが立ち上がるのを助けた。
「あ、ああごめん…!」
身重の女性が目の前で苦労して動いているのを、ただぼんやりと見ているだけだった自分に気付き、慌ててレイに手を差し伸べようとしたシンジだが、すでに彼女は伴侶の手に支えられて立ち上がった後だった。
「こーゆーところだぞ、碇シンジ…」
一人打ちひしがれているシンジを他所に、カヲルは「スプーンを持ってくるよ」と言って、家の中に入ってしまう。そして残ったレイは縁側の端に置かれた木製のラウンジチェア(もちろん、カヲルお手製)の前まで行くと、それにお尻を向けて。
「どっこいしょ…」
の掛け声と共に、ラウンジチェアに腰を下ろす。
ラウンジチェアにその身を沈めながら、ふ~と長い息を吐いているレイを、ぼんやりと見つめているシンジの側に、台所からスプーンと種の吐き出し用の皿を持ってきたカヲルが立った。
「どうかしましたか?」
カヲルに声を掛けられ、シンジはぎこちない動きでカヲルを見上げる。
「あの綾波が…」
「はあ…」
「あの綾波が…、「どっこいしょ」…だって…」
「はあ…」
シンジの視線は、再びラウンジチェアに身を預けているレイへと向けられる。
「世界一かわいい「どっこいしょ」だよぉ~…」
目を潤ませているシンジにカヲルはちょっとだけ呆れたような顔をしつつ。
「そりゃレイが世界で一番かわいいのは知ってますけど」
瓜のような形をした紫色のアケビの実。食べ頃になれば実自らどうぞ食べて下さいと言わんばかりに縦にぱっくりと割れてくれる。あとはその中にスプーンを突っ込んで、中の果肉を口に運ぶだけだ。とは言え種が非常に多いので、口に運んでは種を吐き出し、口に運んでは種を吐き出しの繰り返しになるため、食べている間は自然と無口になってしまう。
「ごちそうさまでした。美味しかった」
初めて食べたアケビ。酸味がなく素朴な甘みでゼリーのような舌触りのアケビは、村人たちに追いかけ回されてヘトヘトになっている今のシンジの体によく合い、あっという間に2つの実を平らげてしまった。
「さて」
皿の上にスプーンを置いたシンジはカヲルの顔を見た。
「説明してもらいましょうか」
「何をです?」
「えっと…」
シンジは横目でちらりと、ラウンジチェアでアケビを食べているレイの、大きく膨らんだお腹を見る。
カヲルは眉を顰めた。
「何をどこから説明してほしいんですか?」
「あ、いや…、その…」
シンジは言い淀みながらも、とりあえず…。
「お腹の中の子の…、その…、お父様は…?」
「僕以外の誰が居ます?」
「ですよね~」
と言いつつ、シンジは両手で顔を覆った。
「いやさ~。だってさ~。久しぶりにさ~。君たちにさ~。会いたい思ってさ~。気軽にこの村にさ~。寄っただけなのにさ~。村人にはさ~。追いかけ回されてさ~。必死こいてさ~。逃げた先にさ~。君たちをさ~。やっとこさ見つけることが出来たのはさ~。良かったんだけどさ~。いきなりさ~。お腹をおっきくしたさ~。綾波とさ~。出くわしたもんでさ~。色々とさ~。心の整理がさ~。追い付かないわけよ~。僕のこの気持ち分かる~?」
「はぁ…」
わんわん喚いてるシンジを心配そうに見ている2人。
一頻り喚いたシンジは「はい! はい!」の掛け声と共に、両手で自分の頬を何度かパンパンと叩くと、2回ほど大きくうんうんと頷き、そして少し赤く腫れた顔に満面の笑みを浮かべてカヲルとレイの顔を交互に見つめた。
「おめでとう! 2人とも! もしかしたら僕が生きてきた中で、これが一番嬉しい出来事かもしれないよ!」
シンジからの手放しの祝福。あの森の小径で偶然出会って以来まだ4回しか会ってないのに何を大袈裟なと思ったが、同時に何故かこの人から祝われることが他の誰から祝われるよりも嬉しいと感じてしまうカヲルだった。レイもカヲルと同じ思いなのだろう。頬を赤らめて、恥ずかしそうに顔を俯かせている。
「綾波は大丈夫? 大変じゃない?」
シンジに問われ、レイは口許に緩やかな曲線を浮かべながらこくりと頷く。
「そっか。ま、側にこんな頼りになる人が居るんだから、何も心配いらないね」
シンジにそう言われ、レイは顔中に幸せの色を広がらせながら、こくりと頷く。そんなレイの顔が眩しくて見ていられなくなったシンジは、今度はカヲルに視線を向ける。
「予定日はいつなの?」
「え?」
一瞬きょとんとした表情を浮かべたカヲルはレイを見た。
「そう言えば予定日っていつだったかな?」
