渚ニテ、綾ナス波。   作:hekusokazura

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 白。

 

 白。

 

 白。

 

 

 世界を覆い尽くす、白。

 

 昨晩から降り始めた初雪は、夜が明けて日中も振り続け、ようやく降り止んだ夕暮れ時には辺り一面を銀世界に変えていた。

 降り積もったばかりの雪の上を歩く。

 足もとからはサク、サク、と鳴る小気味よい響き。

 外気に触れた息は白い湯気となって虚空へと消えていき、冷え込んだ空気が震える睫毛を凍らせる。フカフカのダウンジャケットの下には厚手のセーター。スパッツの重ね着の上にフリースパンツを履き、首にはマフラー、頭にはモコモコのフライトキャップを乗っけても、なおこの寒さ。

 全身を震わせながら、それでも温かい薪ストーブのある住処を離れ、真っ白に染まった原野の上を歩いていく。

 

 ふと、足を止めてみた。

 夜空には三日月。

 朧気な月明りに照らされて浮かび上がる白銀の世界。

 ブーツが鳴らす足音が消えれば、たちまち静寂に包まれる夜の世界。

 まるでその場に立つ自分以外の存在が全て消えてしまったかのような無の世界。

 極寒の空気と空からもたされた冬の白い使者により、全ての生命が活動を停止してしまったかのような沈黙の世界。

 

 夜空を見上げる。

 瞬く星々とぽっかりと浮かぶ月。

「今日は見えないかな…」

 あえて、意識して、声に出してみた。

 世界を覆う静寂に挑むように。

 無の世界に立つ自分の存在を確かめるように。

 そして一度口を閉ざしてしまえば、世界を柔らかな沈黙が包み込む。

 まるで白い砂漠のように広がる雪化粧を纏った原野。原野が途切れる先には雪を被った針葉樹が林立しているが、木々の隙間に動く影はない。

 

 寂しいという気持ちは沸かなかった。

 夜空を彩る星々と。月明りに照らされた銀世界と。むしろこんな幻想的な世界を独り占めにすることができたという、ちょっとばかりの優越感さえある。

 

 しかし彼女が抱いた優越感なるものは、すぐに掻き消されることになる。

 世界を支配する静寂をいとも簡単に引き裂く、とても元気な足音が背後から聴こえてきたからだ。

 

 きっと足音の主は、いつものように駆け寄り様に自分のお尻に抱き着いてくるのだろう。お尻を襲うであろう衝撃に備えて、両足を雪の上で踏ん張って身構えていたら。

 

「ひえっ!?」

 

 突然背中を冷たい衝撃が襲ったものだから、彼女は上擦った悲鳴を上げてしまった。

 自分の背中、肌に直に触れている冷たい何か。慌ててジャケットのその下のセーター、さら重ね着されたフリースシャツに裏起毛の肌着の、さらにその下に手を突っ込んだ。冷たい何かを背中から取り除き、体の前に持ってくる。

 毛糸の手袋をはめた手のひらの上には、固められた雪の塊があった。

「こら」

 彼女は足音の主に向かって叱咤するが。

「きゃはははっ!」

 足音の主。駆け寄り様に何枚も重ね着され服の下に雪を滑り込ませるという離れ業をやってのけた小さな女の子は、悪戯をされた相手が期待通りの反応を見せたことにたいそう満足したようで、雪の上に寝っ転がり、手足をじたばたさせながら笑っている。

「だめよ。悪戯しちゃ」

「だっていたずらされたときのママ、おもしろいんだもん」

 女の子から「ママ」と呼ばれた彼女、母親は、叱ってもまるで堪えた様子のない我が子に困ったように肩を竦ませる。

 女の子は相変わらず雪の上で転げ回りながら笑っている。

 言葉による躾がダメならば、体で分からせるまで。

 そう思った母親は、その場に蹲ると足もとの雪を掻き集め、こぶし大の雪の塊を作った。そして今も笑い転げている我が子に向かって、えいっ、とその雪の塊を放り投げてみる。

「ひゃうっ!」

 見事、雪の塊は女の子の顔面に落っこちた。我ながらナイスコントロールとばかりに、母親は両手をぱんぱんと叩いて残った雪を払う。

 これで少しは懲りただろうか。

 母親の考えは甘かった。

「わーい」

 女の子は顔を雪だらけにしたまま元気な声を上げて立ち上がると、雪を掻き集めて手の平で丸めて、それを母親に向かって投げ付ける。投げられた雪の塊は宙に放物線を描きながら母親の肩に到達。肩で雪が弾け、雪の飛沫が母親の顔を汚す。

「もう」

 母親も負けじとすぐさま雪の塊を作り、女の子に向かって投げ返す。

「えい! とりゃ! よいせ!」

 いつの間にか足もとに何個もの雪の塊を作っていた女の子は、塊を掴んでは次々と母親に向かって投げていく。

 いつの間にか始まってしまった雪合戦。

 雪の投げ合いっこをしている間に息が弾み、体がポカポカと温かくなってきた。

 温かくなってきたのはよいのだ。

 よいのだが。

 意地になる母親は両手で雪の塊を投げ返しながら、心の中で「しまった」と思っていた。

 

 なにしろ女の子にとっては物心がついて、初めて目にした雪だ。

 朝起きたら空からしんしんと降り、地面をうっすらと覆っていく白い謎の物体にたちまち興奮してしまった女の子は、朝から晩まで雪遊びに興じ、一日中それに付き合わされた母親はもうへとへとなのだ。女の子はおやつの後から夕飯の前までぐっすりお昼寝しており、そして夕飯の後もすぐに寝床に入っていたものだから休息は十分。一方、女の子が寝ている間は家事に追われていた母親の燃料タンクは枯渇寸前。自分も寝床に入る前に、ちょっと一人で夜の散歩を、と思って外に出てきたのだが。

 寝る前の散歩どころか、全身をフルに動かす激しい運動になってしまった。そして相手は休息十分元気一杯の女の子。良いところでケリを付けないと、この争いは双方の体力がゼロになるまで続く羽目になってしまう。

