渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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秋 ― 後編 ―

 

 

 

 

 渚カヲルと碇シンジは木漏れ日が織り成す光の斑模様の中を歩いていた。

 今晩は2人の家に泊めてもらうことになったシンジ。2人がこの場所に住み着き始めてから初めての泊まり客にご馳走を振舞うため、カヲルとシンジは食材を求めて家の裏に茂る森の中へと入っていた。

 赤と黄色の落ち葉が敷き詰められた森に入って10秒も経たずに、陽の光で温められた空気とは明らかに違う、ヒンヤリとした空気を感じた。やがて2人の前に現れたのは豊かな水を湛えた沢に、周囲に水飛沫を散らす小さな滝。滝壺の畔では、小型の水車がギコギコと牧歌的な音を立てながら回り、沢の水を汲み上げている。

「シンジさん、川魚は大丈夫ですか?」

「え? これから魚を獲るの?」

「ええ。この時期なら麓の川から遡上してくるヤマメが居るんですよ」

「へー、カヲルくんって、釣りするんだ。僕は釣りに関してはちょっと五月蠅いよ。ロッドはどこの使ってるの? DA○WA製? それともSHI○ANO製?」

「あーー…」

「どうしたの?」

「僕が昔持ってた釣り道具一式。レイに全部売り払われてしまったんですよね…」

「そ、そうなんだ…。まあ2人に何があったのかは訊かないでおくよ…。でも道具なしでどうやって釣るの?」

「ええと…」

 沢の畔に立ったカヲルは、身を屈めると足もとにあったサッカーボール大の大きな石を持ち上げた。中腰のままふらふらと歩きながら、長靴を履いた足で沢の中に入る。そして目星をつけていた水の中の岩の前に立ち。

「はあどっこいせーっと!」

 大きな掛け声と共に、持っていた石を水の中の岩に目掛けて放り投げた。

「あのカヲルくんが…、「どっこいせ」って…」

 唖然としているシンジを他所に、カヲルが落とした石は水の中の岩にぶち当たり、ガコンと大きな音を鳴り響かせる。

 暫くして。

「あっ」

 水の中からプカプカと浮かび上がってきた数匹の魚を見て、シンジは短い声を上げた。カヲルは、どうやら気絶しているらしい腹を見せて浮いている魚たちを水の中から拾い上げ、シンジに見せる。

「こんな感じです」

「何て素敵なワイルドライフ…」

 

 その後は適当に山の中を回り、野に生るキノコや山菜を収穫して回った2人。

 山を下りて沢の近くまで戻ったところで、カヲルはシンジが採ったキノコがどっさりと入っている背負いカゴの中身を確認する。カゴの中から毒キノコを見つけては次々と遠くに投げ捨てるカヲル。確認作業が終わった時には、シンジのカゴはすっかり軽くなっていた。

 

 水車がある滝壺の脇を抜け、裏庭へと出る。

「そう言えば綾波って、肉はダメだけど魚はいいんだ」

「レイはどうやら脂や血がダメなようで、魚でも脂の少ない川魚を炙ったものくらいしか食べられないんですよ。…ん? レイが肉がダメなことって、言ってましたっけ?」

「あ、えっと…、た、ただいま~」

 シンジは言葉を濁しつつ、炊事場を兼ねている土間へと入った。そう言えば「ただいま」なんて言うの何時以来だろうと心の中で思いながら、ふと釜土の隣にある調理台へと視線を向ける。