カヲルに問われ、小首を傾げるレイ。
「最後の生理が3月ごろ…だったから…。たぶん…、12月くらい…かな?」
カヲルはシンジに視線を戻し。
「だ、そうです」
「え?」
今度はシンジが首を傾げる番だった。
「病院でもうちょっと正確な日付とか分かるもんなんじゃなの? いや、僕も詳しいことは知らないけどさ」
「病院…、ですか?」
何故か歯切れの悪いカヲルの物言い。
「うん。病院」
「あー……」
唸りながらカヲルはレイと視線を合わせる。
「もしかして病院、掛かってないの?」
シンジのその問いに、若い2人はおずおずと頷いた。
カヲルが説明する。
「僕たち、病院には行けないんですよね」
「え? どうして?」
「僕たち、いわゆる無国籍者だから。自分の身元を証明するものが何も無いんです。僕の「渚カヲル」という名前や、彼女の「綾波レイ」という名前も何となくそうなんじゃないかな、と思って勝手に名乗ってるだけですから。一度役所の復興支援課に行って身元照会をしてみたんですけど、そんな人物、この国の何処にも居ないって言われたし。だから健康保険も入ってないので、病院には行けないんですよ」
「そんな…。いや、妊娠はそもそも健康保険は使えないけど…、でももし病気なんてしたら…。妊婦さんは体調崩しやすいんだし…」
シンジの複雑そうな顔に、カヲルは笑顔で返す。
「そんな顔しないで下さい。幸いにも、2人とも今の所病院には縁がない生活を送れてますから」
「いや。今、まさに病院が必要な時じゃないか」
ネオンジェネシス。
彼女の前で碇シンジが宣言した新たな世界の創生。
大袈裟な言い方をしたが、とどのつまり、碇シンジが真に望んだのはコア化した世界の清浄化でもなければインフィニティ化した人類の再生でもなく、彼にとって大切な人たちが生きていける世界を造り上げることだった。赤い大地や海が緑に青に戻ったことも、地上に人々の姿が戻ったことも、その延長線上に叶ったおまけに過ぎない。
碇シンジにとっての大切な人たち。
エヴァンゲリオンと使徒。2つの呪縛に囚われていた彼女。
使徒の化身として円環する世界という牢獄に繋がれていた彼。
そしてエヴァがなければこの世界に存在すら許されなかった彼女。
彼ら、彼女らが生きていける世界の創生。そのために必要なこと。
碇シンジが導き出した答えが、エヴァがなくてもいい世界への書き換えだった。
彼女は、気が置けない仲間たちに囲まれて、楽しく平穏に暮らしているらしい。
そして彼と彼女は。
これは新しい世界の創造主である碇シンジにとってもてんで予想外のことだったが、彼と彼女は人知れず出会い、彼と彼女は人知れず惹かれ合い、彼と彼女は人知れず愛し合い、そして彼と彼女の間にはもう間もなくややこなんてものが生まれるという。
あまりにも予想外のことであり、ちょっとばかしショッキングなことであり。
そして何にも増して喜ばしいことであり。
あの2人の間に生まれる子。
新しい世界に相応しい、新しい世代の子となるに違いない。
自分の決断は間違いではなかったと、これほど確信できた日はなかった。
なかったのだが。
碇シンジは「ちょっとトイレを拝借」と言って縁側から立ち上がる。
「トイレならそこの部屋を通って右です」
カヲルに言われた通りの道順を行くシンジ。外からぱっと見た限りではくたびれた古民家に見えた人里離れた高台の小さな一軒家だが、中に入れば床は明るい色調の木板が敷き詰められ、壁は真新しい白の漆喰に彩られ、広く取られた窓ガラスからは自然光が燦燦と降り注いでいる。家具は必要最低限のものだけ。調度品の類も少ない家の中はまるで遠い昔に訪れた集合団地の殺風景な一室を思い出させるが、しかしこの家の中は温かさと優しさに満ち溢れているような気がするのは何故だろう。
振り返れば、ガラス戸の向こうに見える広々とした縁側。一人はラウンジチェアに座り、一人は床に敷いた円座に座り、2人して生垣の隙間から見える海を眺めている。静かな2人の周りを包み込む柔らかな空気。ラウンジチェアのひじ掛けから真っ白な細くてしなやかな手が伸びれば、まるで示し合わせたかのように円座の上からも骨ばった白い手が伸び、やがて2つの手は重なり合う。2人の間に会話はないのに、手と手が繋がれた瞬間に互いの指を通して何万語もの言葉が行き交っているようにすら見える。