 

 女の子が投げた特大の雪の塊が、母親の顔面を襲った。

「うわぁ…、やられたぁ…」

 母親はわざとらしい悲鳴を上げながら、雪の上に倒れる。

「ママよわ~い」

 勝ち誇った女の子は、地面に倒れ伏している母親の背中に向けてさらに雪を投げ、容赦のない無慈悲な追い打ちを仕掛けた。

 母親の背中に次々と当てられる雪の塊。10個ほど投げられた雪の塊で、母親の背中の3分の1が白く覆われたところで。

「ママ?」

 散々雪を投げ付けられているのに、動かない母親の姿に不安になってしまったのだろう。

「ママ~」

 手に持っていた2つの雪の塊をその場に投げ捨て、母親のもとに駆け寄っていく女の子。

 女の子が母親のもとまであと一歩のところまで近付いた途端。

「わぁ!?」

 ガバっと起き上がった母親に右腕を掴まれてしまった女の子はびっくりして悲鳴を上げてしまった。母親は掴んだ我が子の腕をそのままぐいっと引っ張り、女の子の体を抱き締める。

「もう、ママぁ~!」

 腕の中で抗議の声を上げる我が子に、母親はくすくすと笑い声を上げていた。

 

「くしゅん!」

 腕の中で、女の子が盛大にくしゃみをしている。

「帰ろうね」

 母親は優しく言い聞かせると、女の子を抱いたまま立ち上がった。

「え~、まだ~」

 女の子はまだ遊び足りないらしい。

「もう寝る時間よ」

「やだやだやだ~」

 母親の腕の中で、女の子が足をじたばたさせている。さすがはたっぷりお昼寝している女の子。

「仕方ないわね…」

 こんなに元気が有り余っている状態で寝床に連れていっても、当分夢の国には入国拒否されてしまいそうだ。

 

 母親は女の子を抱いたまま一旦住処まで戻ると、住処の脇に積まれているストーブの薪用である長さ30センチくらいの丸太を一本と斧、そしてスコップを木製のそりの上に乗せる。女の子には炊事場にあった手鍋を持たせ、そりを曳きながら住処を離れた。

 50歩ほど歩いたところでそりから荷物を下ろし、平らな場所にスコップで穴を開け、その穴に煙突のように丸太を立てる。そして斧を使って、丸太の切断面に放射状の切れ込みを入れた。丸太から刈った小枝や散った木くずを切れ込みの中に挿し込み、ライターで火を点けると、まずは木くずに、そして小枝に、やがて丸太の切断面全体へと火が燃え移り、そして大きな炎へと成長を遂げる。

「あったか~い」

 地面に立った丸太から燃え上がる炎を瞳に宿らせる女の子は、満面の笑みを浮かべながら炎に向けて冷たくなった手を翳した。

「火傷しないでね」

 母親はそう女の子に注意しつつ、住処から持ってきた手鍋を丸太の上に乗せた。大きな炎に温められ、鍋の中身はすぐにぐつぐつと煮え始める。母親は中身が焦げ付かないよう、木杓子で掻き混ぜる。

 いい塩梅に温かくなったところで中身を掬い、杓子を口もとに近付け、ふーふーと息を吹いて冷まし、ずずっと啜る。

「おいしい…」

 口の中に広がる素朴かつ濃厚な味わい。

 今日の夕ご飯の残り。トナカイのミルクとジャガイモのスープを美味しそうに啜っている母親を見て、女の子はたまらず頬を膨らませた。

「ママだけずる~い」

「分かってる」

 母親は微笑みつつ、スープを杓子で掬い、我が子の舌が火傷してしまわないよう、ふーふー息を吹きかけてスープを冷ます。

「はやく、はやく」

「もうちょっと…」

 ふーふー息を吹きかける母親。

「もうはやく~」

 女の子がその場でぴょんぴょんと跳ね始めた。このままだと丸太のストーブごと鍋をひっくり返してしまいそうなので、母親は仕方なく我が子の顔の前に杓子を差し出す。

 女の子はうーっと唇をとんがらせ、顔を杓子の皿に近付け、そして中身のスープを啜ろうとして。

「あつっ!?」

 たちまち杓子から顔を遠ざけてしまった女の子。

「ぅえ~ん、ママ~」

 舌を出し、顔を歪ませてしまう女の子。

「ほら、一緒にふーふーしましょ」

 母親は優しくそう言い聞かせると、唇をとんがらせてふーふーと息を吹き掛ける。今にも泣いてしまいそうだった女の子も、すぐに気を取り直して母親と同じようにスープに向かってふーふーと息を吹き掛けた。

「はい」

 十分に冷まされたスープを、女の子の口に近付ける。女の子はあーん、と口を開けたので、母親は杓子を傾け、女の子の口に直接スープを流し込んだ。女の子が口を閉じた瞬間。

「おいし~!」

 女の子の満面の笑み。

「そう。よかったわね」

「うん!」

 

 その後も一緒にふーふーしながら母親の口に、女の子の口に、交互にスープを運んで。

 やがて鍋の中身が最初の3分の1になった頃。

 何とはなしに、空を見上げて。

「あ…」

 母親が短い声を上げたので、女の子も空を見上げた。

 

 母親は鍋を地面に置き、立ち上がった。

 夜空に広がるその光景に、目を、そして心を奪われる。

 

 緑の光の帯が、星々の中を駆け巡る。それはまるで夜空という窓に引かれる光のカーテンのよう。月明りにも負けない明るさでゆらゆらと揺らめく光の帯は、緑からピンク、そして水色へと変化する神秘的なグラデーションで、空というとてつもなく大きなキャンバスを幻想的に彩っていく。

「ほら、ツバメ」

 母親は我が子の名前を呼んだ。

「な~に~」

 やや興奮気味に自分の名を呼ぶ母親に対し、どこか気の抜けた返事をする女の子。すでに女の子の興味は鍋の中身に戻ってしまっており、ストーブから降ろされて冷めてしまった鍋の中のスープを自分で掬っては口の中へと運んでいる。