 シンジの肩に担いでいた背負いカゴが、ぽとりと床へと落ちた。

「どうしました?」

 止まってしまったシンジの背中に声を掛けるカヲル。

「か、カヲルくん…」

 シンジから返ってきた声は震えていた。

「あの綾波が…、台所に立ってるよ…」

 シンジの視線の先では、調理台の前に立って栗の皮を剥いているレイの姿。

「はあ…」

 カヲルは邪魔だなぁとばかりに、勝手口を塞いで立っているシンジの横をすり抜けて土間へと入る。

 2人に気付いたレイが振り返り、その顔にコスモスの花のような笑顔を広げる。

「おかえりなさい」

「ただい…」

「カヲルくん…!」

 「ただいま」と言おうとしたカヲルの口は、後ろから肩に掴みかかってきたシンジの悲鳴にも似た叫び声によって閉じられてしまう。

「何なんですか、もう!」

 ついつい荒げた声で返事をしてしまうカヲル。シンジは上擦った声で言う。

「あの綾波が…、「おかえりなさい」だってよ…!」

「それがどうしたんです? 普通のことじゃないですか」

「普通だって!? 普通のことだって!? カヲルくん! 君は何も分かっちゃいない!」

「帰ったらすぐに手を洗って」

 包丁を持ったレイからか細くも鋭い声が飛び、2人はすごすごと洗面所へ向かった。

 

 

 「僕も手伝うよ」と申し出たが、「主賓は大人しくしててください」と断られてしまったシンジは、所在なさげに土間の隣の板の間に座りながら、炊事場に立つ2人の背中を眺めていた。

 あく抜きした栗と水洗いしたむかごは昆布と一緒に米と水を浸した釜の中に入れ、釜土に乗せる。釜土に火をくべるには中腰になる必要があるため、火をくべるのはカヲルの役割らしい。

 その横ではレイが、シンジたちが採ってきたキノコや、今朝掘り起こしたばかりの大根ににんじん、里芋、そして5分前にレイが「無法地帯」から採ってきたばかりの虫食いだらけの小松菜を包丁で切っている。技巧的はとは言い難く、大雑把で、でも慣れた手つきで野菜たちを手ごろな大きさに切っていくレイ。あの素材ならば、出来上がるのは味噌汁だろうか。

 レイが切った野菜たちをまな板の上からザルに上げると、調理台が空いた。するとカヲルは水の張った水瓶の中に放していたヤマメの1匹を掬い上げ、調理台のまな板の上に乗せる。包丁を手に取り、ヤマメの下処理でも始めるのかと思って見ていたら。

 カヲルが持った包丁はそのままレイへと渡された。

「はい」

 包丁を渡されたレイは不満げに口をとんがらせている。

「もう…。たまにはカヲルがやって…」

「やだよ。ヌメヌメしてて気持ち悪いんだから」

「もう」

 レイは膝小僧でカヲルの脹脛を突っつきつつ、仕方なしにヤマメを捌き始めた。

 刃先でヤマメのエラを切り落とし。

「ぎゃぁぁぁぁ…!」

 腹を切り拓き。

「ぐぁぁぁぁぁ…!」

 内臓を引き摺り出し。

「止めてよぉぉぉぉ…!」

「うるさい…」

 横から茶々を入れてくるカヲルの腕を、レイの肘が小突いた。

 

 捌いた6匹のうち、3匹は頭を落とし、3枚におろしていく。落とした頭は水を張った鍋の中に放り込んだ。カヲルはその鍋にレイが切っておいた大根を入れ、釜土の火に掛ける。その間にレイはおろしたヤマメから骨を削ぎ、皮を剥いて、身を斜め切りにしていく。出来上がった刺身を、皿に乗せた大葉の上に盛った。

 残りの3匹には竹製の串を突き刺していく。

「うわぁ~残酷ぅ~」

 相変わらず横で茶々を入れてくるカヲルのお尻を、爪先で突っついてやったら、カヲルは反撃とばかりにレイのお尻をパンと叩いた。負けじとレイもカヲルのお尻を今度は膝小僧で小突き、するとカヲルもレイのお尻の双丘をパンパンと叩く。

 不毛な応酬が繰り広げられている間に3匹のヤマメ全てに串が通ったので、カヲルは準備しておいた七輪の炭に火を起こし、レイから串刺しのヤマメを受け取って網の上に乗せる。

 一方のレイは煮立った鍋に里芋を加え、大根と芋が柔らかくなったところを見計らってキノコと人参を一斉投入。ひと煮立ちさせたところで味噌を溶き入れた。

「カヲル…」

 レイに呼ばれ、七輪でヤマメを焼いていたカヲルはレイの側に寄る。レイはお玉で鍋から汁を2口分ほど掬い上げ、小皿に入れる。まずはレイが小皿の汁を半分だけ啜り、そして。