そんな2人の背中を微笑ましく見ていたシンジ。踵を返すと、その顔に険しい表情を浮かべながらそっと家の外に出て、抱えていたブリーフケースからスマートフォンを取り出した。
「あ、ここ圏外か…」
スマートフォンを鞄の中にしまい、代わりにやたらとごっついホイップアンテナが付いた衛星電話機を取り出し、どこかに電話を掛け始める。
相手が出たらしい。
「あ、もしもし。碇シンジだけど。ああうん。一昨日帰ってきたんだ。まあ、僕のことはどうでもいいんだ。それよりも僕が5年前に通した法律のことなんだけどさ。そうそう在留資格特別措置法。先のインパクトが原因で非正規滞在者や国籍不明者になった者は、一定の条件が揃えば滞在資格が認められ、行政・公共サービスが受けられるってアレ。あの法律、ちゃんと機能してる? いや、だってさ。今、僕の目の前にその法の恩恵に与ってない2人が居るんだけど。その制度のことはちゃんと国全体で周知してるんだよね? え? ちゃんと法務省のホームページで告知してるって? バカヤロ。そうゆう人たちって、基本情報弱者なんだからネットなんかでお知らせしたって何の意味もないでしょーが。そーゆーのをお役所仕事ってゆーんだよ」
電話相手を散々説教してやったシンジは、ぷんすか怒りながら電話を切る。
「ったく。肝心の2人に届いてないじゃないか。僕が何のためにあの法律作ったと思ってるんだ」
そう愚痴りながら、今度は別の番号へと電話を掛け始める。
「あ、どうも。碇です。ご無沙汰してます。ええ、元気にしてますよ。会長も無事三選したそうで、おめでとうございます。うん、そうですね~。顔を出したいのは山々なんですけど、またすぐにこの国を発たなくちゃいけないんですよ、申し訳ない。それで今日は折り入って会長にお願いしたいことがあってお電話したんですが。ははっ。いいですよ。これであの時の借りはチャラってことで。実は僕の大切な友人のことなんですが……」
空から轟く爆音、空を浮遊する大きな機影に、口をあんぐりと開けている2人。そんな2人の横では、碇シンジが衛星電話片手にホバリングしているヘリコプターに向かって手を振っている。
「そんなとこで飛ばれたらこんなちっちゃい家吹っ飛んじゃうでしょうーが! あっちに広い場所があるから! あっち行って、あっち!」
農園の隣にある切り出した木材を置くための広場に着地したヘリコプターに、シンジは駆け寄る。ヘリコプターからは、大きな機材を抱えた白衣の男性が降りてくる。シンジはヘリコプターのエンジンが轟かせる爆音に負けないよう、声を張り上げて白衣の男性に話し掛けた。
「どうも先生! すみませんね! わざわざこんな辺ぴなところまで!」
白衣の男性に向けて握手を求めるシンジ。
「○×国立医療センター婦人科医の山本です! そりゃ医師会会長の命令とあれば逆らえんでしょうが! 何もんなんです! あんた!」
しかめっ面でシンジの握手に応じる白衣の男性。
「ははっ! まあ僕のことはいいじゃないですか! それよりも妊婦さんはこっちです! ああ、僕持ちますよ!」
「これはいいですから! それよりもあっちのバッテリーを持ってきてください! ここ、どうせ電気も通ってないんでしょ!」
「さすが先生! 準備がいい! ああ、君たち! 先生これから診察に入るからエンジン切っておいてくれるかな! 待ってる間、これでも食べておいて!」
シンジはヘリコプターのパイロットたちに持っていたアケビを投げ渡すと、キャビンに置いてあった大きなポータブル電源を抱えて、白衣の男性を2人が待つ家へと案内する。
ラウンジチェアにゆったりと座っている綾波レイ。着ていた厚手のキャミワンピースのストラップを下げ、カヲルから借りて着ているだぼだぼのロングスリーブシャツの裾をたくし上げ、服の下から現れたのはぽっこりと膨れた大きなお腹。
婦人科医に指示されるままに恥ずかし気もなくお腹を晒すレイに、あ、やっぱりこの無防備さは相変わらずなんだ、と妙に安心してしまうシンジ。まるで満月のようなレイのお腹を珍し気にしげしげと見つめていたら、背中からレイの伴侶の刺すような視線を感じてしまい、慌てて視線を逸らす。
医師はレイのお腹にジェルを塗ると、運び込んだ超音波診断装置の探触子をレイのお腹に当て、ぐりぐりと動かした。
暫くして、装置のモニターに映し出される、レイのお腹の中。
その映像を見た瞬間。
レイは口もとに両手を当て。
カヲルは身を乗り出し、目を丸くしながらモニターを覗き込み。