 空を見上げたままでいる母親は、そんな女の子の様子に気付いておらず、声を掛け続ける。

「ほら。オーロラだよ」

「へー」

「ほら。見てごらん」

「えー、いいよ~」

 その返事に、母親は目をぱちくりさせながら、視線を空から下ろす。母親の足もとで杓子をぺろぺろと舐めている女の子。母親と、そして父親と同じ、紅玉の瞳の持ち主である女の子を、母親は不満げに見下ろす。

「どうして? とても綺麗だわ」

 大自然が織り成す究極の芸術を前に、なぜこの子は自分と同じように胸を躍らせてくれないのだろう。1月前に初めて見た時は、あんなにはしゃいでいたのに。とでも言いたげな母親に対し、女の子は杓子をぺろぺろと舐めながら、けろっとした顔で言う。

「だってオーロラ、もう、みあきちゃったもん」

 そんな女の子の返事に、母親はもう一度目をぱちくりとさせながら呆れたように言った。

「なんて贅沢な子…」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 秋茜が舞う季節。朝、昼、夕。1日に3本しかない路線バスのバス停に降りた碇シンジは、散歩するにはちょうど良い涼やかな風を感じながら、アスファルトの上を大きな荷物を持って歩き始めた。道の両脇には田舎の長閑な田園風景が広がり、稲刈りの終わった田んぼの上では燻炭作りの煙突があちこちに立ち、天高い青い空に向けて灰色の煙を燻らせている。

 次は間を置かずにすぐに来よう、早く来ようと思ってたのに、忙しさに追われてしまい、あれから随分と時が経ってしまった。まだ見ぬ2人の間の子供も、随分と大きくなっていることだろう。とりあえず、子供へのお土産にサッカーボールを買ってきたけれど、2人の子だから楽器とか本とかにした方が良かったかしら。

「おや、あんた」

 久しぶりの再会と初対面に心躍らせながら田舎道を歩いていたら、道端の畑で芋掘りをしているご婦人から声を掛けられた。

「あんた、どっかで見たこと…、あ、あんた!」

「あ、いや…!?」

 ご婦人が持っていた手鍬を振り翳したものだから、シンジは反射的に逃げようとしてしまった。

「ちょ、ちょいとお待ちよ! あんただろ! いつだったか、あたしたちに追い掛け回された不審者!」

「だから僕は不審者じゃないですってぇ!」

 もう勘弁してくれと言わんばかりに半べそを掻いてしまうシンジに、ご婦人は作業用エプロンの泥を払い落としながら歩み寄ってきた。

「あん時はごめんよ。あとでカヲルちゃんに聞いたよ。あんた、カヲルちゃんとレイちゃんの恩人なんだってね」

「いや、恩人なんてそんな。むしろ僕の方が大恩があるのに」

「とにかくあの2人の知り合いってゆーなら、あたしたちの客人だ。ほら、これ持っておいき」

「えっ、ちょっ」

 いきなり手に掘り出されたばかりのさつま芋が詰め込まれた麻袋を持たされ、その重さに思わず前のめりにつんのめってしまいそうになった。

「あ、ありがとうございます…」

「ここには暫く居られるのかい?」

「ええ、そのつもりです…」

「ふふっ。じゃあよろしくね。何か困ったことがあったら、遠慮なく言いなよ」

「はぁ…」

 

 重い麻袋を持ちながら右に左にふらふら歩いていくシンジの後ろ姿を見送るご婦人。農作業に戻ろうとして。

「あ、そういえばあの2人…」

 何かをシンジに言おうとしたが、シンジの姿はすでに遠い。

「ま、いっか」

 

 

「あの時はすまなかったね。ほら、これ持っておいき」

「なんでもあの2人が昔お世話になったそうじゃないか。ほら、これ持っておいき」

「そりゃ遠路遥々よく来たねぇ。ほら、これ持っておいき」

 

「か、勘弁してくれ…」

 ただでさえ2人、いや、3人へのお土産を買い過ぎてしまったと言うのに、ここにきて村人たちからのお裾分け攻勢に遭ってしまい、あの農園がある高台への急峻な坂道の麓に辿り着いた時には荷物の量は3倍に増えていた。

 額から大量の汗を滴らせ、ぜーはー言いながら坂道を上っていく。

 

 

 森に囲まれた薄暗い坂道を抜け、見えてきたのは陽の光に照らされてきらきらと光る青い海。

 光が溢れる場所に辿り着き、シンジは思わず「わぁ」と感嘆の声を上げる。

 

 雲がぽつぽつと浮かぶ青い空と穏やかな海に暫し見惚れ。

 そしてここを振り返れば田んぼと段々畑、そして彼らのおうちがあることを知っているシンジは、うきうきしながら回れ右をした。

 

 シンジの手から、採れ立ての野菜が詰め込まれた麻袋がごとごとと音を立てて地面に落ちる。

「え…」

 シンジは、短い声を上げることしか出来なかった。

 

 

 

「綾波~、カヲルく~ん」

 人の背丈まで伸びたススキが生い茂る田んぼの脇道を歩く。以前は綺麗に均していたはずのその脇道も、雑草だらけ。斜面に連なる段々畑も、もう何年も人の手が入っていないかのように荒れ果てている。暫く歩くと、彼らの家を囲むカラタチの生垣が見えてきたが、以前は丁寧に四角く剪定されていた生垣も枝々が好き勝手に伸びて歪な形になっている。

 そして大きく育った金木犀の下をくぐるとそこにあったのは彼らの家。古い木造建築の、平屋の家。

 人の気配がしなかった。

 全ての窓が、木製の雨戸で塞がれている。

 家の裏側に回ってみると、彼らと過ごした縁側があった。落ち葉で埋もれ、下から伸びた雑草が床板の隙間から顔を出している縁側が。

 縁側の前に立ち、そして振り返ってみる。

 かつてはここからも海が見えたが、生垣の背が高くなりすぎてしまっていて、今は見えない。

「綾波~、カヲルく~ん」

 裏庭に回っても状況は変わらず雑草が腰の高さまで伸びている。

 彼と一緒にイワナを獲った沢に行ってみたが、そこでギコギコと回っていた水車は解体され、沢の畔にまとめて置かれていた。

 そこから森に沿って歩いていくと、納屋があった。建付けの悪い戸を開けると、中は農工具が綺麗に片付けられていた。その隣にはガレージがあり、古い原付きバイクが一台停められている。バイクだけを置くためのガレージにしてはちょっと広く、バイクの隣には不自然な空間があった。