「どう…?」

 カヲルに小皿を差し出す。カヲルは小皿を受け取ることなく顔を前に出してそのまま小皿に口を付け、残りの半分を啜った。

「うん。ばっちりだね」

 自分の味付けを絶賛するカヲルに、レイは不満げに唇をとんがらせた。

「カヲル、いつもそれだから参考にならない」

 と呟きながら、鍋の中に軽く塩をまぶすレイである。

「人に意見を求めておいてそれはないんじゃないかな」

 カヲルの呆れ声に対し、レイの唇はとんがったまんま。

「もう、機嫌を直しておくれよ。僕にとっては君が作った時点で全ての料理がご馳走になってしまうのだから仕方がないじゃないか」

 そう言って、カヲルはとんがったまんまのレイの唇にそっと自分の唇を寄せた。

 

「ゥオホンっ! ゲホン!」

 後ろから咳の音が聴こえ、2人は振り返る。

「シンジさん、どうかしました?」

「煙たかったかしら…」

 シンジは半分死んだような表情で手をひらひらと振っている。

「なんでもないよ。あ~2人が作る料理が楽しみだな~」

「ははっ。食いしん坊だな~シンジさんは」

「ご飯が炊けるまで、もう少しだから…」

 そう言って、シンジに背を向けて調理を再開する2人。

 そんな2人の背中を見つめるシンジは、「もうお腹いっぱいです」とばかりに一人心の中で身悶えるしかなかった。

 

 

 

 小さなちゃぶ台から溢れんばかりに並ぶ料理の数々。

「食卓が狭くて申し訳ないですね」

「いやいやいやいや…」

 目を輝かせるシンジの視線の先には、茶碗に盛られた栗とムカゴの炊き込みご飯、隣のお椀にキノコと根菜の味噌汁、小鉢の中身はノビルの酢味噌和え、カヲルとシンジには角皿に盛られたヤマメの刺身、そしてちゃぶ台の真ん中に置かれた大皿にはヤマメの塩焼きと、山で採ったクロカワやおばちゃんたちから貰った椎茸、銀杏などといった秋の幸の網焼き。

「ご馳走だね…」

 忙しさにかまけて自炊をしなくなったのは何時頃からか。出来立ての温かい料理を口にするのは何時以来か。人の家で家庭料理を振る舞われるのなんて、もしかしたら初めてではないだろうか。

 盛り立て注ぎ立てのお茶碗や皿から立ち昇る湯気たち。香る匂い。

 思わず生唾を飲み込んでいるシンジの前では、すでにカヲルもレイもお箸を持って手を合わせている。シンジも慌ててお箸を手に取り、

「「「いただきます」」」

 3人の合唱はぴったりと揃った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 とっぷりと陽が暮れ、夜空には満月がぽっかりと浮かんでいる。

 満月の淡い光に照らされる海辺の高台の農園。斜面に連なる段々畑の間の細い坂道を上る、3つの影。いや、3つで一つの影。

「えっさ、ほいさ、えっさ、ほいさ」

 3つの影の先頭を行き、歩調に合わせて掛け声を上げているのは渚カヲル。カヲルは山側に背中を向け、後ろ向きになりながら坂を上っている。そのカヲルが前に伸ばす両手を掴んで、カヲルに引っ張られながら坂を上っているのは綾波レイ。大きく膨らんだお腹を庇うように体を右に左に傾けながら、カヲルの掛け声に合わせて足を交互に前に出している。3つの影の最後尾は碇シンジ。後ろからレイの腰を両手で押し、レイが急な坂道を上るのを手助けしている。

「えっさ、ほいさ、えっさ、ほいさ」

 2人の男性に挟まれて坂道を上っているこの状況に気恥ずかしさでも感じているのか、月明りに照らされるレイの両頬が仄かに赤く染まっている。そんなレイの顔を正面から見つめるカヲルの顔も、締まりのないゆるゆるの笑顔。2人の顔が見えていないシンジも、まるでお猿のかごやのようなカヲルの掛け声が可笑しくて、ついつい吹き出してしまった。