シンジは熱くなる目頭に咄嗟に眉間を押さえ。
医師も含めた、その場に居た全員の顔が華やいだ。
「8カ月くらいですかね。映像で見る限り、異常はありません。順調そうですよ」
モニターの中の映像を食い入るように見つめていた3人。医師のそのコメントに、ほっとしたように胸を撫で下ろす。
「おや?」
医師が映像のある一点を凝視する。医師のその動きに真っ先に反応したのはレイでもカヲルでもなく。
「な、何があるんです! 何か問題でもあったんですか!」
シンジが医師の両肩を掴んで詰め寄っていた。
「ちょ、ちょっとお父さん。落ち着いてください」
「あ、いや、お父さんは僕じゃなくて…」
「シンジさん。ちょっと引っ込んでてくれませんか」
妙に浮足立っているシンジを押し退けて、医師の前に出てきたカヲル。冷静さを装ったはいいが、医師の顔を見るカヲルの顔も決して穏やかなものとは言えない。
「僕の子に何か?」
不用意な事言ったらただじゃおかないよ、とでも言いたげなカヲルの迫力ある表情に医師は微かに震えつつ説明する。
「いや、ですから大したことじゃなくて。お子さんの股間に、ナニが付いてたものだから」
「ナニ?」
「つまり、お子さんは男の子です」
わざわざヘリコプターに乗って遠く離れた大病院からやってきた医師は、僅か20分の滞在で帰途につくことになった。レイから検査のための血液を採取し終え、機材を片付ける。
入りくねった細い急峻な坂道を上らなければ辿り着けないこの高台の一軒家。大きなお腹をした妊婦があの道を上り下りして病院に通うことを想像しづらかったシンジは、レイにこのままヘリコプターで運んでもらって入院したらどうかと勧めてみたが、その提案について2人は固辞した。医師もシンジの提案を支持したが、2人はレイがこの家を離れることを頑なに良しとしない。彼女の妊娠が分かった時点で、この家で産む覚悟を決めていたらしい。そんな2人に根負けした医師は、「何かあったらすぐに連絡しなさい。麓の村に行けば電話くらいあるでしょう」と名刺を渡すしかなかった。
すでに回転翼が回り始めているヘリコプターに向かう医師とシンジ。
「今日の費用は僕の方に請求しといて下さい!」
シンジから名刺を渡される医師。たちまち医師の目が大きく見開かれるが、シンジはそんな医師に大量のアケビを渡す。
「これ、奥さんのおみやげにどうぞ!」
何か言いたげな医師の背中を押して強引にキャビンに乗せたシンジはドアを閉めてやると、すぐにヘリコプターから離れた。
ヘリコプターの機影が空の彼方へと溶けていくのを見届けたシンジは、ふ~、と溜息を吐きながら眼下に広がる海を見渡した。
傾いた太陽の光を浴びてきらきらと輝く海。斜面に生い茂る、赤色に黄色に染まる広葉樹。道端で咲き乱れているコスモスの花。田んぼの稲架にぶら下がる金色の稲穂。空を舞う赤とんぼ。
いい場所だ。間違いなくいい場所だ。多少の不便はあっても、のんびりと暮らしていく場所としてここはもってこいかもしれない。でも住み良い場所が、出産に適した場所とイコールではないのだ。人里まで車でも20分は掛かりそうなこんな場所で、新しい生命が生まれるその日まで2人切りで過ごすという彼ら。不安でならないシンジは、もう一度2人を説得しようと足早に2人が待つ家へと戻った。
鼻を擽る甘く優しい仄かな香り。大きく育った金木犀の枝の下をくぐると見えてくる木漏れ日の中の縁側。
縁側の上で佇む2人を見て、シンジは足を止める。
ラウンジチェアにゆったりと座るレイ。ラウンジチェアに寄り添うように床に腰を下ろしているカヲル。2人は、医師に印刷してもらったレイのお腹の中のエコー写真を見つめながら、弾んだ声で談笑している。
そんな2人を見た瞬間。
あ、大丈夫だ。
そう思ってしまったシンジである。
あの頃。どこか超然とした雰囲気を纏い、浮世離れしていて、自分とは住む場所が違う遠い世界の住人のように見えたあの2人が、たった1枚の写真を手に朗らかに笑い合っている。
彼と彼女は、この世界の住人として、すでに彼と彼女なりの揺るぎない居場所を作り上げているのだ。そこに、外野があれやこれや意見を挟める隙間などないのではないか。
つい30秒前まで、どんな言葉で2人を説得しようかと彼是考えてごちゃごちゃになっていた頭は、雲一つない今の空のように澄み切ってしまった。
「僕にも見せてよ」
シンジは弾んだ声で言いながら、2人のもとに駆け寄っていくのだった。