 

 一通り回ってみたが、どこもかしこも同じ有様。

 彼が口ずさむ鼻歌も、彼女が慎ましやかに上げる笑い声も、そして彼らの子供が駆け回る足音も、何も聴こえない。

 とりあえず、田んぼの前の道に放り出したままの荷物を取りに行き、落ち葉を払った縁側の上へに置く。

 そして再び裏庭の奥のガレージへと行く。

 原付バイクに跨ってみる。不用心にも、鍵は挿さったまま。捻ると、ニュートラルランプに光が点った。キックペダルを思い切り踏み込んでみる。もう一度。そして3度目になって、トットットットと軽いエンジンが響き出した。

 

 

 長い坂道を原付きバイクで下る。

 下り切って、最初に見えた家の前にバイクを停める。

 玄関の前に立ち、インターホンを押すと、中から白髪頭のご婦人が出てきた。ご婦人に、坂の上の農園に住んでいた2人、いや、3人のことについて訊ねようとして。

「おや、あんた。もしかして碇くんかい?」

 名乗る前に名前を呼ばれてしまう。

「は、はい」

「へー、昔うちの旦那からも聴いてたけどさ。へー。あんたがあの碇くんなんだねぇ。へー」

 ご婦人にじろじろ見られて、居心地悪そうに肩を竦ませるシンジ。

「あ、ああそうだ。あんたに渡すもんがあるんだ」

「え?」

 シンジが彼らのことについて訊ねる前に、ご婦人は家の奥へと引っ込んでしまった。3分ほど経って、ご婦人は紙の束を持って戻ってくる。

「はい、これ」

 その紙の束を、シンジに渡すご婦人。

 渡された紙束をよく見てみると、それは葉書の束だった。

 訳が分からず少し色褪せた葉書の束を見ていると、ご婦人はその葉書の束の上にさらに小さなものをぽんと置いた。

 それはキーホルダー付きの鍵だった。

「あんたが訪ねてきたらこれ渡してくれってさ。あの2人に」

 

 

 原付バイクをガレージの中に停め、玄関に回る。ドアの鍵穴に渡された鍵を挿し込むと、ぴったりと合った。鍵を開け、戸板を開く。

 途端に、長い期間喚起されてない場所に閉じ込められて淀んでしまった空気の匂いが鼻を擽った。

 土間に足を踏み入れる。炊事場も兼ねる土間。釜土も調理台も立流しも埃を被っていて、もう何年も使われた形跡がなかった。

 板の間へと上がり、ガラス戸の内鍵を開け、雨戸を開けると、そこは広々とした縁側。玄関と縁側の戸が開いたことで、家屋の中に一気に新鮮な空気が流れ込んだ。

 縁側に出て、腰を下ろす。

 胡坐をかき、手の中にある葉書の束を見つめる。

 束の一番上にある葉書を手に取ってみた。

 宛先の住所はこの村。宛先の名前は碇シンジ。切手の消印にはローマ字で「BANGKOK」。

 裏返してみると、葉書の裏は写真が糊付けされており、南国風の木々の間に建つ石造りの大きな寺院と、それを背景にして立つ見知った顔の人物が写っている。

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 この土地の季節は4つだけではない。

 雪に閉ざされる期間があまりにも長いため、この土地の人々の先祖は季節をまずは「冬」と「それ以外」とに分け、「それ以外」を「芽吹きの季節」、「白夜の季節」、「収穫の季節」、「紅葉の季節」の4つに。そして冬を「初雪の季節」、「聖夜の季節」、「霜の季節」、「氷の季節」の4つに分けたのだ。

 「初雪の季節」が終わる頃には土地は深い雪に閉ざされてしまうため、身動きが取れなくなる前に南に向かって旅立たなければならない。

 緑と白のツートンカラー、丸みを帯びた長方形の車体に、正面にデカデカと貼られたメーカーのエンブレムが特徴の古くて小さなワンボックス車に荷物を積み込み、以前、とある高原の遊牧民から譲り受けた円錐形のテントを畳む。

「え? 昨日もオーロラが見えたのかい?」

 長旅の車内は広く使いたいので、次の目的地まで開ける予定のない荷物を詰め込んだトランクケースや畳んだテントをルーフキャリアに乗せ、ロープで固定していた父親は、車の運転席の窓から顔を出す娘に向かって不満そうに言った。

「だったら起こしてくおくれよ。ここを離れたら、当分はお目に掛かれないのだから」

「だってパパたち、テントのなかでぐーぐーいいながらねてたんだもん」

「オーロラは自然が織り成す究極の芸術じゃないか。叩き起こされてでも見る価値はあるものだよ」

「え~、ツバメ、もうオーロラはあきたよ~」

「なんて贅沢な子だ…」

 呆れたようにそう呟く父親は、視線を少し遠くに投げてみた。

 父親の視線の先では、母親、つまりは彼の妻が、この土地の滞在中にお世話になったトナカイの放牧をしている一家に別れの挨拶をしている。

 妻は特にあの一家のお世話になった。何しろ一年中寒冷のこの土地では野菜が育ちにくく、そのため食の中心は肉や魚だ。偏食家の妻がこの土地でも問題なく滞在できたのは、あの一家が妻でも食べられる食材を調達してくれたからだった。お返しに妻は一家の生業であるトナカイの放牧を手伝った。何故かは分からないが、普段はトナカイ1頭から1日コップ1杯でもミルクが搾れたらよいところを、妻が手伝い始めてからのトナカイは水道の蛇口を捻ったようにジャブジャブとミルクを出すようになったため、喜んだ一家はそのお返しとばかりに妻の家族にさらにトナカイの肉やミルクを分け与えた。