 結局。

「くくくっ」

「ふふふっ」

「はははっ」

 3つで一つの影は、弾んだ笑い声を上げながら、月明りの中の坂道をゆっくりと上っていく。

 

 

 坂道が途切れる場所。農園の、一番高い場所。

「わぁ…」

 真っ先に声を上げたのは、約半年ぶりにこの場所に訪れたレイ。続けて、

「へえ…」

 初めてこの場所に来たシンジも、目の前に広がる光景に感嘆の声を漏らす。

 

 真夜中の静かな海。波の少ない穏やかな水面には、空に浮かぶまん丸の月がそのまま映り込んでいる。そしてその満月に負けじと精一杯輝く夜空の星々たち。いつもは大合唱を響かせる秋の虫たちもこの日はお休みのようで、3人の小さな息遣い以外はなにも聴こえない、淡い光に溢れた静寂に包まれた世界。

 カヲルはレイの手を引き、海が見渡せる位置に立てたハンモックへとエスコートする。レイの両手を支えながらゆっくりとハンモックに座らせて。

「久しぶりだね、ここに座るの」

「ええ…」

 そう言いながら、張られたハンモックをしげしげと見るレイ。

「ハンモック。作り替えたんだ…」

 以前のものと比べて4倍くらいの大きさはあるハンモックの布と、それを支えるための頑丈そうな4本の杭。

「家族が増えたら前のものでは少し小さいと思ってね」

 それにしてもこれは大き過ぎると思う、という表情のレイ。カヲルは得意げに言う。

「今後増える家族が一人とは限らないだろう?」

 そう言われたレイは、頬を赤く染めながらも柔らかに微笑み、「ええそうね」と返した。

「シンジさんもよかったら」

 目の前の光景に見とれていたシンジは、きょとんとした顔でカヲルを見た。カヲルの手が、レイが腰を下ろすハンモックの空いた右隣を指している。

「え? いいの?」

 シンジはいそいそとハンモックの前に立ち、先に座っているレイをひっくり返してしまわないよう、慎重にハンモックに腰を下ろした。

「あ~、いいね~これ」

 シンジは地面から足を浮かせ、ハンモックをゆらゆらと揺らしてみる。

 特大のハンモックのため、レイの左隣もカヲルが座れるスペースは十分にあるが、カヲルは座らずに踵を返した。

「お茶とおやつを持ってくるよ」

 カヲルはそう言い残し、坂道を下っていく。

 

 

 予期せずにレイと2人きりになってしまった。

 身じろぎすれば肘と肘が当たってしまうような距離。空気を通して感じるレイの体温。右耳を刺激するレイの微かな息遣い。

 たちまち全身を緊張に支配されてしまうシンジである。

 シンジは顔を正面の海に向けたまま、ちらりと横目でレイを見た。

 満月の煌々とした月明りに浮かび上がる彼女の横顔。

 

 なんだかあの時のようだな。

 シンジの頭に浮かびあがるのは、2人がまだ少年少女だったころ。出会って、間もない頃。彼女の体から、ようやく包帯やガーゼが取り払われた頃。決戦の時。この国の全てのエネルギーを委ねられ、彼女とたった2人で巨大過ぎる敵と対峙させられた時。

 確かその時もこんな風に、少し離れた場所に座る彼女の横顔をちらりと見たっけ。

 その時の彼女は。無造作に短く切り揃えられた髪を湖から吹く冷たい風になびかせる彼女は、不安も恐怖も疑問も迷いも一切抱かず凛とした、というよりも感情というものが欠けた表情で、遠くのビル群の隙間に浮かぶ巨大な正八面体を見つめていた。

 そして今隣に居る彼女は。背中まで伸びた髪を海から吹く柔らかな風になびかせる彼女は、口もとに慎ましく笑みを浮かべながら、水面に反射する淡い月の光を見つめている。穏やかさとたおやかさとしなやかさに満ち満ちた表情。あの決戦の後、促されるままに見せた笑顔とは違う、体の底から自然と滲み出たような笑顔。