 今も、一家は餞別として妻に大量の食材が入った木箱を妻に渡している。その光景が自分たちの「故郷」であるあの村での光景と重なって、父親は小さく笑った。

「ねえ、パパ~」

「なんだい?」

 視線を娘に戻した。

「つぎはどこいくの?」

「そうだな。冬が深まる前に南下して、もっと暖かいところに行きたいね」

「ツバメ。またサバクにいきた~い」

「それはちょっと暖か過ぎるかな…」

 大きな木箱を抱えた母親が右に左によたよたとふらつきながらこちらに歩いてくる。父親はすぐに駆け寄り、母親から木箱を受け取った。

 一家に顔を向ける。

「Giitu! Bahcet dearvan!」

 挨拶をすると、一家はこちらに向けて大きく手を振ってきた。ある者は笑顔で、ある者は別れの寂しさに涙を浮かべながら。

 木箱を車に積み込む。

「あれ? そう言えばお兄ちゃんは?」

 父親が娘に訊ねると、娘は「あっち」と遠くを指差した。

 娘の手袋を嵌めた短い人差し指が指す方向には、白い雪が積もった原っぱで遊ぶ数人の子供たち。

 茶色がかった金髪に蒼い瞳の子供たちに混じって、白銀の髪と赤い瞳を持つ男の子が一人。

 子供たちの輪の中心で、元気いっぱいに遊んでいる男の子の姿を見て、父親は微笑む。

「普段は内気で人見知りなのに、いつの間にか人の輪の中心になって、誰からも愛されている。あの性分はいったい誰に似たんだろうね?」

 父親のその言葉に、母親もふふっと笑う。

 そして男の子と同じ赤い瞳を持つ母親は一度大きく息を吸い込むと、口もとに両手を当て、大きな声で男の子の名を呼んだ。

「シンジー! 行くわよー!」

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 農園のてっぺんへ向かう坂道を、麻袋と細い薪を突っ込んだ一斗缶を抱えて上がる。以前この坂道を上がった時は月明りの下を、彼らと3人で。今日は太陽の光の下を、一人きりで。

 坂道を上りきると、前方に広がるのは広大な海。その海を見渡せる位置には、あのハンモック。長い間風雨に晒されていて杭もロープも布も朽ちかけているが、何とか形を保っている。

 ハンモックの前に麻袋と一斗缶を置き、ハンモックにお尻を沈める。ロープがギシギシと、杭がミシミシと軋むが、大人一人が乗っても問題なさそうだ。

 一斗缶の中の空からあの家から拝借した古紙とアルミホイルを取り出し、古紙の何枚かをくしゃくしゃに丸めて一斗缶の中に放り込む。マッチを擦って火を点け、一斗缶の中に落とすと、まずは古紙に火が点いて、続いて薪に火が移っていく。続いて麻袋の中から沢の水で洗ったさつま芋と沢の水を汲んだ瓶を取り出し、その水で古紙を濡らしてさつま芋を包み、さらにその上をアルミホイルで包み、一斗缶の中にくべる。

 ハンモックにゆらゆら揺れながら、一斗缶から立ち昇る煙をぼんやりと眺めていたら、ズボンの後ろポケットに入れていたスマートフォンが鳴った。スマートフォンを取り出し、画面を見ると、画面の左隅にある4つの柱の一本に光が点いている。

「あ、ここなら電波通じるんだ」

 画面の真ん中に表示された、電話を掛けてきた相手の名前を見て、シンジの顔は綻んだ。

 

「あ、もしもし。久しぶりだね。

 ああ、うん。今日帰ってきたんだ。

 うん、元気にしてるよ。

 そっちはどう? みんな息災にしてる?

 そう、良かった。

 うん。一通りのことは全部終わったからさ。

 しばらくはこの国に留まれそうなんだ。

 だから近々そっちにも顔を出そうと思ってるよ。

 その時は君の家に泊まらせてくれるかな?

 ああ…、うん。

 いや、ケンスケの家でもいいんだけどさ…。

 ほら…。

 彼女、おっかないから…。

 こないだ顔を出した時も人を見るなり飛び膝蹴りだよぉ?

 もう勘弁してほしいよ、まったく。

 え? あれが彼女なりの親愛の表現だって?

 いやいやいや。される方の身にもなって下さい。

 ま、とにかく近いうちに行くからさ。うん。

 鈴原家の方はどう?

 そう言えばツバメちゃん、もう二十歳でしょ?

 え? めっちゃ美人になってるって?

 そりゃ早く会いたいねぇ~。

 うん。みんな元気そうで何よりだよ。

 ああ、そうだ。ちょうどいい。

 ちょっと君に相談したいことがあるんだけどいいかな?

 君んちのさ。農場のことなんだけど。

 そうそう。○△村の。

 その農場に住んでる2人がさ、あ、いや3人だったか。

 違う違う、今は4人だ。

 帰ってくる頃には5人、6人くらいになっちゃってるかもだけど。

 ああいや、こっちの話。

 その家族がさ。

 今、ちょっと遠くに行っちゃってて、暫く留守にしてるみたいなんだよ。

 それでさ。

 彼らが留守にしてる間、僕がここに住もうと思うんだけどいいかな?

 うん。当分はこの国に居るつもりだからさ。

 住むところを探さないと、って思ってたんだ。

 だからここが空いてるんだったら、ちょうどいいかな、って。

 え? 構わないって?

 ありがとう。うん。貸料は払うからさ。

 え? お金は要らない?

 その代わり山と畑を管理してくれたらいいって?

 あ、ああ、うん…。分かったよ。

 僕にできるかな…。

 それじゃ暫く住まわせてもらうね。

 あっ、なんだったらさ。

 君たちもこっちに遊びにおいでよ。

 君、この場所に一度も来た事ないんだろ?

 景色はいいし。食べ物は美味しいし。

 とってもいいところだからさ。

 うん、ぜひおいでよ。

 え? アスカも連れてくるけどいいかって?

 そりゃ君が彼女の僕への折檻を止めてくれるっていうならいいけど。

 え? じゃあ僕が君のお母さんがへべれけの状態で抱いてる一升瓶を奪えるか? だって?

 そんな恐ろしいこと出来るわけないじゃないか。冬眠中の熊を起こすようなものだよ。

 え? アスカの折檻を止めるのはそれと一緒だって?

 分かったよ…。観念するよ…。

 ってゆーか、ミサトさん、今もそんな調子じゃそろそろ肝臓爆発するんじゃないのかな…。

 そんじゃさ。みんなを連れて。鈴原一家やケンスケも。

 もちろん、君のご両親も連れてさ。

 うん、待ってるよ。

 じゃあね」

 

 電話を切り、両腕を上げて大きく伸びをしたシンジは、そのままハンモックにごろんと横になった。

 ズボンのポケットから、葉書の束を取り出す。

 

 葉書を一枚一枚めくり、裏に貼ってあるポラロイド写真を一枚一枚眺める。

 そこに写るのは透き通るような青い海辺の真っ白な砂浜だったり、大勢の人々が集まって沐浴をしている大きな川だったり、白い雪を被る切り立った荘厳な山々だったり、野生の馬が走る広大な平原だったり、鬱蒼とした密林の中だったり、砂漠の中に聳え立つ四角錘形の巨大建造物だったり、地平線の彼方に夕陽が沈むサバンナだったり。

 それらの景色を背景にして立つ4人。

 いや、古い順に並べられた写真で最初の方では、4人のうち2人はまだ残りの2人に抱っこされている。

 そして写真が進むにつれて抱っこされていたその2人はだんだんと大きくなっていき、やがて自分たちの足で立って写るようになり、そして最後の写真。

 氷河の浸食を受けて複雑な形をした入江を背景にした写真では、元気が有り余ってるのか、女の子の方は腰まで伸びた癖のある空色の髪をした女性の背中に抱き着きながら、男の子の方は収まりの悪い白銀の髪をした男性に肩車をされながら写っていた。

 

「まったく…」

 シンジはそれらの写真を、笑みを零しながら見つめる。

 そして最後にここを訪れたあの日。月明りの下で、このハンモックに揺られながら彼女に言ったことを思い出す。

 

 ―――もしできることなら、君たちの子には、早めに外の世界に触れさせてあげてほしい。この世界は、様々な可能性に満ち満ちてるんだってことを、教えてあげてほしいんだ。

 

「そりゃ、早く外の世界に触れさせてやって欲しいとは言ったけどさ…」

 さすがは思い立ったら一直線なあの2人だ。本当に、世界中の色々な姿を、彼らの子供たちに見せて廻っているらしい。なんとなく彼らの足跡が、絶滅し掛けていた珊瑚が蘇ったり、砂漠化する高原に数年ぶりの雨が降ったり、盲目の高僧に光が戻ったり、汚染されていた大河にイルカが泳いでいたり、白骨化し掛けていた博物館のミイラの肌に艶が戻ったり、何年も内戦が続いていた国で急に和平が結ばれたりと、近年世界各地で起こっている小さな奇蹟だったり大きな奇蹟だったりの場所や時系列と重なって見えるような気もしないでもないが、それはまあきっと気の所為なのだろう。

 それはともかくとして、自分が用意した世界共通グリーンカードをフルに使ってくれているのは嬉しのだが。

「こりゃ何時帰ってくるか分かんないな…」

 彼らの旅の計画がどのようになってるのかは知る由もない。あの2人のことだから下手したら大気圏を飛び出して、宇宙にまで行っちゃうんじゃなかろうか。

 近付けたと思ったら遠くに離れ、また近付けたと思ったら遠くに離れてしまう。結局、あの2人と自分との距離感はこんな感じになってしまうらしい、と笑みの端っこに寂しさを浮かべるシンジ。

 でも、以前の2人のように存在が消えてしまうわけではない。彼らは、確かに、この地球上の何処かで生きていて、そしてその命を輝かせ、次の世代へと紡いでいるのだ。ちょっと寂しいけれど、悲しくはない。きっと、また、いずれ、必ず会えるのだろうから。今まで散々2人を待たせてきた身だ。今度は、自分が彼らの帰りを待つ番なのだろう。

「とりあえず、まずは掃除かな?」

 まずは自分が生活できるように家屋環境の改善から始めよう。ずっと宿泊施設住まいだったので、自分で掃除をするなんて久しぶりだ。

 家を綺麗にして。伸び放題の雑草を刈って。食器や炊事道具などは彼らが旅のお供に持っていってしまったようなので、自分用に買い揃えないといけない。落ち着いたら、畑を始めてみよう。村の人たちに、色々と教わらないと。

 ちょっと大変そうだけど、なんだかわくわくしてくる。

 古い友人たちが訪ねてきた時のためのもてなし方も考えないと。

 そして彼らが帰ってきた時には、たくさんのご馳走を用意して旅の疲れを癒してやろう。

 

 

 体を起こし、スマートフォンを操作する。

 呼び出し音が鳴るスマートフォンを顔に近付けた。

 

「あ、もしもし?

 うん。今、日本。

 そっちは?

 え? まだそこに居るの?

 だってもうかれこれ5年以上になるじゃないですか。

 え? やっぱり4千年の歴史は伊達じゃないって?

 もしかして甲骨文字まで読んでるんじゃないでしょうね。

 そんな調子じゃ世界中の本を読み終わる頃には今世紀終わっちゃってますよ?

 ふふっ。相変わらずだなぁ。

 うん。とりあえず住む場所が決まったんで、報告をと思って。

 どうです? そっちが片ついたら、ちょっとだけこっちに寄ってみることできませんか?

 うん。タイミングが合えば、一度くらいはみんなで集まりたいなって。

 エヴァのパイロット同士でさ。

 半分は顔も知らない同士だけどさ。

 記憶すら共有できていないもの同士だけどさ。

 「はじめまして」から始まる再会があってもいいかな、って。

 それで一度はみんなで揃って、一晩だけでも語り明かしたいなって。

 うん。

 気が向いたらでいいから。

 ちょっと考えておいてくれないかな。

 うん。

 うん。

 ありがとう。

 それと、たまにはそっちからも電話してほしいかな。

 どこかで野垂れ死んでんじゃないかと心配になるからさ。

 ふふっ。

 うん。

 うん。

 まあ読書もほどほどに。

 最低1日6時間は寝て、1時間は太陽の光を浴びるんだよ?