 すっかり緊張が解けたシンジは、そんな彼女の横顔を口もとを綻ばせながら見つめる。

 そしてシンジは気付いてしまう。

 彼女の横顔に微かに浮かぶ、小さな濁りの存在に。

「綾波…?」

 シンジは優しい声で彼女の名前を呼んでみた。すると彼女は瞬きを一つ挟んで月の光に揺れる赤い瞳をシンジの方に向け、そしてもう一つ瞬きを挟んで瞳を再び海へと向ける。

 何か言いたげな、彼女の横顔。

 シンジは、彼女の閉じた唇が開くのを、辛抱強く待った。

 やがて彼女の色素の薄い唇が少し開いて。

「私…、とても不安なの…」

 ぽつりと呟いた彼女の両手は、まるで胸の中にある心臓を鷲掴みにでもするかのように、シャツの胸元をぎゅっと握り締める。それなりの年齢を重ね、それなりの経験値を積み上げてきたシンジは、「何が不安なの?」などとバカみたいな質問は返さなかった。その代わりに、

「うん…」

 と短く答え、シンジが初めて彼女の口から聞くことになった「不安」という気持ちをそっと受け止める。

「私には…、親がいない…。親に育てられた…、記憶がない…」

 そうぽつりぽつりと呟く彼女は、大きく膨らんだお腹に自分の手を乗せる。

「だから…」

 繊細に伸びる眉毛を「ハ」の字に曲げ、大きなお腹に視線を落とし、そのまま黙りこくってしまう。

 シンジはそんな彼女の細い肩に、そっと手を置いた。

「大丈夫だよ」

 ここはあえて断言してみせた。

「君なら、間違いなく絶対に、世界一素敵なお母さんになれるさ」

 彼女は少し長めの前髪の隙間からちらりと瞳を覗かせ、シンジを見つめる。「本当に?」とでも言いたげに。

 シンジは少し大げさに頷きながら続ける。

「もちろん、彼も間違いなく、世界一素敵なお父さんになってくれるよ」

 

 シンジには保証できた。

 かつて、2人から惜しみない愛情を一身に浴びてきたシンジだからこそ、断言できた。

 当時はちょっと真っすぐ過ぎた2人から溢れ出る愛情。その2つの愛は互いに混ざり合うことによって、まるで相手を包み込むような柔らかで芳醇な愛へと変化し、きっと新しく生まれる命に惜しみなく注がれることになるのだろう。

 断言できる。

 2人の間に生まれる子は、間違いなく幸せだと。

 2人に育てられる子は、間違いなく幸せだと。

 なんだったら、僕が2人の子供になりたい気分だよ。

 

「なんだったら、僕が2人の子供になりたい気分だよ」

「え?」

「あ、いや…」

 ついつい出てしまったバカみたいな本音を左手で頭を掻きながら誤魔化しつつ、シンジは彼女の左肩に乗せていた右手をそっと彼女のお腹の上に乗せた。

「君たちの家族になれるこの子が、とっても羨ましいってことだよ…」

「そう…」

 お腹の上に乗せられたシンジの手に、彼女の白い手が重なった

 見れば、彼女の顔に浮かんでいた濁りが、少しだけ薄くなっている。まだ完全に不安を拭い切れないらしい。

 シンジは苦笑する。

「あまり気負わないことだよ」

 そう言って、自分の右手に重なる彼女の左手に、さらに自分の左手を重ねた。

「親を知らない君だって、こんな素敵なレディになれるんだから」

 シンジの言葉に、彼女は頬を赤く染めながら「そんなことない」とばかりに首をふるふると横に振る。

「僕だって、あんなぶっ飛んだ両親のもとに生まれたけど。でも今は、こうやって人並みに生きていけてる。人なんて、多少の間違いや回り道を繰り返したとしても、それなりに育つものなんだ。だから今から君がそんなに気負う必要なんて、ないんじゃないかな」

 シンジの手に挟まれていた彼女の手が、そっと遠慮がちにシンジの手を握った。そして彼女はシンジの顔を正面から見つめながら、深くこくりと頷いた。彼女のその反応に、シンジは安心したように目尻を細め、そして彼女の手をそっと握り返す。