 それとちゃんと食べてる? ほんとかな~?

 え? おっぱいはでっかいまんまだから安心して、だって?

 いやいや、誰もそんなこと心配してませんから。

 もう。

 ふふっ。

 じゃあね。

 元気そうな声が聴けてよかったよ。

 うん。

 うん。

 それじゃあ。

 うん。

 さよなら~」

 

 電話を切ったら、今度も両腕を伸ばして大きく伸びをする。

 腕を下ろし、視線を遠くへ投げる。

 視線の先では太陽の光を浴びて、きらきらと輝く青い海。

 今度は視線を足もとに投げる。

 足もとの一斗缶の中は薪が燃え落ち、炎が大人しくなっている。

 鉄製のトングを一斗缶の中に突っ込み、アルミホイルで包まれたさつま芋を取り出した。軍手をはめ、アルミホイルを剥がし、炭になった古紙を取り払うと、中からこんがり焼けた焼き芋が顔を出す。

 皮をはぎ、大量の湯気を立ち昇らせる実にふーふーと息を吹きかける。

 口をそっと近付け、端っこを齧ってみた。

「はっほ、はっほ、はっほ、はっほ」

 あっつ熱の焼き芋が、口の中を転がる。口の中の空気を出し入れさせ、舌の上の芋を冷ましながら、はふはふと咀嚼。頃合いを見てぐいっと飲み込み。

「うんま!」

 シンジの口から幸せいっぱいの一言が漏れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 * * * * *

 

 

 

 

 白樺の木が林立する静かな湖畔で車を停めた。

 南へと向かってひたすら走り続けていたら、いつしか地面を覆っていた雪は消え、種まき前の広大なライム麦畑の中を抜け、やがて広葉樹が生い茂る森の中への道に入った。

 殆どの木は裸ん坊。ルスカと呼ばれる短い秋は過ぎ、この地にも着実に冬の気配が近付いている。葉っぱが落ちたお陰で森の中でも青く澄んだ空がよく見えた。そして地上では白樺や楓の落ち葉が降り積もり、赤と黄の絨毯を広げている。

 エンジンを停め、後部座席を振り返った。

「寝てしまってるね」

「ええ」

 3列シートの2番目では、お兄ちゃんと妹が一枚の毛布を分け合って、くーくーと可愛らしい寝息を立てている。

 

 落葉に囲まれたこの湖畔で休憩を取るため、彼と彼女は我が子たちを残して2人で車を降りた。車を停めたすぐ側に手ごろな丸太が倒れていたため、それをベンチ代わりにする。

 彼の方は車の中から七輪を下ろし、ベンチ代わりの丸太の前で火を起こし始めた。

 彼女の方はトナカイ牧場の一家から貰った木箱の中から、ジャガイモとトナカイのミルク、そして卵を取り出し、ジャガイモは皮を剥いて擦り下ろすと、卵、塩、砂糖、ミルクの順番で混ぜ、最後に小麦粉も混ぜ合わせる。食材を混ぜたボウルとスキレッドを持って、彼のもとへと戻った。

 ちょうど良い塩梅に火が大きくなっていたため、七輪の上にスキレッドを乗せ、少量の油を引き、スキレッドの上に材料を薄く円形に延ばしていく。縁が渇いてきたひっくり返して裏側も焼き、そして皿の上に乗せる。

 彼女がジャガイモのパンケーキを焼いている間に、彼は付け合わせ用に、あの一家から貰ったトナカイの干し肉やドライフルーツ、メープルシロップなどを準備する。

 皿の上には焼き立ての4枚のパンケーキ。彼の一枚目はトナカイの干し肉とチーズ。彼女の一枚目はドライブルーベリーとメープルシロップ。めいめいお好みのものを挟んで、

「いただきます」

「いただきます」

 同時にパンケーキにかぶり付いた。

 ベンチ代わりの丸太に並んで腰を下ろし、静かな湖を見つめながらもぐもぐと顎を動かす2人。どちらからともなく顔を見合わせ、そして口の中の美味しさを溢れ出させるように、笑顔になる。

 

 

 

 

 巡り往く季節の長さを、早さをどのように測ればよいだろう。

 

 365日?

 

 52600分?

 

 31536000秒?

 

 水平線に沈む夕陽で?

 

 山から吹き下ろす風の匂いで?

 

 潮の満ち引きで?

 

 降り積もった雪の高さで?

 

 野に咲く花の色で?

 

 収穫した実の数で?

 

 干したお洗濯の乾く早さで?

 

 バイクのガソリンメーターで?

 

 笑った数で?

 

 流した涙の量で?

 

 

 それとも・・・・・・

 

 

 膨らんでいくお腹の大きさで?

 

 母乳をあげた量で?

 

 夜泣きをあやした数で?

 

 物干し竿に干すおしめの枚数で?

 

 歩き始めのコケた回数で?

 

 柱に刻んだあの子たちの背の高さで?

 

 お兄ちゃんと妹が繰り広げる喧嘩の数で?

 

 パスポートに押されたスタンプの数で?

 

 大切な人に贈るポストカードの枚数で?

 

 

 

「変なことを考えるんだね、君も」

 彼はサーモンの燻製とアンチョビを乗せた2枚目にかぶり付いている。

 彼女は食べ掛けの1枚目を持った手を膝の上に乗せ、湖を見つめながら言う。

「幸せな毎日が、ただ過ぎていくのがもったいなくて…」

「確かに、そうだね…」

 微笑む彼は彼女の肩に腕を回し、防寒着を着てモコモコに膨れた彼女の体を抱き寄せた。彼の腕の中の温もりに身を任せながら、彼女は訊ねる。

「あなたなら、どう数える?」

「僕かい?」

「ええ」

「僕だったらこれで数えるね」

 そう彼女の耳もとで囁いた彼の口は、そのまま彼女の頬っぺたに軽く触れた。

 どさくさ紛れに行われた口づけに、彼女は特に感想を述べることのないまま、横目でちらりと彼を見る。

「そんなの、数え切ることができないわ」

「え? そうかな? 僕は君とした口づけは全て覚えているけど?」

「うそ」

「本当さ」

「だったら今日はこれで何回目?」

「そうだね。朝の目覚めのキスが1回、いや、今日は2回だったね。その後歯磨きしながらの1回、朝ごはんの味付け合間の1回に、車に乗り込む前の1回と乗り込んでからの1回。スタンドで給油中の1回に、君が淹れてくれたコーヒーを渡してくれた時の1回。あとはシンジとツバメがクレヨンで描いてくれた僕たちの似顔絵を見た時の1回。そして今のでちょうど10回目だね」

「違う…」

「え?」

「それは間違い…」

 彼女の指摘に、彼は左手の指を一本一本折り曲げ、伸ばして改めて確認し。

「10回だと、思うけど」

 彼女は彼の胸に頭を預けながら答えた。

「お昼ご飯のあと、あなたがお昼寝している間の、2回、抜けてる」

「え? そうなの?」

 こくりと頷く彼女。

「それじゃ君が朝目覚める前の3回もカウントしなきゃだね」

「寝込みを襲うの、ずるい」

「それは君が言えたことじゃないだろう」

「そう?」

 2人は互いの顔を見つめ合って、くすくす笑い合う。

「それじゃあさ」

「うん」

「一緒に数えよっか」

「うん」

 まずは彼の方から彼女の方に顔を近づけて、そして触れ合うお互いの唇。

 顔を離し。

「16回目」

 彼がそう呟く。

 次は彼女の方から彼の方に顔を近づけ、そして再び触れ合うお互いの唇。

 顔を離し。

「17回目」

 彼女がそう呟く。

「切りのいいところまでいこっか?」

 彼の誘いを、

「ええ」

 彼女は素直に受けて。

 そして重なり合う2人の唇。

 顔を離し。

「「18回目」」

 重なり合う2人の声。

 なんだか首の裏の辺りがこそばゆくて、2人は頬を赤らめながら笑い合う。

 今度は彼女の方が瞼を閉じて誘ってきたので。

 彼は遠慮なく彼女の顔に唇を近付ける。

 自分の上唇を引っ掻けるように彼女の上唇に押し当てると、彼女の小さな口が少しばかり開き、彼女の形のよい前歯が見る者を誘うように色素の薄い唇の隙間から覗いた。誘われるがままに彼の舌は彼女の口へと侵入し、彼女の上の前歯と下の前歯の隙間も無事通り抜け、その奥にあった彼女の舌へと辿り着く。

 舌先の僅か数センチメートルで感じる彼の全て、彼女の全て。

 いつの間にか彼の両腕は彼女の全てを包み込むように、彼女の背中を抱き締め。

 そして彼女の両腕は彼の全てを求めるかのように、彼の頭部を強く抱き締めている。

 お互い離れ時を失ってしまい、ひたすら互いの唇を、舌を絡みつかせ、雄一の換気口となってしまった鼻孔で激しく空気の出し入れを繰り返しながら、地面には落ち葉の絨毯が敷かれていることを幸いとばかりに、彼女を下にして落ち葉の絨毯に倒れ込む。

 ようやく2人の顔が離れた。

 赤と黄色の落ち葉の絨毯に空色の髪を広げて、彼を見上げる彼女。

 赤と黄色の落ち葉の絨毯に両手を付いて、彼女を見下ろす彼。

 彼女は、顔中を火照らせた彼の顎から滴り落ちる汗を顔で受け止めながら、

「じゅう…」

 彼は、半開きになった彼女の口から激しく吐き出される呼気を顔で受け止めながら、

「きゅうかい…め…」

 数え合う2人。

 自然と彼女の手は彼の着るモッズコートの第1ボタンへと伸び、そして彼の手は彼女の着るダウンジャケットのファスナーへと伸び。

 彼女の手が第1ボタンを外し第2ボタンへ、そして彼の手がファスナーを10センチメートルばかり下ろしたところで。

 堪え切れないとばかりに彼の顔が彼女の顔へと近付き、彼女は彼を迎え入れるために顎を少しだけ上げ、そして彼の言う「切りのいいところ」の接触が果たされるまであと0.3秒となったところで。

 

 車の方から同時に2つの大きな欠伸が聴こえた。

 続けて、「ママ~」と呼ぶ男の子の声。

 

 鼻の先っちょ同士が触れ合い、そして唇同士の隙間がたったの1センチメートルで触れ合うところで、固まってしまった2人。

 

 今度は車の方から女の子の声が「パパ~」と呼んでいる。

 

「呼んでるわ…、お父さん…」

 顎を引っ込めてしまった彼女は、彼にとっては死刑宣告にも等しいセリフを柔らかな羽毛のような声で告げる。

 彼の顔はたちまち悲しみに暮れてしまいそして、

「え~ん」

 彼女の肩に額を押し付けながら、情けない声で呻いてしまった。

「よしよし」

 彼女はくすりと笑いながら手で彼の後頭部をぽんぽんと優しく叩いてやる。

 

「パパ~」

「ママ~」

 車の方からは2人を呼ぶ幼子の声。

 

 彼女は彼の前髪を掻き上げ、露わになった彼の形の良い額にちょんと軽く唇をくっ付けた。

「20回目」

 目標達成を告げる彼女の声。

 彼は彼女の肩から額を離すと、仕方なしにと言った様子で声を張り上げる。

「こっちだよー!」

 車の中から見えるように、手をぶんぶんと振ってやった。

 彼女の方も、子育てが始まってからというもの、以前よりも随分と豊富になった声量で言う。

「早くいらっしゃい。パンケーキを焼いてるわ」

 

 

 

 

 

 

 

 

―おしまい― 

 

 

 

 

 

 

 

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