「あ、でも。これだけはお願いしておいてもいいかな?」

 彼女はシンジの目を見つめ、「何を?」と視線で問い返す。

「もしできることなら、君たちの子には、早めに外の世界に触れさせてあげてほしい。この世界は、様々な可能性に満ち満ちてるんだってことを、教えてあげてほしいんだ」

 

 親に捨てられ、他人の家に預けられ、狭い世界に閉じこもり、鬱々とした幼少時代を過ごした自分が、人並みに育ち、今、それなりの人生を歩んでいられるのは、外の世界に触れ、その先でたくさんの人たちとの出会いと触れ合いを通して、様々な可能性を見い出すことができたからだ。

 あの日、父からの一通の手紙で無理やり呼ばれ、知らない大人たちに囲まれながら人類の天敵と闘うよう迫られ、逃げるように再び狭い世界に閉じこもってしまおうとして。それでも辛うじて踏み留まったことで新しい世界への扉を開けることができ、たくさんの人々と出会うことができ、触れ合うことができ。そして今の自分が居る。

 新しい世界へ飛び出すきっかけ。エヴァンゲリオンに乗るきっかけ。

 そのきっかけを僕に与えてくれたのは、君なんだよ。 綾波。

 

 

「僕の居ない間に、なにレイを口説こうとしてるんですか」

「ひえっ!?」

 背中からの氷のような冷たい声に、シンジは素っ頓狂な声を上げながら慌ててレイの隣から離れた。

「そ、そんなこと僕がするわけないじゃないか」

「どうだか」

 カヲルはあからさまに不審を纏わせた視線をシンジに送りつつ、レイの左隣に座る。男女3人が座り、ハンモックが大きく沈んだ。

 カヲルは家から持ってきたピクニックバスケットの蓋を開け、中からティーポットと3つのガラスカップ、そしてくるみの蜂蜜漬けが入った密封瓶と薪ストーブで焼いたプレーンスコーンを取り出し、蓋を閉めたバスケットをテーブル代わりにして置く。カップに紅茶を注ぎ、ソーサーに乗せて隣のレイに渡すと、レイはそれをそのまま隣のシンジに渡す。

「ありがとう」

 シンジは冷めないうちに、と、カップに口を付け、ずずずと一口啜った。爽やかな風味と香りが口から鼻の方へと吹き抜け、舌には仄かな苦みが残る。

 シンジとレイに紅茶を配り終えたカヲルは、次に密封瓶を開けて中身のくるみの蜂蜜漬けをスプーンで掬ってプレーンスコーンに乗せた。それを、

「はい」

 紅茶を啜っているレイの前を跨ぐように体を伸ばし、シンジに渡してやる。

「ありがとう」

 受け取ったシンジはカップとソーサーを膝の上に乗せ、蜂蜜を纏ったくるみがたっぷり乗るスコーンを口へと運んだ。炒ったくるみの香ばしさ、蜂蜜の濃厚な甘さ、スコーンのサクサクとした食感が口の中に広がっていく。

 鼻孔を擽る紅茶の仄かな香り。口の中を包み込む素朴な甘み。心地よいリズムで揺れるハンモック。海から吹く柔らかな風。丘の上を照らす月明り。

「こりゃ胎教にいいな」

 そう呟きながら、スコーンの残りの半分を頬張った。

 シンジの隣では、明らかに過剰と言える量のくるみの蜂蜜漬けが乗ったスコーンを苦労しながら頬張るレイ。蜂蜜とくるみが零れないよう注意して頬張るが、その分齧ったスコーンがぽろぽろと口の端から零れてしまっている。それをくすくすと意地悪く笑いながら見ているカヲルは、レイの胸元に零れ落ちた食べかすを摘まんでは、口の中に運んでいた。

 それを横目で見ていたシンジは心の中で「はいはい」とばかりに溜息を零しながら、残りの紅茶を飲み干す。

 

 

 紅茶を飲み終えた3人はそのままハンモックに寝そべり、川の字になって夜空を見上げた。夜も更ければ気温が一気に下がる季節のため、カヲルが持ってきた大きな厚手のブランケットを、3人でシェアする。3人分の体温で温められたブランケットの中は、ぽかぽかと温かかった。

 この季節の空は明るい星が少なく、おまけに今日は満月だが、それでもペガサス座とアンドロメダ座はすぐに見つけることができた。

 

 取り留めのない会話を交えながら夜空の星々を見つめていて。ふと、シンジは2人に訊ねてみた。

「2人はこれからどうするつもりなの?」

 レイに腕枕を貸しているカヲルは、夜空を見上げながら言う。

「そうですね。刈り取った稲は2~3週間干すから田んぼの方は暫くすることはないかな。さつま芋の掘り起こしとサヤエンドウの種まきは先週終わったし」

「冬用の薪割り、しておかなくちゃ…」

「ああ、そうだったね」

 2人のやり取りを聴いていて、シンジは苦笑してしまう。シンジとしては2人が描く未来予想図を、これからの人生設計を訊ねたかったのだが、2人の頭の中は明日のことで頭が一杯のようだ。 

 でも遠い未来のことではなく、目の前にある明日のことを語り合う2人の姿がシンジにはとても眩しく、そして健全であるように思えた。1日1日を大切に、地に足をしっかりと付けて生きている。そんな印象を2人のやり取りから感じた。

「ああ、でも」

「なに…?」

「「あれ」を決めておかなくちゃね」

「そうね…」

「前に話し合ったものでいいのかな?」

「ええ…」

「うん。じゃあ…」

 お互いの顔を見合いながら話していたカヲルとレイの顔が、同時にシンジへと向けられる。

「シンジさん」

「なに?」

 夜空を見上げていたシンジも、名前を呼ばれて2人に顔を向けた。

「相談があるんです」

「なに? なに? なんでも言ってごらんよ」

 この2人から相談を受けるなんて。なんだか自分がとても立派な人物になったような気がして、シンジは逸るように前のめりになって顔を2人近付ける。

「えっと…。シンジさんの…、その…」

「うんうん」

「シンジさんの名前を、貰ってもいいですか?」

「名前?」

「ええ。以前から2人で決めてたんです。生まれくるのが男の子だったら、シンジさんの名前を貰おうって」

「え?」

 シンジの目が、点になる。

「どうですか?」

「えっと…。どうして僕なんかの名前を…」

 カヲルはレイの枕代わりにしていない方の手で、頬をぽりぽりと掻く。

「実は他に良い名が思い浮かばなかった、っていうのが本当のところで。だから僕たちにとって、大切な人の名前だったり、馴染みのある人の名前を貰ったらいいんじゃないかって」

「それで…、僕…?」

「ええ。真っ先に浮かんだのが。あ、もちろん、嫌だったら第2候補の名前にしますから。断ってもらって構いません」

「第2候補?」

「ええ。これはレイが考えたんですが、どうも誰の名前だったか、レイもよく思い出せないようなんですけど。第2候補は“ゲンドウ”にしようと…」

「うん。僕なんかの名前でよかったら、いいよ」

 やや食い気味に返事をしたシンジに、カヲルもレイも一瞬きょとんした表情になって。

「本当ですか?」

「よかった…」

 シンジから承諾の返事をもらい、安心したように微笑みながら互いの顔を見合う。そんな2人の様子を見て、シンジの心の中には嬉しさがふんわりと綿毛のように広がっていって、その一方で寂しさが小雨のようにしとしとと降り注ぐ。

 

 「シンジ」という名前。

 2人の子に付けられることになる「シンジ」という名前。

 2人のたっぷりの愛情の中で育まれることになるその名前。

 やがて彼らの中で「シンジ」とは彼らの子のことを指す無二のものとなり、もう一人の「シンジ」という存在は彼らの中で少しずつ遠くに追いやられ、忘れ去られていくことになるのだろう。

 そう思うと、嬉しさと共に寂しさも感じずにはいられなかった。

 

 でも、とシンジは思う。

 これが正しいのだ。

 これが健全な在り様なのだ、と。

 この村に足を踏み入れた途端、村人たちに散々に追いかけ回される羽目になったけれど、あれこそ、彼と彼女がこの村の人たちがからとても愛されているという証拠なのだ。

 これはちょっと傲慢な考え方かも知れないけれど。

 かつての2人は、碇シンジが全てだった。碇シンジという存在を通してでしか、世界を見ることができなかった。それは一種の呪縛のようなものであり、彼は出口のない円環の世界を漂い続け、彼女は14年間もの間牢獄の中に閉じ込められていた。

 そんな彼らの中から「碇シンジ」という存在を遠ざけてみたら、ほら、この通り。

 残ったのは、とっても素直で、とっても優しくて、とっても素敵な、誰からも愛されるべき彼と彼女。

 うん。実に健全だ。

 2人の間には新しい「シンジ」が残り、古い「碇シンジ」は消えていくことになる。そのことに寂しさを感じてしまうのは古い方の「シンジ」としては致し方ないことなのだけれど、でも寂しがってばかりじゃいけないね。これが、自分が創造した世界で、2人が選択した、いや築き上げた新しい道なのだから。

 

 

 ちょっとセンチメンタルな気分になってしまった心の内を悟られないように、シンジは会話を続ける。

「下の名前がシンジなら、上の名前はどうするの? 渚? それとも綾波?」

「どっちでもいいかな。僕たちには入れる籍もないし。これからも僕たちは「渚」、「綾波」のままで居ることにしてますから。ある程度大きくなったら好きな苗字を名乗らせたいと思ってます。なんだったら、苗字も「イカリ」にしちゃいましょうか」

 そう冗談めかして言うカヲルに、シンジははははと苦笑する。

「なんだか恐れ多いな。僕なんて、まだ数回しか会ってない、言うなれば赤の他人のようなものなのに」

 そんなことを言うシンジに、カヲルと、そしてレイはぶんぶんと大きく首を横に振った。

「何を言ってるんです。今の僕たちがあるのは、シンジさんのおかげじゃないですか」

「えっ!?」

 心臓が口から飛び出そうになるくらい、びっくりしてしまったシンジである。

「あの復興村の森の中でシンジさんと出会わなければ、僕たちはこうして平穏には暮らしてなかったかもしれない。ねえ?」

 同意を求められ、カヲルの腕の中のレイは素直にこくりと頷いている。

「そ、そうなの?」

 一瞬、2人に「以前」の記憶が戻ったのかと思ったシンジは、泳いだ目で2人の顔を見つめている。

 

 あの森で、湖と廃墟の存在を教えて貰わなければ、彼女は過去の自分と向き合うことが出来なかったかもしれない。

 あの駅で、夕陽が沈む海峡の公園を教えて貰わなければ、彼は一歩踏み出す勇気を持てなかったも知れない。

 

「僕たちにとって、シンジさんは恩人のような存在です」

 真摯な声と真っすぐな視線をシンジに届けるカヲル。

 そして、カヲルの腕の中のレイは、シンジに向けておずおずと右手を差し伸べた。そんなレイを見て、カヲルはふふっと笑う。

「レイも、これからもよろしくお願いします、と言ってますよ」

 差し伸べられた手を呆然とした表情で見ていたシンジは、その視線をレイの顔へと向ける。

 柔らかな微笑みを浮かべているレイの顔を見て、シンジの顔にも自然と笑みが零れた。

「うん。僕こそ、これからもよろしくお願いします」

 シンジの右手とレイの右手が交差して。

「僕も仲間外れにしないで下さいよ」

 レイの頭を跨ぐように伸ばされたカヲルの左手が、シンジの顔の前までやってきた。

「ふふっ。カヲルくんも、これからもよろしく」

「ええ。シンジさん」

 カヲルの左手と、シンジの左手が強く握り合った。

 

 ハンモックに横になりながら右手でレイと、左手でカヲルと握手を交わし、何とも窮屈な姿勢になってしまっているシンジ。

 そんな様子を見てカヲルは弾んだ笑い声を上げながら、一旦シンジの手を離し、今度は両手ごとシンジの背中へと回した。シンジも笑いながら、レイの手を離し、両手をカヲルの背中へと回す。

 これが男の友情の証とばかりに、熱い抱擁を交わす2人。

 そんな2人に挟まれてぺしゃんこになっているレイは、うぅ、と小さな呻き声を上げていた。

 

 

 

  

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